42万人死亡試算の意味
西浦は感染から人々を防護することを「セキュリティ」と表現した。専門家が感染制御のためにリスク分析にあたることは、消防士が防火や消火にあたったり、海上保安官が不審な船を警戒したり、自衛隊が北朝鮮のミサイルを警戒することに近い。
ただ、似て非なるのは消防士や海上保安官や自衛隊員は国にセキュリティを任務として与えられた職業人なのに対し、尾身や押谷や西浦は、公益法人理事長や大学教授であることだ。パンデミックが来たから、暫定的に国を守る職責を与えられたにすぎない。
確かに、感染対策に従うことは国民にとって愉快なことではない。しかも、コロナ上陸当初は誰も、3年半もつづくとは思っていなかった。限界まで延長がつづくことにやり場のない思いが国民を守るために、実際に来たるリスクに対応して動いた者に向かうのは不条理というほかない。
本来なら身の安全確保といった環境整備は当然のことながら、さらにいえば国家がそうした反発を宥める努力を惜しむべきではないはずだ。
ところが、実際はどうだったか。
危機の局面では短期的な内閣支持率に汲々とするばかりに専門家をリスクや痛みを語る前面に押し立て、その一方、政治家が前面に復帰するフェーズになれば、官邸肝いりの検証報告書に専門家の問題だけを書き、政治家自らの検証には頬被りする。これが日本の政治であった。
検証報告書が問題視した事例の1つが西浦の「42万人死亡試算」だった。「政治が言わないならやめろ」と西浦の発表を思いとどまらせようとした時、押谷がこう言ったことを最後にもう一度記す。
「これは首相が言うべき筋の、重い数字だ」「調整が整わないならこの国はもう駄目なんだ、駄目になっても言わないほうがいいんだ」
国民を守るための仕事で、国民の代表から、あるいは国民から蹴り出される。そうわかっていながら黙って職責を果たそうとした者もいた。そのことだけは記憶されてよい。そんなことを考えながら、私は西浦と別れた。