「キラ! 凄いですわよ、あちらにも!」
「前見ずに走ると危ないよ、ラクス」
小走りに水槽へ駆け寄るラクスは、まるで少女のようだ。こんなにはしゃぐ姿は久しぶりに見る。それだけでも苦労してさまざまな問題をクリアした甲斐があると言うものだ。ここ数日の書類仕事や関係各所への根回しといった苦手な仕事の疲労が溶けていくようで、キラはそっと微笑んだ。
アプリリウスに新しくオープンする水族館から招待状が届いたのは数日前の話だ。どうやらここのオーナーが以前ZAFTに在籍しており、ヤキンドゥーエ戦にて戦闘に参加していたらしい。そして、ラクスやフリーダム――つまりキラに命を救われたと感じていること。ZAFT退役後、地球を旅し、水生生物の美しさに魅せられ、故郷であるプラントに水族館をオープンすることになった――という話が綴られていた。そして、ぜひオープン前にキラとラクスを招待したいと。
普段なら引き受けにくいことなのだが、現在のコンパスの立ち位置からして、一般市民への親しみやすさといった広報活動は注力すべきところであり。また、護衛にイザーク率いるジュール隊が手を貸してくれると申し出てくれたこともあり。まあそんな経緯で、本日この水族館はキラとラクスの貸切なのである。ここまで辿り着いたのはキラを始めとして多数の皆さんが警備計画や諸々の根回しを頑張った結果でもある。
「あちらも! まあ、くらげさんですわね!」
「本当だね。ライトアップしてるんだ」
ふわふわと水槽を漂う海月を、様々な照明が照らしている。まるで青空に浮かぶ雲のようにも、色とりどりのゼリーのようにも見える。
「綺麗ですわね、まるで花束のようですわ」
「花束かぁ、なるほど」
「キラは違いますの?」
「この間ラクスが作ってくれたゼリーみたいだなって思ってた」
「まあ! うふふ、ゼリー寄せですのね」
「そうだよ、サイダー味かな」
そんな何気ない会話をしながら、順路をゆっくりと歩いていく。小さな水槽から、大きな水槽まで。様々な展示が用意されており、併設されている説明文や動画を興味津々で隅から隅まで目を通す。この魚はオーブで見た、この魚はスカンジナビア付近に生息していて、なんて。一つ一つの展示にはしゃぐラクスは、とても可愛い。この顔が見たかったのだ、キラは。
「へえ、この辺りは深海に生息している魚を集めたコーナーなんだって」
「そうですの――ふふ、思い出しますわね」
「……ああ、マリンスノー?」
「はい。キラも覚えていらっしゃいますか?」
「もちろん。綺麗だったね、とても」
アークエンジェルの展望室から二人で見たマリンスノーは、キラの記憶にもしっかりと残っている。静かな深海に降り注ぐプランクトンたちは、まさしく雪のようで。
「不思議ですわね……プラントでも見られるのでしょうか」
「流石に難しいんじゃない? それに、あれは現地で見るからいいんだよ、多分」
「ですけど、そうしますともう一度見られませんわ」
「見に行けばいいじゃん。アークエンジェルで……はもう難しいかもだけど、ミレニアムは潜水出来るし」
いや戦艦である必要はないんだけれど、と苦笑する。いつもの癖で母艦を主軸に考えてしまうのはこの場に相応しくないだろう。どうもうまく切り替えが出来ないな、とキラがこめかみを押さえていると、ラクスが鈴を転がすように笑う。
「でしたら、ミレニアムの……なんと仰りましたかしら……マリューさんがお使いになったブリッジの」
「ああ、戦闘艦橋?」
「そうです! そこからでしたら、とてもよく見えるでしょう?」
「そうだね、確かによく見えると思うよ」
戦闘艦橋は以前、キラも体験したことがある。ミレニアムの装備について説明を受けた時と、つい最近受けた指揮官業務を学ぶ研修で。確かにあそこは周囲が百八十度見渡せるので、海中探索にはうってつけだろう。けれど――なんだか面白くない。ちょっとだけ湧き出てきた対抗心が、キラが持つ唯一のカードを切らせた。
「でも一番よく見えるのは多分フリーダムだよ。全天周囲モニターだし」
「深海でも平気なのですか?」
「平気だよ。ビームは撃てないけどね」
設計的にはあの時くらいの水圧なら運用に問題ない。ビームは使えなくても、実弾やレールガンは撃てるので万が一の際に迎撃も出来る。そもそもあんな深海に対抗勢力が潜んでいる可能性はかなり低い。それに、キラとラクスが潜るならば、きっとシン達がサポートしてくれるだろう。私用だけど。
そんなことを考えていると、ラクスがほわりと微笑んだ。とても、嬉しそうに。
「でしたら、キラのお隣で。いつか……見に行きましょうね」
「うん、一緒にね――約束」
左手の小指を絡めて、笑い合う。ほんの少し先の――ささやかな、約束だ。
「そうだラクス、これからイルカショーがあるんだって。本当はオープンしてかららしいけど、リハーサルでよければどうぞって」
