昔々に読んでその良さがまったく分からなかった小説を再読した。中上健次の「枯木灘」(河出文庫)という作品である。昔々に読んで分からなかったので、ボクはそれ以降中上健次の作品を一切読んだことがない。なぜいまさらそんな作品を読み返したのか理由ははっきりしないが、この前いしいしんじの「ポーの話」を読んで、その後続けて彼の作品を2冊読んだ。「トリツカレ男」と「ぶらんこ乗り」という2冊は「ポーの話」ほど良くなくて、なんかアタマの中が甘ったるくなってしまい、しょっぱくて辛くて苦いものが欲しくなった。そんなとき本棚を見ていたらこの本が目にとまり、“これなら”と思って手に取ったという次第である。
結果・・・・・良かった。とてもとても良かった。傑作である。中上健次すごい。自分自身これほど心が動かされるとは予想もしなかったが、とにかく衝撃を受けた。むかし何かの本で、川端康成の次に日本でノーベル文学賞をとるのは大江健三郎ではなく中上健次である、といったことを読んだ気がするが、納得である。ボクは「枯木灘」の一作しか読んでいないけど、その力強さは圧倒的で、前に読んだノーベル賞作家バルガス=リョサの「緑の家」にも匹敵する作品だと感じた(ちょっと言い過ぎか?)。
「枯木灘」は中上文学の根幹である“紀州”(和歌山県南部)を舞台とした物語である。ストーリーは面倒なので触れないが、複雑な血縁関係のなかに生まれた“秋幸”という26歳の男のまわりに起こる出来事が、濃密なタッチで描かれている。中上健次はストーリーテラーではないので、“次はどう展開するのか、ワクワク”といった読み方はできないのだが、「緑の家」を読んだときに感じた強烈で鮮やかな世界観がそこにはある。うまく言えなくてもどかしいが、「枯木灘」は油彩画のような小説だと思った。「枯木灘」に描かれるのは主人公の辿る物語(だけ)ではなく、ぶ厚く塗り重ねられた紀州熊野の風景画なのだ。主人公を含めた大勢の登場人物たち(すべて縁戚関係の人々)は、その強烈な色彩を放つ風景画のいち要素として画布に塗り込められているに過ぎないが、その風景画からは登場人物たちの叫びや呻き声が漏れ聞こえてくる。一遍の小説全体が一幅の油彩画のようである。
主人公秋幸は土方(どかた)を生業としている。秋幸は土方であることが大好きであり、働きながら日々幸せを感じている。「枯木灘」には、『自分はがらんどうである。がらんどうの自分に日がさし、身体は融けだして土になり木になり石になる』的な表現が繰り返し繰り返し書かれている。それはうっとうしい血縁のしがらみから逃れたいという主人公の逃避願望もあるかもしれないが、作者が人間ではなく風景=場所を書こうとしていることの表れでもある。
バルガス=リョサがアマゾンの自然とそこに住む多様な人々を描くことによって祖国ペルーを浮き彫りにしようとしたのと同様、中上健次は紀州の風土を人間の物語に換えてレリーフしているのだと感じる。ただ、小説の中に頻出する「路地」という言葉(場所)は、被差別部落のことを示しているらしいが、ボクには被差別部落の具体的なイメージがないのでそのニュアンスはよく分からない。被差別部落の出身である中上健次ならではの執拗なこだわりがそこにはあって、知ればもっと奥深くまで感じとることができるのかもしれないが悔しいところだ。しかし、そのイメージが乏しくとも「枯木灘」は十分にパワフルである。海と山と川に囲まれた閉塞感いっぱいの小都市の中に生きる人々の、濃く煮詰められた血の沸騰が、生々しく、でも生臭くはなく、読み手に襲いかかってくるようだ。
前にボクは物語作家が好きであると書いた。キャラクターのたっているストーリーテラーがボクの好みである。中上健次の「枯木灘」はそんな好みからかけ離れているのに、なぜ気に入ってしまったのか不思議である。「枯木灘」は、芥川賞をとった「岬」と「地の果て至上の時」に挟まれて「紀州サーガ」三部作の一遍に数えられている。最近これとよく似たサーガものの一遍を読んだ。それは阿部和重の書いた「神町サーガ」の一遍、「ピストルズ」という小説である。「ピストルズ」も批評家からは高く評価されていたらしいが、ボクはダメだった。読んでいて眠くなる小説だった。「枯木灘」との違いは何だったのか。場所もテーマも異なるので一概に比較などできないが、世の中のエライ先生たちの感性や考えていることはボクなんかではよく分からないと少し悲しくなった。
もうひとつ、「枯木灘」を読んでいて、以前読んであまり理解できなかった「根をもつこと」(シモーヌ・ヴェイユ著 岩波文庫)という本のことが思い出された。ボクの勝手な解釈だが、「枯木灘」(=中上健次)こそ“根”を持った小説(作家)だと強く感じた。主人公秋幸を取り巻く風俗慣習やそこに生きる人々の感性考え方、その土地の持つ気候風土や歴史など、それらが根っことなって秋幸という人間を形成している。だから秋幸自身は「がらんどう」であり、彼は紀州の夏の強烈な日差しを受けて土となり木となり石となるのだ。そして根をもつ秋幸は、どんなに路地の血縁の煩わしさを感じようと、その土地でしか生きてゆくことができない。その土地を離れることは、自身を見失い死んでしまうことと同義であるから。
ボクは故郷を離れて根を持たない人間である。いま現代人は、たとえ生まれた土地で暮らしていようが、根を持たない人が増えているのだと思う。「枯木灘」を読んで心動かされたのは、そんな根を持たないことに対する罪悪感の裏返しの感情だったのかもしれない。