真実の想い
やがてアリステア王国では、定期的に行われる国王による領地視察の時期を迎えた。
広い領土ゆえに、暫く首都を離れ各地を廻ることとなる。今回は南の穀倉地帯を視察予定で、出発は明後日、6日間の行程と見込まれていた。
執務室にて、ヨーゼフはその計画書に目を通しながら、内心憂鬱な思いでいた。
今までこの視察旅行はむしろ王妃や側室達から解放されて羽を伸ばせるヨーゼフの癒しの時となっていたが、今回は違う。6日もアイリスと離れる思うと、今から気が重かった。
「アイリス様、大変お喜びになられていらっしゃいますね」
宰相から不意打ちのように掛けられた言葉で、書類の字を追っていたヨーゼフの目の動きはぴたりと止まった。
何の話だと目で問うと、宰相はにこやかに答える。
「私もアイリス様の花園を拝見させて頂きました」
「…そうか」
「熱心に花を植えられているようでございますね。大変色鮮やかになっておいでで、眼福にあずかりました」
「そうか。頑張っているのだな」
「はい。庭師とも打ち解けていらっしゃって、非常に和気あいあいと、楽しそうでございましたよ」
「……それはなによりだ」
ヨーゼフは務めて平坦な相槌を打つと、また字に沿って目線を動かした。だが直前の内容が頭から抜けたようで、目が滑る。
口を挟むからだと内心で宰相に文句を言いつつ、ヨーゼフは再び文章の先頭に戻って読み直しにかかった。
花園を贈ってからというもの、アイリスは毎日そこで花の世話に勤しむようになった。
楽しそうな話だけは会った時に聞いているものの、ヨーゼフはあれから花園には行っていない。ある程度完成したらお披露目すると言ってくれたので、大人しく待っているところだった。
そんな自分を差し置いて、宰相やら庭師やらが先に見ているのが少々気に入らない。流石に子供じみた不満だという自覚はあるため口にはしないが。
ヨーゼフは書類の確認を終えると、王家の紋章のついた国印を押印した。
宰相は朗らかに有難うございますと言って、完成した書類を受け取って行った。
「…庭師は毎日来てるのか?」
ヨーゼフの問いに、宰相は「はい。専属ですので」と答えた。
自分が付けろと言ったのだから当然だが、打ち解けているなどと聞くと気になってくる。
庭師というのは、男だろうか。たいていはそうだろう。そんなことまで考えて、思わず頭を抱えた。
―――重症だ。
国王の寵姫に邪な思いを抱く者など居るはずもないだろうに、どこまで余裕が無いのか。こんなことで気を揉んだのは初めてで、見知らぬ自分に戸惑う。
ヨーゼフは意識的に気持ちを切り替えるべく、椅子に座り直した。
「さて、次の案件を…」
「陛下」
不意に宰相がヨーゼフの言葉を遮った。
「少しお時間が早いですが、続きは午後にさせて頂いてよろしいでしょうか」
意外な申し出に目を瞬きつつ、ヨーゼフは「あぁ…構わないが」と承諾する。
「有難うございます。では後ほどまた」
宰相は書類を纏めると、箱に収める。
「陛下ももしよろしければ、外の空気にでも当たられてください。いい天気で御座いますよ」
「――ん?」
「では失礼致します」
宰相は意味深な一言を残すと、うやうやしく礼をし、退出して行った。
◆
どうやら気を使われたらしい。
やっとそれに気付いたヨーゼフは、宰相の計らい通りに、空いた時間を利用して南の館の庭園へと行ってみることにした。
今日も昼食を一緒にと約束はしているが、まだ時間が早い。アイリスは花園に居るだろう。庭園を廻ってそこに近付くと、予想通り楽しそうな話声が聞こえてきた。
アイリスが庭師と談笑している。そう気付くと得体の知れない焦燥が湧き、足は自然と速まっていた。
花園のアーチをくぐると、奥にすぐアイリスの姿を認めた。隣には庭師が付き添っており、2人はこちらに背を向けて熱心に話をしている。
その男を確認し、ヨーゼフはなんとも言えない虚脱感に襲われた。
人の気配を感じてか、庭師がこちらを振り返る。小柄な彼は確かに男ではあったが、髪はほとんど真っ白で、顔には皺が深く刻まれている。そうとう熟練の庭師のようであった。
―――だったら、そう言えばいいだろう!
