#8 さとうもか氏と私の関係について〈前編〉
続きを書くのが大変遅くなってしまいましたが、さとうもか氏の2023年の詐病事件の顛末の前に、そもそも私がさとう氏とどんな関係だったかを思い出しつつ書いてみます。
さとうもか氏の音楽との出会い
まず、私が以前ラジオ局InterFMで20分ほどのコーナーの原稿を担当していた時に、そこで「2曲、流れに沿った好きな曲を設定して良い」ということになっていました。
そこで毎週、そのコーナーのために「トークの内容に沿った1曲」と「なるべく新譜を1曲」という個人的なルールを設定して、新曲を紹介してくださる各社のプロモーターさんにお願いして新曲リストを頂いていました。
その中で、P-VINEの新譜紹介からさとうもか氏の1stアルバム「Lukewarm」を知ったのが、発売前頃の2018年だったかと思います。
それで「Lukewarm」がいい曲だな、と思ってオンエアしてから、「なんかこの人、他のガーリーなミュージシャンと違う感じがする!」という予感を抱いて、当時から周囲の人にオススメしていました。特に歌詞の「ママが言ってたことは〜」の「ママ」という言葉の発せられ方が、もう少し上の世代の女性ミュージシャンの歌詞に出てくる「ママ」という言葉よりも飾らなくて自然で、それが新鮮に感じました。恐らく上の世代の方は、世代的にもきっと実際にはお母様のことは「お母さん」と呼んでいたのかな、という、少し飾った雰囲気を感じていたのですが、さとう氏の歌詞からは「きっとこの子は普段から実際にお母さんのことを『ママ』って呼んでいるんだろうな」というふうに感じ、ナチュラルに甘いムードに、新しい感覚を受けたのを覚えています。
その後、翌年の新譜情報に2ndアルバムの「Merry go round」が入ってきて、「去年あんなにいいアルバムを出したのに、たった1年でまたこんなにいい作品を出すのは絶対にすごい人だ…!」と確信しました。1曲目から捨て曲無しで通して聴けて、32分という短い時間でも濃密な物語性が閉じ込められていること、「ばかみたい」という曲でナチュラルにラップを織り込んでいる才覚にとても感心したのを覚えています。
そして発売年の2019年夏頃、さとう氏と知り合いで私の友人だったミュージシャンに、下北沢THREEで行われたレコ発ライブに招待してもらい、お邪魔したのが初めての会話でした。
2020年、「ママには内緒ラジオ Neo」制作〜相談を受ける
その後、「絶対にこの人は売れると思う」と感じて、なにか一緒に仕事はできないだろうか?と考えていました。その時ちょうど、2019〜2020年にJFN(TOKYO−FM内にあるネットラジオ局)でアーティスト番組の台本を書いていたのですが、その番組が2020年3月で終わるということになっていたので、2月にそのアーティストのライブにお邪魔した後、JFNの偉い人(役員など)達と食事している時に「次の番組を誰にしようか考えてるんだけど、次に来るバンドって誰だと思う?」と言われた時に「いや、間違いなくさとうもかでしょ」と(ついタメ語で言ってしまうぐらいに)するっと名前がでてきて、その場で「そこまで言うなら、2020年4月から半年、番組(=さとうもかのママには内緒ラジオ Neo)をやってみようか」ということになったのでした。
それで、2020年の2月に当時の岡山の事務所のマネージャーさんに番組制作のご依頼を送り、丁度私の誕生日だった2020年2月27日に了承の返事が来て、凄く嬉しかったのを覚えています。
しかし、3月に本人がまた来京したのですが、折しもコロナ禍が始まってしまい、4月からのスタートが難しいという話になってしまいました。また折を見て相談しようということで、TOKYO-FMで挨拶とお話をして、「これからライブの予定があるけど、その前にカラオケボックスで予習復習したい」ということで、渋谷のドン・キホーテの前のカラオケ屋まで案内したのを覚えています。
