家族
酔いが廻ったアイリスはその後完全に立てなくなり、ヨーゼフは彼女を寝台まで運んだ。
傍に居て欲しいと懇願されるままヨーゼフもそこで横になると、アイリスはぴたりと身を寄せ、漸く安堵したように眠りに落ちた。
腕にある温もりは昨夜と変わらない。
それでもそれはまるで幻のように儚く、ヨーゼフはひとり眠れない夜を過ごした。
翌朝目を覚ましたアイリスは、昨夜のことをよく覚えていないようだった。
お酒を飲み過ぎて眠ってしまったと説明をすると、真っ赤になって謝罪していた。
そんな彼女を見ながら、ヨーゼフは胸は鈍い痛みに苛まれた。
お酒が引き出したアイリスの言葉は、彼女の中に閉じ込められていた正直な想いだろう。
受け入れて貰えたことが嬉しくて、呑気に舞い上がっていた自分に嫌気がさす。弱冠15歳の少女に側妃という辛い立場を強いておきながら、何も分かっていなかったのだから。
アイリスの苦しみは自分への想いから生まれたものだ。
そんな想いをくれている愛しい少女を、ただ一人の妃としてやることも出来ない。
国で最高の権力を持つはずの自分は、どうしようもないほどに無力だった。
◆
その後、ヨーゼフは夜だけでなく、午後の政務の合間にも時間を割いてはアイリスに会いに行くようになった。
そんなことで納得してもらえるなどとは思っていなかったが、空いた時間は全て彼女のために使いたかった。
昼は庭園の花園で、夜はアイリスの部屋で、他愛も無い会話を楽しむ。いつもと変わらぬ日々を過ごしているかに見える2人だったが、あの夜以降見えない溝が生まれているのを、ヨーゼフは感じていた。
アイリスがお酒を呑むことは、もうなかった。
だがあの日見せた心からの拒絶が後を引き、ヨーゼフが彼女の肌を求めることが出来なくなっていた。
そんなある日、庭園を訪れたヨーゼフはアイリスにある提案を持ちかけた。
「近く晩餐会があってね。クレイド家も招待されるんだ。折角だから、キースを一晩預からせてもらおうかと思ってるんだが、どうかな?」
伝えた話は少しばかり端折られていた。実際は晩餐会に招待する客として当初クレイド家は入っていなかったが、急遽追加させたのだ。
彼女を心から笑顔に出来る唯一の存在。
自分ではどうにもできないヨーゼフは、小さな天使に助けを求めることにした。
その効果は明らかで、アイリスの頬には喜びを表す赤みが差す。
「キースを…?それはとても嬉しいけど…、いいの…?」
思った通り恐縮するアイリスに、ヨーゼフは「私の客だよ」と返した。そして花の香りに満ち溢れた景色を見廻す。
「ここを見せて自慢しないといけないからね」
おどけたヨーゼフの言葉にアイリスは目を丸くし、やがてぷっと吹き出した。
◆
晩餐会当日、事前の取決め通りクレイド家のご子息キース坊やは、早々に騎士の手で会場から連れ出されて行った。
ヨーゼフは王族席からそれを認め、微笑とともに見送った。
アイリスは既にキースの好きな食べ物やお菓子を用意して待っているはずだ。
少しでも長く2人で過ごせるといい。
王妃であるカーラはいつもの通りの無表情で隣に座っていたが、もうヨーゼフが声を掛けることは無かった。
会場の活気とは裏腹に、2人の王子も含めた王族席は、冷えた静けさに包まれていた。
やがてすっかり夜が更けた頃、晩餐会は漸く終了した。
貴族達の接待からやっと解放され、部屋に戻ろうとしたヨーゼフのもとに騎士が報告に来る。
「クレイド家のキース様をアイリス様のお部屋にお連れしました」
「あぁ、ご苦労だった」
「アイリス様からご伝言を承っております。”お疲れでなければ、お部屋へいらして下さい”とのことです」
思い掛けない誘いに、ヨーゼフは目を丸くした。姉弟水入らずの邪魔はしないつもりだったが、アイリスが招いてくれるというならば断わる理由は無い。
