人気ブログランキング | 話題のタグを見る

このブログの更新通知を受け取る場合はここをクリック

「両義的であること」の難しさ

「両義的であること」

とは中沢新一氏のよく使う表現だが、個人的に実にしっくりくる表現だ。噛み砕いて言うならば、物事の表だけではなく裏も把握しようと努力するさまのこと、だと自分は解釈する。どんな不可解な、もしくはひどい「何か」がそこにあった時に、それを糾弾することは簡単だけれど、本質的な解決にはならない。なぜその「何か」が現れたのか?なぜその「何か」は存在しているのか?その理由を把握しない限りにおいては、本質的な解決にはならない。不可解な「何か」とこちら側との対立が生まれるだけであり、うまくその「何か」を叩き潰すことができたと思っても、その「理由」がある限り、その「何か」は何度でも立ち現れる。

「両義的であること」の難しさ_d0094512_10065418.jpg
「緑の資本論」
中沢新一 著2002年 

 この本は中沢新一氏が、2001年の9.11の衝撃をどう捉えたらいいのか?の自問自答の著書だ。本人も前書きに記しているように、とにかく受けた衝撃そのままにペンを走らせたような著書。ここでまさに氏は「両義的である」ための考察に奔走している。9.11後の欧米およびその影響下にある日本のメディアは一斉に「イスラム原理主義者」を敵と認定して、のちにアメリカはアフガニスタンを爆撃しに行く末路となる訳だけど、氏は「そもそもイスラム教とはどのような哲学なのか?」を掘り下げ、「イスラム教とキリスト教の対立」へと図式化されてしまった理由、その発端はむしろキリスト教側にあることを喝破して行く。噛み砕いて言うならば「利息を禁じる一神教イスラム教」x「本来禁じられていたはずの利息をOKとしていった一神教キリスト教」と言う図式だと。

 その内容に興味ある人は著書を手に取ってもらうとして、個人的に今回引用しておきたかったのが、この著書の後半に挟まれている「シュトックハウゼン事件」だ。

「シュトックハウゼン事件」とは、現代音楽家としてすでに大家となっていた73歳のシュトックハウゼンが911直後の2001年9月16日、ドイツはハンブルク音楽祭に到着した時に起こった。「事件」と言っても殺人が起きた訳ではない。作為のあるジャーナリストが、両義的な志向をもつ芸術家を思想犯罪者に仕立てあげた、「報道事件」のことを指す。

 音楽祭の目玉でもあったシュトックハウゼンの到着に伴い、当然のように記者会見も開かれた。そこにいたジャーナリストの一人、シュルツ氏が策略的な質問を繰り返して行く。この音楽祭で上演される28時間にも及ぶ大作「LIGHT~HIKARI」についての質問が重ねられて行く中でシュルツ氏は「あの事件(9.11)についてはどう思うのか?」と言う質問をする。前衛芸術的な作品を作る芸術家として、それこそタイトルのようにこの世界の光と闇を表現する者としてシュトックハウゼンは震えながら、涙を浮かべながらこう答える

「みなさん頭をよくリセットしてくださいよ。。。
あれはアートの最大の作品です。
破壊のアートの身の毛もよだつような効果に驚いています」

人間の持つ、闇の部分の暴走が引き起こしてしまったことをそのように表現し、最後にシュトックハウゼンは
「今言ったことはアートの日常逸脱についての表現ですから、発言自体はオフレコにしてくださいよ」
と言って会見を締めた。

ところが翌日の新聞他各種メディアでこのような記事タイトルが並ぶことになる
「シュトックハウゼン氏の信じがたい非人道的発言
〜あれはアートの最大の作品です」

当然のごとく非難が殺到し、謝罪会見を幾度となく開くことになり、ハンブルク音楽祭におけるシュトックハウゼン氏の演目は中止となったのだ。シュルツ氏の編集によるその記事のインパクトが勝り、どれだけインタビューの全容が判明しようともそのイメージは覆せなかったのだ。「インパクト」を重視する刹那的ジャーナリズムが、「継続的」な視点の芸術家を突き落とした瞬間だった。

