クエルナバカで新しく知り合ったお友達がくるまでやってきた。
しめた。わっしはメキシコでやりたかったことがひとつあって「くるまを運転してみること」がそれなんです。だって、メキシコのひとって運転の仕方滅茶苦茶なんだもんね。
信号が赤でも平気でくるまで交差点突っ切ってるし、方向指示器ださねえで曲がるし、ラウンドアバウトなんかはもうサイコーで誰も「(右側通行なので)左からくるまが来たら止まる」っちゅうルール守っとらん。ラウンドアバウトというのは、このルールが命の綱なので、これを守らないとどうなるかっちゅうと、くるまがこんぐらがって滅茶苦茶になります。で現実を見ると、ほんとうにいろいろな方向に団子になってみんなで警笛を鳴らしあっておる。
サイコーじゃ。
これでどうしてくるまの運転が成り立つか、というのは自分で運転してみなければ判りません。だから、やってみることにした。
クエルナバカからくるまで45分くらいのところにテポツランという小さな町があります。ムハマッド・アリすなわちカシアスクレイ(わっしはフィルムを見るとカシアスクレイの頃のほうがボクサーとしては好きだな)が住んでいたことがある街だ。
週末になると地元のひとが怒濤のように押し寄せる観光地で「魔法の山」がある、UFOがいっぱいとんでくる、なんとか言うわっしが知らんハリウッド女優が住んでおった。
以上新しく出来たお友達の受け売りなので、わっしはほんとうのところはよう知らん。
くるまの運転のほうは割と早く謎が解けて慣れたな。要は他の運転手とのアイコンタクトによる意思の疎通が大事なのであって、信号や交通法規はその意思疎通を助けるための補助なのだ。新しく出来たお友達は「中国人の運転手は危ないから気をつけてね」と言う。
きっと文化が違うと意思が伝わらんのだな。ふたりほど遭遇したが、なるほどガブリヨリで割り込んでくるので、危ない運転であった。
テポツランは、すげえかっちょいい町です。これを言葉で描写しようとしても、そうはいかん。メキシコにはたくさんある神秘的な姿の教会があって、優美な修道院がある。メキシコにしかありえない極彩色のデザインがとんでもねえくらいかっこいい小さな店に縁取られた幅の狭い道路を「魔法の山」が見下ろしている。
わっしは不思議で強烈な匂いがたちこめた市場のなかにあるレストランの椅子に座って「SOL」というビールを飲んだ。現実離れしたほど狭い上に便座がごとごと動くオッソロシイ トイレに入った。ギターを持ってきてテーブルの横でいきなり歌い出した子供に2ペソあげた。
知り合ったばかりのお友達がメキシコのことをいろいろ教えてくれる。
お友達は白いヒトなのだがメキシコには肌の色に基づいて厳然たる階級があって白くて眼が青いひとがいちばんエライ。黒いヒトはえらくない。通常社会の地位が非常に高いひとでもメキシコ人だけの集まりでは皮膚が白くて眼が青いヒトには眼をあわせることすらしない。でもわっしはいままでそんなこと全然聞いたこと無いぞ。するとお友達が白い歯をニッと見せて「だって、外国人に聞かれたって、差別なんてない、っていうもの」とすましてます。話している本人が「白くて眼が青い」ひとなので、わっしは複雑な気になります。
お友達が「自分はこの国では上層なのよ」と示唆していると思うからではありません。
そんなこと示唆しなくても、お友達が上流階級のひとであるのは、道路に立っている姿を見ただけで明瞭です。
門衛から給仕までお友達に対すると伏し目がちになって猛烈に緊張しているところを見ても明らかである。
その逆。このお友達にはなんの邪気もないことは、わっしみたいに鈍い奴でもわかる。
わっしは、ともかくこのお友達といるときに「色がくろい」ひとたちが示す微妙な反応の理由がわかりました。そうだったのか。
テポツランにくる途中賑やかで陽気な音楽を演奏する楽隊と百人くらいでぞろぞろ歩くひとたちを見て、なにごとならむ、と思ったら葬列であった。先頭には棺を担いだ一団のにーちゃんたちがいる。メキシコのひとはアイルランド人たちと同じで死を祝うべきことと思うのだな。ときどきデーハーな音の花火を鳴らしてる。
子供が走ってきて「1ペソちょーだい」という。「白くて眼の青い」お友達はにっこり笑って1ペソあげてます。
教会のベンチに座っていた姉妹らしき幼い女の子4人があまりにかわいいので「写真をとってもいい」と訊くと、おそろしい憎しみに満ちた顔になってわっしをにらみつけ「絶対にいやだ」と言います。お友達は横で悲しげに顔をくもらせておる。
うーむ。頭がごちゃごちゃになってきた。
なにがよくてなにが悪いのかすら、こんなにややこしくては、わっしのボロ頭でどうやってこの世の中を渡っていけばよいのだろう。
神様。
(この記事は2008年1月に掲載された記事の再掲です)
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