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「強要はしない」という強要 [言語]

さきほどハッと気づいたことがある。それについて述べる。

それはエヴァンゲリオンのDVDを流しながら昼ご飯を食していたときだった。第19話、最強の使徒がジオフロントに侵入。アスカがそれを迎え撃つも返り討ちにあってしまう。頼みの綱のシンジはしかし、「もうエヴァにはのらない」といってネルフを後にし、逃げまどう人々の中でただ呆然と立ちつくしていた。そこでだ加持リョウジに邂逅したのは。加持は「何してるんだシンジくんは」と言い、「もうエヴァにはのらないから」とシンジは応える。そこにレイが片手を失ったエヴァ0号機で突進、N2爆弾と呼ばれる兵器を用いて使徒もろとも自爆しようとしたがそれも効果なく倒されてしまう。加持は言う。

「シンジくん、俺はここで水をまくことしかできない。だが君には君にしかできない、君にならできることがあるはずだ。誰も君に強要はしない。自分で考え、自分で決めろ。自分が今、何をすべきなのか。まっ、後悔のないようにな」

私はこれ、聞いてて大変感動する名台詞だと思うのだけれど、何かがひっかっかっていた。なにか違和感を感じると。それが先ほど「ふと諒解」されたのである。だが、そう期待されることなかれ。みなさんも感じている当たり前のことを述べるにとどまる。何か。

それは「強要はしない」という言葉は往々にして「強要」として働くということである。

さてまずは、「強要はしない」と述べる人物とそれを聞く人物との人間関係について確認しておこう。およそ「強要はしない」と述べる人物は、それを聞く人物との関係性において「強要することが可能な立場」にある人物である。つまり彼(彼女)の発言はたいていの場合「強要」となることが前提とされた上での「強要はしない」という発言なのである。そのような人物、つまり自分より立場が上であり、自分に対する強制力を持ち、その人物に反対することが自らの利得にならないことが明白であるとき、人は「強要されない」ことが可能であろうか。否であろう。生存戦略上、およそ不利益にしかならないことが経験的に感知されるからである。

さらに問題の根は深い。聞く側からすれば、どうしたって「強要される」ことになってしまうというカラクリが実はある。何か。

加持リョウジはシンジにこう言っていた。「自分で考え、自分で決めろ」と。これがシンジを自らの意志で考え、決めることを不可能にしてしまうのである。

加持の言うとおりシンジが「自分で考え、自分で決めた」として、それは加持の言うとおりに「考え、決めた」のであって、既にしてシンジの自発的行為ではない。「考えた時点」でシンジは加持のことばに乗ってしまっている。加持の言葉に「強要されずに強要されてしまっている」のである。この時点でシンジは自ら思考するということが既にして不可能になってしまっていたのだ。

「強要はしない」という強要。言語行為論的に言えば、「強要はしない」ということで強要していることになる(蛇足)。このことは実は私にとって非常に重要な事柄である。なぜなら「強制や強要はしない/嫌いだ」という言葉を私自身が発してきていたからだ。私は「強制や強要はしない/嫌いだ」という言葉に感じる非権力的な響き、博愛主義的な語感に心酔していたように思う。だから好んで用いていた。しかしそこに潜む「強制力」、偽善的な非権力性には気づいていなかったのだ。だから私はこれまでの行状を反省し、これからはこうした見えない言葉の権力作用、言語の行為力に注意しなければならないと感じたのである。ふ~気づくことができてほんとに良かった。

ちなみに、シンジはエヴァに乗って使徒と闘う道を選んだ。それはたとえ加持の言葉に触発されたからと言って意味のないことではない。いやむしろもう一度自らの心を反省しなおすことができた、という点で非常に大切な契機となったと言える。それに加持にしても直属の上司ではないわけで強制力の前提となるべき権力構造が希薄であると言うことができる(もちろん完全にはなくならないと思うが。だって加持にはシンジは心を開いていたと思われるから)。だが、問題は、「強要はしない」という言葉のもつ作用は、強制力を完全に否定しさりはしない、という点にあるのだ。 

そうそう、これはダブルバインドを引き起こす重要な仕掛けの一つのパターンであることに今気づいた。だから私が初めて考想したことではないことを記しておく。

 さらに付記。

こうした事態を加持の側から考えるとどうだろうか。加持は「誰も強要はしない」と言った。ここでもし加持が心から「僕も強要はしない」と考えていたとして、彼のそうした気持ちは十全に叶うことはないということである。つまり「決して強要はしない」という意図は「誰も(私は)強要しない」という発言では叶わないということである。だから逆説的ではあるが、ほんとうに「強要」したくないのだったら「誰も(私は)強要しない」という発言をすべきではないのである。


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