商人の秘密
ある日、アリステア王国、王都カーデロイでは小さな騒ぎが起きていた。
最近顔の売れてきた流れの商人が、城の騎士隊によって身柄を拘束されたのだ。
商人はアリステア国籍ではなく、時折顔を見せて武器や防具を売っている男だった。その日は久し振りにまたアリステアに現れ、商売を始めた矢先のことだった。
「なんだよ、おい!離せよ!」
商人の抵抗も空しく、特に説明も無いまま馬に乗せられ連れて行かれる。
そんな様子を、王都を行き交っていた人々は足を止めてただ眺めていた。
アリステア王城に引っ張って行かれたバルジーは、その乱暴さにただ戸惑っていた。
今まで散々アリステアで色んなものを売っていたが、特に問題になったことは無い。それが今回突然騎士によって連行されてしまった。何度も「なんの用だ」と聞いてみたが、騎士は何も言わなかった。
やがて騎士隊はアリステア王城に辿り着いた。
真っ白で雄大な王城。今まで外側から眺めるだけだった城の中に入って行く。ローランドだけでなくアリステアでも城へ入る身分となるとは、想像もしなかった。バルジーは馬から降ろされると、腕を両側から騎士に掴まれた状態で歩かされた。
そして広い1室に通される。
ローランドで国王に会うときに通される部屋に似ている。奥に玉座があり、そこまでに赤い絨毯が真っ直ぐ敷いてある。
どうやら国王と謁見するらしい。
バルジーは騎士に掴まれたまま、その場でしばらく待たされた。
辺りには奇妙な緊張感が漂っていた。
広間には奥と手前に2つ入口があり、その両方に騎士が2人ずつ立っている。やがて奥の入口の大きな扉がギィっと音を立てて開いた。
黒髪の女が入ってくる。高価そうなドレスを纏ったその姿から、王族であることが分かる。そしてその後ろから中年の男が1人付き添うように歩いてきた。
女はバルジーにちらりと視線を投げた。切れ長の目、黒い瞳も合わせて冷たい印象を与える。
女は玉座へと座ると、バルジーと向き合った。
隣に立った中年の男が何か小声で話しかけている。バルジーのことを説明しているのだろうか。
女は小さく頷くと、またバルジーに目を向けた。
バルジーは思わずごくりと生唾を飲み込んだ。
「――お前があのナイフを売っている商人?」
よく通る声で女が言った。
”あのナイフ”という言葉に、バルジーはすぐにそれがゴンドールのナイフであることを察した。
また王族に興味を持たれてしまったらしい。ただのナイフであるにも関わらず。
「あのナイフって?」
一応すっ呆けて問いかけてみると、女の隣に立つ中年の男が例のナイフを掲げて見せた。すでに手に入れているらしい。
「あぁ、それね…。そうだよ、俺の商品だ」
慎重に、バルジーは答えた。女は中年の男からそれを受け取ると、刃の部分を爪で弾く。
「これは何で出来ているの?」
やっぱりそういう話かとバルジーは内心で苦笑した。どっちの王族も聞くことは同じだった。
「それは商売上の秘密だ」
アルベルトの時と同じ答えを返す。女の冷たい目が、鋭さを増した気がした。
「そういうわけにはいかないわ。アリステアで採れた物ではないわね」
「それは、まぁ…」
バルジーは困ったように眉を下げた。
「その話はできねぇって。それを売るのがまずいっていうなら、もう売らねぇよ」
「ローランドで採れる鉱物だということ?」
女がバルジーの言葉を無視して質問を続ける。
「それも言えない」
バルジーの答えに、女は口を閉ざした。少しの間広間を静寂が包む。
「……そう」
やがて女がまた口を開いた。そしてその目を中年の男に向ける。
「仕方ないわね。力づくで聞き出しなさい」
「――はぁ?!」
声を上げたバルジーの体が、また騎士によって引っ張られる。
「はぁ?!なんだ?!おい、待てよ、離せって!!!」
