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ゴンドールの大陸 作者:芹沢 まの

第一章

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騎士の誘惑

 ある日の午後、アーロンとミーナはお互いの仕事の合間を縫って城の裏庭で会っていた。太い木の下に二人で並んで座り、他愛もない話をする。恋人達の甘いひと時である。

 だが、今日のミーナはなんだかいつもと様子が違う。久し振りに2人になったのに、どうも上の空だった。

 アーロンはそんな彼女を気にしつつ「前の休みに指輪見てきたよ」と報告した。ミーナがぱっと顔を輝かせる。


「まだあった?あんまり個数が無いって話なの」

「あったよ。そっか。早めに買わないとな」


 アーロンは言いながら例の仕事のことを思い出していた。申込みのためにもう一度王都に行かなくてはならない。今夜は見張りの仕事も無いし、時間がとれるだろう。早くしないと指輪が無くなってしまう。誕生日までもあんまり時間はないのだ。


「高かったでしょ…?大丈夫?」


 ミーナが心配そうに眉を下げて問いかける。

 アーロンはそんな彼女に微笑みかけつつ「大丈夫だよ」と応えた。ミーナはまた零れそうな笑顔を顔中に浮かべた。


「すごい、アーロン!やっぱり長く働いているからいっぱい貯めてるんだね!頼もしい~!」


 両手を胸の前で合わせてミーナは嬉しそうにそう言った。


「まぁね…もう5年だ…」


 アーロンは独り言のように呟きながら、背後の木の幹に寄りかかった。そしてぼんやりと空を見る。


―――5年か…。


 アーロンが兵士になったのは13歳の時だった。


 普通、国民は10歳から学校へ行き、16歳で卒業する。その後仕事に就くのが一般的だ。けれどもアーロンは事情が違った。

 13歳の時に女手一つで育ててくれた母を亡くした。兄弟もおらずに1人になったアーロンは、孤児の施設に入ることとなった。施設で育つ子供は全員何かしらの仕事をする決まりとなっており、当然、学校へ通い続けるという選択肢は無かった。

 アーロンは当時から体力には自信があったので城で兵士の仕事に就いた。兵士の仕事なら寝る場所も食事も付いてくる。楽な仕事ではなかったが、その分給料はいい。

 そして結局ほとんど施設では過ごさないまま、施設を出る歳になり今に至る。


 およそ人並みの教養も無い。取り柄といえば人並み外れた体力だけ。頭を使う必要のない今の仕事は、アーロンの天職と言えた。


「あ、私そろそろ行かなくちゃ!」


 ミーナの声に、アーロンの心は現実に引き戻された。そして慌てて隣の恋人を見る。


「もう?!」


 なんと慌しいことだろう。ミーナはいそいそと立ち上がる。


「王女様に付くようになってから色々忙しくて!ごめんね、また今度ね」

「…なんか、楽しそうだね」


 一緒に立ち上がりながら、アーロンは思わず言った。仕事に向かうというのに、なにやらミーナはウキウキしているように見える。


「え~?当たり前でしょ?」


 ミーナはそう言いながら軽く背伸びすると、アーロンの頬にキスをした。


「あなたに会えたからよ」


 真っ黒の綺麗な瞳で真っ直ぐアーロンを見つめながらそう囁く。次の瞬間にはひらりと身を翻し「それじゃ、またね~!」と言って軽やかに走り去って行った。


 アーロン1人取り残され、恋人の背中を見送る。そしてちょっと首を傾げると、


「そうかぁ?」


 と呟いた。


 ◆


 いつもの剣の稽古の後、キースはリンティアの部屋の長椅子に腰掛けて休んでいた。リンティアは湯殿で湯浴み中である。それを待つ間、先日紹介された新しい侍女がいそいそとキースのもとに冷たい飲み物を運ぶ。侍女はしきりにキースの顔を盗み見ている。興味はあるが正視出来ない様子である。