これを中沢新一氏は「芸術の両義性を剥奪したシンボリックな事件」として紹介する。特に19-20世紀は人間社会の闇を埋める役割を芸術は果たしていたのだが、こうした作為的なジャーナリズムの横行により、「両義的に思考すること」が危険なことになってしまったのだ。おまけで「確かにそう言う側面もある」と言ったことの方が一人歩きすることがあり、かつ断罪されるようなことがあると、物事の多面性を語れなくなる。より分かりやすい喫緊の例が「あいちトリエンナーレ」(2019年)かもしれない。(喫緊すぎて今はまだ個人的見解も言いにくいですが)

人類史においては世界の各地の宗教が人間の闇の部分を補填する役割を果たしていたのが、資本主義の世界拡散と共に宗教の力が弱まり、その闇を補填する役割を果たしていたのが芸術だったのだが、上記のシュトックハウゼン事件などを経て、芸術の役割が日に日に弱まってきていることは否めない。生活の中からは外され、オプションとしての、娯楽としての芸術になってしまった。そこら中になんとか文春的なシュルツ氏が潜んでいる訳で、著名人・政治家の発言の一部を切り取って袋叩きにする図式は皆さんも見慣れてしまった風景だろう。そりゃあ現代のジョンレノンや忌野清志郎は出てこないし出てこれない。正義という表看板でもって行われる袋叩き行為が、どれだけの生きづらさを生んでいるか?は感じてる人も多いだろう。

言い方を変えると、現代資本主義社会は闇を遠ざける「死を遠ざける社会」だ。世界のどの宗教も慣習も、元々は「すぐそこにある死」とどう向かい合うか?がベースになっていることが分かる。その、「死についてどう考えるか?」をきちんと身体化することで、日々の生活に向かうことが出来た。そのような人間社会史が実は数万年の人類史のほとんどなんだが、ここ数百年の社会の変遷により「死について考えなくて済む社会」に向かうことになった。そして「自殺の増加」と言う結果になる皮肉。

「死についてちゃんと考える」ことが「生きていくことになる」
これこそが両義性じゃないかと思う。

日常もそうだよね、政治家を絶対悪のように言うのは簡単だけれど、彼らには彼らの歴史の積み重ねと受け継いできた闇があっての話だ。彼らの中に潜む闇を把握しないと、分断のまま進んでしまう。それは相手が中国であれ北朝鮮であれロシアであれイスラム教であれ、あと差別に関しての話も同じだと思う。絶対悪を定めるのは思考停止、それこそが反知性主義だと思う。(そう断定した時点で俺もある種の反知性主義者ともなってしまう矛盾は抱えているけれど) 多様性〜共存の社会をもし理想とするならば、目の前に「納得しがたい者」がいることをそのまま受け止められる許容力が必要なのだ。

俺の携わる音楽業界は正直、そう言う意味での「芸術」ではもう無くなってしまったと自ら思ってる。一つの快楽であり、媚薬であることは間違いないけれど。あくまで消費される「商品」として存在している訳だからね。

だからこそ「生演奏」は残された数少ない「芸術のかけら」を含有していると思う。それは舞台芸術などにも言えるだろう。俺らに残されたのは「肉体性」だけなのかもしれない。マーケティング〜ウェブ戦略なんかはもちろん日々生きていくためにはとりあえず使うけれど、柱にはなりっこない。資本主義社会においては、今日の柱は数年後には取り壊されてるだろうからね。ユーチューバーなんて数年後どうなってることやら???

だからこそ、
「肉体性」の中にはまだ「闇」「死」を包括する力が残されているんじゃないか?
と思いたい。

そんな思索をしながら
再びライブが大々的に出来るようになる日のために
色々と磨いておこうと思う

*****

あぁ、そう言う意味でもこのコロナ禍は、人間が人間の力を削ぎ落としていくための禍な気がしてきたなぁ・・・
そもそも
人間が世界を飛び歩くようになったことで生まれたウィルス、
そして
人間が広めたウィルスでもある訳だからね

by jazzmaffia | 2021-03-07 11:52 | ひとりごと | Comments(0)

<< 昭和の闇市の匂ひ Movie : 「譜めくりの女... >>