体をよじって抵抗するバルジーの力をものともせず、両側から腕を掴む騎士達は引きずるようにバルジーを広間から連れ出して行った。
◆
レストン家の騒ぎが一段落したローランド王国には、また平和な日常が戻っていた。
公爵だった男が罪人となった事実に一時期貴族達は騒然としたが、それもやがて落ち着いた。
慌しい日々から解放されたアーロンとキースは、穏やかな午後、また定例の上級兵士会議に出席していた。
「毎年恒例の王国主催の武闘大会についてだが」
バッシュの言葉に、アーロンはひょいと眉を上げた。
ローランド王国では、毎年”武闘大会”が開催される。腕に自信のある男達が集まり、体術と剣術、それぞれの部で腕を競い合う。かなり盛り上がる大会で、毎年貴族達所有の傭兵団から選りすぐりの猛者が参戦する。
優勝すれば個人の名誉でもあり、貴族達からすれば家の名を売る絶好の機会ともなる。なんせ王国主催で、国王が見に来るという話だからだ。
けれども、毎年この大会はアーロン達兵士には何の関係も無い。国の兵士、騎士は出場を禁止されており、関わりがあるとすれば警備や運営係としてだけだ。
アーロンの隊はその役を仰せつかったことはないので、まだ大会を直に見たことすらない。
「警備、やりたいな」
アーロンが独り言のように呟くと、隣に座っていたキースも頷いた。
「確かに興味あるな」
彼も大会を見たことはないらしい。バッシュが一息つくと、「今年の警備、運営は…」と話を続けた。
バッシュによって上級兵士が指名されていく。残念ながら今年もアーロンとキースの名前は挙がらなかった。
アーロンは不満気に顔をしかめた。
「それから…」
バッシュがさらに言った。
「その仕事とは別に大会出場者を選ぶように言われている」
「――え?!」
思わず声を上げたアーロンを見て、バッシュがニッと笑った。”思ったとおりの反応だ”という様子だった。
「実はな。王国主催ということもあって、王国付きの兵士は当然今まで参戦しなかったわけだが、貴族達から是非大会で腕を披露してもらいたいという要望が出ているそうだ」
上級兵士達は皆驚いたようにお互い顔を見合わせている。アーロンもキースと目を合わせつつ、「なんだその要望?」と笑い混じりに言った。
「要するに、国の兵士すら倒して優勝したいんだろう。誰より優秀な傭兵を率いているという称号が欲しいんだ」
「ナメられてる」
「あぁ、そうだな」
ざわつき始めた場に、「――静かに!!」というバッシュの声が響く。上級兵士達は水を打ったように静まった。
「その要望に応える形だが、実際選手としては出場しない。勝負と関係のない”演武”として最後に優勝者と手合わせを披露する予定だ。それを上級兵士以下から選出してくれという依頼だ。年齢は25歳以下、体術、剣術1人ずつだ」
全員の視線がアーロンとキースに注がれる。それは実に無理のない反応だった。25歳以下の上級兵士は彼等だけだからである。
全員の視線を受け止めつつ、2人はしばし固まった。
バッシュがまたニッと笑みを浮かべた。
「と、言うわけで。頑張れよ、アーロン、キース」
「――ちょっと待ってください!」
アーロンが声を上げた。バッシュは笑みを浮かべつつ、「なんだ?自信無いか?」とからかうように問いかけた。
「いや、”演武”ってどのくらい本気でやるもんなんですか?」
全員が2人に興味深そうに注目している。キースはその視線を、ただ無表情で受け止めていた。
「”演武”とは名ばかりの真剣勝負になるだろうな」
バッシュが答える。
「優勝者はさらに名を上げるためにいい所を見せたいと張り切るだろう。けれども国の兵士代表として出るからには、無様な姿をさらすわけにはいかないぞ」