 キースはそんな侍女に自ら目を合わせると「ありがとう」と微笑んだ。

 侍女の顔がとたんに真っ赤になる。


「い、いえ!とんでもございませんっ」


 今日も彼女は激しく動揺している。女性のそんな反応はいつものことである。


―――名前はなんだっけ…。


 キースは侍女を眺めながら考えた。

 つい先日聞いたばかりなのに、早くも忘れている。彼は女性の名前を覚えるのが苦手だった。

 侍女は少し距離をおいた場所で掃除をしながら、やはりちょくちょくキースを振り返る。キースは気づかないふりをして飲み物を口に運んだ。


「キース、お待たせ!」


 不意に湯浴みを終えたリンティアが濡れた髪を拭きながら現れた。小柄な少女の白い肌は温まったせいかほんのり桜色の染まっている。絹のガウンのみを羽織って出てきた彼女にキースは苦笑した。


「リンティア、きみもそろそろそんな格好で男の前に出ていい歳じゃないと思うよ」


 リンティアはその言葉に自分の格好を改めて確認したが、「キースだから、別にいいの」と軽くかわしてしまった。邪気の無い姪っ子の答えに、キースは声を上げて笑う。


「キースも湯殿使って。――ミーナ!」


 ”ミーナ”と呼ばれた侍女が「はい!」と言って振り返る。どうやらそれが彼女の名前らしい。今初めて聞いたような気がするとキースは思っていた。


「キースの着替えと、体を拭くもの用意してあげて」

「かしこまりました!」


 ミーナはいい返事をすると、用意をするべく慌しく去っていく。リンティアはそんな彼女を見送って、クスクス笑った。


「ミーナ、キースのこと好きみたいなの。キースが来るっていう日は物凄く張り切ってるもん」


 リンティアがキースの隣に座りながら、こっそり伝える。キースはちょっと笑うと「だと思ったよ」と返す。


「可愛い子だと思わない?」


 リンティアがキースの顔を覗き込みながら問いかける。キースはそんな姪っ子の愛らしい仕草に微笑みを浮かべた。


「そうだね。リンティアほどじゃないけど」

「ありがとうございます」


 リンティアはおどけた調子でそう言うと、ペコリと頭を下げた。そんな反応に、キースはまた楽しそうに笑った。


 キースが騎士見習いとして城に入ったのは5年前、13歳の時だった。貧乏貴族だったグレイド家は、姉が国王に見初められたことで失われつつあった地位を取り戻すことが出来た。姉を差し出すかわりに国王から新たに領土を賜り、すっかり落ちぶれていた父親にはまた覇気が戻った。けれどもキースはそれを幸せだとは思えなかった。

 大好きだった優しい姉。彼に誰よりも惜しみなく愛情を注いでくれたのは、他ならぬ彼女だった。

 城に行った姉には、その後めったに会えなくなってしまった。キースが騎士を目指すことを決めたのは、アイリスの側で彼女を護る役目を得るためだった。


 ヨーゼフ王はキースのそんな想いを理解してくれていた。クレイド家の唯一の跡取りであった自分が騎士となる為の口添えをしてくれ、騎士見習いの時代から、キースが姉と会う時間を作ってくれた。アイリスはとても幸せそうだった。

 歳の離れた王と姉。けれども2人の間には確かな愛情が存在していた。そしてその2人の間に産まれたリンティアも、暖かい愛に包まれて育っていた。

 地位にしがみつく父も母もキースにとってはどうでもいい。キースにとって家族といえる存在は、姉だけだった。そして姉の愛する娘。自分の姪っ子。


 ヨーゼフ王亡き今、残された2人を王に代わって自分が護っていきたい。それがキースの願いだった。



「ご用意が整いました!」


 侍女のミーナが戻ってきて報告した。キースは手にしていたグラスをテーブルに置くと、「それじゃちょっと行ってくる」と腰を上げる。


「ごゆっくり!」


 すかさずミーナが、体を拭くための布と着替えを手に、その後を追った。

 湯殿の手前に置かれた籠の前でキースは手早く服を脱いで上半身裸になった。そのとたん後ろで「きゃっ」と控えめな悲鳴が上がる。振り返ると、ミーナが耳まで赤くして立ち尽くしていた。