そう言われてラクスの瞳が輝いた。そんなにイルカ好きだっけ? なんてキラが思っているうちに、ラクスが繋いだ手を引く。
「よろしいのですか!? 是非拝見したいですわ!」
「じゃあ行ってみようか。この先みたいだし」
間も無く開始時間だ。リハーサルとはいえ、オープン直前なので本番に限りなく近いプログラムを行なっていると事前打ち合わせで聞いていた。
「早く! キラ! 早く参りましょう!」
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ」
そもそもプログラムはラクスが到着してから開始してもらう手筈なのだ、とは言わなかった。無粋なので。
「はい、とりあえずこれ着てね」
「……合羽、ですか? どうして?」
「うん、まあ僕のためだと思って」
いまいちピンときていない顔をしながらも、こくりと頷いて半透明のフードを被る。それを確認して、キラも自らのフードを引き上げた。目の前の注意書きが見えていないほど、夢中になっているらしい。今か今かと楽しそうに主役の登場を待っている。
こうしていると、本当に普通の女の子なのに。
もしも、僕がモビルスーツになんて乗っていなくて。
もしも、ラクスがなんてことない、一般家庭で育っていたら。
そうしたら、どこかで出会って――こんなふうになれたのかな、なんて。
そんな場違いなことを、考えた。
『こんにちはー! 今日はイルカショーを見にきてくれてありがとうございます!』
明るい女性の声が響く。スピーカーを通した声は、プールサイドに立つトレーナーのものだろう。
『では、本日の主役達の登場です! 皆さん、覚悟はよろしいですか?』
「覚悟、ですか?」
一体なんの、と顔に書いてあるラクスを尻目に、キラは臨戦体制に入った。そう、これは事前打ち合わせで聞いていた問題点。きっとラクスが望むだろうとキラが予想して、予めシミュレーションをしていたものだ。
『では! どうぞ!』
その瞬間。
ざっばーん、と大きな波が、キラとラクスの座席を襲った。
元気一杯のイルカたちによる大波だ。この座席はその波を正面から被る、いわゆる水被り席なのである。そのための合羽なのだが、それでは太刀打ちできないほどの大波だ。
「まあ!」
目をまんまるにしたラクスの視界をなるべく遮らないように。
出来るだけ、彼女に水がかからないように。
けれど一切濡れないのでは多分彼女は満足しないので、少しだけ水飛沫を残して。
そんなシミュレーションを組んだハインラインに感謝したりして。
キラは見事、自らの合羽と体、それからずば抜けた反射神経と空間認識能力をフル活用して、ショーの間中、ラクスを守り抜いたわけである。
「ごめんなさい、キラ……わたくしのせいで」
「いや、僕が楽しくなっちゃったからだし……」
ほんの少し湿った程度でショーを満喫したラクスとは対照的に、キラはずぶ濡れになっていた。
というのも、ラクスを水から守ることに熱中した結果、いかに効率的に水を弾くかを実践で研究し始めてしまったためだ。いくらシミュレーションしていたとはいえ、やはり実際の水相手では多少勝手が違う。ついつい熱が入り、この様だ。
「ラクスのせいじゃないよ、気にしないで」
「ですけど、このままでは冷えてしまいますわ」
「うーん、別に構わないんだけど……」
キラの耳には、小型インカムから着替えを持って行くと数人の声が聞こえている。この水族館に観客は二人だけだが、念のためにと何名かは控えているので、そこから状況が伝わったのだろう。ラクスには伝えていないけれど。
「本当に大丈夫だよ。ちょっと絞らせてもらうけど」
「絞る……って、何をです?」
「え、シャツ」
よいしょ、と水が滴るシャツとその下に着ているTシャツを半ば無理やり引き剥がす。濡れて体に張り付く布は不快感があるし、なんといっても脱ぎにくい。
「っ!?」
「あー下まで全部濡れちゃってる」
流石にそこまでの着替えはないなぁ、と言いながらシャツを思い切り絞る。ジャバジャバと音を立てて海水が落ちる様子に、まあ着てればそのうち乾くかな、なんて呑気なことを考えていた。
「とりあえずこれでいいか……ラクス? どうかした?」
思い切り絞ったので体感ではかなりマシだ。上に羽織っていたシャツはしばらく風に任せればそのうち乾くだろう。流石に上半身裸で館内を歩き回るわけにもいかないので、下に着ていたTシャツだけでも着ておこうかな、と悩んでいると、ラクスがいつの間にか背中を向けていた。
「……あ、見苦しいよねごめん」
「違います!」
じゃあ一体――と問おうとして、見えてしまった。
真っ赤に染まった、彼女の耳が。
「……え、どこが刺さったの」
いくらなんでもそこが見えれば分かる。彼女はキラの姿に照れているのだ。
……今更? キラの身体なんて見慣れているだろうに。
その上、情けなくずぶ濡れになった姿のどこが良かったのだろう?