脅すようなバッシュの言葉に、アーロンは「本気でやっていいんだ」と呟いた。
「本気でやれ」
「はい」
質問を終えたらしくアーロンは口を閉ざした。キースは相変わらず何も言わない。
そんな2人を見ながら、バッシュは「出るんだな?」と改めて問いかけた。
2人が同時に「はい」と答える。
あまりにすんなり頷かれ、バッシュは内心拍子抜けした。国の兵士代表として出るのだから少しは動揺して見せれば可愛いものを。
「どっちが体術で、どっちが剣術だ」
バッシュの問いかけにアーロンとキースは目を見合わせた。
「どっち?」
「…どちらでも」
「じゃ、俺体術で」
「分かった」
簡単なやりとりでアーロンが体術、キースが剣術に決まった。おおかた予想通りだと思いつつ、バッシュは「それじゃ、当日はよろしく」とその話を締めた。
「なんで騎士は出ないんだ?」
会議終了後、訓練場に戻りながらアーロンはキースに問いかけた。
「剣なら騎士なんじゃないの?」
「騎士は貴族だ。武闘大会で見世物になる身分じゃない」
「あ、そう」
アーロンは不愉快そうに顔をしかめる。アーロンの心情を理解したのか、キースは苦笑した。
「もし騎士がその場に出て負けたりしてみろ。騎士の称号にふさわしくないなどということになって、騎士の位を返上する騒ぎになるぞ」
「返上すればいいじゃん」
「簡単に言うな。騎士の一族として名を継いで騎士になっている場合、家の名に傷を付けることなんかできないだろ」
アーロンはキースの説明に首を傾げた。
「その辺の仕組みがよく分からない。騎士って全員剣の腕に長けているわけじゃないの?」
「そうとは限らない」
キースは苦笑しつつ答えた。
「通常騎士の称号は大きな武勲など上げた上で授与されるものだが、代々騎士の家系ならそれを継いで自然と騎士になれる。ローランドのような平和な国では、武勲によって騎士になる例はほとんど無いだろう」
「お前はどっち?」
問いかけに、キースはちらりとアーロンを見遣った。
それがアリステア時代の話と理解し、「俺は、家の力だ」と答える。
キースの答えにアーロンは「へぇ…」と呟いた。
実際は、キースの家は貴族ではあったが騎士の家系では無かった。しかも貴族としての地位も失墜しつつあった。けれどもアイリスが後宮に入ったことで見習いとしてすんなり入隊することができた。
―――家の力というより姉の力かもしれない…。
キースはくっと自嘲的な笑みを漏らした。
◆
その夜、仕事の落ち着いたアーロンは早めに帰宅し、家でのんびりしていた。
風呂を終えて長椅子に腰掛けつつ、リンが淹れてくれたお茶を飲む。ふと部屋に入ったリンが、本と紙を数枚持って戻ってきた。
「ここで宿題やってもいい?」
「いいよ」
リンはにっこり微笑むとアーロンの目の前でぺたんと座り、テーブルに本と紙を置いた。やがてせっせと筆を走らせ始めた。
アーロンはそんなリンの背中を眺めつつ、穏やかに微笑んだ。
黙々と問題を解くリンの背後から、覗き込んでみる。どうやら計算問題を解いているらしい。
数字の大群に頭が痛くなる。それに対し、リンは難なく次々と問題を片付けていく。
―――負けてる…。
アーロンは思わず苦笑した。自分より長くリンは学校へ行っているのだから仕方が無いのかもしれない。
けれどもやっぱり、情けなくなってしまう。
「リン…」
アーロンの呼びかけに、リンは「はい?」と応えて振り返った。
「お前、将来なりたいものってある?」
突然の質問にリンは沈黙した。その目はじっとアーロンを見ている。
「いや、考えてないならいいんだけどさ。もし何かあるなら目指してみなよって言いたかったんだ。結婚したら、何もできなくなるわけじゃないから…」
卒業したら結婚したいと言ったのは自分だった。
