「お、お嬢様?どうしたのですか?蝶屋敷は…」
「…今日からはまたここで暮らすわ。突然、ごめんなさいね」
突然帰ってきた圓城を見て、じいやは一瞬ポカンとしていたが、慌てて部屋に引き入れた。
「どうなされたのです?ひどいお顔ですよ」
「……うん」
説明しなければならないとは分かっていたが、どうしても気力が湧かない。圓城は、
「明日、説明します。これまでの事とか、いろいろ。ごめん」
「お嬢様?」
戸惑うじいやに構わず、そう言うと自分が使っていた部屋に入った。物が少ない室内はガランとしていたが、じいやが掃除をしているためか清潔に整えられている。圓城は部屋の真ん中で座り込んだ。
「……もう逃げたいな。何もかも、忘れたい」
ふと、そんな感情が芽生える。しのぶの憎悪の表情が頭から離れない。
全て失くしてしまった。導いてくれる師範も、温かな帰る場所も、大好きな友人も。
「……師範、師範……師範……っ」
何度も口に出す。もう決して返事をしてくれない人をただ、呼び続ける。
「……」
全てから逃げ出したら、楽になるだろう。負担から解き放たれるだろう。でも、それは----、
「………ちがうっ、あいつを殺す!あの鬼を!」
自分の感情を押し潰すように、思わずそう叫んだ。あの夜見た鬼の薄気味悪い笑顔が脳内を占める。憎しみが、嫌悪が、口からこぼれ出した。我慢できずに涙が滲み出る。
「許さない--!私が、必ず……」
そう口に出したとき、不意に何かがポタリと床に落ちる音がした。
「……あ、」
それは圓城の髪を結っていた、黄色の蝶の髪飾りだった。カナエが圓城にくれて、しのぶが似合うと言ってくれた、大切な髪飾り。
「……っ!」
圓城は髪飾りを手で掴み、そっと抱き締めた。目を強く閉じる。いつかのカナエの言葉が心の中で響いた。
『さあ、涙をふいて。泣いてはダメ。』
はい、師範
『顔を上げて前を向くのよ。』
はい、師範
『私達は戦わなければならないの。亡くなった人のためにも。』
--では、私は、あなたのために、強くなります。あなたの教えを守るために。あなたと同じように、誰かの幸福のため、人を護るために、私は、戦う。もう、目は逸らさない。現実からも目を背けない。
決して、心を捨てない。私は、折れない。
圓城は蝶の髪飾りをギュッと抱き締めたあと、戸棚にしまった。これはもう着けないと決めた。もう、自分は蝶屋敷に関わってはいけない人間だ。蝶屋敷を象徴するような髪飾りを身に付けるのはやめよう。
圓城はゆっくりと心を落ち着けるために深呼吸を繰り返す。そして、適当な服に着替え、自室から出ていった。
「じいや、ちょっと出てきます!」
「お、お嬢様?どちらに…」
じいやが何かを言いかけてきたが、気にせず出ていく。そのままの勢いで適当な装飾品店に入る。グルリと見渡すと、ある小さなリボンが目に入った。
「……あ」
それは真っ白なリボンだった。真ん中には可愛らしいスミレの飾りが付いている。
「これ、頂けるかしら?」
店員に金を支払い、その場で髪にリボンを結んだ。左肩に垂らすように、緩く一つにまとめる。
「……」
少しだけ気持ちが向上したような気がした。店から出ていき、強い足取りで通りを歩く。
「強くなる……!絶対に諦めない!必ず、あいつを追い詰めて、殺す!地獄の果てまで追いかける!」
口に出すと実現できるような気がした。
それから、しばらく経ったある日、圓城は鬼殺隊の本部に呼ばれた。
隠の隊員に立派な屋敷へ連れていかれる。門の前にいた護衛の剣士に会釈をして門をくぐる。立派な庭に面した座敷へ通されて、しばらく待っていると、襖が開いた。小さなおかっぱの子どもがぺこりと圓城に頭を下げる。
「お館様のお成りです。」
圓城もまた頭を下げる。産屋敷耀哉ことお館様が座敷の中に入ってくるのが気配で分かった。
「お初にお目にかかります。お館様。」
「ああ、初めまして。頭を上げてくれるかな?」
圓城は頭を上げて、お館様の顔を静かに見返した。顔の上半分が焼けただれたような痕がある。少し驚いたが、顔には出さずに口を開いた。
「……圓城菫と申します。いつもお世話になっております」
「うん。今日は来てくれてありがとう、菫」
その言葉と声に不思議な感情、高揚感のような物が芽生える。なんだろう、これは。
「菫、そろそろ生活は落ち着いたかな?」
「……はい」
「つらいかもしれないが、亡くなったカナエのためにも上弦の鬼について詳しく聞かせてもらえるかな?」
「……はい」
やはりか、と圓城は思った。報告書には書いたが、どうやらお館様は実際に圓城の口からあの鬼について聞きたいらしい。
