この10年間、世界中の米外交官、高官、諜報部員などは、「ハバナ・シンドローム」(ハバナ症候群)と呼ばれる神経症状(めまい、吐き気、頭痛、聴覚障害)に悩まされる事件に直面してきた。アメリカのテレビ局CBSの『60ミニッツ』、ドイツの雑誌『シュピーゲル』、ロシアの調査報道ウェブサイトの『ザ・インサイダー』の共同調査によって、この「攻撃」の時間と場所がロシア軍の参謀本部諜報総局(GRU)の29155部隊に属する人物の旅行と相関していることが判明した。
被害者は、襲撃の前か直後に29155のメンバーを目撃し、写真から彼らを特定した。また、GRU傘下の軍事医学アカデミーがハバナ症候群による臨床効果を研究していたことや、29155の主要メンバーが音響兵器を開発する政府契約を受けていたこともわかった。つまり、ロシアが恐るべき秘密の「音響兵器」を使って、「敵」を攻撃している実態に一歩近づいたというのだ。
『60ミニッツ』の報道
有名なドキュメンタリ番組である『60ミニッツ』の報道では、まず、2021年にフロリダの自宅で攻撃を受けた現役のFBI捜査官が登場する。
突然、ランドリールームの窓際にいた彼女の右の耳のなかから顎、首、胸にかけて圧迫感と痛みが走りはじめたという。同時に彼女の携帯電話のバッテリーが膨張し始め、ケースが壊れるまでになる一方、ついに彼女はソファで気を失った。胸の痛みのため、彼女は心臓専門医の診察を受け、その後職務に復帰したという。
ついで、彼女への攻撃に関与したと思われるヴィタリイ・コヴァレフなるロシア人について語られる。彼の素性を調べ上げたのが『インサイダー』の主任調査員クリスト・グロゼフだ。
軍の研究所で2年間働いた後、コヴァレフはなぜか突然、シェフになることを決意し、アメリカに移住したのだという。その後、ニューヨークとワシントンDCでシェフとして働いた。彼は、ロシア人スパイを捜査するFBI捜査官の事情聴取を80時間も受け、警察からの逃亡と無謀運転で有罪を認めたという。
30カ月の刑期を終え、2022年にロシアに戻ったコヴァレフだったが、2023年に死んだとの死亡診断書が見つかったという。コヴァレフはウクライナの前線で殺害されたと書かれている。
実は、彼女を襲った症状こそ、「ハバナ症候群」とよばれている。この問題が初めて公になったのは2016年のことだった。キューバの首都ハバナの領事館に勤務する多くのアメリカ人とカナダ人が奇妙な現象を経験したのだ。
彼らは突然気分が悪くなり、耳に強い圧迫感(時には痛み)を感じ、吐き気やパニック発作を起こし、その後、意識の混濁、集中力の問題、平地でのバランス感覚の喪失、聴覚過敏、睡眠障害といった影響が数カ月から数年にわたりつきまとうようになった。こうして、事件はハバナ症候群として知られるようになったのである。
しかし、その2年前、少なくとも4人のアメリカ人がドイツのフランクフルトで症状を報告したことからはじまったことがわかっている、と番組は伝えている。
『ザ・インサイダー』の報道
グロゼフらは、「ハバナ症候群の解明」なるロシア語の記事を公開している。「29155部隊のGRU要員の移動と、世界のさまざまな地域でのハバナ症候群の事例との間には、明らかな相関関係がある」と主張しているのが特徴だ。
この29155部隊は、英国のセルゲイ・スクリパリ夫妻とブルガリアの実業家エメリアン・ゲブレフ夫妻のノビチョク毒殺事件と同じ部隊とされている。GRU諜報員の到着と2014年のハバナ症候群の最初の症状、そしてヨーロッパと中国でのその後の事例との間に相関関係を確立することができたと、記事は指摘している。
記事のなかでもっとも興味深いのは、このハバナ症候群を生じさせる「兵器」の開発に携わっていたのが29155部隊のアンドレイ・アヴェリヤノフ将軍の副官、イワン・テレンチェフ(別名イワン・レべジェフ)大佐であると特定している点である(下の写真を参照)。
テレンテェフは単なるスパイではなく、破壊工作グループの副司令官としての仕事と国防省での研究活動を両立させた高度な軍事技術者であったという(「射手-武器-環境システムの動的安定性を考慮した水中射撃効率の基準評価」などの科学論文を何十本も共著している)。そして、彼が「都市での軍事(戦闘)作戦における非致死的音響兵器の潜在的能力」を研究するよう命令を受けたことが明らかにされている。
記事は、「私たちの調査によって、事件がGRU29155部隊の作戦と関連していることを示す多くの直接的な証拠が発見された今、米当局は「ハバナ症候群」に対する態度を見直し、事件の全容解明に乗り出すかもしれない」と結論づけている。
米政府はどう対応するのか
『60ミニッツ』の取材に対して、アメリカの国家情報長官室は、報告された「異常健康インシデント」(AHI)の原因が外国の敵対勢力である可能性は極めて低いと結論づけているとしながらも、「AHIを引き続き綿密に調査している」との立場をとっている。
ロシア語の新聞「コメルサント」の4月2日付の報道によると、ホワイトハウスのカリーヌ・ジャン=ピエール報道官は記者団に対し、ロシアが「ハバナ症候群」の背後にいるという証拠は、アメリカの情報機関にはないとのべた。「情報機関はこのような結論には至っていません」と彼女は、『60ミニッツ』、『シュピーゲル』、『ザ・インサイダー』の共同調査報道にコメントした。
他方で、クレムリンも4月1日の記者団の要請に応じて、これらの報道について、「このような根拠のない告発について、説得力のある証拠を発表したり、表明したりした人は一人もいない」と、ペスコフ大統領報道官は語った。
深まる謎
『60ミニッツ』によれば、これまでに「100人以上のアメリカ人が、マイクロ波や音響超音波によって引き起こされた可能性があると科学者がいう症状をもっている」。
『ザ・インサイダー』はハバナ症候群について、「近年集められたアメリカ人公務員の苦情の総数(1000件以上)のうち、少なくとも数十件は十分に検査され証明されており、2014年から現在まで、ヨーロッパ(ロシアを含む)から東南アジア、ラテンアメリカまで、世界中で発生している」としたうえで、「何がこの効果を引き起こすのかはまだ確立されていないが、主な有力説はパルスマイクロ波放射である」と書いている。
どうみても、「音響兵器」なるものが存在しても不思議ではない状況証拠に満ちている。しかも、その背後にロシアのGRUの関与があるという推定も簡単には否定できそうもない。
ハバナ症候群の謎は深まるばかりだ。