けれども折角こうして勉強しているのだから、それによってリンの将来を潰したくはない。ふと突然そんなことを思ってしまった。
リンは少しの間アーロンを見詰めていたが、やがて穏やかに微笑んだ。
「ありがとう…」
アーロンもその笑顔に、微笑みを返した。リンはまた宿題に向き直り、問題を解き始める。
「学校の先生とかできそうだな」
アーロンの何気ない呟きに、リンは驚いたように振り返った。
「それ…ちょっと憧れてた」
「おぉ、マジで?いいじゃん、それ」
「でも…先生になるには卒業してからまた学校行かないといけないんだって。あと4年間…」
すでにそんな情報まで調べてあるとは、けっこう本気で考えているのかもしれない。アーロンはそう思いながら、「それは大変だ」と呟いた。
「長いよね…」
「うん。でもまぁ、専門的な仕事につく場合には必要なんだろうな。頑張ってみれば?」
アーロンの言葉にリンが沈黙する。何かを探るようなその目に、アーロンは”ん?”と目で問いかけた。
「でも…」
「でも?」
「私、早くお仕事したいから…」
「なんで?」
アーロンの問いかけにリンは答えに迷うように黙り込む。それを見ながら、アーロンはふとリンの考えていることに思い至った。
また学校へ行くということは、また学費が発生する。それを気にしているのだろう。
学校へ行かないといけないと分かった時点で、リンは”学校の先生”という夢を諦めたに違いない。
そんな必要は無いのに―――。
「リンが学校の先生になったら、俺、すごい嬉しいけど」
アーロンの言葉に、リンは顔を上げた。目を丸くして自分を見るリンに、穏やかに微笑みかける。
「すごい誇らしい。ちょっと、目指してみてくれない?また学校に行くのが、嫌じゃなかったら」
「嫌なわけないよ!」
リンは即座にそう答えた。
「なら、頑張って。あ、でも結婚はするから。その前に」
おどけて言うと、リンが笑った。そして長椅子に座る彼の足にもたれかかるようにして頭を寄せる。
「ありがとう…」
手を延ばしてリンの金色の髪に触れる。いつものようにそれに指を通してみる。癖の無い綺麗な髪は、するりと指の間を滑っていった。
「アーロン…」
リンが囁いた。
「ん?」
「あっち、行く…?」
リンの誘いにアーロンはちょっと眉を上げた。
「行く、と言いたいとこだけど…。いいの?宿題は?」
「後でいいもん…」
「それは無理。部屋に入ったら戻って来れないよ」
「……そっか」
リンはパッと体を離すと、「待ってて!」と言ってまたテーブルに向き直った。
◆
アリステア王国の夜、皇太后カーラの部屋には宰相が報告に現れていた。
昼に捕らえた商人は、その後少し痛めつけたら”全て話す”と言い始めたそうだ。カーラはその知らせに、満足そうな笑みを浮かべた。
「で、ローランドで採れた鉱物だったの?」
「それが、カーラ様に直接話すと言っていまして…」
カーラは苦笑した。情報を引き出せば商人にもう用は無い。殺すよう指示しようと思っていたのだが、それを察したのだろうか。
「悪あがきね。別に聞いてあげてもいいけど」
バルジーは昼のように、また騎士に引きずられるようにして広間へと戻ってきた。
体の痛みに脂汗が滲む。背中を何度も鞭打たれ、焼けるように痛い。そんなことをされたのは初めてで、最初のうちはただ混乱した。
けれどもやがて嫌でも理解した。本気なのだと。本気で口を割らせる気なのだと。
そして、恐らく情報を引き出せたら、それ以上自分に用はない。
つまり、殺されるのだと。
今更ながらゴンドールのナイフをアリステアで売ったことを後悔する。ローランドでこんな扱いを受けたことはただの一度も無い。
バルジーは痛みのせいか出血のせいか、眩暈を感じていた。けれども必死で踏みこたえる。