「だ、だって……」
そっと振り返るラクスの頬は、見事に赤く熟れている。その頬を押さえるように、両手を添える仕草は、恥ずかしがる時の彼女の癖だ。
「その……とても、素敵で……」
「……いや、情けなくない? 自分で濡れたようなものだし」
「そんなことありませんわ!」
「そうかな?」
「いつものキラも十分素敵なのですけれど、その……」
そう言いながら一度も視線が合わない。バサバサとTシャツを広げて乾かしながらも、乾くのにしばらくかかりそうなシャツを腰に巻き付ける。その間もラクスは熟れた頬を押さえるのに忙しそうだ。
――これは、ちょっと楽しいかもしれない。
「……濡れた僕、好きなんだ?」
「す、っ!」
つい、と耳元で囁いてみる。あまり他のメンバーに拾われないように、マイクに入らない程度のボリュームで。
「へぇ、知らなかったなぁ? 早く言ってくれれば良かったのに」
「いえあの、」
「一緒にお風呂入る時もドキドキしてくれてたの?」
「それはまた別ですわ!」
「ふーん」
一体何が別なのだろう。お風呂の時だって毎回なかなか目を合わせてくれないのに。その辺はまた後で詳しく聞いてみようか。
「てか、タオルくらい持ってくれば良かったかな」
前髪から雫が落ちるのが邪魔で、無造作にかきあげた。
それを見たラクスが、目をまんまるにして固まる。――なんで?
「え、どこ? どこが良かった?」
「――っ、もう! 全部です!」
「ええ……」
今後のためにフィードバックして欲しいんだけど、なんて呟きはどうやら拾われなかったらしい。
売店でお土産を買うついでに、キラのTシャツを一枚購入した。濡れたTシャツを着ているのは駄目だと熱弁されたからだ。キラとしては特に気にしていなかったのだけれど、まあ乾いた服の方が気分はいい。会計を済ませて、外装を剥がす。
「で、着替えていいの? このままでもいいけど、僕は」
「――もう! 早く着替えてくださいな! 冷えてしまいますわ!」
「別に寒くないし……あっ車のシート濡れちゃうかな」
「後でわたくしも謝りますから!」
「いや別にいいんじゃない? あれコンパスの手配だし」
ZAFTの手配ならともかく、コンパスの手配ならある程度は許されるだろう。どの道、シートは防水加工なのも知っている。以前とあるメンバーが車内で炭酸飲料を爆発させたからだ。不幸な事故だったのだけれど。
「そういうわけには参りませんわ! ほらキラ、早くお着替えしてくださいな!」
「はぁい」
まあいいか、と湿ったままのTシャツを脱いで、新しいものに袖を通す。濃い青のTシャツは、袖に水族館のロゴが入ったシンプルなものだ。
「そういえばこれ、僕のだけで良かったの?」
「と、仰いますと」
「ラクスの分が無いじゃん」
ぱち、と今初めて気付きました、といった表情で固まったラクスに、こういうところが抜けてるんだよなぁと笑う。
「いらない? お揃い」
ぷわわとラクスの頬が桃色に染まる。今日はなんだか年相応のラクスがたくさん見つかる日だ。
「い、いいんですか……?」
「僕はお揃い、嬉しいけど」
「買います!」
慌てて売店のレジに駆け込もうとするラクスの腕をとって止める。今日はなかなか手強いお転婆っぷりだ。
「じゃあラクスの買ってくるから待ってて」
「いえ! わたくし、それくらい出来ますわ!」
「いいからいいから。あ、悪いけど僕の服だけ持っててくれない?」
湿ったTシャツを押し付けて、早速ラクスのTシャツを見繕う。ラクスなら濃い色より、薄い色の方が似合うだろうか。キラが来ていたものの色違いで、白い生地に濃い青でロゴが入ったものがあった。これなら似合うかもしれない。
(最近のラクス、青と白の服が多いから)