ヨーゼフは内心で宰相に文句を言った。
訝しげな顔の庭師に気付き、アイリスもこちらを向いた。そしてヨーゼフを認め、驚いたように目を丸くする。
「――陛下…!」
「え、えぇ!!」
ひょっこり現れた男がまさか国王だとは想像しなかったようだ。庭師は素っ頓狂な声を上げると、慌ててその場に跪いた。
「こ、これは…大変失礼いたしました…!国王陛下にお越し頂けるとは思いもせず…!」
「あぁ、いいんだ」
ヨーゼフは平伏する彼を片手で制するようにして言った。
「悪かった。邪魔をした。少し時間が空いたので、妃の顔を見に来ただけだ。すぐに戻る」
「いえ、本日はもう、失礼するところで御座いましたので…!」
庭師は大慌てで荷物を纏めると、ヨーゼフとアイリスにそれぞれ何度も頭を下げつつ、まるで逃げるようにその場を去って行った。
その姿が消えると、花園は途端に静かになる。
途方に暮れ、ヨーゼフは眉を下げて呟いた。
「…追い払ってしまった…」
一体何しに来たのやら。
せっかく楽しそうにしていたのに、下らない嫉妬心でアイリスの憩いの時間を邪魔してしまった。
すまないと謝ると、アイリスは笑って首を振った。
「違うんです。私が引き止めてしまっていただけで、いつも午前中だけで帰られるんです。色々よくご存知なので、お話していると為になって」
アイリスはドレス姿ではなく、膝丈のワンピースに白い前掛けをつけていた。長い髪は首の後ろでひとつに纏められており、いつもと雰囲気が違って新鮮に映る。
ヨーゼフが見ているのに気付いたのだろう。アイリスは己を省みて頬を染めた。
「私こんな恰好で…すみません。お昼までには着替えを済ませる予定だったんですが…」
「いや、構わないよ。私の方こそ、突然現れたりして悪かった。お披露目を待つ予定だったんだが、宰相が先に見たと言うからね。悔しくなって来てしまったんだ」
正直に告げるとアイリスは明るく笑って「どうぞ、歓迎いたします!」とヨーゼフを迎え入れてくれた。
宰相の言うとおり、花壇には植え替えられたのであろう花がだいぶ増えていた。アイリスはそのひとつひとつを、ヨーゼフに紹介してくれる。花の事はなにも知らないヨーゼフだが、アイリスの生き生きとした表情に引き込まれ、熱心に聞き入った。
説明を終えると、アイリスは改めてヨーゼフに礼を言った。
「こんな場所をくださって、本当に有難うございました。とても楽しいです」
「礼ならキースに言わなくては。私は本当にこういうことに気がまわらないんだ。今まで退屈だっただろうね」
「いいえ、そんな…。陛下にいつも、気にかけて頂いてましたから…」
それは自分のためだと思ったが、口にはしなかった。
アイリスは不意に花壇の中央を手で指すと「そうだ。見てください。キースの鉢植え、芽が出たんですよ」と嬉しそうに報告してくれた。
彼女に導かれて見てみると、キースの鉢植えは階段状の花壇の一番上にちょこんと置いてある。アイリスの言うとおり、そこからは小さな芽が顔を出していた。
「本当だ…」
ヨーゼフは感慨深く呟いた。キースに言っていた通り、ちゃんと種が植えてあったのだ。
「たいしたものだ。これは何の花が咲くのかな?」
「これは…、なんでしょう。もう少し待ってください」
首を捻るアイリスが可愛らしくて、ヨーゼフの顔は自然と綻ぶ。鉢を見詰めるアイリスの目は、まるで弟に向けられているかのように優しく細められた。
「芽が出る場所がバラバラで…。本当に適当に種をまいたみたいです。でも、なんだかそんな様子が目に見えるみたいで…。これを見た時、泣けちゃいました」
遠く想いを馳せるアイリスが、ふと口を噤む。
その表情に郷愁が窺えて、ヨーゼフの胸を締め付ける。
