セヴンデイズ あなたとすごす七日間| LIFE0 読み込まれました

死因。

七つの死にまつわるエピソード。

※※ネタバレを含みます※※

※※※重大なネタバレにご注意ください※※※

※※ネタバレを含みます※※

(C) LIFE0,LLC

01.空腹サクラの場合

■1



「とーちゃーん!」

 あたしがそれを掲げると、波打つウネの向こうで父ちゃんが曲げていた腰を伸ばした。

「見て! でっかい大根! 二股なの!」

「おー!」

 向こうから歓声が飛んできた。

「それは出荷には出せねえから、今夜の夕飯にでもすっかー!」

 形の悪い大根は、業者が買い取ってくれないそうだ。同じ値段なら大きいほうが得なのにと、あたしはその立派な大根を撫でて土を払った。

 後ろからぬっと伸びてきた手が、あたしの大根を持ち上げた。

「おお、重い重い。こいつは立派だなぁ」

「兄ちゃん」

 あたしよりも一足先に生まれた兄ちゃんは、いつの間にか見上げるほど背が伸びていた。

 兄ちゃんの後ろから太陽が照らすから、その大きな黒い影を仰いだあたしは目を細めた。

「川村さんのとこから、今朝穫れた秋刀魚をもらってるからよ、とれたての大根で食ったらうめえぞ。醤油をちっと垂らすんだ」

 あたしは返された大根を抱え直す。

「秋刀魚、いくつもらったの?」

「数えてねえからわかんねえけど、人数分はあるんじゃねえか?」

 兄ちゃんを見上げたまま少しぽかんとしてから、ひぃ、ふぅ、みぃ、よぅ、と指折り数える。

 父ちゃんと母ちゃん、爺ちゃんに兄ちゃんにあたし、それに弟が二人だから……。

「ななつ?」

「そんくれえだ」

 あたしが首を傾げている間に、兄ちゃんは収穫に戻っていた。

「サボってねえで働けえ」

 遠くから父ちゃんの声が聞こえた。





■2



「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぅ……」

 何度数えても同じだった。夕飯の食卓に上がったのは六尾の秋刀魚。

 大根を摺り下ろすあたしの手が止まる。

「一匹足りない」

「足りなくないよ」

 盆を持った母ちゃんが隣に来た。ご飯のお椀はちゃんと七つある。

「母ちゃんの分はいいから」

「だめ。母ちゃんは赤ちゃんの分も食べなきゃ」

 母ちゃんの少し大きくなったお腹には、三人目の弟がいるのだ。

「あらあら、じゃあ誰かが我慢しなきゃいけないじゃない」

 微笑みながら、母ちゃんは味噌汁を取りに台所へ戻った。

 あたしは再び大根を下ろす作業に戻った。テレビでは世界の珍味特集をやっていて、不気味な食べ物を美味しそうに食べる美人さんが映っていた。

「あんな黒いつぶつぶ、美味しいのかなぁ」

 あたしがぼそりと呟くと、通りがかった兄ちゃんが足を止めた。

「兄ちゃん、あれ、鮫の卵なんだって」

「へえ。ヤギのフンかと思った」

 率直な感想だった。高級なものらしいが、全然高そうに見えない。

「美味しいのかな」

 その疑問を拭い切れなかったが、兄ちゃんは「美味そうに食ってるから美味いんじゃないの」と投げやりな答えで歩いて行った。





■3



 始めに爺ちゃんが食卓の端につくと、それに釣られて続々と男たちが集まってきた。

 末っ子の菊次郎が走ってきて、畳の上でコケた。一つ上の菊太郎がそれをからかうから騒がしい。

「今日は秋刀魚か」

 爺ちゃんはぐい呑みに酒を注ぎながら、香ばしい匂いを漂わせる焼き魚をしばしばと見た。

「川村さんのとこのだって。一匹足りないの」

 あたしは摺り下ろしたばかりの大根を爺ちゃんの秋刀魚の端にちょこんと据えた。空いた手で菊太郎を叩いてから、泣き喚く菊次郎の首根っこを掴んで起こしてやる。

「今年は暑かったもんなあ」

 爺ちゃんは自分の秋刀魚を見てから、さりげなく片眉だけを上げて母ちゃんの卓を見た。そこに秋刀魚はなかった。

「暑いと獲れないの?」

 その問いに答えたのは後ろから来た父ちゃんだった。

「不漁になっちまうからな」

 風呂あがりの手ぬぐいを首から下げて、瓶ビールをコップになみなみと注ぐ。一口ちょうだいと兄ちゃんが横から手を出すが、お前にゃまだ早いと父ちゃんはコップを遠ざける。

「さ、食べましょうか」

 最後にきた母ちゃんが腰を下ろしながらそう言うと、ちぐはぐな頂きますが鈴虫の声を掻き消した。

 あたしは箸を持ったまま、自分の秋刀魚をじっと見つめる。焼きたての秋刀魚はまだ熱々で、絶妙な具合の焦げ目が食欲を挽き立てた。

 みんなの前には一匹ずつあるのに、母ちゃんのところにだけない。

 ごくりと唾を飲み込んでから、あたしは自分の秋刀魚を母ちゃんの前に押しやった。

「あら、桜?」

 母ちゃんが目を丸くして、あたしは少し顔を伏せた。

「秋刀魚、嫌い」

「嘘だー! 姉ちゃん、こないだ僕の分まで食べた!」

 菊太郎がそう言うと、菊次郎まで「食べた!」と繰り返した。

「うるさい。菊次郎のは食べてないでしょ」

 あたしが短く返すと、菊次郎は「そうだった」と言って黙る。

「ありがとうね。じゃあ、半分こしようか」

 母ちゃんが綺麗に秋刀魚の半身だけ剥がしてこっちに寄越した。

 別に、当たり前のことをしただけだ。だってあたしは、お姉ちゃんだから。

 あたしは摺り下ろした大根をたんまり乗せて、黙って秋刀魚を食べる。

 大根だけはたくさんあった。





■4



 あたしが生まれた時、あたしには兄がいた。

 だからそれからの数年間は、あたしは忽那家の末っ子で、兄ちゃんの妹で、男臭いこの家で唯一「女の子」だった。

 わずかにしか覚えてないけれど、その時はたしかに可愛がられていたと思う。一身に愛を受けているだけで良かった。

 だけど、あたしに物心が芽生えたころ、母ちゃんのお腹が膨れるに連れ、末っ子生活も終わりが近づいていた。

「桜、弟が出来るんだよ」

 大きくなったお腹をさすりながら、母ちゃんは優しくそう言った。

「それって、すてき?」

 この頃は、覚えたての「すてき」を1日十度くらい放っていた。

 あたしが一番下じゃなくなるのとか、今まで可愛がられるだけで良かったっていうのにこれからはちがうのかとか、そういった質問は小さいあたしにはまだどう言葉にすればいいのやらわからなかった。

 仮にそれらを尋ねられるだけの知恵があったとして、それを口にしていいのかもわからなかったから、「すてき」かどうか訊くしかなかった。

「そうね、とっても素敵なこと。家族が増えるんだから」

 だから母ちゃんがそう答えたまさにその時、あたしは生き方を変えなければいけないと悟った。

 あたしも誰かを可愛がらなければいけなくて、これからは兄ちゃんと同じ立場に立たなければいけない。決して深く考えたわけではないし、まだ考えられるような年頃でもなかったから、本能的に「弟ができるということ」を肌で感じたのだった。



 やがて菊太郎が生まれ、あたしは「お姉ちゃん」になった。

 それまで母ちゃんのことが大好きで、ことあるごとに抱きついていたが、彼が生まれてからはぱったりとそれをやめた。母ちゃんが新しい赤ん坊を抱いているのを見ると、あたしはやめざるをえなかった。それが我慢であるということを理解するのは、それからかなり後のことだ。

 あたしが大好きな母ちゃん。そんな母ちゃんがとても大事にしている「彼」を、あたしが大事にしないわけにはいかなかった。その一年後、四人兄弟の末っ子である菊次郎も我が家に加わった。

 あたしは彼らが大事だった。母ちゃんという反射板を経ての屈折した愛情ではあったが、それが愛情であることに嘘偽りはなかった。

 ただ、問題はあった。

 ひとつに、我が忽那家は裕福な資産家の一族ではなく、きっと前世も江戸時代のくだらない百姓かなにかだったにちがいないと思うほど、至って普通の貧乏な農家だった。家こそだだっ広いけれど、それは周りに建造物がなにもないど田舎だからだ。

 そこに、七人家族の、しかも末っ子たちはまだ働き手にもならないような幼さだから、これまでの質素な生活はさらに加速した。おまけに女二人に対して男五人なわけだから、一升炊いた米がその日のうちに底をつくなんていうこともざらだった。

 もうひとつは、あたしがこの家で唯一の「お姉ちゃん」であること。なによりこれが、あたしの想像を裏切るほどに重い枷だった。

 当初、あたしは兄ちゃんと同じような役回りになるんだと思っていた。兄ちゃんがあたしを妹として可愛がるのはまさに一緒にいる時だけで、兄ちゃんの見たいテレビがある時とか、兄ちゃんがなにかと戦うようにご飯を掻き込む時とかは、妹という存在が彼の頭の片隅にさえ存在していなかった。兄ちゃんの都合によってあたしは彼の可愛い妹であったし、また同じようにしてそうでなかったりした。

 でも「お姉ちゃん」はちがうのだ。

 あたしに与えられた「お姉ちゃん」のお仕事内容は、つまるところ姉であり父であり、そして母であることだった。

 姉として可愛がり、父としてやんちゃな弟二人を叱り、母として子供二人の面倒を見なければいけなかった。

 その「お姉ちゃん」という役職を辞任するわけにはいかなかった。七人分の炊事洗濯で一日中休まることのない母ちゃんを目の前に、あたしだけ職務放棄するなんて、それが一家の裏切り者になることは考えずともわかった。

