渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

二輪産業にみる時代性

2020年10月19日 | open
 






400台!
4,000台ではなく、たった400台!
時代なんだなあと思う。
実はかつての日本の二輪産業を支えた
需要の主たるラインは、原付1種の販売
台数に負うところが大きかった。
まずホンダが原付1種を主婦層をターゲット
に販売戦略をしかけた。ラッタッタだ。
ヤマハがそれを追うように「足を揃えて
乗れる原付」を出した。パッソルと
いっ
た。
このパッソルによって原付人気は超爆発
した。
初めてバイクが市民の日常の足として、
タウンビークルとして定着した。
買い物バイク、お出かけバイクの50cc
未満
の原付1種は普通自動車免許を持って
いれ
ば運転可という免許制度もあって、
売れに
売れた。主婦も学生も会社員も
かなり多くの人たちが
バイクに乗り始
めた。
それが1970年代中期だった。
私の母さえ乗り始め、日常の足だけでは
なく主婦仲間と原付で日帰り古刹めぐり
のツーリングに行ったりしていた。
 
1980年代の空前のバイクブームの際に
カワサキのみが苦戦して全くバイクが
売れず、川崎重工が二輪部門の閉鎖を
検討した程であったのは、カワサキのみ
が唯一原付コミューターを作っていなか
ったからだ。
カワサキは50ccスポーツバイクは製造し
てはいたが、世の中の二輪産業を根っこ
から支えていたのは中型スポーツバイク
でも、原付スポーツでもなく、間違いなく
原付1種のスクーターだった。
故にカワサキは社運存亡をかけた検討を
余儀なくされる程に苦戦した。
カワサキは重工がメグロを吸収した
から
二輪部門を持ったが、元々大型
バイクで
の実績が二輪部門ではメイン
の企業だっ
た。
そして、立て続けに「世界最速モデル」
出して海外では絶大な人気を得た。
しかし、1975年10月の日本の免許制度
改訂により、二輪の大型が限定免許とな
って教習所では取得できなくなってから
最初の苦難が訪れた。
それでも、どうにかスケールダウンさせ
たモデルを製造して中型免許主流の時勢
に対応していた。
しかし、原付1種の爆発的人気により第二
の苦難が訪れた。
 
カワサキが最近バカ売れなのは、それは
95年の免許制度改訂により自動二輪
大型免許が教習所で簡単に取れる
ように
なったその影響だ。
この95年免許制度改訂は、アメリカの
圧力により、ハーレーが日本で売れない
のは関税圧力の保護貿易と同じような
免許制度が日本にあるからだ、とされ
たからだ。
日本の95年免許制度改訂は、国際関係の
中で、アメリカの圧力により変更された
のであり、決して日本が自主的に制度を
積極的に変更した
のではない。
日本の国家の権力の実体は警察権力であ
り、警察は本心は国民にバイクなどには
乗って貰いたくはない。
免許を取らせない、などというとんでも
ない発想での免許制度を導入したのは、
すべて警察庁の指図によるものだ。
警察官僚が実効支配するこの国は、法改正
という裏付けを取ってその支配を民主主義
的ルールを利用して推進する。内実は国民
支配の為に機能する非民主的な中身であ
っても、法を盾に実行する。思い通りに
ならないならば法を変えればよい、とい
うことで、どんどん支配の為の法を立法
したり既存法を改「正」して実効力を持
たせる。すべては時の与党が実効支配権力
の代弁者としてその支配管理の立法を推
す。野党から反対表明されたら、強行採決
で押し切る。
日本はずっとそうやってきた。日本に真の
民主主義などはどこにも存在しない。
 
さて、カワサキが現在一人勝ちというの
は、猫も杓子もハーレーハーレーという
現況と同じ背景がある。
米国圧力により95年免許制度改訂があっ
て自動二輪大型免許が簡易に取得で
きる
ようになったからだ。
同時に、アメリカの思惑通りハーレーも
売れに売れている。
バイクに乗っていると耳にするバイクに
乗らない人間が必ず訊く「バイク乗るの
ですか。ハーレーとか乗ってるんですか」
という陳腐な言い回しは95年以降に蔓延
した。バイク=ハーレーとしたい米国の
思惑通りになった。
バイクを知らない人間は「トライアンフ
にでも乗ってるのですか」とか「ドゥカ
ティですか?」などとは訊かない。
試してみるといい。バイクを知らない人
にこちらがバイクに乗っている事を告げ
て。
するとまず間違いなく「ハーレーとか乗っ
てるんですか?」と金太郎飴の質問が来
る。それだけ米国とそれに連動した日本
の権力による国民洗脳が完了していると
いう実態に自ら触れてみるといい。
 
大型バイクが売れ始めたおかげでカワサキ
は安定収益を得るようになったが、それ
までの二輪産業を支えていた50cc未満の
現在1種では、種々の交通規制が追加され
非常に「不便な乗り物」とされるように
なる。
すべては「事故防止」を謳い文句にした
道交法改訂によるのだが、原付の二段階
右折などのような危険な法規をまとも
安全担保と捉える愚者は実際に道路
現場を走行する運転者にはいない。
また、原付1種の30km/h速度規制がいか
危険な交通状況を生み出しているか。
警察庁はすべて理解している。
その上であえて危険な法律を変えようとは
しない。
理由は、本来は国民に二輪などには乗らせ
たくないからだ。機動性のある乗り物
など
に被支配人民が乗り廻られたら困る
のだ。
この先もまず原付1種の二段階右折の悪法
と危険な30km/h速度規制は撤廃されはし
ない。それらには目的があるからだ。
 
では、なぜ、他の規制が緩和されたりし
てきたのか。
それは、「ガス抜き」でしかない。
国家がやるそういう事を両手を挙げて喜ん
でいたら、日大闘争時に学内に来た機動隊
を学生が「右翼・暴力団の暴力排除の為
に来た」と勘違いして拍手で迎えた間抜け
と同じ事になる。日大構内に入った機動隊
は学生たちに拍手で迎えられたが、その
学生たちを血だるまにする暴力で排除し
始めた。「な、なんだこれは!」と日大
生たちはその時に初めて権力の実像を知る
という大間抜けを曝け出した。
日大闘争の例だけではなく、すべて国家
権力が行なう実効力の表出には、「国民
の為」などというものは一切存在しない。
どのように巧みに飴と鞭でだまくらかし
ながら人民を支配するか、しか念頭には
ない。それが権力だ。
 
バイクという乗り物に乗っていても、
ひゃあ楽しいなあ、だけでは、権力の
掌の上でいいように転がされているだけ
でしかないのである。
二輪の歴史を紐解けば、いかに日本と
いう
国の権力者たちがえげつないことを
やり
通して来たのかが見えて来る。
見ないとダメだ。目を逸らさずに、事実を。
事実にこそ真実が隠されている。

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