その後、緊急事態宣言なども出てしまい、普通の収録は不可能ということで「さとうもかのママには内緒ラジオ Neo」は基本、リモートでの収録という形で最後まで行われました。台本を私が書いて、頂いたメールの内容とともに事前に送り、zoomを繋いで事務所 or 本人の宅録環境で声を録りつつ、立ち会ったディレクターさんが編集して納品する…という形でした。
そんな中でも、たまにさとう氏が東京に来ることがあったり、TOKYO−FMのスタジオで収録することもあり、ちょこちょこと一緒に遊ぶことがありました。そんな夏頃に中目黒でランチをしていた時に何か悩んでいる様子だったので、何かあったの?ということを訪ねたところ、「実はいまユニバーサルEMIからメジャーデビューのオファーが来ているんだけど、本当にこれで良いのか迷っている」という相談を受けました。
最初に声をかけてくれたメジャーレーベルでお世話になったから嬉しいけれど、担当の人が何となくおかしくて不安だということでした。また、同時に1st,2ndのプロデューサーであった入江陽氏からパワハラを受けて揉めていた(これは後日、レーベルサイドや他の方から話を聞いて、かなり怪しい盛った話をしていることがわかりましたので、後日記載します)のを今の事務所(サウンド・スケッチ)に助けてもらったが、色々とルーズで悩んでいると聞きました。
なので、EMIに行くべきなんだろうけれど、それでいいのだろうかと。
それを聞いて、私は「とても心配だし、何かできることがないか考えてみる」と話して、励ましたのを覚えています。そこでさとう氏もかなり安堵したというか、私を信頼してくれた様子で、「いつか立石さんにマネージャーをやってもらえたらいいな」ということを言ってくれていたのでした。
そこで、「そうか、今まで自分は消費者としてではなく放送作家として発信の場所を作ることで、自分のできる範囲で応援しているつもりだったけれど、それだけではなくて新しいことを初めてもっと直接的に応援するということもできるのかもしれない」という気持ちを持ちました。
EMIへの違和感〜ワーナーに相談
とはいえ、当時は単なるライター・放送作家でしかなかったので、どうしたら良いかあまり分かりませんでした。さとう氏はEMIの担当・北村亮介氏に私を推していたらしく、2020年の8月の末に北村氏と2人で直接食事をすることになりました。
しかし北村氏は(当然ながらですが)「レーベルやマネージメント経験のない私をEMIで雇うとしたら、始めはラジオやテレビ局などのプロモーターから始めて何でもこなせるようにならないといけないし…、それに女性だからライブとかの重い機材とか持てるの?」と気乗りしない様子でした。
また、私は2019年〜2022年ぐらいに川谷絵音氏と何度かレーベルオフィシャルの仕事をして、ワーナーミュージックに友人もいるということ、2020年の8月5日はさとう氏の3rdアルバム「GLINTS」がリリースされた日で、その日の深夜1:00に川谷絵音氏がさとう氏のアルバムを聴いてすぐTwitterで「天才か…?」と絶賛してくれて、それをさとう氏と喜び合って…という流れもあり、「ワーナーに引っ張るのでは?」と警戒されている様子でした。
私もあまり北村氏にいい印象がなく、この人とさとう氏はうまく行かないだろうな、という気持ちから、結果的に私の友人であったワーナー吉井庸之氏に相談し、3人で会って話したりする機会を作ったり、12月頃?にテレビ局の収録があった時に、さとう氏と2人で挨拶に行ったりなど、きっかけを作るようにしていました。
しかし、吉井氏からは別途「実は川谷くんはずっと前からもかちゃんをワーナーでやったらいいと役員にオススメしていたらしいんだけど、役員の阿木さんがピンと来てないみたいで、話がスルーされてたみたいなんだよね」と聞いていました。
なので、「そこで私がグイグイとワーナーに押し込むのは出過ぎた真似なのではないか?」と感じ、ピンと来ていないというチームの中でやるよりは、歓迎されているEMIでやるのも1つの選択肢ではと思い、もし引き合わせた際にさとう氏か川谷氏からその話が出たら、進めばいいと思って私から何か促すことは敢えてしませんでした。