 キースはクスッと笑った。


「失礼、気付かなかった」

「あ、あの、これ…」


 ミーナが慌てて着替えと布を差し出す。キースはそれを受け取りながら「ありがとう」と礼を言った。聞こえているのかいないのか、彼女はまだぽんやりとキース眺めている。立ち去る様子は無い。


「俺の裸に興味ある?」


 キースの問いかけに、ミーナは我に返って「い、いいえ!!」と激しく首を振った。


「…そう、残念だな」


 薄く笑みを浮かべてそう言ったキースの言葉に、ミーナはまた固まった。そして「いえ、あの…」と言い直す。


「興味あります…」


 キースは思わず吹き出した。

 本音が漏れたミーナは噴火しそうに赤くなる。大慌てで「す、す、すみませんでした!!!」と頭を下げ、逃げるように湯殿を出て行った。



 赤面したミーナが部屋に戻ると、リンティア姫がそんな彼女を見て意味深な笑みを浮かべた。なにやら面白がっているような様子である。


「お着替えと、お体を拭くもの、お渡しして参りました」


 ミーナがそう報告すると、リンティアは「ありがとう」と言って長椅子から立ち上がる。


「私も着替えよう。そしてちょっとお母様のところに行ってくる」

「え!でもキース様がまだ…」


 ミーナは驚いて湯殿のほうを振り返った。リンティアはにっこり微笑むと、「頑張ってね!」と言ってミーナの肩をポンッと叩く。

 ミーナは言葉を失い、またもや真っ赤になった。



 キースが湯浴みを終えてリンティアの部屋に戻ると、そこには何故かリンティアは居らず、侍女のみが残っていた。キースは不思議そうに部屋を見廻す。


「…リンティア姫は?」

「あ、アイリス様のお部屋へ行かれるとおっしゃって…」


 キースは「ふぅん…」と言いながら目の前で戸惑う侍女に目を戻す。リンティアの狙いが見えて、思わず苦笑する。自分とこの侍女の仲を取り持とうとしているのだろう。そういうことなら期待には応えないとならない。キースは長椅子に腰をかけると、また飲み物を運んできたミーナに「きみも座らない?」と声をかけた。


 ミーナがまたもや赤くなる。なんと分かりやすい子だろう。


「し、失礼しますっ」


 言いながらキースの隣に座る。緊張のあまり、背もたれを使う余裕は無いらしい。


「楽にしてくれていいんだけど。俺は王族じゃないんだよ?」

「そ、そうですね!ありがとうございます!」


 ますます力が入っている。キースは面白くなってきて、手を伸ばすとミーナの黒髪に触れた。予想通りにビクンッと体を震わせる。

 キースはわざと一度手を退いた。


「ごめん、つい」


 白々しく謝ってみる。


「あんまり綺麗な髪だから」


 ミーナは頬を上気させたまま、「あの…大丈夫です…」と小さく呟く。


「…そう?」


 ミーナが頷く。


「触っても、いい…?」


 囁くように伺うキースに、またこっくり頷く。

 キースはそれを確認すると、改めてミーナの髪に手を延ばした。キースの手に触れられたのを感じて、ミーナが目を閉じる。それに合わせるように、キースの手が彼女の肩に廻る。そしてそっと引き寄せた。

 ミーナは少しも抗うことなく、あっけなくキースに体を寄せた。2人の唇が重なる。


「ん…」


 ミーナが甘い声を漏らす。キースの口付けに、積極的に応えてくる。

 良かった、初めてではないらしいと安堵し、キースは彼女の体をゆっくり長椅子に横たえた。キースの手が彼女の胸の膨らみに触れる。ミーナは全く抵抗の意思を示さず、むしろ大歓迎という様子で彼の体に腕を廻した。キースは一度動きを止めると、顔を上げ、ミーナの瞳を覗き込んだ。もうすでに彼女は恍惚の表情を浮かべている。


