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国王陛下の初恋【ゴンドールの大陸 外伝】 作者:芹沢 まの
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 目覚めると、隣にはアイリスが居た。

 

 朝を迎えたヨーゼフは、自分の寝台で眠るアイリスの天使のような寝顔を前に、漸く夢のような昨夜が現実であったことを実感していた。

 いつか一度だけ見たその姿に、どうしようもなく目を奪われる。

 あの時はあまりに無警戒で悲しくなったものだったが、今はただ純粋な幸福感が胸を満たしていた。

 窓から見える外の景色はずいぶんと明るく、自分がいつもより長く眠っていたことを窺い知る。

 国王として即位してから20年近く、こんなに穏やかな気持ちで目覚めたのは初めてのことだった。

 

 ヨーゼフは体を起こすと、愛しい妃の顔を覗き込み、その頬に軽く口付けた。

 柔らかい金色の髪を手で梳き、指に絡めて唇を当てる。

 折れそうなほど華奢な肩に掛布を掛け直せば、昨夜無茶を強いた自分が今更ながら甦り、ヨーゼフは申し訳なさげに眉を下げた。


 アイリスは彼女の言う通り全てが初めての経験だった。

 ヨーゼフなりに精一杯大事にしたつもりだが、やはりそこには痛みが伴ったようで、きっと自分が感じた快楽の半分も彼女に与えてあげられなかったに違いない。

 それでも止めることが出来なかったヨーゼフを、アイリスは最後まで受け入れ続けてくれた。


「……愛してるよ」


 囁きとともにまた口付けを落としながら、神に感謝した。

 この子に出会わせてくれたこと。この子を与えてくれたこと。


 アイリスに繋がる、全ての運命に―――。

  

「…ん…」


 少し触れたら止まらなくなり、覆いかぶさって至る所に口付けているうちにアイリスが小さな声を洩らして目を開けた。

 流石に起こしてしまったらしい。虚ろな眼差しがヨーゼフを映す。


「…おはよう」


 穏やかに声を掛けると、何度か瞬きしながら、やがて覚醒したようだった。


「あ…」


 綺麗な青い瞳が、至近距離に居るヨーゼフを認め、またふわっと赤くなる様が堪らなく可愛らしい。

 

「おはようございます…」

「”ございます”はいらないよ」

「…お、おはよう」

「おはよう」


 ヨーゼフは改めてアイリスの唇に口付けを落とすと、名残惜しみながら身を起こした。そして置時計を確認する。


「寝坊してしまった」


 アイリスも真っ白な胸を掛布で隠すようにしながら起き上がると、充分に明るくなった窓の外へと目を遣った。


「本当だわ…、ごめんなさい…」

「きみが謝ることはないよ。もう少しゆっくりしていたいところだけれど、そろそろ行かなくてはな。恐らく、宰相を待たせている」

「……叱られてしまう?」


 心配そうに問い掛けられ、ヨーゼフは思わず笑みを零した。

 

「大丈夫。うちの宰相は理解があるからね」


 アイリスが安堵したように微笑む。その綺麗な笑顔に見惚れながら、ヨーゼフは「また今夜、…今度はきみの部屋に行ってもいいかな」と囁いた。

 ヨーゼフの土産を2人で食べる約束だった。


「…待ってる」


 アイリスがそう言ってにっこりと微笑みを返してくれると、2人の唇はまた自然に重なり合った。


「…そうだ」


 ふとヨーゼフは大事なことを思い出し、アイリスに告げた。

 

「後で薬を届けさせる」

「薬??」


 アイリスが不思議そうに問いかける。


「避妊薬だよ。側妃には先に渡しておくことになっているけど、きみには今まで必要なかったから…」


 ふとアイリスの顔から笑みが消えていることに気付き、ヨーゼフは言葉を切った。自身の失言に気付き、慌てて言い繕う。


「いや、今はもうきみ以外の誰にも必要ないものだが…」


 まるで他の側妃とアイリスが同じ扱いであるかのように聞こえたかもしれない。ヨーゼフとしてはもうアイリス以外の姫を抱く気など無い。それを伝えるための言葉だったが、アイリスの表情は晴れなかった。