 ご飯の配膳の時、母ちゃんの隣に立つと、たまに母ちゃんは頭を撫でてくれた。それは「お姉ちゃん」に与えられた唯一のご褒美だった。だから、それは良かった。これも、本題に比べれば些細なことだ。

 忽那家では家族総出で農業に取り掛かり、あたしはそれを欠かしたことはなかった。

 日中、働けば働くほど、育ち盛りの身体は燃料を消費して、腹の虫は機嫌を損ねるのだ。兄ちゃんは、食卓では必ずご飯をおかわりするけど、あたしにそれは許されなかった。「お姉ちゃん」の本当の問題はこれだった。

「男たちはよく食べるからね」

 生まれた時から知っていたかのような口ぶりで、母ちゃんは誰に向けるでもなくそう言った。

 あたしはお姉ちゃんだから、男たちがよく食べれば食べるほど、お姉ちゃんは我慢せねばならなかった。

 たしかに、あたしは弟二人が出来たことによって、我慢を強いられる機会は増えた。それにしても、これだけは対等ではないと、腹の内では不服を抱えていた。でも、目の前で同じように我慢をしている母ちゃんがいるから、なにも言えなかった。

 ただのどん百姓のくせに、だからこそかもしれないけど、平成という元号になってもまだ、男性優位の社会がここに築かれていた。





■5



 その日の夜、あたしは布団の中で目を覚ました。

 まだ眠りについてからいくらも経ってない。

 まるで胃のあたりがへこむようだ。菊次郎の足をどかして、菊太郎の手を押しやって、むくりと上半身を起こした。

「……お腹減った」

 家族はみんな寝ていた。明日の朝も早いからだ。

 どうしてこんなにお腹が減るのかわからないけれど、いつもなら我慢できるのに、とにかく食卓のある部屋まで起きて行った。

 当然、食卓にはなにもない。開け放たれた障子から月の明かりが差し込んでいて、鈴虫はまだ鳴いていた。

 台所へ行くと冷蔵庫が唸っていた。開けても中に目ぼしいものはなにもない。とりあえず牛乳を一杯飲んで、コップを流しに置いた。

 今朝穫ったばかりの大根をかじるのはよしておいた。それは前にもやって、辛いだけだと知っていた。

 縁側に腰掛けて外を見ていると、少しずつまぶたが下りてきた。鈴虫の心地よい子守唄と、秋の夜風がさあっと木々を揺らした。

 げこ、と一つ聞こえて、それからぽちょんと水の音がした。あたしは目をこすって、サンダルを履いた。



 目の前の田んぼに行くと水の波紋が広がった。

 きっと蛙がいたのだろう。水面に月が映っていて、その底に黒いつぶつぶが沈んでいるのが見えた。

「きゃびあ」

 ぽつっと覚えたての単語が口をついた。

 それが高級珍味ではなく蛙の卵だって知っていたけれど、夕飯時のテレビの映像が頭から離れなかった。

 また夜風が吹いて稲が揺れると、写り込んだ月とはちがう明かりが水面にあった。道の向こうの山を見上げると、一点の明かりが灯っていた。

 お腹がぐぐうと鳴いて、それがあたしの興味と手を繋いだ気がした。





■6



 夜の森を怖いと思ったことはなかった。

 もともと山育ちだし、夏になれば虫取りに出かけるし、小さい頃からあたしの立派な遊び場だった。

 そこらじゅうに月明かりも照るから、暗くてもよく見える。ふくろうが鳴いてくれるから、この山になにも怖いものがいないとわかる。

 夢中で歩いていると、もう目の前には明かりのついた小屋が見えていた。こんな遅くだというのに、まだ煌々と電気をつけている。

 その小屋は小さいけれど、すぐそばの大きな家と廊下で繋がっていた。その廊下を、お盆を持ったおばあさんが歩いている。

 盆の上にはおにぎりとお椀と……とにかく食べ物が載っているようだった。

 お夜食です、とそのおばあさんは言って、扉の前にお盆を置いて引き返した。おばあさんが歩いて行くと、ぎいい、ぎいいと廊下が軋んだ。

 あたしはそれをしばらく見ていた。おばあさんはあたしに気づかない様子で、そのまま家の中へと入ってしまった。

 あたしは、お腹が減っていた。





■7



 手前の縁側に上り、おばあさんが歩いていた道を辿った。廊下の向こう、小屋の前には食べ物が置いてある。

 あたしが踏み出すと、廊下がぎい、と鳴った。小屋の前の蛍光灯がパチンと弱く点滅する。喉がからからになった。

 少ししても、辺りの虫の声が鳴り続けているだけでなにも変化はなかった。

 安心して、それから次の一歩は廊下が鳴らないように細心の注意を払った。ぎ、ぎ、と小さな音はしたが、辺りに響くほどではない。

 お味噌汁から湯気が立っていた。海苔で巻かれたおにぎりと、よく味の染みていそうなお新香が添えられている。

 滲んできたよだれをごくりと飲み込み、そっと手を伸ばす。

 背筋がぴんと張り詰めた。目の前の扉がススッと開くと、中から白い手が音も無くあたしの腕を掴んだ。

「お腹が減っているのかい」

 白い手の主はその顔も白い肌で覆われていて、眼鏡の奥の瞳の色は淀んでいた。その白髪交じりの大人は白衣を着ていたから、きっとお医者様なんだと思った。

 あたしは嘘をつくことを知らなかったから、正直にこくりと頷いた。声は、出なかった。

「これ、食べたい?」

 また頷くと、お医者様は白い顔でにんまりと微笑んだ。

「食べていいから」

「ほんとう?」

 その時やっと声が出た。この空腹を癒せることが嬉しかったんだと思う。我慢しなくていいのは初めてだったから。

 不気味な白さのお医者様だけど、きっとお医者様だから優しいんだ。なんだ、怖がらなくてよかった。

「ああ、お入り」

 お医者様がお盆を持って中に入れてくれた。

 その部屋の中には大きな機械が色々あって、どれも見たことのないようなものばかりだった。

 部屋の隅にはケージが積み上げられていて、中で真っ白なネズミがケージをカリカリと掻いていた。

 後ろで扉が閉まり、カチリと鍵のかかる音が聞こえて、お医者様はまたにんまりと微笑んだ。

「ちょうど、欲しかったんだ。君みたいなのが」

02.嫌悪マリの場合

■1


 車は唸りを上げて坂道を登っていた。車内が激しく揺れて、それに合わせてシートベルトがなに度も首に引っかかった。

 辺りは真っ暗だった。車のライトは道を照らしているようだけど、私は俯いているからなにもわからなかった。

 隣でママが、まっすぐ前だけを見て運転しているはずだった。怒鳴られたくなかったから、絶対にママのことを見ないようにしていた。

 急に車がストップして、私はダッシュボードの辺りに強く頭を打った。その痛みがまだはっきりと伝わってこないうちに、ママが車を降りて私のほうのドアを開ける。

 ママはなにも言わず私のトレーナーをぐっと掴むと、すごい力で引きずり出そうとした。シートベルトが限界まで引っ張られて私の首を締めても、そんなことはママにとって構うことではなかった。

 抵抗するのも怖かったから、私はなんとかシートベルトをどかして素直に放り出された。地面に倒れ込むと、冷たい土の感触がよくわかる。

 それからママは助手席を閉め、最後までなにも言わずに運転席に乗り込んだ。





■2



 少し前のこと。暗い部屋で、与えられた駄菓子を食べながら、私は食い入るようにテレビの放つ光に照らされていた。

 私が立っているとママは怒るし、なにか喋っても怒るから、そうやって過ごしているしかなかった。

 ママが変わったのはパパが死んでからのことだ。

 パパはすごく優しくて私のことを可愛がってくれたけど、パパがいない間、ママがどんな風に豹変しているかをパパは全く知らなかった。もしくは、気づいていてもなにも言わなかった。

 ママは、私と二人きりになると怒ることしかしなかった。

「あんたの顔を見るとイライラする」

 そう言って、私のことを色んなもので叩いた。パパがいる時はにこにこして私にも優しかった。ママはパパのことが大好きだったけど、私のことは大嫌いだった。

 でも、パパが「がん」で死んでしまってから、私とママはずっと二人きりだ。それに、ママのイライラは前よりひどくなった。

 学校から帰ってくるとまず蹴られたから、気づかれないよう静かに家に入った。そうすると、いつからいたのかと頬を叩かれた。

 友達が遊びに来た時、ママはいつもとちがってとても優しかった。だからママの病気は治ったんだと思ったけど、友達が帰るといつものなに倍もひどく叩かれた。それから私は二度と友達を呼ばなかった。友達はママのことをイライラさせるから悪い。私はもっと悪い。

 友達を呼ばず、静かに帰ってきて、蹴られて、与えられた駄菓子を食べて、あとはテレビの前に座っているのが一番良かった。そうしていればママのことを怒らせなくて済んだ。もしママが怒った時は、うずくまって耳を塞いで、時間が経つのを待てば良かった。

 でも、今日はどうしても話したくなってしまったのだ。学校でもみんなが楽しみにしていることがあって、それがテレビの中でも仕切りに取り上げられているから。

「明日、クリスマスなんだって」

 立ち上がって、ママのそばに行って、そう言った。明日は特別な日だから、サンタさんが来てくれて、なにかいいことが起こるってみんなが言っている。だから、私にもいいことが起こると思った。

 ママは今までで一番顔を赤くすると、私のことを蹴って叩いて、それから馬乗りになって叩き続けた。その間中、ママはなにか怒鳴り続けていたけど、私はなんとか耳を塞ぐことが出来たから聞かなくてよかった。

 ……嫌なことは嫌だから、聞かないことにしてしまえばいいんだ。

 ママが息を切らせて叩くのをやめると、腕をぐいと引っ張って車に詰め込んだ。





■3



 ママの運転する車のテールライトが小さくなっていく。

 私は耳を塞いだまま、それが見えなくなるまで待ってから立ち上がった。

 とても寒かった。冷たい地面を裸足で踏んでいるけど、指先の感覚はもうない。

 辺りを見渡して、ここがどこだかわからないことがわかった。ずっと俯いて耳を塞いでいたからわからないけれど、とにかくここがどこか遠いところの山の中だということに間ちがいはなさそうだった。