ヨーゼフは直ぐに行くと騎士に伝えると、着替えのために自室へと戻った。
◆
寝支度を整えて部屋を訪れると、アイリスが出迎えてくれた。その隣に小さな天使は居らず、ヨーゼフは彼の姿を探して視線を巡らせた。
「…キースは?」
「眠ってるの」
アイリスはそう言って、奥の部屋を指差した。
まだ幼いのだから、こんな時間では無理も無い。ヨーゼフは申し訳ない思いで眉を下げた。
「遅くなってしまったからな。…残念だ。会いたかったよ」
「うん、だから…」
アイリスはヨーゼフの夜着を摘んで言った。
「一緒に寝ましょう。明日起きたらキースに花園を案内してあげて」
「いいのかい?朝起きて私が居たりしたら、キースにとっては不愉快だろう」
「そんなことない。姉さんの大事な人だって、よく言っておいたもの」
何気ないアイリスの言葉に胸を打たれ、ヨーゼフは束の間声を失った。
まだ自分はアイリスの中に大事な存在として居られるのだという事実が胸に沁みる。
「…有難う」
様々な想いを込めてそう言ったヨーゼフに、アイリスは笑顔で言った。
「こちらへどうぞ!」
ヨーゼフはアイリスに連れられるまま、寝室へと向かった。
寝台が目に入ると、ヨーゼフの頬は思わず綻んだ。
小さな坊やには広すぎるそこで、キースは万歳の恰好をして眠っている。そのあどけない寝顔が、堪らなく可愛らしい。
アイリスと顔を見合わせて微笑み合い、起こさないようそうっと寝台に乗った。
2人で挟むようにして座ると、幼い坊やの顔を覗き込むようにして見る。
アイリスはくすっと笑うと、囁きで言った。
「”今日は寝ないことにする”なんて言ってたくせに、話してる途中でころっと眠っちゃって」
小さな頭にそっと触れ、慈しむように撫でる。
弟を見詰めるアイリスの目には彼への愛情が満ち溢れ、その顔には幸せそうな微笑みが浮かんだ。
ヨーゼフの目はいつしかキースではなく、アイリスに奪われていた。
彼女を喜ばせたくてしたことが成功しているというのに、胸が痛むのは何故なのだろうか。
「…そうしていると、母親のようだ」
思わず呟いたヨーゼフの言葉に、アイリスが顔を上げた。そしてふっと目を細める。
「それなら、あなたは父親ね…」
返された囁きに、ヨーゼフは喉が塞がるような感覚を覚えた。
何気ないその言葉はあまりに思いがけず、けれども不思議なほど甘く胸に響く。
アイリスは笑みを消すと、絶句するヨーゼフから目を逸らして言った。
「…ごめんなさい」
「…え?」
謝罪の意味が分からなくて、ヨーゼフは僅かに戸惑った。
「……なぜ謝る?」
アイリスは何も答えず、黙って首を横に振る。なんでもないと示すように。そして改めて、弟の金髪を優しく撫ぜた。
キースは深い眠りの中で、それを受け止めていた。
その切なくなるほどに優しい光景は、ヨーゼフの胸に遠い母の面影を呼んだ。――長いこと忘れていた記憶を…。
「…私の側には、いつも母が居たよ…」
ヨーゼフが小さく呟いた一言に、アイリスの手が止まる。
過去を旅するように視線を虚空に彷徨わせながら、ヨーゼフは寂しげな笑みを洩らした。
「…というより、母しか居なかった。王である父が、父として側に居た記憶はない。それが…当たり前だった。だから、父が居て母が居て子供が居る、そんな絵は私にとっては…まるで夢物語だ」
ヨーゼフを見詰めるアイリスの目に気遣わしげな色が浮かぶ。
だが過去を嘆きたかったわけじゃない。ヨーゼフは彼女に伝えたかったことを、続けて言った。
「嬉しかったんだよ、アイリス。今きみはその絵の中に、自然に私を入れてくれたんだね」
アイリスは僅かに沈黙し、ふと首を振った。
「……夢物語じゃないわ」
アイリスはキースの頭から手を離し、真っ直ぐにヨーゼフへと向き直った。
