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甲斐姫

 水面すれすれまで急降下したシギが、魚を捕らえサッと身をひるがえした。

 そのしなやかな動きを、一人の少女のまっ直ぐな視線が追いかけている。

 黒目がちの少し勝気そうなひとみだ。

 シギが跳ねたあとの水面はわずかに波だち、初夏のするどい陽ざしを受けて一瞬きらめいた。

「あっ」

 小さく息を飲んで少女がまぶしそうに目を細める。


 遠く地表を見わたせば、遥か西の果てに奥秩父の山塊が青い波濤のごとくうねっていた。

 その広大な尾根と稜線を分つ空は、入梅前のおだやかな陽ざしに満ちている。


 しきりに風が吹いていた。

 水気をはらんだ鈍重な風だ。

 その風に少女のひたいに垂れたやわらかそうな前髪がそよいでいる。

 フフッ、と無邪気な笑いをふくんで彼女が楽しそうにつぶやいた。


「しかし見事にやってくれたものよのう。豊家の奉行というは、まこと噂どおりの才人らしい。見てみよ、難攻不落と言われたわが城が、二日足らずでこのありさまじゃ」

 ひとわたり周囲を見わたして少女はケラケラと笑い声を立てた。

 どうやら自分たちの置かれている状況が可笑しくてたまらないらしい。


 彼女は今、忍城の本丸に設けられた物見やぐらのうえに立っている。

 眼前にひろがるのは汪洋として青い水をたたえる湖面。

 西を見ても東を向いても、すべて水、水、水……。

 つまり城の周囲をぐるり水に囲まれているのだ。

 いや、その表現は正しくないかもしれない。

 水のなかに城が取り残されていると言ったほうが良いだろう。


 荒川の流れを塞き止めてつくられた人造湖のなかに城の大部分が水没してしまっているのである。

 ――この忍城は今、石田三成率いる豊臣秀吉の軍勢によって水攻めにされていた。


 少女のかたわらに控える年老いた侍が憮然とした表情で言った。

「ですが姫、あの治部少輔の才覚だけではかように大規模な普請などかないますまい。やはりその背景には、泣く子もだまる太閤公の財力があったればこそ。聞きおよびまするに、堤を築いた人足たちには扶持米のほか日当として永禄銭六十文というものが支払われたそうでございまするぞ」

「豪気なものよのう。わらわも、あやかりたいものじゃ」


 少女がまた笑った。

 さも可笑しそうに白い喉をクツクツと上下させて。


 ――この少女、名を甲斐姫という。

 この忍城のあるじ成田氏長の娘で、当年十七歳。

 ちなみに笑い上戸なのは生来のものらしい。


 その甲斐姫が、今度はひとみを険しくして南東の方角を指さした。

 そこには、丸墓山と呼ばれる円墳がこんもりと大地を盛り上げていた。


「三成めの本陣は、あの辺りかや?」

「いかにも、あの小山をへだてた渡柳に幔幕をはりめぐらし、陣扇ふるうておると聞きまするが……姫いったいなにを?」

「いやなに、父上の不在にわらわがあやつの首級をあげたなら、さぞや驚かれるだろうと思うてな」


 小桜おどしの鎧に猩々緋のあざやかな陣羽織をまとい、女だてらに壮麗な若武者すがたとなっている。

 年老いた侍があわてて振り返った。


「なりませぬぞ、そのような軽はずみは」

「案ずるでない。迂闊なことはすなと父上からもいやというほど釘を刺されておるわ」

「お館さまが精鋭をひきつれ小田原へ参陣なされている今、残された城兵たちは女武者に扮した姫の勇姿こそを軍神と仰ぎ、心のささえに戦っておるのです」

「わかっておるというに。戯れごとを申したまでじゃ、聞き流せ」


 甲斐姫は湖面より吹きつける風を目いっぱい吸い込み、まだ幼女のおもかげを残す美しい顔をほころばせた。

「それにしても見事な眺めよのう、いや絶景かな絶景かな――」


 そのとき、やぐらの下から声が掛かった。

「姫様、修理亮殿、これより戦評定をいたしますゆえ至急館へお戻りくだされ」

「あい分かった、すぐ参ると御城代に申し伝えよ」

「はっ」


 伝令の足軽が去ったあとこの年老いた侍、須賀修理亮は東のかなたを見据えながら甲斐姫に問うた。

「はてさて、小田原からの援軍はいつになりましょうや」

「援軍など来ぬわ」


 甲斐姫はきっぱりと言い切った。

「こたびの戦では二十余万という大軍が小田原城を囲んでおる。御本城様も篭城で腹をくくられたご様子。とても支城へ援軍をさし向けている余裕などあるまい」

「ならばわれらはこの地で完全に孤立したことになりまするな。過日あの長尾景虎さえも退けた名城とはいえ、水没させられたうえ二万三千の敵に囲まれては、もはや全滅を待つより他ありますまい」

「そう悲観するな、叔父上よ」


 甲斐姫は笑顔をくずさない。

「わらわとてあの三成めが堤をめぐらすのを、ただ手をこまねいて眺めていたわけではないぞ」

「と申しますると?」


 それには答えず、甲斐姫は三成の本陣がある丸墓山のほうへするどい視線を走らせた。

「今なんどきじゃ?」

 修理亮は目をすがめ太陽を仰ぎ見た。

「……日が中天にありますゆえ、じき午の刻になるかと」

「ふむ、そろそろじゃな」


 ――のどかな水鳥の羽音を破って轟音が響き渡ったのは、まさにそのときであった。

 城を囲い込んでいた堤防の数か所から同時に土けむりが吹きあがる。


「ひ、姫これは一体?」

 修理亮は息を飲んだ。

 爆発によって決壊した堤防から、溜め込んでいた水が見るまに溢れだした。


「そうらはじまったぞ、わらわの指図で石田がたの黒くわ衆にまぎれ、風魔党の透波二十名が潜伏しておったのじゃ。見てみよあの慌てぶりを、三成の旗指しものが右往左往しておるわ」


 三成が苦労して造らせた七里にもおよぶ堤防は、あまりにも工期を短縮させたため至るところに手抜きがあった。

 甲斐姫の指図を受けた風魔の忍者は、そこへ埋め火を仕掛けたのである。

 堤防の外側を取り囲むように布陣していた豊臣軍の将兵たちは、濁流となって押し寄せる水に大混乱をきたしていた。


「城を水攻めにするつもりが、逆に自分たちがその水に飲まれようとは笑止、猿面冠者の猿まねなどしたばかりに、三成もとんだ赤っ恥じゃ」


 呵々大笑する甲斐姫を見て、修理亮があきれたようにつぶやいた。

「いやはや、なんとも恐ろしきおなごじゃわい。もし男に生まれていたなら、この武蔵はおろか天下さえも手中に収めたかもしれぬものを――」

「それを言うな、叔父上」

 つかの間の恥じらいを見せた甲斐姫だが、すぐにひとみを凛々しくして胸を張った。


「坂東武者はイモかもしれぬが、いまだかつて上方のさむらいの軍門に降ったことはないのじゃ。さあ評定へ参るぞ。このあと三成めをどういたぶってやるか、じっくり策を練ろうではないか」


 逃げ惑う豊臣兵をあざ笑うかのように、シギがゆったりと上空を旋回している。

 やがて城のそこかしこから勝ち鬨の声が上がりはじめた――。


この小説は史実をもとに創作を加えてあります。

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