 ただ重く頷いて言った。


「分かった…」

「ごめん。他の姫のことを引き合いに出すなんて、無神経だったね」


 自分の愚鈍さに腹が立つ。カーラとは形だけの夫婦であることを話してはいるが、妃という立場に居る女性は彼女だけではない。それをわざわざアイリスに思い出させるようなことを言ってしまうとは…。


「ううん…、大丈夫」


 ヨーゼフの気遣わしげな目に応えるように、アイリスは顔を上げるとまた笑顔を作って言った。


「お仕事、頑張って」


 それが少しぎこちなく思えるのは気のせいだろうか。

 自問に答えは出せず、ヨーゼフは苦い後悔を残しながら政務へと赴くこととなった。


 ◆


 執務室に着くと、やはり宰相は国王席の傍らにある彼の机で先に仕事を始めていた。

 ヨーゼフの姿を認めると、その場で立ち上がって一礼する。


「おはようございます」

「遅くなって悪かった」

「問題ございません。視察から戻られたばかりでお疲れでしたでしょうから。午後は諸侯との議会を控えておりますので、それまでにお越し頂ければと思っておりました」

「その前に嘆願書に目を通しておかなければ、何をしていたのかと文句を言われる」


 苦笑しつつそう言って席に着くと、宰相もまた腰を下ろした。


「…陛下。近頃、お顔の色が良くなられましたね」


 突然そう言われ、ヨーゼフは思わず固まった。宰相は穏やかに微笑みながらヨーゼフを見ている。


「失礼な申し上げようながら、若返られた気がいたします」


 そこまで年寄りのつもりもないのだが、今まで余程老け込んでいたのだろうか。いくつも年上の宰相に若返ったなどと評されるとは思わず、ヨーゼフはきまり悪い思いで「そうか」と無難に応えた。

 理由が分かっているだけに、改まって言われると気恥ずかしい。


「陛下がお元気ですと、国も明るくなる気がいたします。また国民に王子や王女の誕生などという喜ばしい報告が出来る日も近いですかな」


 からかうようなその言葉に、ヨーゼフは思わず苦笑した。


「残念だがそれは無い。薬を渡しているからな」


 ヨーゼフの側妃に対する方針は承知しているはずだが、宰相は意外そうな顔になった。


「…アイリス様にも、ですか…?」

「当然だろう。私が今まで側妃に子供を作らせなかったのは、王位争いや貴族家同士の抗争の原因になると考えての事だ。愛が有る無いなど、もとより関係無い」


 手元に書類を引き寄せながらそう言って、ヨーゼフは苦い笑みを洩らした。


 王の子が生まれれば、その母親の家は正式に王族の一族となり、貴族間での立場も強くなる。

 それ故に他の家から取り入ろうと近寄られたり、貶めようと狙われたり、無駄な諍いが生じるもとにもなる。

 それだけではない。

 アイリスが子を身篭れば、当然また他の姫君達の嫉妬も買うだろう。今まで側妃に興味を示していないカーラも、子ができたとなれば黙ってはいない。アイリスが産む子を、好意的に受け入れてくれるとは微塵も思えない。

 様々な敵意の中にアイリスを晒すことになる。

 それが分かっていて、何故あえて苦難を強いるような真似をすると思うのか。


 宰相はそれ以上何も言わずに、机の上の資料に目を戻した。ヨーゼフも束になった嘆願書を手に取ると、それを一枚一枚めくりはじめた。


 ◆

 

 その夜、ヨーゼフはアイリスの部屋を訪れた。暗くなってから訪れるのはいつぶりだろうか。

 アイリスは夜着にガウンを纏った恰好で、ヨーゼフを迎えてくれた。

 寝姿を前にすると、あっさりと理性がどこかへ消えそうになる。

 そんなヨーゼフの想いを他所に、アイリスは「リンカを剥いておいたわ」と無邪気に言った。

 

「有難う。頂くよ」


 昨夜がっついてしまった分、今日は自重しなくては。アイリスの体だって、まだ慣れていないのだから。

 そう自分に言い聞かせながら、ヨーゼフは彼女に促されるまま長椅子へと向かった。

 


 テーブルにはリンカだけでなく、お酒も用意されていた。

 アイリスはグラスを2つ並べると、両方にお酒を注いだ。

 