 周りに誰もいないことを確認して、それから凍えた指を耳からゆっくりと離してみる。

「もう限界だ! 捨ててきてやる!」

 まだ耳の奥にママの声が反響していた。私はパッと耳を閉じた。

「私は男の子が欲しかったのに!」



 ママの声は嫌だ。忘れよう。

 寒いのは嫌だ。忘れよう。

 真っ暗は嫌だ。忘れよう。

 嫌なことは嫌だ。忘れよう。



 もう一度ゆっくり耳から手を離すと、もうママの声はしなかった。

 代わりに、冷たい風がひゅうと音を立ててそばを通り過ぎていった。

 ママの車は後ろへ走っていったから、私は山を登るしかなかった。

 感覚のなくなった足をどうにか動かしていくと、道の先でなにか白い物が動いているように見えた。歩いていくと、その白い物は道の途中に生えている草をぶちり、ぶちりと千切っていた。

「なにしてるの?」

 私が立ち止まって尋ねると、その白い物は草を千切るのをやめてこっちを見た。

 しばらく眺められていた気がしたけど、やがてその人はこう答える。

「クリスマスイブってのは、不思議なことがあるもんだ」

「え?」

 私はなにをしているのか訊いたはずなのに、その人はまず全然関係ないことを言った。





■4



「薬草をね、摘んでいるんだよ」

「薬草?」

 そんなことをしている人を見たことがなかったから、なんだか楽しそうだった。

「きてごらん」

 そう言って、白い人はまた草をぶちりと千切った。

 寄っていって隣にしゃがみこむと、一本の花を渡された。

「かわいい」

「その茎を絞ると液体が出てくるんだ。手を出して」

 私は言われるままに両手で受け皿を作り、白い人はそこへなに本か茎を絞った。

「飲んでごらん。体にいいんだよ」

 その時初めて、白い人がおじいちゃんで、白衣を着ていることに気がついた。お医者さんが体にいいって言うんだから、私が疑う理由もなかった。

 手のひらに集めた液体をゴクリと飲む。それは少し苦くて、想像していた味とはちがっていた。

「苦いね」

 私が舌を出してみせると、お医者さんは頷いた。

「体にいい薬は、苦いものなんだよ」

 最後にひとつ薬草を摘むと、お医者さんは立ち上がった。

 私も釣られて立ち上がると、膝がかくんと曲がって力が入らなかった。お医者さんが私に薬草を見せてくる。

「この花はヒナゲシと言ってね、磨り潰して出た液体には睡眠作用があるんだ」

 その言葉を聞き終わらないうちに、私は意識を失っていた。

03.冒険イチルの場合

■1



 空気の鋭く漏れる音が、内側からうるさいほどに聞こえた。

 それがしつこく繰り返されてからようやく、自分の生命を維持するのに欠かせない行為だと気付いた。

 必死に呼吸を続けていた。普段は呼吸をすることに意思なんて必要ないのに、今は一生懸命にそれをしなければならなかった。

 口腔の大部分がなにかで塞がれていて満足に肺が膨らまない。目は開けているつもりでも視界は真っ暗だった。鼻の付け根の隙間から僅かに見えている光で、自分自身が視力を失ったわけではないことを知った。

 四肢もなにかに括りつけられていて自由に身動きが取れない。部屋の中に機械の駆動音が低く響いている。

 なんだか頭が重くて、よく思い出せない……。





■2



 今年の年末年始は父ちゃんが出張だったから、三月になってやっといとこたちの家に遊びに行くことになった。

 いつもはみんなで年越しそばを食べて、紅白歌合戦を見て、日付が変わると新年を祝う。それが楽しみだったのに、今年はお預けで残念だった。

 その代わり春休みに遊びに行くことになったのだが、例年とは様子がちがった。



「どうしていなくなったの?」

 あたしは畑の真ん中にいとこの男の子たちを集めて、臨時の『冒険会議』を開いた。この畑はいとこたちの家の土地で、今は春菊を育てているところらしい。

「朝起きたらいなくなってたんだよ」

 いとこの一番上の兄貴が言った。一人っ子だったあたしは兄がいる生活に憧れていたから、四人兄妹の長男、唯一年上のいとこのことを「兄貴」と呼んだ。

 兄貴に釣られて「いなくなってた!」と叫んだ末っ子の菊次郎を、次男の菊太郎がぺちっと叩いた。

「しーっ! 母ちゃんたちに聞こえるだろ」

「ご、ごめん……」

 下の二人はまだ小さくてやんちゃだった。そんな彼らでも静かにしようと努めるのは、大人たちの対応が子供でもわかるくらいに不可解だったからだ。

「父ちゃんと母ちゃんは、神隠しなんだって言ってた」

「カミカクシ?」

 兄貴の口から初めて聞く言葉が出てきて、あたしはそれを復唱した。

 菊太郎は向こうの山を指差す。

「山に住む神様にミソめられて、向こうの世界に連れて行かれちゃうんだって」

「ミソめられるってどういう意味?」

 即座にあたしが聞くと、兄貴も菊太郎も口を噤んだ。

 菊次郎が「ミソらーめん?」と呟いて、また菊太郎にぺちっとやられた。

「どうして探さないの?」

「探したさ」

 兄貴がすぐに答えたから、私もまた聞き返す。

「全部?」

「あの山以外は、全部」

「それじゃあ全部って言わないじゃん」

 あたしは憤慨した。自分たちの兄妹なんだから、もっと真剣に探すべきだ。

「よし、あの山に行こう」

「でも父ちゃんも母ちゃんも、あそこには近づくなって」

 兄貴はいつもの兄貴らしくなく、弱気になって地面に視線を落とした。

 あたしは立ち上がると、「そんなの関係ない」と残して歩き出す。

「いっちゃん!」

 兄貴は走ってきてあたしの腕を掴んだ。

「駄目だよ、あの山には神様が住んでる。あそこに入っていいのは巫女の家系を継ぐ人だけなんだ。他の人が入ると、神隠しに遭う」

「兄貴、怖いの?」

 振り返って問うと、兄貴は逃げるように目を逸らした。

「意気地なし。桜がなにか悪いことしたの?」

「してないけど……」

「じゃあ、そんなのっておかしいじゃん。神様はどうして桜を取って行っちゃうの? そんなの神様じゃない」

 あたしは兄貴の腕を振り払って、春菊畑の真ん中をずかずかと歩いていった。誰もついてくる気配がないことが頭にきて、もう一度後ろを振り返った。

「あんたたち、ヒーローになりたいんでしょ! ヒーローは怖気づかない!」

 鼻息を荒らげて一気にまくし立ててから、あたしは山に向かって歩いた。





■3



 山は入り口からすでに木々が生い茂っていて、見晴らしの良い畑続きの景色に比べると、日中でもかなり不気味だった。

「本当に行くの?」

 後ろの菊太郎が山を見上げて不安そうに呟いた。

「もしかしたら、桜がいるかもしれない」

 正直に言うと、あたしだって怖かった。

 今日は快晴だというのに山中は光が遮られてしまっているし、上へと続いている道もまるで獣道のようで、草むらからなにが飛び出してくるかわからなかった。でも、いなくなってしまったいとこがいるかもしれないし、誰かの助けを求めているかもしれない。そうだとしたら、行かなきゃいけないじゃないか。

「怖かったら、ついてこなくてもいいから」

 あたしは唾をゴクリと飲んで一歩を踏み出した。

 後ろに列を成していた三人の男たちも少し遅れてついてきていた。あたしより弱気だけど、一人じゃないだけ心強かった。



 昔から、いとこの家に遊びに来ると、いとこみんなで探検ごっこをして遊んだ。

 あたしが住んでいる都会はコンクリートで固められた地面から、筋を描いて空を行く飛行機まで、なんでも人の作ったものだから面白みに欠けていた。

 けれどもここは人の手が加わっていないと言っても過言ではなく、ほとんどが自然に支配されていた。いとこの家から少し歩けば水の澄んだ小川があって、そこで魚を釣ったこともあった。森の中へ行くと人の出す音が一切聞こえなくなり、その代わり遠くの鳥が誰かに合図を送ったり、野うさぎがものすごい勢いで駆けていくのを見ることが出来た。

 大地は広大で、いとこたちさえ歩いたことのないような場所がいくつもあって、そこを冒険するたびになにかしらの発見があった。その度に畑の真ん中に集まって、次はこっちだ、いやあっちへ行こうなんて目的地を決める話し合いを、あたしは勝手に『冒険会議』と名づけていた。

 いとこの中で唯一女の子で、あたしと同い年の桜は『冒険会議』にもニコニコしながら参加していた。決して活発なほうではなかったけれど、いつも先頭を歩くあたしとちがって必ず最後尾に立ち、必要な時だけ的確な意見を述べる彼女が、あたしは好きだった。

 なにより家族だし、そんな桜が突然いなくなったなんて、あたしは納得できない。





■4



 とにかくあたし達は山の中を歩いてみることにした。

 獣道は心許なかったけれど、それでもずっと一本道で上へと続いているから、ヒントのないあたし達にはそれを辿る以外になかった。

 特に変わったところはないのに、今まで冒険していた自然とはこの山はどこか空気がちがっているように思えた。

 こことは正反対にある森だって木々が生い茂っていて薄暗く、空気もひんやりしていたけれど、なにかそれとはわけがちがった。だからと言ってなにが原因なのかはわからなかったが、どうやら後ろに続いている三人もそれを感じ取っているようだった。……それとも、単なる思い込みだろうか。

