全国高校サッカー選手権大会(28日開幕)は記念すべき第100大会を迎える。同大会を長年にわたって中継してきた日本テレビの元スポーツ局次長で、Jリーグ東京Vの社長も務めた坂田信久氏(80)は、同局が担当するようになった事情と経緯を振り返った。
【高校サッカー100年の舞台裏(1)】富山中部高時代に3年連続で全国選手権に出場した坂田氏は、東京教育大(現筑波大)を卒業後の1963年に日テレに入社。スポーツ局に配属となると「僕が出た時代の観客は数百人程度。高校サッカーをもっと盛り上げたかった。それが将来のプロ化につながると思った」との信念から、選手権の中継に乗り出すことを決意したという。
日本サッカーは68年メキシコ五輪でFW釜本邦茂を擁して銅メダルを獲得し、注目される競技となった。「五輪でメダルは取ったもののW杯はまだ遠い存在だった。日本サッカー協会もいずれはW杯に出たいと。そのためにはプロにならなければ…と考えていたので、テレビの力が助力になればいいと考えた」と振り返った。
当時サッカーの全国テレビ中継は、天皇杯決勝と全国高校選手権決勝の2試合だけ。ともにNHKが担当していた。日本サッカー協会の小野卓爾専務理事に中継したいと相談すると「まずはテレビの力を示すように」と言われたため、全国の強豪高に呼び掛けて研修大会を開催し、テレビ中継を実施。実績をつくるとともに大きな反響を得た。
そして迎えた第49回大会(1970年度)では日テレが選手権8試合を中継。決勝こそ、すでに番組を編成済みだったNHKと同時放送になったものの、大きな風穴を開けた。そして第50回大会(71年度)ではNHKを〝追い出し〟て中継を担当することに。坂田氏は「系列を超えて全国の地方局に協力してもらった。当時、民放局が一緒に番組をつくるのは『オリンピック』と大みそかの『ゆく年くる年』だけしかなかった。テレビ界ではあり得ないことだったね」という。
日テレ系列でもない地方局を巻き込んだのは、サッカーを全国各地に普及させるプロ化につなげるための戦略だった。また試合を中継したことがないテレビ局も多く、カメラ位置など細かな部分まで坂田氏が指導し、全国放送を実現。「試合中継は日テレの名前でなく民放各社(現在は43社)の共同制作となっている。これは画期的だったんじゃないか。今でも続いていること」と振り返った。