「今日は私も…」


 珍しい言葉に、ヨーゼフは眉を上げた。彼女がお酒を飲んでいるところは、今まで見たことがない。


「飲めるのかい?」

「飲んだことはないけど…美味しそうだから」


 1人で飲むより一緒に飲んだほうが楽しいには違いない。2人はグラスを持つと、軽く合わせてから口をつけた。美味しいと呟くアイリスに、ヨーゼフは微笑を洩らす。

 ふと「薬は飲んだかい?」と問い掛けると、アイリスの動きが一瞬止まった。

 蒸し返すのも躊躇われたが、あの薬は事後一日以内に飲まないと効果が無い。忘れていたら大事(おおごと)だ。けれどもそんな心配は必要無かったようで、アイリスはこくりと頷いて言った。

 

「…飲んだわ」

「そうか、良かった」


 安堵して、ヨーゼフはまたグラスを傾けた。

 

 

 初めて飲むにしては、アイリスは意外とするするお酒を口にした。他愛もない話をしながら、どんどんと減っていく。

 アイリスの頬は次第に桜色に染まり、目は赤く潤んでくる。会話の受け答えもおぼつかなくなってきたのを感じ、ヨーゼフは流石に心配になって言った。


「大丈夫かい?もうずいぶん飲んだよ」

「…ん…」


 アイリスは曖昧に応えながら、またグラスを口に運んだ。機械的なその動作を手首を掴んで止め、ヨーゼフは彼女の手からそっとグラスを取り上げた。


「そろそろ止めておきなさい」


 去って行ったグラスを追うように、アイリスの目がこちらを向く。酔いのせいで虚ろな目は妙に艶めかしく、違うと分かっているのに誘われている気分になる。

 不意にアイリスは、ヨーゼフの肩にことんと額を寄せて目を閉じた。


「…具合が悪いかい?」

「…ううん」


 アイリスが目を閉じたままクスッと笑う。


「ふわふわする…」


 項まで赤く染まっているのが目に入り、ヨーゼフはアイリスの肩に腕を廻した。


「酔ってるんだよ」


 そっと抱き寄せてその体を胸に引き込むと、温もりが肌に伝う。首筋に唇を当て少し熱を持った肌を愛撫すれば、アイリスは小さく身動ぎして呟いた。


「や…」


 熱い吐息とともに洩れたか弱い声は、ヨーゼフの内側に火をつけた。

 俯いていたアイリスの顔を仰向かせると、顔を寄せる。

 唇を重ねようとしたその瞬間、アイリスは今度こそはっきりと身を捩って抗った。

 