 少なくとも、道を逸れて草木の中を分け進んでいく勇気は、今のところ誰にもなかった。

「なにかある」

 始めに声を上げたのは菊次郎だった。止める間もなく駆けていく。

「こら、菊次郎!」

 あたしも否応なく走らなければならなかった。隊を率いているあたしが、しんがりを追わないわけにはいかない。

「菊次郎!」

 間もなくして菊次郎は足を止めた。あたしの呼びかけに応えたというよりは、止まるべくして止まったようだった。

 そこには一軒の古めかしい平屋が建っていて、おばあさんが軒先で洗濯物を干していた。いくつもの白衣が列を連ねて波打っていて、その光景は意外にもとても爽やかだった。この山に入ってからあたしが警戒していたことが馬鹿らしく思えるくらいに、そこには古き良き田舎の風景が存在していた。





■5



 菊次郎はおばあさんの視界にギリギリ入るくらいのところで、ぽつんと立っていた。おばあさんは洗濯かごを空にして、潤滑油が必要そうな腰の動きでそれを持ち上げると、少年に気づいて「おや」と声を上げた。

「迷子かしら?」

「ううん」

 菊次郎がそう首を振った辺りで、追いついたあたしが彼の肩を掴んだ。

「一人で行っちゃだめでしょ」

 菊次郎を少し後ろに下げると、おばあさんと目が合った。

「お姉ちゃんも一緒なのねえ」

「いち姉はいとこだよ」

 おばあさんはそうかいと言って目を細めると、洗濯かごを縁側に上げた。

 彼女は家事をこなしているただの老婆に見えるし、そうでなくても温厚そうな人物だったから、警戒して後ろで様子を見ていた兄貴と菊太郎に向かってこいこいと手招きした。

「あら、みんないとこなの?」

 全部で四人揃ったのを見ておばあさんは微笑んだ。

「せっかくだから上がっておいき。美味しいお菓子と甘いお茶があるの」

 彼女はそう言って縁側から中へと入っていく。

 あたしたちはおばあさんの背中を見送ったまま、四人並んで立ちすくんでいた。

「どうする?」

 始めに口を開いたのは菊太郎だった。

「甘いお茶、飲みたい」

 菊次郎は素直だ。あたしはそれに反対だった。

「知らない人についていっちゃいけないって、言われなかった?」

「知らない人じゃないよ。あれは御巫のおばあちゃんだ」

 兄貴はそんなことを言った。

「知り合いなの?」

「昔、村の集会で会ったことがある」

 ふうんと、あたしはそんな曖昧な返事しか出来なかった。自分にとっては知らない人だし、こんな山奥に住んでいる老婆のことをどう捉えたらいいのかもわからない。

 その家の居間でおばあさんがお茶を淹れているのを見ると、菊次郎が駆け出していた。

「あ、こら!」





■6



「あらやっぱり、忽那さんのとこの。お兄ちゃんには見覚えがあったものねぇ」

 おばあさんは微笑みながらお茶を配っていく。あたしの前にも湯呑みが置かれた。

 菊太郎と菊次郎はすぐにお菓子をつまんだりお茶を飲んだりして、早々に馴染んでいた。兄貴も人が変わったように、ええそうなんですと大人みたいな喋り方をした。

 騙されていないのはあたしだけだった。田舎ではどうなのか知らないけど、こんな山奥に家が建っているなんて怪しいじゃないか。

「お口に合わなかったかしら?」

 置かれたまま、湯呑みに触っていないあたしに、おばあさんはそう言った。あたしはぶんぶんと頭を振って、おばあさんを見た。

「トイレ行きたい」



 居間を出て、洗濯物の海が見える縁側を通り過ぎ、廊下をぐるっと回り込んだところにトイレがあった。

 古い家屋だったから、予想していた通りやっぱり和式便器だったけど、用を足すつもりはないから問題なかった。

「一人で戻ってこれる?」

「大丈夫」

 細かいところまで気を配ってくれるおばあさんを廊下の角まで見届けて、あたしはトイレの中に入った。

 どう考えても、近くに桜がいる気がしてならない。こんな山奥だし、そこにおばあさんしか住んでいないのも怪しい。

 いとこたちはみんな駄目だ。おばあさんを信じきってしまっていて頼りにならない。

 桜を助けられるのは、あたししかいない。

 あたしはトイレの扉にそっと手をかけた。音が立たないよう慎重に開ける。

 廊下には誰もいなかった。靴下を履いているから、すり足で歩けば足音も立たなかった。

 気になっていたところがある。廊下の途中から別れ道になっていた、離れの小屋だ。他にはなにもおかしなところはないのに、ここだけ後から付け足したような構造だった。

 あそこを見ずにはいられない。あたしの勘は鋭いんだ。

 離れの小屋へと続く廊下の前に立った。あと数十メートル先に、桜がいるかもしれない。

 その考えがあたしの足を焦らせる。床がぎいいと鳴って、あたしは飛びのいた。

 その音が遠くまで響いたような気がしたから、物陰に隠れて辺りを伺った。

「ウグイスバリ……」

 あたしは思い出していた。うちの両親は旅行が好きで、ことさら古都には目がなかった。まだ小さいあたしを連れて、子供から見れば面白くない寺院や街道を練り歩くのだ。

 そんな中で唯一あたしの興味を引いたものがあった。あれは京都のどこだったか、とにかく古い寺院の廊下の一角に、踏むと音の鳴る仕掛けが施されていたのだ。

 本来は外敵の侵入を知らせるためのものだったらしいが、幼い子供にとっては、殺風景な古い建物の中にただひとつのおもちゃを見つけたようなもので、父に手を引かれてもなかなか離れなかった。

 しばらくしても誰もやってこない。この廊下がウグイスバリなのかわからないし、ただ単に老朽化しているだけなのかもしれないけど、それと同等の役割を果たしているのは一目瞭然だ。いよいよもって怪しい。

 あたしは再び廊下に挑み、なるべく音の立たない歩き方で小屋に迫った。それでも、廊下はぎいい、ぎいいと音を立てた。

「桜っ!!」

 小屋の扉を勢い良く開けて、それからあたしは固まった。

 白い機械や器具が並べられていて、部屋の真ん中には診察台のような無機的なベッドがあって、その上に誰か横たえられていた。

 その子が女の子だとわかったのは胸のあたりに少し膨らみがあったからだけど、彼女はそれがわかるくらい簡素な白い布をたった一枚、纏っているだけだった。

 どうしたらいいかわからなかった。あたしがこんなに大きな音を立てて入ってきたのに、その子はぴくりともしない。目は開いているけど、瞬きもしないで天井を見つめているだけだった。

 やっと金縛りが解けて、少しずつ近づいていくと、その横顔が桜ではないことはよくわかった。じゃあ、この女の子は誰だ?

 両手両足と胴がベッドに縛り付けられているのに、抜けだそうともがいているわけでもない。むしろ生きているのかすらわからなかった。

「ね、ねぇ……大丈夫?」

 反応はなかった。瞳はただ一点を見つめ続けている。呼吸はしているようだけど、他に人間らしいところはどこにもなかった。

 ふと、彼女の瞳に入り込んでいた光がなにかで陰った。

「その子はね、マリって言うらしいんだ」

 後ろからしたその声に、振り返る時間はなかった。首元にちくっと痛みが走って、それから……。





■7



 それから、あたしが意識を取り戻すまでどれくらいの時間が経ったのだろう。

 こんな経緯を思い出したって、磔になっている手足が自由になるわけでもなければ、視界が開けるわけでもなかった。

 声を出そうと思っても、口に噛まされたなにかで音が遮られてしまう。

 部屋の外からぎいい、ぎいいという音が聞こえてくる。扉が開いて、誰かが入ってきて、閉まって、がちゃがちゃと鍵らしきものを設置する音が聞こえて、それから足音が近寄ってくる。

 やめて、あたしに触らないで、今すぐ自由にして! その声が、言葉になっていない単調な音を発し続けた。

「君はひときわ元気がいいねぇ」

 おばあさんとはちがう、年寄りな男の声だった。

「あの子はもう駄目だったから、代わりが来てくれて助かったよ」

 あたしの身体が持ち上げられて、壁からベッドへと移される。拘束具は外されなかったけど、視界を覆っていたものだけが取り払われて、しばらく白い光が世界を支配した。

 徐々に視界が戻ってきて、その言葉を発した人物の輪郭を捉え始める。

「さて、研究の続きをしようかな。君は病気なんだけど、大丈夫、私が治してあげるからね」

 白衣を着た不気味なほど白い肌の老人が、あたしの瞳を覗きこんでにんまり笑んだ。

04.欲情ネネの場合

■1



 ぎっ、ぎっ、ぎっとベッドの軋む音が聞こえてくる。

 引っ越してきたばかりのこの家は、2LDKとは言え木造だから遮音性が低く、隣の部屋でなにをしているのかが手に取るようにわかってしまう。

 ベッドが軋むのと同じリズムで、いつもとはちがうママの声がこっちの部屋まで漏れてくる。私はそのリズムに合わせて、オレンジジュースの入ったコップを銜えたまま、橙色の液体を少しずつ迫らせたり遠のかせたりして弄んでいた。ママの声はゆっくりだったかと思えば突然早くなったり、強弱が毎回ちがったりするから、オレンジジュースの波をそれについていかせるのには絶妙な技術が必要だった。

 大事なことをしているから扉を開けるなと、私はママに言われていた。時計を見ると短い針が『2』を通り過ぎている。朝からなにも食べていなくて、空腹が痛かった。

 私は迷った。前の家に住んでいた時の話だが、一度だけ『大事なこと』の最中に部屋を開けたことがあった。その時はちょうどパパが帰宅して、そのことをママに伝えに行ったのだ。

 扉を開けると、ママも『ママの彼氏』も素っ裸で、揃って尻をこちらに向けている二人はお互いに広げた股を打ち鳴らしていた。扉を開けたところからは彼氏の『大事なもの』がママの『大事なところ』を入念に調べているのがよく見えて、ああたしかに大事なことをしているんだなと、私は妙に納得した。

 その時、扉を開けた小さな娘のことを発見したママの表情がさっと変わり、それから彼氏のほうも私に気づいてあっと息を呑み、振り向くとバッグを持つパパの腕が小刻みに震えていた。