「夢物語じゃない…。私にとっては、当たり前の絵なの」
真摯な瞳で告げられた一言は、ヨーゼフの胸を鋭く刺した。
まさにその通りだ。
夢物語なのは自分にとってだけ。アイリスはそんな絵の中に当たり前に居るべき人だと、ヨーゼフにも思える。
それなのに…。
「……私とでは、そんな当たり前の絵すら望めないな…」
自嘲的な呟きが、溜息とともに部屋に溶ける。
「私はきみに、そんな普通の幸せすらあげられない」
現実を、己に知らしめるように言葉にすれば、忘れていた絶望感が胸を襲った。
ヨーゼフにとっては、アイリスは空駆ける美しい鳥だった。
空に憧れ、羽をもいで閉じ込めた罪も無い鳥。
それでも懸命に大事にすれば、幸せにできると思っていた。そう思いたかった。
それは所詮、非道な自分を覆い隠すための欺瞞でしかない。
「…どう…して?」
不意にアイリスが、ぎこちなく問い掛けた。我に返り、ヨーゼフは戸惑いとともにアイリスの言葉を繰り返す。
「どうしてって…」
「ヨーゼフにはもう家族が居るから…?」
「……え?」
「だから私は、ヨーゼフと家族を作ってはいけないの?」
ヨーゼフは驚いて目を見張った。キースが眠っているのも忘れ、思わず声が大きくなる。
「…そんなまさか…!そういう問題じゃない!きみは国王の子供など産みたいと思うかい?」
「違う…!」
とっさにアイリスも、声を上げて訴えた。
「私は産みたいのは、国王の子じゃない。――あなたの子よ…!」
痛切な叫びが、ヨーゼフの胸を貫いた。
それはヨーゼフが想像も出来なかった願いだった。
同時に彼女の心中に漸く思い至り、ヨーゼフは己を殴り飛ばしたい衝動に駆られた。
アイリスの様子がおかしくなったのはいつからだったか。
ヨーゼフが避妊薬のことを口にした時からだ。
他の妃のことを思い出させ悲しませたのだと短絡的に思い込んだ。だがあの夜泣いていたアイリスの胸の内はそんな単純なものではなかったのだ。
自分に家族が居るから、アイリスが家族になることは許されないと――そんな風に思わせていたなんて…。
アイリスは渡された薬を前に、悩み、苦しんだのだろう。
そして今、意を決して訊ねたに違いない。答えに怯えているのが表情から伝わって来る。
ヨーゼフは激しい自責の念に苛まれた。
もっと早くに話すべきだった。アイリスはまだ若くて、世間のことなど何も知らないのだから。
「アイリス…有難う。とても嬉しい。私には、勿体無いほどの言葉だよ…」
声が震えそうになる。現実を突きつけられた彼女が、今度こそ自分から離れて行ってしまうかもしれないという恐怖が邪魔をする。そんな自分を奮い起こし、ヨーゼフは言った。
「…でも、だめだ」
アイリスが衝撃を受けたのが分かる。こんな答えしか出せない自分が心底呪わしかった。
「私には家族なんて無い。そんなものは作れていないんだ。正妃として選ばれた女性と次期王位継承者を作ったに過ぎない。息子として生まれた2人に、私は何もしていない。父親として側に居てやったことも、愛してやったことすらない。きみが当たり前に描く絵を、私は作れていないんだよ…」
アイリスは黙ってヨーゼフの言葉を聞いていた。
どんな想いでいるのかを考えると怖くて、その顔を見ることすらできなかった。
「きみに出会って、初めて思ったよ。国王でなければ、ただの男だったらと…。きみが思うような当たり前の家族を、私も作れただろうに。けれどもだめだよ。だめなんだ。不幸にしてしまう。私の子を産むきみも、私の子として産まれる子も…」
”それなら、あなたは父親ね…”
当たり前のようにアイリスがくれた言葉。
けれどもそれはとても遠くて、とても手が届かない。
「どうして…?」