「…いや…!」


 顔を背けながら繰り返された拒絶の言葉に、ヨーゼフは我に返った。

 それが恥じらいから出た声ではないのは明らかで、一瞬その場の空気が凍り付く。

 ヨーゼフの心臓が、嫌な音を立てて鳴った。


「……嫌?」


 俯くアイリスの顔は、彼女の金色の髪に隠されていた。それを覗きこむようにして、ヨーゼフはぎこちなく問い掛けた。


「いや…」


 目を逸らしたままそう言ったアイリスの声は、微かに震えていた。


「アイリス…」


 不意にアイリスが、小さく嗚咽を漏らした。それは押し殺したような声ながら、ヨーゼフの耳にはっきりと届いた。


 アイリスが泣いている――。


 そう気付いた瞬間、ヨーゼフは動転した。

 思わず肩を抱いていた手が離れると、アイリスは長椅子から立ち上がり、逃げるようにその場を離れた。

 けれども足が覚束ず、数歩歩いてすぐに膝をついてしまう。

 背を向けて座り込んだ彼女の肩は、小さく震えていた。

 ヨーゼフは慌ててアイリスのもとに駆け寄ると、その傍らに膝をついて座った。

 ヨーゼフの手が背中に触れたのを感じるや否や、アイリスはまた「いやっ…」と身を捩る。


「アイリス…」

「いや…!」

「――何もしないから!」


 ヨーゼフはとっさにそう言った。

 逃げようとするアイリスの動きは止まり、次の瞬間、堰を切ったように泣き出した。


 流れる髪が覆い隠し、その顔は見えない。けれども胸を締め付けるような泣き声だけで、ヨーゼフを弱らせるには充分過ぎた。

 アイリスが泣いている。

 自分を、拒絶して――。

 その事実は、浮ついていたヨーゼフの気持ちを地に叩き落とした。息苦しいほどに胸が痛み、眩暈を覚える。

 ヨーゼフはそんな自分を叱咤すると、蹲るアイリスにできるだけ穏やかに囁いた。


「何も…しないよ、アイリス。きみが望まないことは、決してしない」


 アイリスは俯いたまま、よりいっそう激しく泣いた。ぽたりぽたりと落ちる涙が絨毯を濡らす。

 これは安堵の涙だろうか…。

 絶望感とともにそんなことを考えながら、ヨーゼフは再びアイリスに声を掛けた。


「立てない…?」


 ヨーゼフの問いかけにアイリスは黙って頷く。


「待っていて。水を持ってくる」


 ヨーゼフはアイリスの側を離れると、お酒と一緒に用意されていた水差しから水を注いだ。胸を軋ませる痛みを堪え、深呼吸する。そしてアイリスのもとに戻ると、それを手渡して言った。


「飲んで」


 アイリスはゆっくりとそれを口に運んだ。

 少し飲んでは吐息を漏らす。その唇は赤く色づき、紅潮した頬は涙で濡れている。

 ヨーゼフはそんな彼女から目を背け、ふぅっと息を吐いて言った。

 

「寝たほうがいい。寝台に行こう。大丈夫、私は部屋に戻るから」


 昨夜彼女を腕に抱いたことが、遠い夢のように思える。

 アイリスは涙で濡れた目でヨーゼフを振り仰ぐと、ゆっくりと頭を振った。


「いや…」


 意外な言葉に、ヨーゼフは絶句した。アイリスの手が、そっとヨーゼフの夜着を掴む。

 

「行かないで…ここにいて…」


 縋るようなその目に、ただ困惑した。

 拒絶されたはずだった。自分に触れられるのを、彼女は確かに嫌がった。それなのに…。


「アイリス…。私のせいで、泣いているんだよね…?」


 アイリスの頬にまた涙が零れ、流れていく。目を伏せると、こくりと頷いてヨーゼフの言葉を肯定した。

 涙の止まった彼女は、先程より幾分落ち着きを取り戻したように見える。

 ヨーゼフは躊躇いながら問い掛けた。


「理由を、教えてくれる…?」


 こんなに悲しませる理由が自分で分からないなんて、本当に情けない。

 答えるのを迷ってか、アイリスはしばらく俯いたまま口を噤んでいた。それでも手はヨーゼフの夜着を握ったままで、それがまだ辛うじて自分達を繋ぐ命綱のように映った。

 やがてアイリスはごく小さく呟いた。

 

「だって…」

「だって?」


 それを拾い先を促せば、ぎこちなく唇を動かす。


「だって、…ヨーゼフが…」

「私が…?」


 アイリスは嗚咽を堪えるようにぐっと息を呑み、直後悲鳴のような声を吐き出した。


「……他の人と、結婚してるから…!」


 胸が引き裂かれる音が聞こえた気がした。目を見張って、凍りつく。

 声が出ない。何も言えなかった。

 目の前で、誰より愛しい少女が泣いているのに―――。


「ヨーゼフには私なんていらないから…。いらないのに…いらないのにどうして…!」


 アイリスはひっくとしゃくりあげ、直後、振り絞るように叫んだ。


「どうして抱いたりしたの…?!」

「――いらなくなんかない!!」


 言葉にならない想いに衝き動かされ、ヨーゼフはアイリスの体を抱きしめた。何を言っても伝わるとは思えない。どんな言葉も、言い訳にしかならないのだから。

 それでも、言わずにいられない。


「もしただ1人の妃を選べる自由があるなら、私はきみしか欲しくない。他の誰とも違うんだ…!アイリス…」


 腕の中でアイリスが泣いている。自分の言葉がどれだけ彼女に届くのかも分からないまま、その細い肩を抱きしめて訴えた。


「私が愛しているのは、きみだけだ。…きみだけなんだよ…!」


 アイリスは何も言わず、ただヨーゼフの胸に顔を埋めたまま泣き続けた。


 アイリスの悲痛な泣き声を耳元で聞きながら、ヨーゼフは成す術も無く、途方に暮れることしか出来なかった。

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