元日テレプロデューサー坂田信久氏の“プロジェクトX” 高校サッカー選手権冬の風物詩までのいばらの道

77年、国立競技場で行われた高校サッカー全国大会の開会式
77年、国立競技場で行われた高校サッカー全国大会の開会式

 第100回全国高校サッカー選手権(来年1月10日決勝)が28日に開幕する。節目を迎える選手権の人気に火がついたのは、本格的なテレビ中継が始まった71年度の第50回大会以降。当時日本テレビで中核を担ったプロデューサーの坂田信久氏(80)が選手権への情熱、全国放送や76年度以降の首都圏開催に至るまでの道のりを語った。(小口 瑞乃)

 テレビの力で、歴史を動かした。約60年前。サッカー中継は当たり前ではなく、選手権の認知度も低かった。「たくさんの人が関心を持つ大会にしたい」。富山中部高時代に出場歴を持つ坂田氏は高校サッカーへの情熱を持って1963年に日テレに入社。だが、現実は甘くなかった。上司を説得しても「決勝をNHK(日本放送協会)だけが放送すれば良い」と突き返された。

 転機は68年のメキシコ市五輪銅メダル獲得。マイナー競技が一転した。入社7年目で日テレ初の高校サッカー担当枠ができ、「野球に代わるスポーツを育てないといけない」と奔走。70年夏のテスト大会【注】には、「若気の至りで頼んだら出てくれてね」と、当時の人気アニメ「赤き血のイレブン」のモデル校となった埼玉・浦和南高が出場し、高まる注目に手応えを得た。

 翌71年に本格的なテレビ事業がスタート。しかし地方局含め全国38の民間放送局で「サッカー中継の経験があったのは10もなかった。もう電話がひっきりなしでね」。対応に追われた坂田氏は30局63人に3泊4日の研修会を実施。日本代表の長沼健監督や八重樫茂生コーチも駆けつけ、「朝8時から夜の10時までみっちり。用語やカメラの位置、字幕の出し方とかを指導していただきました」。まさに“プロジェクトX”だった。

 選手権の存在が広まる中、「関西でやっても発展しない」と76年度から首都圏に勝負の移行。「無理を言ったんだから失敗は許されるわけもなく、決勝戦の国立を満員にすることは使命でした」。チラシ配りやポスター作製、各地を回って頭を下げた。成果は浦和南と静岡学園の決勝で感じた。「わーっとお客さんが入った超満員の光景を見た時は目頭が熱くなったよ」。5年後には全都道府県が出場するよう参加校を増加。決勝戦には毎年5、6万人が足を運び、高校サッカー男児らの憧れの地となった。

 敗戦校を映し出す“最後のロッカールーム”の先駆者ともなった。きっかけは78年度、12年ロンドン五輪代表監督など務めた関塚隆氏が主将の千葉・八千代高が茨城・古河一高に敗れた準決勝。「負けた選手がベンチで涙を流して、熱く抱擁を交わすシーンなんかが撮れたんです。画面的にいいものが撮れたなあと。でも許されないところだとも思った」。葛藤に襲われた。

 しかし、当時の青木克己監督が「使っていいよ」とまさかの承諾。翌朝、日本協会関係者に「テレビが入るところではない」と叱られたが、反響は想像以上だった。現在はDVDや、監督が選手に送った言葉を集めた書籍が世に出る。「あのシーンは高校サッカーでしか見られない。そのメンバーで戦うのは最後なんだから。一つの宝物ですよ」

 高校生をたくましく育てた「冬の風物詩」は節目を迎える。86年まで選手権のプロデューサーを務めた坂田氏は「振り返れば、苦労も飛ぶくらい楽しかったですよ」と笑った。「高校サッカーは面白いし、何より体を張って戦う姿が心を打つ。放送に熱を注ぐ後輩はもちろん、高校サッカーへの気持ちを持つ人が継いでくれなかったら、ここまでこられなかったですね」。可能性を誰よりも信じ、走ってきた。「自分を育ててくれたサッカー界に恩返しができたかな」。熱き功労者は高校サッカー、そして日本サッカー界のさらなる発展を願ってやまない。

 【注】70年8月に読売サッカークラブ(後の東京V)グラウンドで行われた研修大会。69年度に主要大会3冠を達成した浦和南高など11校が参加し、1・2回戦は地元放送局、準決勝と決勝が日本テレビで全国中継された。同年末、日本蹴球協会(当時)と日本テレビが71年度からの全国放送について契約締結。71年度決勝はそれまで決勝のみだったNHKと並列放送。

 ◆坂田 信久(さかた・のぶひさ)1941年2月20日、富山市生まれ。80歳。富山中部高時代にDFとして3年連続全国選手権に出場。東京教育大(現筑波大)卒業後、63年に日本テレビ入社。野球、高校サッカー、ジャパンカップ(現キリン杯)、箱根駅伝など数々のスポーツ番組制作に携わった。98年にV川崎(現東京V)専務取締役、代表取締役に就任。2003年に退任後は国士舘大学院教授(11年に退職)などを歴任した。

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