圓城はあの夜の事を事細かくお館様に話した。まるで小説を音読しているように、感情のない声で報告するように話す。ただ1つ、カナエが死んだ夢を見たため駆けつけたという事だけは隠した。妙な胸騒ぎがしたため、任務中のカナエを探していたら鎹烏を見つけて駆けつけた、と誤魔化す。
全てを話した後、お館様は何度か頷いて口を開いた。
「すまなかったね。つらい事を思い出させてしまった」
「……いいえ。報告するのは、隊員として当然の事です。」
圓城はできるだけ静かにそう言った。そろそろここにいるのも疲れてきた。帰っていいだろうか、などと考える。
しかし、次のお館様の言葉に耳を疑った。
「君をね、次の柱に任命しようと思っているんだ」
「……は、」
変な声が思わずこぼれ出る。お館様の言葉の意味が一瞬分からず、口をポカンと開いた。
「あの、柱とは……」
「菫、君の階級はずいぶん前から“甲”だ。そして、君は既に100体以上の鬼の頚を斬っているよ。気づいていたかい?」
「……」
「私は、君が柱として、十分に相応しいと考えているよ」
「…私は、弱いのです。お館様」
圓城は静かに声を絞り出した。
「私は、運動機能と呼吸器が少し発達していて、刀を上手く使えるだけです。ここまで生き残れたのは、ただ、運がよかっただけなのでしょう。私は、柱には不適格です…」
「菫、君は自己評価が低すぎる。自分を卑下してはいけないよ」
お館様はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「カナエは優秀な子だった。君を継子として見出だし、素晴らしい剣士に育て上げたのだから」
「……」
「君は、柱になるべき剣士だよ、菫。カナエのためにも」
圓城は少しだけうつむき、顔を上げる。強い瞳でお館様を見返した。
「……花柱様は、喜ぶでしょうか」
「もちろん。いつも自慢気に他の柱に話していたよ。君と、妹のしのぶの事を…」
圓城はその言葉に少しだけ微笑んだ。
ああ、あの人はそんな人だった。優しくて温かくて、この世で一番慈愛に満ちた人。
お館様が口を開く。
「君は睡の呼吸を使っているんだったね……。圓城菫、本日より、君を睡柱に任命する」
「……はい。柱の名に恥じぬよう、微力ながら尽力させて頂きます」
圓城は、はっきりとそう応え、また微笑んだ。
圓城菫が睡柱に任命された。その話を聞いた時、胡蝶しのぶは驚きよりも、当然だ、と感じた。圓城菫は強い剣士なのだから。
「……しのぶ様、菫さんとは……」
「ちょっと毒の研究が忙しいんです。アオイ、隊員の方の看病をお願いしますね」
圓城の名前が出る度、ニッコリ笑って意図的に話を逸らす。アオイやカナヲまでが何か言いたげな顔をするが、全て無視した。
姉の死に苦しみながらも、この笑顔にはだいぶ慣れた。姉を殺した鬼を殺すために、毒を調合し続けなければならない。そして、姉の代わりにこの屋敷を守り抜かなければならない。圓城の事など、もはやどうでもいい。
「……」
しのぶはふと蝶屋敷の庭に視線を向けた。あの庭で圓城と笑顔で語り合っていたのが、まるで嘘のようだ。
しのぶは少しだけ唇を噛んで、また笑顔を顔に張り付けると研究室へ戻っていった。
胡蝶カナエの死から、圓城菫と胡蝶しのぶが顔を合わせることはなかった。圓城は睡柱として任務に忙しく、しのぶもまた任務をこなしながら鬼を殺す毒を研究し続けている。圓城は怪我をしても蝶屋敷には行かず、じいやに手当てしてもらうか、適当な病院で治療してもらった。しばらくしてから、しのぶが鬼を殺す毒を開発したと風の噂で聞き、心の中で祝福した。
そして、季節が何度か変わった。空が明るく広がる気持ちのいい天気の中、柱合会議が開かれる。
お館様が座敷に入室し、挨拶もそこそこに口を開いた。
「柱合会議を始める前に、皆に紹介しよう。」
そして、座敷に入ってきたのは蝶の髪飾りを着けた美しい少女だった。蝶の羽を模した柄の羽織がヒラリと揺れる。
「新しく蟲柱に任命した、胡蝶しのぶだ」
「ご紹介に預かりました、胡蝶しのぶと申します。何卒よろしくお願いいたします」
圓城はその姿を見て思わず目を逸らしそうになったが、なんとか踏みとどまって蟲柱の目を真っ直ぐに見た。そして、彼女が着ている美しい羽織が目に留まる。かつて、2人にとって大切な人が着ていた蝶々のような羽織。フッと笑う。
「…ほら、やっぱり似合ってる…」
ボソリと呟いた。隣にいる水柱が怪訝な顔を向けてきた。
「……何か言ったか?」
「いいえ、水柱サマ。何も」
圓城は優雅に笑い、再び真っ直ぐに前を向いた。