結局、その話はどちらからも出ることがなく、「顔見知り」という形で発展はしなかったので、さとう氏は2021年の1月にEMIと契約することとなりました。
私は「仕方ないけれど、もし自分がもっと知識や経験、人とのつながりがあったら、もっと幸せな形でメジャーデビューできたのかも」ととても悔しく感じ、マネージメントを本格的に志すようになりました。いつか合流できることがあればいいなと考え、またさとう氏本人にもそう伝えて「私もほんまにそう思います!もしかして立石さんって運命の人かも?」なんて返事をもらったりしていました。当時は本当に仲が良かったと思います。
2021年、EMIデビュー〜マネージメントのために
その後リリースされたEMIからのデビューシングルの「Love Buds」を聴いて、「コンディションがあまり良くなさそうだ」ということを感じ、非常に心配になったのを覚えています。
どうしちゃったんだろう?という気持ちでいっぱいになっていた6月の頃、上京してきたさとう氏と会ってお茶をしたり、私の好きな東京のエリアに案内したりとしていました。その時、何の気無しに(これまでと同じように)さとう氏と会っていることを(一応さとう氏には了承を得て)Instagramに載せたところ、EMI北村氏からおかしなメールが届きました。
一応、マネージャー候補として1対1で話をしたことがあったり、ライブなどは関係者として呼んでもらっていたのですが、「一般の人に〜」と言ったような失礼な書きぶりだったので、はっきりと反論しました。
すると本人からは謝罪はなく、その後別のマネージャーとして関わっている上田という方からお詫びのメールが届きました。上田氏は「会ってお話したい」ということで出向いたところ、なんと北村氏が「ライブとかの重い機材とか持てるの?」と懸念していた女性だったので、大変驚きました。一体、これはどういうことなのか?
さとう氏から別途聞いたところ、「立石さん以外の人にはこんな注意は言わないから、目の敵にされてると思う。上田さんは北村さんの幼馴染でエンタメ業界の経験があるからって来たけど、契約じゃなくてスポットで案件ごとに来ているだけだから、常に一緒にいるわけではなく話をしたりがあまりできないんです」ということで、やはりコミュニケーションが上手く言っていない様子を受けました。
そこからは控えめにプライベートで遊んだりする程度の付き合いでしたが、EMIとの契約の2年後に、マネージャーとして改めて指名してもらえるように勉強しようと、(これはもう1つ別に目的もあったのですが)「アーティストと共通言語がないと、色んなリクエストに応えられないかも」とギターを習い始めたり、知人の音楽業界の人に積極的に相談をしたりと、手当たり次第に色々なことを学び始めました。
そこで、私が元々ファンだったKIRINJIのマネージャーをされていて、よく私の担当しているラジオ番組にも来てくださっていたナチュラルファウンデーションの柴田やすし氏に相談を頻繁にするようになりました。
柴田氏は元々、J−WAVEで私が働いていた20代前半の頃に知り合いました。というのも、当時は「ナチュライズマネージメント」という名前で、私が担当していた番組を主に制作していたラジオ制作会社シャララ・カンパニーの子会社だったため、共通の知人も多く、15年ぐらい前の当時から機会がある時は色々とお話をしていました。なので、ファンでもあり、関係者でもある若い人、みたいな感じで受け取ってくださっていたと思います。
2015年頃、私が山下達郎氏のグッズの制作の手伝いをした時に、グッズの作り方を相談した時にとても丁寧にお話してくださったり、当時のKIRINJIのグッズを「参考に」と頂いたり、私も出来上がった達郎さんのグッズを「お礼に」と渡したりとしていて、私は本当にとても柴田氏のことを慕っていましたし、可愛がっていただいていたと思います。
そんな形でご縁のある方のご厚意を賜りながら、いつかは、という思いで色々なことを学んでいたのが2021年でした。
長くなりましたので、一旦今回はここで区切ります。
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