 その後、もちろん私はこっぴどく叱られ、そのせいでパパとママはなにか深刻な書類に判を押さなければならなかったし、ママは私と彼氏を連れてこの田舎の村に引っ越してこなければならなくなった。私はパパの方についていきたかったけど、『シンケン』について話し合う時、私のことを引き取ることでパパが躊躇した。それに対してママがしつこく「どうして」だの「あなたのほうがあの子を幸せにできる」だの並べ立て、顔を赤くしたパパが怒鳴り声で沈黙を破ると、ママは目を見開いたままなにも言えなくなった。その時パパはこう言ったのだ。

「あの子も誰の子だかわからないんだろ!」

 喉元まで出かかっていたそれを十年近く我慢していたパパのその言葉は、私の耳をつんざいた。

 結局、パパは『シンケン』を最後まで拒否したし、なにより私の肉親はママしかいないことがわかったから、私に他の選択肢はなかった。どんな経緯があったにしても、少なくとも私の物心がついてからしばらくするまで、ママは良きママでいようとしてくれたのだから、そのことについてママを責めようとは微塵も思わなかった。





■2



 それはさておき、さて今日はどうしたものか。

 部屋の扉を開けても怒られるし、勝手に冷蔵庫を物色しても怒られる。私はしばらくコップの中の液体を見つめて、それからぐいっと飲み干すと、ママと彼氏がいる部屋の扉を開けた。

 理由は簡単だった。興味があった。

 ママはいつも『大事なこと』の最中、まるで踏んづけられた猫のような声をなに度も出すのだ。聞き方によっては誰かに殴られていてもおかしくないような声色なのに、ママはいつも望んで彼氏とそれを行っていたし、終わったあとは満足気だった。まだ子供は知らなくていいとは言うけれど、はたして『大事なこと』なのに私は知らなくていいのだろうか。大人だけなんてずるい。私も知りたい。

 扉を開けると、ママはこっちを向いていた。彼氏を下にしてそこに跨り、その豊潤な胸が男の顔に触れるくらいの高さで激しく跳ねていた。

 ママは私と目が合うと、小さくチッと舌を鳴らして、いっそう激しく腰をくねらせた。それまで余裕があったように見えた二人の顔は恍惚とした表情を浮かべ、突然襲われ始めた男は激しい息遣いとともに情けない声を漏らし始めた。今までにないほど大きな声を上げて、二人のけいれんと共に腰の動きが止まると、ママは男から下りて私に怒鳴り始めた。

 私はというと、それどころではなかった。今しがた見た映像が強く脳裏に焼き付けられ、燻る火種とひとつの疑問を私の中に根強く植えつけたことはたしかだった。

「ねぇ、どこに行くの?」

 私のその言葉はひっきりなしに喚き散らすママの声にかき消され、とうとうクッションを投げつけてきたので、私は仕方なく外に出た。





■3



 空腹を忘れていた。それどころではなかった。ママの喘ぎ声が耳から離れない。

 決して嫌悪感は抱けなかった。むしろ好奇心のほうが強く、仕舞いには『大事なこと』なんだから私もしなければいけないという結論に至った。他のどんなことも羨ましいと思ったことはないけれど、『大事なこと』だけはなぜか特別だった。そのことを考えると、どこか奥のほうが熱くなる。

 でも、どの家を探しても『大事なこと』をしているところはなかった。私はもっと見たいのに、村の人々は穏やかな時間を過ごしているだけだ。

「あんたなんか山に入って神隠しにでも遭えばいいのよ!」

 まだ耳の奥を駆け巡っていたママの声が、急に脳に届いた。引っ越してきて日も浅く、山に入ったこともないけれど、山奥にはなにかあるらしい。そういう噂は聞いていた。

 この村の家屋はほとんど回ってしまったし、山の向こうにも農家があるらしかったから、自然と私は山に向かった。

 草むらを掻き分けて木々を通り抜け、やがて開けた場所に出ると、どこかの家の裏手に出た。裏庭には古びた井戸があって、覗き込むとそれはそれは深かった。

 奥から唸り声のような風の音が聞こえて、その暗闇に吸い込まれてしまう前に身体を戻した。

 私は思わず井戸のそばで立ち尽くした。

 古い家屋、凪ぐ春風、擦れる草花の音。とても静かだ。

 でもそうじゃない。私が求めているのは全く別のものだった。

 もう一度、小屋の方から私に向かって風が吹いて、その微かな空気の振動を、たしかに鼓膜で受け取った。

 なにかを堪えるような声だ。ママが『大事なこと』の始めのうちに出すような、溢れ出る興奮と燃え上がる情欲の音。

 きっとこの声の主は、今まさになにかを待ち侘びていて、潤んだ目で相手を見上げているにちがいなかった。

 私は迷わなかった。声がするのはあの小屋からだ。間ちがいない。

 裏手に見えていた縁側に上り、その小屋へと続いている廊下に進むと、床が軋むのも気にせず私はまっすぐに歩いた。

 扉の前に立つよりも早く、金属が絡むような音がして、その扉が少しばかり開いた。

 私は歓迎されている。ここの人はその大事な行為を見せてくれるんだ。

 高鳴る胸を抑えて、自分の手でその扉を開ける。

 中では少女がベッドに寝かされていて、そのそばに白衣の老人が立っていた。

「こんにちは」

 老人はそう言ったが、私の口から出たのは挨拶じゃなかった。

「『大事なこと』をしているの?」





■4



「大事なこと? ああ、そうだね、これは大事なことだ」

 その答えを聞いて、私は内心とても喜んだ。見ていていいんだ。

「大事なことだから、扉を閉めて鍵をかけるよ。他の人には見えないようにね」

 老人は言った通りに鍵を閉めて、元の位置に戻った。

「私はいいの?」

「君はいいんだ。特別だからね」

 言うと、老人は注射器を持ち上げて私に微笑んだ。

「じゃあ、続きをやるよ」

 私はもう少し近づいて、じっくり見ようとした。さっきのもどかしい声の主はこの少女で、やっぱり潤んだ瞳で老人のことを見ていた。

 老人は注射器の中に入っている赤い液体を少しだけ出してたしかめると、それを少女の腕に差し入れて注入した。

 少女はおかしくなったみたいにぶんぶんと首を振り回し、潤んでいた瞳は涙をこぼしていた。

 私の中の熱が急に冷めて、代わりに別の感情で覆われていく。なにかがおかしい。これは私の求めていることじゃない……。

 次第に少女の身体はガクガクと震え出して、それでも四肢がベッドに括りつけられていて自由が効かないから、そこでのたうち回るしかなかった。

 おかしい。おかしい。これは『大事なこと』じゃない。

 背筋をいっぺんに恐怖が襲って、私は急いで小屋を出ようとした。

 扉に手をかけても開いてはくれなくて、遅れて私は施錠されていることを思い出した。

 震える指で錠を回して、扉と壁を結びつけていた鎖を外すと、扉が少し開いて外の景色が映り込んできた。でもすぐに首根っこを掴まれて、小屋の中へ引きずり戻される。

 声を上げようとした途端、真っ白な手が口を塞いで、老人の顔が目の前に来ていた。彼の顔は、額に青い血管が浮かび上がるほど白くて、瞳の縁も白くなりかけていた。

「なんだ、私の大事なことが見たかったんだろ? 好きなだけ見せてあげるからね」

 私は壁に繋がれ、手ぬぐいを噛まされ、名前も知らないその少女が壊されていくのを、彼女の声にならない悲鳴を聞き、飛び出そうになっている血走った目玉に睨まれながら、膨れ上がった顔から眼球が零れ落ちて息絶えるまで、全てを脳裏に刻まなければならなかった。

 やがてなに日も経って、ベッドから少女の姿が無くなり、老人がシャベルを持って帰ってきたのを見ると、私は恐怖に震え上がった。



 次は、私の番だった。

05.我儘コトハの場合

■1



 うちは裕福だった。私にとっては普通だったけど、周りから見たらそうだったらしい。

 自宅はとてもお洒落。落ち着きのあるヨーロッパアンティークで統一されていて、私のお部屋は白を基調とした家具で取り揃えていた。

 広いお庭には芝の絨毯が敷かれていて、ロットワイラーという犬種のブラウンと走り回ることが出来る。ブラウンは体は大きいけれど、大人しくて優しい性格だった。

「え? カンナムラ?」

 私はブラウンに抱きつきながら聞いたことのない地名を繰り返した。

「そこにはなにがあるの?」

「自然、昔ながらの生活、それに僕の生まれ故郷なんだ」

「お父様の?」

 初耳だった。お父様がどこで生まれたかなんて考えたこともない。きっと、この家で私と同じように育ったんだとばかり思っていた。

 今年の夏休みのバカンスはハワイでもグアムでもフランスでもなく、カンナムラという、私にとっては外国よりも馴染みのないところだった。





■2



 車の中で、私は至ってつまらないという顔をして窓の外を見ていた。外は雨が降っていて、視界も悪かった。

 運転しているお父様は、楽しそうに助手席のお母様もどきと話をしている。時折、お母様もどきが私の顔色を伺うけど、私は一切目を向けなかった。



 お母様もどきと初めて会ったのは三ヶ月前。新しいお母さんを紹介すると言って、お父様がフランス料理店「コライユ」のランチに連れてきたのだった。

 コライユは私のお気に入りのお店だったから、その日は楽しみにしていたのに、彼女のお陰で台なしになった。

 見ず知らずの女がいきなり「あなたのお母さんになりたいの」と告げてきた時には、オマール海老の濃厚ビスクスープを危うく吹き出すという、恥辱この上ないリアクションをとりかねなかった。

 私はニ、三回むせて、それから水を少し口に含み、目を丸くして彼女を見た。少なくとも、せめて、そんなヘビーな話はメインが終わったあとにでもするべきだったと今でも思う。

