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2013年 01月 13日
甲斐国志は江戸幕府の官命により寛文10年12月から文化2年7月まで甲府勤番支配を務めた滝川利雍が編纂に着手し、その後、後任の甲府勤番支配となった松平定能が引き継ぎ、松平が文化4年8月に西丸小姓組番頭に転じた後は、松平在任中に編纂主任等に任ぜられていた巨摩郡西花輪村の内藤清右衛門、都留郡下谷村の森島弥十郎、巨摩郡上小河原村の村松弾正左衛門らが中心となって編纂が進められ、文化3年2月以来、概ね9年の歳月をかけ文化11年12月に完成した甲斐国の地誌であり、幕末60年の間における代表的な藩撰地誌である「新編会津風土記」「紀伊国続風土記」とともに「駿国雑誌」「甲斐国志」は私撰地誌の代表的な名著とされている。 完成した甲斐国志は文化11年12月16日に幕府の大番頭となった松平定能自身により、124巻71冊の和本を8帙に纏めた白木の箪笥に収められた形により幕府に献進され、現在も甲斐国志写本の中で最も権威ある原典と認められた「献進本 甲斐国志」として、昌平坂学問所文庫を経て内閣文庫に所蔵されている。 甲斐国志の写本は10数種類の異本があるが完本は比較的少なく端本が大部分と云われており、山梨県外には内閣文庫に4本、宮内庁書陵部に1本、山梨県内には徽典館の旧蔵本であった「徽典館本」、山梨郡一町田中村の田安陣屋の旧蔵本であった「田安府本」、甲州文庫蔵書であった「甲州文庫本」が所在している。 【温故堂本「甲斐国志」第一巻】 【同第三十巻】 「甲斐国志」については文化11年の幕府献上以降、治道の具として写本が伝えられたに過ぎず広く利用される状況ではなかった。 甲府の書肆温故堂主の内藤伝右衛門は、こうした状況を憂い明治15年に山梨県学務官であった小野泉、山梨県庁の歴史地誌編纂担当を務めた山田弘道に委嘱し、かつて甲斐国志の編纂主任であった西花輪村の内藤清右衛門家が所蔵する甲斐国志の稿本と「徽典館本」を基に校正を行い、明治17年に30冊の和綴本とした「甲斐国志」を刊行した。 以来、「温故堂本」として明治期以降における甲斐国志刊本の嚆矢となっている。 【甲斐国志印行同盟表】 内藤伝右衛門は「甲斐国志」全30巻の刊行にあたり、発行部数1000部の予約出版の形式を用い、山梨県内全域はもちろんのこと、東京、京都、大阪、神奈川など北海道から熊本に至るほぼ全国からの予約がなされている。 「甲斐国志印行同盟表」は、こうした予約者の一覧であり、最初に掲載されている西山梨郡甲府の予約者は、当時の山梨県知事である藤村紫朗となっている。 同盟表には予約者の氏名の他、明治15年8月15日には発行予定の1,000部に達しているが、更なる追加申し込みの声が少なくなかったことから予約期間を同年9月末まで延長することが記されている。 【「甲斐国志」前金領収証】 予約者には予約金1円を募り、以降は毎回前金60銭とし全30巻の価格は7円であった。 また、定価の7円について、刊行当時に流通していた写本の古書価格であろうか、原写本の一般的な流通価格の凡そ6分の1であることをアピールしていた。
by kaz794889
| 2013-01-13 23:53
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