「こんな所じゃ…嫌かな」

「大丈夫です…」


 即答である。キースは”そう言うと思った”と思いながら、「よかった」と囁くと、再びミーナの首筋に顔を埋めた。


 ◆


「うふふふふ…」


 その頃アイリスの部屋では、1人で楽しそうに笑っている目の前の娘を見て、母が不思議そうに首を傾げていた。先ほどからずっとこの調子である。なにか楽しいことがあったらしい。


「どうしたの?」


 母の言葉にリンティアは「なんでもな~い」と応えると、


「もしかして近いうちにキースに恋人ができるかもしれないよ」


 と唐突に言った。意外な話題にアイリスは目を瞬かせる。


「それは…素敵なことだけど…」


 本当だろうかと思ってしまう。最近聞くキースの噂話からすると、どうも弟が真面目に恋人と呼べる女性を作る気があるのかどうか疑問に思えていたところだ。


「あんなにかっこいいのに恋人がいないなんて勿体無いなーって思ってたの。お母様もそう思わない?」


 リンティアは翡翠色の大きな瞳を輝かせて話している。とにかく楽しそうである。


「そうね…」


 アイリスは一応そんな風に応えると「どんな子かしら、楽しみだわ」と言ってみた。


「早くそうなるといいなぁ」


 叔父の幸せを願う娘に、アイリスは穏やかな微笑みを浮かべた。


―――いつの間にか、大きくなったわ…。


 目の前の娘はまだ幼いけれども、赤ん坊の頃を思い出すと時の流れを感じる。リンティアが居て、ヨーゼフ王が居て、幸せだった毎日。リンティアの翡翠色の瞳は、失くした人の面影を呼び起こす。


 ”きみとリンティアは私が生涯かけて護るよ”


 優しかった夫。彼の存在が抜け落ちた毎日に時折襲う寂しさを、リンティアが慰めてくれる。今は娘の成長だけが、アイリスの生き甲斐となっていた。


「――アイリス様」


 不意に侍女に声をかけられ、アイリスとリンティアは同時に彼女に目を向けた。


「ジークフリード陛下がお見えです」

「…え?」


 アイリスは思わず驚きの声を漏らした。意外な訪問者に、リンティアも軽く目を見張る。

 アイリスもリンティアもジークフリードが王子の頃から全く接点が無かった。当然部屋を訪れたことなど一度も無い。

 アイリスは戸惑いつつ「どうぞ、お通ししてください」と言った。

 侍女の案内で、ジークフリード王が姿を現す。母親譲りの真っ黒な髪と瞳とその切れ上がった強い目は、やはりカーラ王妃に似ている。28歳の新国王。義理の息子という間柄だが、アイリスと年齢は変わらない。ジークフリード王はリンティアの姿を認めると「先客がいたようだ」と言ってふっと笑みを漏らした。

 リンティアは慌てて膝を折って挨拶をする。


「このような遠くの部屋まで、わざわざお越し頂いて申し訳ありません…。御用があれば、私のほうから赴くべきでしたのに…」


 恐縮するアイリスに、ジークフリードは薄く笑みを浮かべて、「いや、それには及ばない」と応えた。そして周りを見廻す。


「…なにか不自由は無いか?」


 突然の問いかけに不意をつかれながらも、アイリスは首を振った。


「何も御座いません。お気遣い、有難うございます」


 ジークフリードの視線がアイリスの頭の先から足の先まで、舐めるように動く。そんな王に、リンティアの胸には何か得体の知れない不安が湧き上がった。


「また改めよう。失礼する」


 それだけ言って王は背を向けると、戸惑う2人を残し部屋を去って行った。後には鈍く色を変えた空気が蟠る。


「何の用だったのかな…」


 リンティアがアイリスに問いかけた。アイリスはしばらく何も言わずに宙を見詰めていたが、やがて首を振ると「分からないわ」と静かに呟いた。

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