そんな彼女を見ると、ちょっとだけ独占欲が満たされるのは内緒だ。だってキラにとって、青と白は自分のパーソナルカラーであり、翼の色でもあるから。
「まさか記念写真をお願いされると思いませんでしたわ」
「よかったね、Tシャツ買ってて」
ラクスがパウダールームでブラウスをお揃いのTシャツに着替えた後、オーナーが二人の前にやって来て記念写真をと依頼されたのだ。ぜひにと言われれば招待を受けた側としては無碍に出来ない。一応写真の利用についていくつか約束して――なぜだかキラとラクスのツーショット写真が撮影された。記念写真ってそういうものだっただろうか。
「でもとても喜んでいただけましたわね、オーナーの方に」
「そうだね、僕たち招待してもらった側なのに」
「ええ。とても楽しかったですわ……」
車にお土産を乗せて、キラが振り返る。風に長い髪を揺らしたラクスが、水族館を名残惜しそうに見ていた。
「――また、来ようよ。何回でも」
「え」
丸い瞳で、ラクスが振り返る。なんでもないようにキラが笑って続ける。
「別に今回限りって話じゃないし」
「ですけど……大変だったでしょう?」
やはり、ラクスは気付いていたのだろう。いくら気をつけていても、彼女はそういうところ目ざといのだ。
「あーまあ、分かってたよね、やっぱり」
「キラ、お耳にインカムをされていたので」
「そこかぁ……今後気をつけます」
まさかのキラの失点だったとは。これはインカムの更なる小型化を開発局に依頼するべきだろう。今回のも新作のかなり小型なイヤーカフ型だったのだけれど。
「いえ、とても嬉しかったのです。本当に」
心底そう思っている笑顔で、ラクスが笑う。プラントの人工的な夕暮れが、彼女の桜色の髪を染め上げて、まるで太陽のようだと思った。
「――視察、という形でしたら、きっと来られると思いますの。けれど、本当はこうやって……」
少し離れたところに車が数台、停まっているのが見える。恐らく、周囲の警備を担当してくれていたジュール隊だろう。
「なんてことないような……普通に、キラとデートが出来て。本当に楽しかったのですわ……」
「普通で、いいんだよ」
ラクスの手を取って、キラが微笑む。いつものように。
「だって仕事中ならともかく、オフならラクスはただのラクスで、僕の奥さんで。それだけでしょ?」
「――そう、そうですわね。キラもただのキラで、わたくしの旦那様、だけですわね」
「そうだよ。あ、そういえばラクス、今日のパスポート見た?」
「パスポート、ですか? 入り口で首にかけてくださった?」
「うん。あれね、名前が登録してあるんだ」
「名前……?」
「見てみて。ちゃんと、ラクスの名前が入ってるから」
そこで初めてラクスは、ワンデーパスポートの氏名欄を確認した。入り口でケースに入れられていたので、ちょうど見えなかったのだ。
ワンデーパスポートには、確かにラクスのフルネームが明記されている。
――『ラクス・ヤマト』と――
「――っ、キラ、これ」
「だってそうでしょ? 市民IDの登録、こっちだし」
最初から、コンパス総裁である『ラクス・クライン』としてではなく。
「今日は最初からずっと、ラクスはただのラクスで、僕の奥さんのラクスだったんだ。だから」
お揃いの指輪が嵌った、左手で。
ほんの少し先の約束をした、続きを。
「だから――また、来ようね。一緒に」
ただのキラと、ただのラクスで。
「――ええ、一緒に。また連れてきてくださいな、キラ」
「任せて。今度はもうちょっと上手く警備計画作るからね」
なお正式オープン時、水族館の壁面に大きく二人の記念写真が掲示された。おかげで現在、大人気のデートスポットとなっている事を、当事者の二人だけが知らない。