こんなところで死んでたまるか――。
やがて昼間と同じように、黒髪の女が中年の男をひきつれて現れた。そして玉座に落ち着くと、口元に冷徹な笑みを浮かべた。
「私に話があるそうだけど」
バルジーは大きく深呼吸した。痛みをこらえつつ、「あぁ」と応える。
「ナイフの素材の話を、聞きたいんだろ?」
「そうよ」
「それを話せば、俺は解放されるんだろうな」
「勿論だわ」
女の言い方は明らかに白々しかった。バルジーのこめかみをいやな汗が流れる。
「……あれは、ゴンドールの脱け殻だよ」
バルジーの言葉に女は目を見張った。部屋に沈黙が流れる。ややあって、女の口元にはゆっくりと笑みが浮かんだ。
「なるほどね…」
冷たい切れ長の目が鋭さを増した気がした。女はそれを騎士に向けて言い放った。
「――始末していいわ」
「待てよ!!」
バルジーが声を上げる。女はそんな声など聞こえないかのように立ち上がった。
「待て!!この話を知ってるのは俺だけじゃない!!!」
女が動きを止める。バルジーを引っ張って行こうとしていた騎士の足も止まった。
その場が止まったことを感じ、バルジーは一瞬安堵の息を漏らした。
「…別に、いいわ。他の誰かが知っていても、これ以上渡さなければいい話だもの」
女の声が冷たく響く。バルジーの背筋に悪寒が走った。
けれどもそれを振り払うように、「そう上手くいかないと思うぜ!」と叫んだ。
僅かに声が上ずった。
「そいつにはすごい味方が居る!ゴンドールを手なづけて、自由自在に操れる子供だ!!幼獣だけじゃない、成獣もだぜ!」
バルジーの叫びをきっかけに、その場がまた静まった。女はしばらく黙ってバルジーを見ていたが、やがてクッと嘲笑を洩らした。
「それは、すごいわね」
「――嘘じゃない!!」
バルジーは必死で声を上げた。今ここで目の前の女を逃せば、自分は確実に殺されるのだ。
「3年くらい前にゴンドールに行った時、舟が壊れて帰れなくなったんだ!でもその子供に会って、死なずに済んだんだ!俺がゴンドールでしばらく暮らしたってことは、俺を定期的にゴンドールに運んでるやつらに聞けば分かる!」
バルジーの言葉を女は立ち上がった状態のまま黙って聞いている。少し興味をそそられた様子に、バルジーはすがるように言葉を続けた。
「金髪で、翡翠色の目をした、12歳の子供で…。ゴンドールの成獣に乗っかって現れたんだ!それに食べ物や水場を案内させたんだぜ!あの子供が居れば、脱け殻なんてとり放題だ!昼、夜関係なく、ゴンドールに行けるんだからな!!」
女の表情が明らかに変わった。探るような瞳がバルジーに向けられる。
死にたくないためについている嘘だと思われたら終わりだったが、どうやら食いついてきたようだ。
バルジーはそう思いつつ、ふぅっと息を吐いた。
「ナイフの素材を知っているもう1人の奴が、その子を今側に置いてるんだ。俺なんかより、ずごいだろ」
その場にはまた静けさが広がった。
「……3年、前?」
「そうだ」
バルジーは頷いた。意外なところにひっかかってきたと思った。
「金髪、翡翠色の目、12歳…」
独り言のように呟いている。バルジーはまた「そうだ」と応えた。焦点を失っていた女の目が不意に我を取り戻す。
「――名前は?」
いやに緊張を帯びた声だった。
そんなことを聞かれるとは思わなかった。バルジーは戸惑いつつ、「”リン”っていうらしい」と答えた。
「…リン…」
ふと見ると、女の隣の中年の男も目を見張って固まっている。
「カーラ様、まさか…」
不意に男が呟いた。
「黙りなさい!」
とっさに女がそれを制する。男は即座に口を閉ざした。
「その子はどこに居るのかしら」
女の問いかけにバルジーは安堵の笑みを洩らした。やっと命が繋がった…!
