出張等で大阪に宿泊滞在して
いると、違和感を感じる事が
ある。
それは私が東京湘南横浜育ち
だからだろう。
海に行くのに「西に向かう」
という感覚、海が西にある、
という位置関係に言い知れな
い違和感があるのだ。
海は南にある、海に出るには
南か東、という感覚が40年近
くしみ込んでいたので無意識
から来る感覚的違和感を海が
真西にある土地に感じるのか
も知れない。
横浜市内は鶴見区神奈川区を
除いて湾の海は東にある。
磯子からは南だが。
また、三浦半島の西側を除い
て湘南地区は海は真南にある。
南に太平洋が広がっている。
海の向こうはアメリカ、とい
うように。
東京湾自体も東京の地面から
真南に海がある。
そうした首都圏の土地勘が
40才近くまでずっと続いてい
たので、自然と「海が真西に
ある」という位置関係の土地
に方向感覚が狂うような錯覚
が起きるのだろう。
そういえば、道頓堀川に食事
等で遊びに行くと、いつも
南北を逆転させてしまうよう
な錯覚に陥る。
いくら馴染みとはいえ、方位
感覚に確かなものがないから
だろう。
ある意味、曇天の夜のみが方位
を消滅させる、ともいえる。
月も星も見えない夜の市街地は
東西南北など関係ないからだ。
アスファルトと街のネオンだけ
が世界を作っている。
あらゆる境界を感じさせないの
が都会の夜の街。
だから引き込まれるのかも知れ
ない。
大阪はきょうも活気にあふれ
またどこからか人が来る。
他の地方の人には意外と知ら
れていない、というか当事者
ではないので理解できないの
だろう事実がある。
それは大阪人と東京人は実は
かなりウマが合う。これは
結構知られていないか誤解さ
れているのではなかろうか。
何故気心が合うのか。
それは両者の土地が大都会だ
からだ。
都会人同士としてごく自然に
無意識の感覚が交わる共通感
を持っている。
東京のほうが気取っていて大
阪は庶民的、というのはそれ
は一般的なステレオ判断感覚
であり、実態とはマッチして
いない。
同じ都会で、同じ3帝都である
京都はかなり感覚が違うもの
を感じるが、旧帝都大阪と新
帝都東京の人々は、とても
感覚的に共通するものが実際
にある。
京都との違いは、「東京も
大阪もどちらも『新しい街』」
という事だ。
京都は千年王国というドシン
としたものがあるので、結構
そこに住む人々の感覚は「固
定的」「固着的」だ。
だが、東京と大阪は人も人の
感覚も流れている。淀む事を
知らないように。
そこに都会人的な自然な息吹
を私は感じ取る。
ただ、大阪は海が真西にある
ので、湾岸での産業イベント
の会場などに鉄道で向かう時、
私などの東国人は「あれ?」と
いう感覚に襲われるのは確かだ。
ただ、大阪に何日滞在しようと
も、人的交流においても、全く
違和感は一切無い。
第一、食うもんがうますぎる。
それも、京都や東京の高級店と
かではなく日常的な食文化とし
て。
東京でいうなら庶民が親しむ
「そこらの蕎麦屋」のような
場所で大阪では充分に恒常的
にウマい食べ物が食べられる。
これは都会だからだ。
大阪八百八橋というのは大江
戸八百八町と同じく嘘八百の
盛り盛りのあくまで比喩の表
現だが、大阪が「食い倒れ」
といわれるのは本当の事だ。
食べ物は何でもうまい。
美味しいではなくウマい。
みんな肥満デブチンになって
健康を崩すのでは、という程
に食べ物がウマい。
大阪の大阪らしさが現れてい
る気質の特徴。
街行く女性たちに「そこのおば
ちゃ~ん」と声をかけても全員
無視する。
だが、「そこのおね~さ~ん」
と声をかけると何人もが「は~
い?」と振り向く。全員おば
はんだが。
これ、本当の話。
あと、繁華街等で道行く知らな
い人に「バキューン」とやると
必ず「ううっ」とかのリアクシ
ョンをしてくれる。
これも嘘みたいだが本当の話。
この人間的な練れと臨機応変
の即断対応は東京には存在し
ない。
東京でバキューンをやると、
大阪弁でいうところの「なん
やねん、こいつ、ドキューン
かいな」という対応をされる。
大阪のほうが東京よりもある
意味、練られて進んでいる。
まあ、練りもんの街だしな。