「アイリス」
呼び戻すように、ヨーゼフはアイリスに声を掛けた。アイリスがぱっと顔を上げる。
「はい!」
「…聞いているかな。明後日から私は6日程城を離れる予定なんだ」
「あ、はい、伺いました」
既に侍女あたりから国王の予定は伝わっているらしい。アイリスは頷いて言った。
「どちらに行かれるんですか?」
興味深げにアイリスが問う。そういう質問はもう少し寂しそうにして貰いたいなどと贅沢なことを考える自分に、ヨーゼフは内心で苦笑した。
「作物の収穫が予定通り行えそうかを確認する意味で穀倉地帯をね。空気のいい田舎を廻ってくる」
「わぁ…いいですね」
アイリスの反応に、ヨーゼフは眉を上げ「羨ましいかい?」と問いかけた。
「羨ましいです。空気がいいところは景色もいいので」
「確かにそうだな。――きみも一緒に行くかい?」
冗談混じりの誘いだったが、半分は本気だった。アイリスが一緒ならば、視察も楽しいに違いない。だが誘われたアイリスは、とんでもないと即座に遠慮した。ヨーゼフとしても頷いて貰えるとは思っていなかったのでさほど落胆もせず、笑って言った。
「残念だな。でもまぁ、確かに付いて来ても退屈するだけだ。所詮は仕事だからね」
アイリスの心情を代弁したつもりだったが、アイリスは「そんなことはないですっ」と慌てて否定した。
「私などが付いて行ったら、カーラ様に失礼ですから」
「…カーラに…?」
意外な名前が出て来たことで、ヨーゼフは思わず問い返した。不思議そうなヨーゼフの様子に、アイリスも大きな目を瞬く。
「カーラ様も、ご一緒されるのですよね…?」
「あぁ…、いや、彼女は同行しない」
ヨーゼフの答えにアイリスは意外そうな顔になった。
国王の政務には王妃が付き添うものと自然に考えていたのだろう。それはヨーゼフにとってはとうの昔に消えた選択肢だ。例え話をもちかけたところで、カーラが応じるとも思えない。
「いつものことだ。彼女は政務に興味が無いからね。……恐らく、私にも」
自嘲的な最後の一言で、アイリスの表情が僅かに曇った。気を使わせたことを感じ、ヨーゼフは慌てて続けた。
「いや、気にしないでくれ。お互い様なんだ。妃といってももとは政略結婚だからね。希薄なものだよ。今は公の場以外で、顔を合わせることも無い」
ヨーゼフの言葉に、アイリスは戸惑いの色を濃くして絶句した。
国王とその妃の不仲というのは、ヨーゼフにとっては今更なことでも、アイリスには多少衝撃を受ける話であったようだ。
そして彼女が衝撃を受けているという事実に、分かっていた事ながら、気落ちしている自分に気付いた。
「……私が、妃と仲良くしていると思っていたのかい?」
顔を上げたアイリスは頷きはしなかったが、その目は問いを肯定していた。
ヨーゼフの口からは乾いた笑いが洩れる。緩く頭を振り、独り言のように呟いた。
「そう思って欲しくは、なかったな」
本音が口をついて出た。
言葉の意味をはかりかねてか、アイリスは戸惑いを見せる。問うようにヨーゼフを見詰めるアイリスの目はどこまでも無垢で、それが今は少し胸に痛い。
「もしそうなら…、私はきみを迎えはしなかった」
ヨーゼフの呟きは、アイリスを硬直させた。
花園を包む花の香りと優しい風に包まれて、一瞬時が止まったような感覚を覚える。
今更に自覚した。アイリスにとって自分が、気のいい宰相や、親切な庭師と何も変わらない存在であることを。妃として側に置きながら、他の男と張り合う自分を愚かしく思っていたが、間違ってもいないらしい。
アイリスに非は無い。彼女は信じているだけなのだから。クレイド家を救うために、アイリスを後宮に入れるのだと言った、ヨーゼフの言葉を。