「俺を解放したら、案内してやってもいいぜ」
女が黙ってバルジーを見ている。もう痛みは感じない。バルジーはしっかりと女を睨み据えた。
「言っとくけど、痛めつけてももうしゃべらない。言ったら、どうせ殺されるんだからな」
商人は一旦、牢屋に入れられた。広間に残ったカーラは、隣の宰相を見る。
宰相は先ほど聞いた話の衝撃を引きずっているのか、目を見張って固まっていた。
「嘘だとしたら、出来すぎた話ね」
リンティア王女が処刑された事実は公になっているが、その方法については知らされていない。彼女がゴンドールに置き去りにされたということを知っているのはごく内輪の者だけだ。
「カーラ様…」
宰相がためらいつつ口を開く。
「リンティア姫は、まさか…、ゴンドール遣いの力を…」
そこまで言って、宰相は口を閉ざした。カーラも黙ったまま目を伏せている。
”ゴンドール遣い”
それはアリステア王家に伝わる伝説の中に居る種族の名前である。
「あれは、単なる伝説じゃなかったというの?」
「分かりませんが、でももし本当にリンティア姫が生きておられるとすれば…」
ゴンドール遣いの特徴的な翡翠色の瞳――。
ヨーゼフと同じその瞳の色に、特別な意味など考えたことも無かった。カーラは玉座に座り込み、眉を顰めて考えに耽った。そんな皇太后の様子に声をかけることも出来ず、宰相は不安気な表情でただ見守っていた。
◆
ベッドの中で抱き合った後、アーロンはリンの体を腕に抱いたまま横になっていた。名残惜しむようにその髪にキスをする。
温もりに誘われるように、そのままいつしか眠ってしまうのが常だった。
「そういえば…、俺今度武闘大会出るんだよ」
ふと思い出して、アーロンはリンに語りかけた。リンはアーロンの胸から顔を上げると、「ほんと??」と聞き返す。
「ほんと」
「わぁ!見に行く!応援する!」
顔を輝かせるリンに、アーロンは「学校は?」と聞いた。
「お休みだよ。毎年、武闘大会の日はお休みだもん。私は見に行ったことはないけど…」
「そっか。でも、ごめん、選手じゃないんだよ。なんか最後優勝者と手合わせして見せるってだけで」
「優勝者と!?」
リンが驚いたように声を上げた。
「すごい…!私アーロンが誰かと手合わせするの見るなんて初めてだよ!」
すっかり見に来る気になっているらしい。たいして出番は無いのだが。
「でもどうしてアーロンが優勝した人と手合わせするの?」
当然の疑問に答えるために、昼間の話を説明した。リンは興味深げに耳を傾けていたが、感想としては「なんか嫌な役目だね」だった。
「そうだろ?相手は優勝者だっていうのに、負けたら怒られるんだから。たまたま25歳以下が俺とキースだけってことで」
「キースさん?」
リンが問いかける。アーロンは「そう。うちの隊長だよ」と答えた。
リンにキースの話をするときは、大抵”うちの隊長”と呼ぶ。
かつてキースの隊長補佐をやっているときにちょくちょく話題に出しては愚痴っていた名残だ。
今では自分も隊長なのだが。
「そうか、キースさん……、いい名前だよね」
何気ないリンの言葉にアーロンは眉をしかめた。胸の中になんとも言えない複雑な気持ちが広がる。
「別に、普通だよ」
思わずそんなことを言っていた。
「隊長さんも出るんだ。うわぁ、私会ってみたいって思ってたんだ」
「…なんで?」
リンの明るい声と裏腹な低い声が出る。そんな空気に、リンがちょっと不思議そうな顔をした。
「なんとなく…」
「そういうこと言うなよ」
「え、そういうことって…?」
「他の男に会いたいとか…、言うなって」
我ながら子供じみた嫉妬だった。リンの無垢な瞳を前に恥ずかしくなり、アーロンはリンの頭を胸の中に抱き込んでその目から逃げた。
こんなことを言ってしまうのは、相手がキースだからだと分かっている。
未だにどうしたら自信が持てるのか分からないのだ。あの男を、前に――。
そんな情けない自分自身を嫌悪した。
「……アーロン」
腕の中で、リンが囁いた。
「そんなこと言ってくれたの、初めてだね」
「…え?」
思わず腕を緩めると、リンが顔を上げて微笑んだ。
「アーロンがヤキモチ妬いてくれた」
その言葉を頭の中で反芻しながら瞬きを繰り返す。
「いや、何を今更…」
アーロンは思わずそう返していた。
「だって、初めてだもん」
「初めてじゃないよ…」
「ほんと?」
「……ほんとだよ…」
気恥ずかしくて堪らない。幻滅されそうな気がしたが、リンは嬉しそうに微笑むと自分からアーロンの胸に頬を寄せ、背中に腕を廻した。
「隊長さんなんてどうでもいい…」
先ほどと正反対のそんな言葉に、リンを抱き締めながら吹き出す。
「絶対、アーロンのほうがかっこいいし」
「や、それはちょっと…」
「あ、大丈夫。私の目にはそう見えるってだけの話だから。他の人はわかんないから」
リンの言葉にアーロンが声を上げて笑う。
2人の寝室は今夜も、明るい笑い声に満たされていた。