 そうしてくれていたら、桃のコンポートに添えられたヨーグルトソルベをじっくりと嗜みながら、望み通りの小学生らしい反応も取れたというのに。



 なににせよ、お母様もどきとの初対面は最悪だったし、今もその印象は変わっていない。

 運転中でも満面の笑みで会話しているお父様は、お母様もどきをすでにメトッタつもりでいるのだろうけど、断固として拒否している私の手前、許諾するまでお母様もどきが私にとって戸籍上なんでもない存在である形を崩せないのであった。

 私の本当のお母様はとっても美人だし、あまり覚えていないけど優しかったし、いい匂いがした。

 それに比べてどうだろう。「もどき」の方は左右の目も整っていないし、前述の通り空気は読めないし、なによりメスの匂いの香水がキツくて、文字通り鼻についた。

 名前もフジコだかフジエだか、とにかく私の大嫌いなフジツボみたいな名前で吐き気がした。あれはどこの旅館だったか、サザエにフジツボの跡がついていたから取り替えてもらったのが記憶に新しい。

 そもそも「新しいお母さん」なんて肩書きがおかしかった。じゃあ本当のお母さんのことは「古いお母さん」とでも呼ぶつもりだろうか。どの家庭にとってもお母さんは一人だし、私は自分がそれに当てはまらなくなってしまうことがすごく嫌だった。





■3



「琴葉。着いたよ」

 お父様の声がして、私は自分の腕枕からふっと顔を上げた。ひとつあくびをして外を見ると、すでに降りていた「もどき」が伸びをしていた。いつの間にか雨はやみ、雲の隙間から陽が差し込んでいた。

 ドアを開けて私も降りると、じゃりっとした感触が足の裏に伝わった。地面はアスファルトではなく小石だらけの砂利道だったのだ。別にそれ自体が問題なのではなかった。

「いやあ、こんな懐かしい雰囲気のところに泊まるのは久しぶりだよ」

 お父様が揚々と言ったのは、その砂利道の途中に建っている薄汚い民家のことだったのだ。

「ホテルはどこ?」

 それが私の口をついて出た言葉だった。

 こんな場所に泊まれるわけがない、なにかの冗談だ。だって、玄関脇から見えるすぐそこの部屋の障子だって破れているし、なに回も修繕した跡がある。仮にも客を泊める施設なら、せめて跡のないよう貼り替えていなければ。貼り替えていたところでなにかが変わるようには見えないけれど。

「今夜のホテルはここなんだよ、琴葉」

 お父様は無邪気に、なんの悪意もなく、再度私に目の前の民家を見せつけた。

 その家には投げやりな字で「民宿」と書かれていて、ミンシュクと発音することも出来たが、初めて見た熟語が一体なにを表している言葉なのかわからなかった。

「いやはや、ウチがホテルだなんて……」

 やりとりを聞いていたおじさんが、中から出てきて困ったように笑みを浮かべた。Tシャツに腹巻きをしている安っぽいおじさんだ。

 これがホームレスというものなのかと思うと私は余計に混乱した。だって目の前の家から出てきたのだ。空き巣だろうか。

 不可解なのは、お父様がそんなことも気にせず、そこの入り口で宿帳に名前を書いていることだ。

 玄関前で立ち尽くしていた私は、自分の名前を呼ばれるまでその場から動くことが出来なかった。





■4



『うちはね、今年はオーストラリアに行くんですって』

 私がカンナムラへ向かう少し前のこと。電話口の向こうから紗羅ちゃんのつまらなそうな声が聞こえてきた。

『なんでも牛をまるごと一匹食べるらしいの』

 それはたしかにつまらないだろうから、フィレだけでいいのにねと同情の相槌を打った。他の部位は固かったり脂が乗りすぎていたりで、霜降りなんか考えただけで胸焼けがする。

『琴葉ちゃんのおうちは、今年はどこへ行くの?』

「カンナムラだって」

『え? どこ?』

 訊き返されて当たり前だ。カンナムラが国名なのか地名なのかもはっきりしないのに。



「オーストラリア……」

 私はぼーっとしながら畑の道を歩いていた。あんな薄汚い民家にいることはこの上なく汚れた気分になる。

 ひぐらしが鳴く中、太陽は少し傾いているようで、雲と斜陽の陰影は綺麗だった。

 今頃、この空の遥か彼方で、紗羅ちゃんは賑やかなバーベキューでも繰り広げているのだろうか。

 羨ましい。羨ましい。

 どうして私はこんなところにいるのだろう。こんな、なにもない、寂れた村に。

 後ろからエンジン音が聞こえてくる。見たこともないような田舎専用の小型トラックが、結構なスピードを出して迫っていた。

 慌てて畑のほうに避けると、日中の雨のせいか土がぬかるんでいて、私は田んぼの中に転げた。

 一瞬、なにが起きたのかわからなくて川原に座ったまま呆然とした。どこかが痛むわけではなかったけれど、外出用のお気に入りの服が泥まみれになっていることに気がつくと、途端に涙が溢れ出てきた。

「お嬢ちゃん、大丈夫かい」

 いつの間にか、知らないおじさんが困った顔で駆け寄ってきた。向こうにさっきのトラックが停まっているのが見える。

 私は急に恥ずかしくなった。服が汚れたことか、それで泣いていることか、それとも貧相なおじさんに心配されていることか、とにかく原因はわからなかったけれど、急に自分が惨めになって、逃げ出さずにはいられなかった。





■5



 どうして私ばっかりこんな目に遭うんだろう。お父様がこんなところへ連れてくるから。これだったらどこへも出かけないほうがマシだった。沙羅ちゃんが羨ましい。

 同じ悲しみと怒りをくるくる巡らせながら、大声で泣いている私はなんとか民宿まで戻っていた。

 だけど、最初に私のことを出迎えたのはホームレスのおじさんで、それからお父様が下りてきて、仕舞には「もどき」までくっついてきていた。

 その光景に、私は民宿の中へ入ることが出来ず、玄関前で泣きじゃくった。

「おどう、さま……わた、わたし、かえりだい……」

 なるべく落ち着いてスムーズに話そうと思ったけれど、嗚咽がそうはさせてくれなかった。

 そのことにも苛立ったし、お父様も困ったのか笑っているのかどっちともつかない顔をして、これから私のことをどうにか説得しようと考えているのが見て取れると腹が立って余計に泣いた。

「わだし、かえる」

 短く言えばつっかえなかった。溢れては落ちる涙を手の甲で拭いながら、私は一歩も動かなかった。

「どうしたんだい琴葉。明後日には帰るんだよ」

 お父様はいつもより少し高い声を出してそう言った。

 明後日? 聞き捨てならない。私は、泣きながら、訴えているの。

「やだぁ……いま、かえる」

 表面上は笑っているが、一体どうしたことかとお父様が小さく息をつくと、「もどき」がここぞとばかりに口を開いた。「ここで慰めればポイントは高いわ」。

「ねぇ、琴葉ちゃん……」

「もういい! 一人で帰るもん!」

 だからこそ「もどき」が喋りだしてすぐに私は爆発した。泣きながら、どこへ向かうのかもわからずに駆け出した。

 後ろからお父様たちの声が聞こえたけれど、足を止めるべき理由がない。

 この村に、私の居場所はなかった。





■6



 しばらくがむしゃらに走っていたと思う。誰かがいる場所には行きたくなく、人の声から逃げるように駆けていた。

 冷静になると、自分がどこにいるのかわからなかった。背の高い草むらと木々に囲まれた、夜の森の中だった。

 いつの間に日が落ちたのか覚えていない。見上げても、生い茂った木が月を隠してしまっていた。風が吹くと葉という葉が揺れ、ガサガサと音を立てた。

 突然言い知れぬ孤独感と恐怖が私の身を包んで、一歩も足を動けなくした。ただ、声を潜めてポロポロと涙をこぼすしかなかった。

 とても近いところで、ホウ、という大きな声が私の肩をびくつかせた。ふくろうの声だったけど、一体どこで鳴いているのかわからない。

 また、ホウ、と声が私の背中を撫でた。ホウ、ホウ、ホウ、ホウ。

「やめて……」

 私は泣きながら小さく訴えた。震えすぎて声になったかもわからない。

 真っ暗だった。私の腕を掠めた葉も、なにを見ても黒だった。

 入ってきてはいけなかった。ここは、夜の住民の住処なんだ。私は暗闇に包囲されていた。どうしたらいいんだろう。

 後ろのほうで、がさ、と音がした。風はなかった。私の涙はピタリと止まって、瞬きができなかった。また、がさ、がさ、がさと音がする。徐々に近づいてくる。

「おや、どうしたんだい、こんなところで」

 その声がして、私はゆっくり振り返った。白衣を着た人間だった。

 彼の背の高さだと月明かりが当たるのか、肌はとても白く見えた。

「泣き声がしたから来てみれば、どうした、怖い目にでもあったのか?」

 私は頷くことも首を振ることも出来ず、ただ震えながらその人を見上げていた。この人は、夜の住民だろうか。

「とにかく、夜の山は危ないからついてきなさい。最近、女の子が行方不明になるそうだ」

 そう言うと、白衣の男の人は踵を返して歩き始めた。

 少し迷ったけれど、彼が遠くなっていくに連れて再び恐怖が擦り寄ってくるのを感じ、私はついていくしかなかった。

 後ろで、ふくろうがホウ、と鳴いた。

06.秀才シズクの場合

■1



「なぜ?」

 それが母の口癖。

 四角いローテーブルに卓上ライトを乗せ、資料の海の中で分厚い本をめくり、ミミズののた打ち回るような字を殴り書くと、ペンの先でとんとんといくつもの点を描きながら母はそう言った。

 また本をめくり、しばらく読み耽って突然閃いたようにペンを走らせる。それから別の紙を手元に手繰り寄せ、また「なぜ?」と呟くのだ。

 扇風機も回っていなかった。汗が流れるのも気に留めず、母は私の向かいで研究に没頭していた。宿題の山を片付けて眼鏡がずり落ちるのを直すまで、私も自分の汗に気が付かなかった。