その場しのぎの、卑劣な嘘を。
足繁く通うのも、贈り物をするのも、全て人の良い国王の厚意だと、信じて疑っていなかったのだ。
そう思わせたのは自分だった。自分でつけた枷に、自分で苦められる。――なんと滑稽なことだろう。
辿りついた結論が、子供じみた嫉妬心を呼び起こす。大勢の中の1人になど、なりたくはない。その思いが、ヨーゼフを動かした。
ヨーゼフの手がアイリスの白い頬に触れた瞬間、アイリスがびくりと体を硬くしたのが分かった。戸惑いが指先に伝わって、花園を満たしていた穏やかな空気が張り詰める。
それでも一度触れてしまえば、もう手を退くことは出来なかった。
風さえない静かな花園に、ヨーゼフの鼓動だけが鳴り響く。
アイリスは凍りついたように、ただヨーゼフを見詰めていた。震える瞳で。
今この手を離すなら、いつかアイリス自身を手離す覚悟も決めなくてはならない。それが自分に出来るのか。
――答えはもう、考えるまでもなかった。
ヨーゼフは身を屈め、アイリスに顔を近付けた。
その意図を察し、恐らく反射的にだろう、アイリスが俯く。
避ける形になった瞬間、アイリスは自分のしたことを自覚して顔色を変えた。
「っ…、申し訳ありません…」
とっさに出た言葉は、彼女らしい謝罪だった。
「……いいんだ」
囁いて、ヨーゼフはアイリスの額に口付けた。
後宮に入った身で国王を拒絶することは許されない。そう知りながらも、本能的に逃げてしまったアイリスに罪は無い。その拒絶を恐れ、彼女を求める気持ちを誤魔化し続けた自分が臆病だっただけだ。
とっくに心は引き返せないところまで、来てしまっていたのに。
「…愛してる」
囁くように伝えると、アイリスの顔には純粋な驚きが広がった。見開かれて零れそうな瞳が、ヨーゼフを真っ直ぐ見返している。ヨーゼフはアイリスの顔を両手で包む込み、再び伝えた。
「……愛してる」
真っ青な瞳にヨーゼフが映りこむ。
吸い込まれる様に再び近付いた唇を、アイリスはもう拒むことはなかった。
ひどくぎこちない口付けになったのは、己の中の迷いのせいだっただろう。
ヨーゼフの唇が離れたのを感じて、アイリスはゆっくりと目を開く。
その綺麗な瞳に心の奥まで奪われ、まるで酔いが廻ったように眩暈を覚えた。
正気を取り戻すために目を伏せると、ヨーゼフは言った。
「……今日の約束は、無しにしてくれ」
今日も一緒に食事をする約束だったが、とても今までと同じようには出来そうになかった。アイリスとて同じだろう。
「私が居ない間、きみのことは女官や騎士に頼んでいく。困ったことがあったら彼らに言えば、宰相に伝わる。何でも、相談しなさい」
努めて冷静に言葉を紡いだつもりだったが、声は硬くなった。一拍の間をおいて、アイリスが応える。
「……はい」
その声も、隠しきれない動揺のためか、掠れている。
「視察を終えるまで、ここには来ない。だが戻って来たら…」
一旦言葉を切り、ヨーゼフは改めて腹を決めた。そして再び真っ直ぐアイリスを見詰めた。
「その時は、きみを正式に私の妻として迎えたい。…そのつもりで、待っていてくれ」
曖昧な言い方だが、恐らく意味は伝わったのだろう。アイリスは喉を塞がれたように声を失った。
その目に浮かぶ当惑の色から目を背けたくて、ヨーゼフは彼女を離すと、踵を返した。
「――仕事に戻る」
まだ時間は残っているにも関わらず、ヨーゼフはそう言って歩き出した。
放心するアイリスは黙ってその背を見送る。
その顔は、初めて彼女を迎えたあの日と同じように蒼ざめているのかもしれない。
そう思いながらも、振り返って確かめることなど出来なかった。