お城の桜が綺麗に咲いた。
市内桜探しに出てみるべ、って
ことで市街地を走り回ってみる。
向こうの山は秦の山(はたのや
ま)。別名竜王山。左隣りが筆
影山(ひつえいざん/ふでかげや
ま)。竜王の観光林道=みはら
しラインは現在法面崩落により
通行止めだ。低速コーナーの続
くツイスティロードで、タイヤ
のナラシにはいい塩梅の低高度
山岳ワインディング。小排気量
ならば全開で走れる面白い道。
坂の途中の小学校の桜が見事だ。
グランドに階段観戦席のある
小学校。これは昭和の初めか
ら。市街地の城下町住まいだ
ったうちの血族たちはこの小
学校か隣りの広島大学附属小
学校に通っていた。
本町(ほんまち)の高台の公園
では子どもたちが大勢遊んでい
て、はしゃぐ喧噪の中、桜が満
開。これもまた良し。
神社の鳥居の所では外国人が
記念撮影をしていた。
市内市街地散策を続ける。

石垣は三原城の本丸天守跡だ。
戦国時代末期の築城当時から
天守は無かった。

ただ、この海上城郭は戦国当時
は画期的で、城マニアには名城
と呼ばれている。
多分、築城当時は今の東京お
台場臨海エリアのような近未
来的な城郭と城下町だった事
だろう。国内で突出した前衛
的な時代先取りの城下町だっ
た。
軍事的にも前面を海、三方を
急峻な山に囲まれている場所
石垣は三原城の本丸天守跡だ。
戦国時代末期の築城当時から
天守は無かった。
ただ、この海上城郭は戦国当時
は画期的で、城マニアには名城
と呼ばれている。
多分、築城当時は今の東京お
台場臨海エリアのような近未
来的な城郭と城下町だった事
だろう。国内で突出した前衛
的な時代先取りの城下町だっ
た。
軍事的にも前面を海、三方を
急峻な山に囲まれている場所
であり、ここでの合戦は無か
ったが、あったとしたら難攻
不落の城だった事だろう。
毛利一門の小早川隆景が築城。
450年以上経っている城郭だ。
小早川隆景の後に福島氏が
備後・安芸に入封し、その後
福島正則が広島城無断改築の
嫌疑で転封させられた時に紀
州から浅野氏が安芸と備後の
三原の太守として入封、明治
維新まで広島藩の藩主として
浅野家が治めた。三原城は家
老が統治した城で三万石の石
高だった。
なお、広島藩は家中全員が蔵
米取ではなく知行取りである。
つまりたとえ百石だとしても
統括領地を持っており、小さ
いながらもお殿様の武士。そ
れの形態は幕臣旗本に似てい
る。
なお、江戸期人口が1万人いた
三原だが(武家人口は雇人ま
ったが、あったとしたら難攻
不落の城だった事だろう。
毛利一門の小早川隆景が築城。
450年以上経っている城郭だ。
小早川隆景の後に福島氏が
備後・安芸に入封し、その後
福島正則が広島城無断改築の
嫌疑で転封させられた時に紀
州から浅野氏が安芸と備後の
三原の太守として入封、明治
維新まで広島藩の藩主として
浅野家が治めた。三原城は家
老が統治した城で三万石の石
高だった。
なお、広島藩は家中全員が蔵
米取ではなく知行取りである。
つまりたとえ百石だとしても
統括領地を持っており、小さ
いながらもお殿様の武士。そ
れの形態は幕臣旗本に似てい
る。
なお、江戸期人口が1万人いた
三原だが(武家人口は雇人ま
で含めると約半数近く。この
比率は江戸や全国の城下と同
じ)、明治維新以降、三原市
に残っている旧武士の家は数
える程しかいない。殆どは明
治期に東京に転住した。三原
城下界隈に残存する旧士族は
ごく僅かだ。(東京都港区の
霞ヶ関ビルに旧家臣団の懇親
会が存在する)
明治9年に城内の武家屋敷は
新政府による屋敷召し上げに
よって立ち退きが行なわれて、
旧家臣団は散り散りになった。
太政官布告の華族の東京居住
の義務化の時期に家臣たちも
殆どが東京に転住したと思わ
れる。広島市内もそうだが、
三原には武士の末裔は殆ど
いない。ゆえに江戸期に東西
に謳われた三原の武士の中の
武士のような武辺の武士気風
は、現代では圧倒的大多数の
三原市民の中には全く微塵た
りとも存在しない。
城下町とは名ばかりで、筋の
通らぬ土地に変質した。
江戸期の糸碕の塩田を望むが
現代はまるで景色が異なる。

ハニー号で三原湾に面する埠頭
まで出てみた。
この埠頭は二輪の練習にもって
こいの場所。ストップ&ゴーや
低速ハンドリング等々がテスト
できる。かつては三原と愛媛県
の今治航路があったフェリー乗
り場の横。その本州四国フェリ
ーは「しまなみ海道」が登場す
る前は仕事でよく使った。船内
のうどんが東京の立ち食いうど
んのようでとてもうまかった。
今は航路自体が廃止。残念至極。
比率は江戸や全国の城下と同
じ)、明治維新以降、三原市
に残っている旧武士の家は数
える程しかいない。殆どは明
治期に東京に転住した。三原
城下界隈に残存する旧士族は
ごく僅かだ。(東京都港区の
霞ヶ関ビルに旧家臣団の懇親
会が存在する)
明治9年に城内の武家屋敷は
新政府による屋敷召し上げに
よって立ち退きが行なわれて、
旧家臣団は散り散りになった。
太政官布告の華族の東京居住
の義務化の時期に家臣たちも
殆どが東京に転住したと思わ
れる。広島市内もそうだが、
三原には武士の末裔は殆ど
いない。ゆえに江戸期に東西
に謳われた三原の武士の中の
武士のような武辺の武士気風
は、現代では圧倒的大多数の
三原市民の中には全く微塵た
りとも存在しない。
城下町とは名ばかりで、筋の
通らぬ土地に変質した。
江戸期の糸碕の塩田を望むが
現代はまるで景色が異なる。
ハニー号で三原湾に面する埠頭
まで出てみた。
この埠頭は二輪の練習にもって
こいの場所。ストップ&ゴーや
低速ハンドリング等々がテスト
できる。かつては三原と愛媛県
の今治航路があったフェリー乗
り場の横。その本州四国フェリ
ーは「しまなみ海道」が登場す
る前は仕事でよく使った。船内
のうどんが東京の立ち食いうど
んのようでとてもうまかった。
今は航路自体が廃止。残念至極。
この波止場(死語)は、結構
気に入っていて、時々ここで
海を見ている。私が子ども時分
に馴染みのある湘南の太平洋と
はスケールが違う湖のような海
だが、瀬戸内は景観が変化に富
んでいて目を楽しませる。
ここは瀬戸内海国立公園だ。