 汗なんかどうでもいい。恐ろしいほどつまらない夏休みの宿題が憎くてたまらなかったから、私は終業式から帰ってきてすぐに取り掛かった。

 終業式は昨日のことで、「つまらない」という重罪を許せなかった私は、すでにほとんどの宿題を終わらせていた。今は午前八時二十分。

 残っているのは自由研究だけで、むしろ私はこれに一番苦心した。担任の教諭は好きなものを調べてまとめればいいとだけ言っていたけど、私には思い当たるものがなかった。

 特にこだわりのない私は、題材なんて本当になにでも良かったから、先ほど母が目の前で閉じた「超常現象とその一覧」という本をこっちへ引き寄せた。表紙には無機的にその文字だけが書かれていて、「いきものずかん」のようにイラストがふんだんに使われた、私を馬鹿にしたような本よりなに倍も好感を抱けた。

「あんた、それ読むの?」

 その本を開くと、母は手を止めてこっちを見た。私は目次をさっと目でなでてページをめくる。

「自由研究だから」

「自由研究で超常現象をまとめるの? 子供らしく読書感想文とかにすればいいのに」

 白紙を挟んで「はじめに・そもそも超常現象とは」という章タイトルが書かれていた。なんで子供だというだけで子供らしくしなければいけないのだろう。

「じゃあこれの感想文を書く」

「あっそう。ヘンな子」

 それは仕方のないことだ。ヘンなあなたの娘なのだから。

 母はしばらく私のことを見つめてから、なにかわかったら教えてねとだけ言って研究に戻った。





■2



 近頃、母は超常現象についてひどく熱心に研究している。母が持っていた本のタイトルに「超心理学」の文字を見つけた時は目を疑った。

 それまで科学と研究ひとすじだった母だから、むしろ科学とは真逆のことを調べ始めたのは青天の霹靂とも言えた。母はもともとヘンだったけど、これまでこだわりのあったヘンだったのに、ついに気が狂ってしまったのだと思った。

「目の前で見せられたのよ」

 だがどうも事情はちがうようだった。

 母の話によると、ある日、知り合いの教授に誘われて、山村千恵子なる人物の「超自然的な現象」、いわゆる超能力を見せつけられたのだとか。

 その教授によると、かの女性・山村千恵子は透視や予知の能力を持っていたという。実際、母の目の前でも触れずに封筒の中身を言い当てたり、指定されたマークを紙に浮かび上がらせたりすることが出来たそうだ。本当のところはどうだか知らないが。

 これまで物理と化学によって説明できないことなどなかったから、科学が絶対だと信じていた母が、初めて説明できないことに遭遇してしまったのだ。

 当然、その現象については慎重になに度も検証したらしい。しかしどんな手段を使っても、山村千恵子の行ったことについては説明ができなかった。

 そこから、母の至るべき結論は二つに分岐した。

 ひとつは科学的立場を貫くこと。山村千恵子の超能力について科学に基づく解明をし、超能力というあやふやな言葉で片付けられることを回避する。

 もうひとつは超能力を認めること。山村千恵子がしでかした超自然的な現象について、それが超自然的であることを立証し理解する。

 後者は、今まで科学者として生きてきた母自身の人生すら否定することになりかねなかったが、どちらにせよ、超能力やその周辺の背景について、まずは深く理解せねばならなかった。

 だから母は、世間一般からはトンデモ話にしか見えないような文献を、 こんな気温の中でも食い入るように読み漁っているのだ。

 私はその話を母から聞き出して、驚きも感心もしなかったけど、推測が確信に変わったことだけは嬉しかった。

 私の母はなにがあっても本と戦うのをやめないんだ。例え隕石が落ちてきたって、その隕石が地表に衝突して地殻をめくりあげ、母の足元を吹き飛ばすその瞬間まで、なぜ隕石が落ちてきてどう地殻が剥がれるのか、はたまた自分が死んだあとどうなるのかを至って真面目に、命の限り考え続けるにちがいない。

 私はそんな母が好きでもなかったし嫌いでもなかった。肯定もしないけれど、否定だけは絶対にしない。

 最低限の子育てだけこなし、あとは研究に没頭するその姿は、少なくとも短い人生を生きる人間として間ちがっているとは思えなかった。だってこれは、人間にしかできないことなのだから。





■3



 私が「超常現象とその一覧」を三十ページほど読み進めた頃、けたたましい電話の呼び鈴がしつこい目覚まし時計みたいに鳴り響いた。

 ふと顔を上げるとすでに母がペンを放り投げて立ち上がっていたので、私は予知に関する項目に再び目を落とした。

 なるほど、予知とは通常、予知能力者自身にもコントロールできるものではないらしい。大抵の場合はなんの前触れもなく不正確な未来のことを夢に見ることが多く、またそれぞれの夢もいつのものだかどこなのかも不明瞭。

 名ピッチャーのようなコントロールができるのはごくわずかの人間であるように、案外、超能力というものも持っているだけでは不便なのかもしれない。どういう意味を持っているのかわからない夢を無作為に見せられるのも、なかなか悩ましいものだろう。

「神隠しの起きる村?」

 電話口に向かって喋る母のその言葉に、私は思わず目を上げた。

「へぇ、ああそう……それはいかにも非科学的で胡散臭そうな……まあいいわ。で、どこにあるの?」

 電話の向こうの声に入念に聞き入りながら、母は手元のメモにぐりぐりとえんぴつを押し付けた。

「遠いわね、次に私がまとまって予定を空けられるのは……っと」

 母は話しながら目で手帳を探し、それが私の目の前にあるとわかると、手帳を指さしてから手のひらを自身のほうへくいくいっと返した。私は手帳を取って、指示された通り母に向かって投げた。

「うわ、来月も再来月も埋まってる……十月の講演会どうにかならない? こんなのに来る輩なんて形だけインテリぶりたいだけで、みんな私の言ってることなんかわからないんだから……ああ、はいはいわかったわよ。じゃあその次に行けるのは……」





■4



 それから四ヶ月経った十一月。母の身動きが取れるのは一番早くて今日だった。

 この夏は猛暑だったというのに、そんなことにはお構いなしであっという間に寒さが身にしみるようになっていた。

 うちは母子家庭であったから、私は母の出張には必ずついていかされていた。子守を頼めるような知り合いもいなかったし、ついでにいい社会学習になると言って、母はほとんど毎月、出張のお供に私を連れた。

 私は小学生にしてすでに中学レベルの問題が解けるほど成績も抜きん出ていたから、母の出張のために私が学校を休みがちになることについて、担任を論破することもそう難しくはなかった。私は特に出張についていくことを望んだわけではなかったが、もう理解し尽くしたことに関してでも大人しく授業を受けるという無意義な行為はもっと望まなかったので、母が担任のぐうの音すら論じて砕かんとしている少しの間、私は一切口を挟まなかった。

 東京でも北京でも、ウィーン、ニューヨーク、シドニーでも、母は私を連れて学会や講演会に臨むことが出来た。私にとってはどの出張も同じように思えた。東京も含めてどこへ行くのにも飛行機に乗らなければならないし、知らない大人とは話さないので、そこが日本でも外国でも関係なかった。それは、『神隠し』が起きるというこの神無村でも同じことだった。

 村の入り口をくぐる時に『ここから神無村』という看板が、うっかり見落としてしまいそうなところに立っていた。私が最初に耳にした時には気付かなかったが、神無村という文字列はどこか見覚えがある気がした。少し考えてもどこで見たのか思い出せなかったからさほど重要ではないはずだけど、私がその村の名前を見るのが初めてでないことはたしかだった。

「遠かったわね」

 タクシーを降りてトランクから荷物を下ろすと、母は開口一番そうぼやいた。母との出張で十時間にも及ぶフライトも経験したことのある私は、その意見にはまったく賛同しかねた。それに比べれば四時間弱の旅路なんてあっという間だったというのに、母はどうにも不服なようだった。

「よりにもよってどうしてこんなに遠い村なのかしら。もっとうちの近くで神隠ししてくれてもいいものよね?」

 荷物を引いて宿に入っていく彼女は私に話しかけたようにも見えたが、私はあとについて横目に流しただけだった。そんなにあちこちで神隠しが執り行われていたらたまったものではない。

 それよりも、私はこの村に入ってどこかちが和感を覚えていた。今まで母に連れられて色んなところを見てきた。日本はもちろんだし、アジア、アメリカ、ヨーロッパの各所も回った。しかしその中のどの場所にも、こんな歪な空気感を持ち合わせているところはなかった。

 一体なにが、私に妙な感覚を抱かせるのだろうか。ここが『神隠し』の村だから? ちがう。母が山村千恵子になにを見せられたのかは知らないけれど、私は非科学的なものを信じていない。

 私は、私達が滞在する二階の部屋から村を眺めた。

 寂れた村ではあったが村民は温厚だし、以前に新聞の連載コラムにあった『地域信仰ーそこに息づく神々ー』に書いてあったような、排他的な集団信仰も見られない。そもそも、そんなところに宿が建つわけがなかった。

 むしろ神無村ほど寂れた山中の村落に宿が経営していること自体が不思議だった。私達以外に客もいないから観光地というわけでもなさそうなのに、どうして宿を開けているのだろうか。

「なぜ……あ」

 呟いてしまってから焦って口を塞ぐ。母の口癖を私が言っていた。

 口を塞いだ理由はなんとなく恥ずかしかったからだ。私は私なりに、母とはちがう道をしっかりと歩んでいるものだと思っていたから、母の片鱗を自分の中に感じてしまうと、どこかむず痒い感覚が私を襲った。私はそれを誤魔化すように眼鏡をかけ直す。

 嬉しいのか悲しいのかわからないけれど、珍しく私はなにかを感じることが出来た。





■5



 母は手始めに周りの村民へ聞き込み調査をかけることにした。

「雫、いい? この村を歩く時は、絶対に私の後ろを離れないでね」

 宿を出てすぐ、母がそう言って聞かせたので、私は心底驚いた。今まで、例えば白目の黄色くなった黒人が死んだ目で見てくるような、パリの路地裏を歩いた時だってそんなことを言わなかったのに、今回に限って母はこの上なく真剣な眼差しをした。私はそんな母に気圧され、無意識に深く頷いた。