アイリスが小さく問いかける。ヨーゼフはそっと顔を上げ、アイリスを見た。彼女の瞳には、迷いも戸惑いも無かった。
「きみにとって私がただの男でも、やはり私は国王だからだよ…」
こんな話はしたくなかった。けれども今更逃げることもできない。それでこの愛しい少女を、失うことになったとしても…。
「国王の子を産むということは、正式に王家の一族に入ることになる。きみの父さんは喜ぶかもしれない。けれども他の姫君達は納得しない。きみのここでの立場を、より苦しくさせるだけだ。それに産まれた子は、当然王族の一員となる。王位継承権を持たなくても、一生それは変わらない。贅沢ができても、自由は無い。生涯その血から逃れることができないんだ」
己の迷いに喉を塞がれないよう、一息に言葉を吐ききった。
ヨーゼフが口を閉ざすと、部屋にはまた重い沈黙が流れた。静かな部屋に、キースの寝息だけが響く。
2人はお互い息を詰め、しばらくただ見つめ合っていた。
やがてアイリスの唇が、躊躇いがちに動く。
「それだけ…?」
思い掛けない問い掛けに、ヨーゼフは目を丸くした。
強張っていたアイリスの頬は緩み、安堵したような吐息とともに肩を下ろす。
「なんだ…そっか…」
「…アイリス??」
アイリスが嬉しそうに微笑む。その理由がさっぱり分からず、ヨーゼフはただ忙しなく目を瞬いた。
戸惑うヨーゼフに反して、アイリスの表情はどこか清々しくさえある。
「よかった…」
「…え??」
「私、…結局あなたの一番にはなれないんだって思ってたの」
「――えぇ??」
驚きながら、ヨーゼフは以前アイリスが言った言葉を思い出していた。
”ヨーゼフは私なんかいらないから…”
「アイリス…違う。一番とか二番とか、…そうじゃない。私には、きみだけなんだ」
「だったら…」
ヨーゼフの言葉に追い縋るように、アイリスが言う。
「私があなたの子を、産んでもいい?」
胸を締め付けられるような問い掛けだった。
激しく心を揺さぶられながら、それでも俄かに頷けない臆病な自分が居る。
「アイリス…」
「――不幸なんかじゃないわ!」
ヨーゼフの言葉を制して、アイリスが声をあげる。
不意にキースが身動ぎをし、2人してハッと息を呑んだ。
けれども小さな天使の寝息は途切れることなく、それを確認したアイリスはほっと息を吐く。
そして少し声を落とし、囁くように言った。
「…不幸なんかじゃないの」
目に映るのは少女ではない。立派な1人の女性だった。
「確かにそうかもしれない。辛いこともあるかもしれない。でもだって、私はあなたを選んでしまったんだもの。それは仕方が無いの。不幸じゃないの。”苦労”なの。私にとっては、あなたの子を産むことを許されないことのほうが、ずっとずっと不幸なの」
アイリスが優しく語り掛ける。その一言一言が染み入るように心に落ちてくる。
「あなたの子に産まれたら不幸になるって、どうして決め付けるの?王族だと幸せになれないなんて限らない。精一杯幸せにしてあげればいいじゃない。…それとも、愛してあげられる自信がないの…?」
声にならず、ヨーゼフはとっさに首をふって応えた。その答えには、一瞬も迷わなかった。
アイリスの願いを叶えれば、まだ自分が想像も出来ない苦労が待っているかもしれない。
それでも自信を持って言える。
アイリスが産む、自分の子。自分の家族…。
そんな夢の様な存在を、愛せないはずがないと。
アイリスが穏やかな微笑を浮かべる。その慈愛に満ちた表情が、遠い母の記憶と重なった。
「…それだけで、充分よ…」
温かい言葉が胸に流れ込み、体中を満たしていく。込み上げる想いを堪えて目を閉じ、神に祈った。
誰より愛しいこの子を。そしていつか産まれて来るかもしれない我が子を、
この手で護り切ることができますようにと――。