 聞き込みは至って簡単だった。そして母が真剣な眼差しで私に言付けたのもすぐに納得が言った。

 まず始めに宿屋の主人に尋ねると、すぐに当たりくじを引くことになるのである。

「そうですね、ここのところこの村では不可解な現象が起こっていて、村民はそれを神隠しと呼んでいまして」

 主人は机の引き出しから宿帳を取り出してこちらに向けた。

「ほら、ここに書いてある。月野木さんだ」

 開かれた宿帳を覗き込むと、今年の八月に『月野木・大人二人、小人一人』と記録されていた。そこから私達の苗字である『九十九』が書かれた今日まで、実に八組もの宿泊客がいた。

「親子三人で来たようでしたが、どうもわけありみたいでね。口論になってお嬢ちゃんが飛び出していってしまったんです。それっきり」

「それっきり?」

 主人が妙なところで言葉を切るので、母はすかさず聞き返していた。

「神隠しですよ。それっきりお嬢ちゃんは戻ってこなかった。こんな狭い村で、忽然と姿を消しちまったんです」

 主人が宿帳を閉じて、胸元から煙草を取り出した。

「その子の捜索はしたの?」

「まあ、月野木の旦那さんが散々喚き散らしてしまいましたから。近くの町の駐在も呼び寄せて、村総出で、一応、探しはしましたね」

「一応?」母はどうしてもその言葉に引っかかるようだった。「一応ってどういうこと?」

 ぷかーっと煙をくゆらせて、それから主人は宙を見た。

「だから、神隠しなんですよ。少なくともここの連中はみんなそう思ってる。この村で神隠しが起きるようになって、わかっているだけでもう四人ですから」

 そう言ってから、主人は紫煙ごしにゆっくりと私のことを眺めた。

「どうして連れてきたんです?」





■6



「神隠しなんて、あるわけがない」

 山道を行く途中で、母は自分に言い聞かせるようにそう呟いた。私は隣を歩いている母を見上げ、あと少しでその矛盾した言動について言及してしまうところだった。母の手が、私の手を強く握っているのだ。

 物心ついてからこれまで、母が私の手を握って歩くことなど一度もなかった。私はいつだって母の背中を見ながら歩いていたし、一人で歩くことは怖くなかった。

 神隠しなんて事象があるはずないことは、私はしっかり承知していたから今だって怖くないけれど、どうやら母はそうはいかないようだった。

「神隠し、信じてるの?」

 私がそう訊ねても母は歩みを止めない。

「信じてないわよ。でも、神隠しに準ずるような人為的な行為がこの村で行われているのだとしたら、あなただって危ないじゃない」

 その意見には私も同調できた。たしかに行方不明者は出ているのだから、村人たちが神格化してしまう神隠しという行為は、人間である誰かが行っているものだと仮定して妥当なものだ。

「この道で合ってる?」

 次第に道幅の狭くなっていく斜面を見て、それが私の口を突いて出た。

「合ってるはずよ。例の農家に行くためには、この山を越えなければいけないんだから」

 宿屋の主人は神隠しについて有用な情報を教えてくれた。他の行方不明者はいずれも外から来た人間らしかったが、一人目はこの村の住人で姓を忽那という、山向こうの農家の娘だった。今でもそこに住んでいるということを聞いて、まず向かうべきところがそこであることを母は確信した。

 山は鬱蒼と茂っていた。やっと車が通れるくらいの道幅で、でこぼこした悪路ではあったが、上に向けて道は伸びていた。

 私はふとあることに気がついて足を止めた。立ち止まった私に引っ張られて、母が振り返る。

「どうしたの?」

「……音がする」

「え?」

「静かに」

 山の上のほうから降りてきた冷たい風が、母の束ねた髪と一緒に辺りの木々を揺らすと、遠くから地面になにかを突き刺すような音がざっく、ざっくと聞こえてきた。

 母はおよそ音の出処であろう辺りを眺めると、「本当だわ」とさらに耳を澄ませた。

 音のする方へ登っていくと、やがて一軒の平屋が現れた。ざっく、ざっくという音は家の奥の方から聞こえてくる。

「ちょっと道を聞こうか」

 母はそう言って、開け放たれていた玄関の引き戸から中を覗き込んだ。

「ごめんくださーい」

 私は後ろでその背中を見ながら、彼女にしては控えめな音量だと思った。神隠しを起こしている人物がいるかもしれないと思って少し弱気なのだろうか。

「ごめんくださーい!」

 今度はさっきよりも強めに声をかけたけれど、 ざっく、ざっく、ざっくという音は同じリズムを刻んだまま、止む気配がなかった。

「困ったわね。裏へ回ってみましょ」

 私が頷くよりも早く、母は玄関脇を家の裏手へと進んでいた。いつの間にか繋いでいた手は離していて、私は母の背中を追うように歩いた。





■7



 その家の裏手には古びた井戸があって、向こうに離れの小屋も見えた。白衣を纏った男性がシャベルで穴を掘っていて、彼に近づいていく母を見たまま、私はそこから動けなくなっていた。

「あの、すみません。お訪ねしたいことがあるのですが……」

 母はそこで声をなくした。

 彼女の視線が井戸の周りにある四つの掘り返された跡を捉えて、それから今掘られている穴を見て、ようやく井戸の陰に横たえられた少女の死体を見た。私はすでにこの位置からそれが見えていたから、母を止めることも出来なかったし声も出せなかった。

「雫っ、逃ゲッ」

 ごん、と鈍い音が響いて、母の言葉が妙な途切れ方をした。不意に大きく振るわれたシャベルが母の頭を横殴りにし、彼女の体が奇妙に曲がって地面に落ちた。

 それから男はなに度もなに度も、帆立貝の殻が割れるまで石を叩きつけるラッコのように、倒れ込んだ母の頭部だけを正確にシャベルで打ち続けた。母の頭は毎回微妙にちがう音を鳴らして、殻が壊れていく様を克明に私に告げていた。やがてその音が粘り気を含むまで男は執拗に頭蓋を打ち砕き、それが終わるとシャベルを捨てて私のほうへと歩いてきた。

 その時私は、初めてその男が老人であることに気付き、不気味なほど白いことにこの上ない嫌悪感を抱いた。

 きっと、こういう時、普通は逃げ出すべきなのだろうけど、すでに全身が硬直していることを私は知っていた。代わりに私の頭を駆け巡ったのは閃きだけだった。

 神無村という文字列をどこで見たのか思い出した。あれはある日の新聞、隅のほうに小さく神無村の記事が載っていたのだ。見出しは「少女連続誘拐事件か」……。

 涙が出るどころかからからに乾いてしまったこの瞳が、白衣の老人から伸びてくる手を鮮明に映しだした。

07.千夜子の場合

※このエピソードは「セヴンデイズ あなたとすごす七日間」ゲーム本編の重大なネタバレを含んでいます。
 それでも構わない方は下へ…































 昔から、長い休みになると祖父母の家を訪れるのがうちの習慣だった。

 祖父母の家は人里離れた山奥にあって、とても静かなところだ。



 祖父は研究者らしく、少し変わった人で、日がな部屋に閉じこもっては研究と称して顔を出すことはなかった。小さかった私にはよくわからなかったが、両親からは「仕事だから近寄るな」とだけ言い付けられていた。祖母は手厚くしてくれたが、祖父は私に見向きもしなかった。そもそも、祖父の姿を見ることすら珍しかった。



 一度、祖母が大量の食事を運んでいるのを見た。それをどうするのか尋ねると、閉じこもっている時、おじいちゃんはよく食べるのと、祖母は決まって微笑んだ。そうとは言え、尋常ではない量だった。

 祖父がそれを平らげる様子を見たくてついていこうとしたが、その渡り廊下から先は近づいてはいけないと、祖母に歩みを止められた。祖父は、仕事の邪魔をされるとひどく怒るらしい。



 結局私は、祖父が何者なのか知らぬままでいた。





 まだ小学生になって間もない頃、珍しく父と母が喧嘩をした。あなたのお父さんはおかしいとか、千夜子は自由にはさせないとか、母は父に向かって怒鳴っていたが、父は聞く耳を持たなかった。ちょうどそれを境に体調が急変した母は、やがて他界した。

 お母さんは病気だったんだ。父はそう言って、私も同じ病気なんだと告げた。



 それからまもなくして、私は車に乗せられていた。6月の終わりの頃だった。

 父は祖父母の家へ行くのだと言った。祖父が私の病気を治せるらしい。毎年祖父母の家を訪れるのは夏休みだったから、少し不思議な感じだった。

 学校は、と訊くと、病気だから行かなくていいと返された。平日に学校を休んでどこかへ行くのは特別な気がして、それ以上は聞かなかった。



 都会を外れ、景色が田舎へ変わっていくと、夏の匂いがした。車は村落を抜けて山道を走った。祖父母の家へ向かう山道はいつもガタガタと揺れて、それがまた懐かしかった。

 祖父母の家へ行くと、いつもとはちがうことに私は驚いた。出迎えてくれた祖母の隣に、白衣の男性が立っていた。日に当たっていないような肌の白さで、白髪混じりの黒髪。

 それが祖父だった。直射日光の下で照らされたその肌の血色のなさは、とても不気味に思えた。



 車を降りると、千夜子の好きな甘いお茶があるからねと祖母が手を引いてくれた。スイカは、と訊ねると、あと半月もすれば食べられると言われた。私は祖父母の家に来た時の、裏の井戸で冷やしたスイカが大好物だった。

 ふと振り返ると、祖父が父に封筒を渡しているのが見えた。祖父も父も実の親子なのに、どこか他人のようなやりとりだった。奇妙な光景を尻目に見つつも、いつものように家に上がった。





 そして、その日のうちに、私はその小屋に連れてこられた。

 病気を、治すために。

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