だからこそ私たちは声をあげなくてはいけない…羽生結弦を貶める「虚構」そして「卑怯者」の記事

日野百草 ファンしか知らない羽生結弦

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これがそうした媒体の手口である。反応があればしめたもの

 比べて、いずれかを貶める。

 それは至極誤りなのだが、その誤りをあえて行う。これがそうした媒体の手口である。

 反応があればしめたもの、実際のところ、それが目的であり、つまるところ目的外利用である。

 先に書いたが、正確には単に「比べる」ことと「比較」は異なる。学術的にも「比較」は重要である。それは漢字にあらわす通りである。

 選り抜くなら「比」とは人と人を並べることになる。文字通り単に人と人、転じて物と物を「比べる」ことなので、「比べる」だけなら善意にも、悪意にも使われる。

 次に「較」だが、これも「較べる」(常用外)である。しかし語源を見てほしい。車に交わる、と書くのだが、これは馬車の両サイドにあるつかまる場所「較」となる。要するに乗り手のつかまる左右、ひいては二頭の馬(手綱)を指すことになるが、それを「較べる」そして改善に導くことは馬車をより正しく前に進めることになる。馬車の左右に非対称性があるなら前に進むのに芳しくない。だから左右を較べ、物事を前に進める、ということになる。これがあって初めて、本来の意味である「比較」という意味を為す。比較文化論や比較史、比較宗教学などはそうした「比較」に基づいた学問である。

残念ながらメディアの一部にはそうした「比べる」ことを面白がる風潮

 同様に羽生結弦を歴史上の事象や主要人物と「比較」することは羽生結弦という存在の評価、意味の検証と価値創造につながる。それは時代(限定したフィギュアスケート史であろうと、大きな枠としての日本史・世界史であろうと)をより善くすること、善く伝えることにつながる。もちろん提灯記事とか幇間芸ではなく、事実を事実と比較して、それを前に進めるという当たり前の学術としての「比較」である。

 私たち羽生結弦と共にある人々もまた、記録や史実においてこうした「比較」を心がけている。本来の比較とはそうでなければならない。単に「比べる」ましてや貶めるための上下や優劣、貴賤を命題としたものに意味を見出すことは難しいだろう。

 少し前置いたが、残念ながらメディアの一部の編集者や記者、ライターにはそうした「比べる」ことを面白がる風潮があり、そうした読者もいることは事実である。また陰謀論は控えるべきだが、何某かの組織による「圧力」というものが介在する場合もある。それもまた私がメディアにあっても経験した、事実である。

 実のところ今回など、明らかに貶めることが目的なので浅田真央である必要などない。たまたま文春がアイスリンクに関する羽生結弦の「難くせ」を思いついて書いた。その追い記事の女性セブンとしては同じ内容で書くわけにはいかないので少しひねりたい。そこで「MAO RINK」があるじゃないか、と。

 その対比だけで記事はいっちょ上がり、あとは「羽生結弦はビジネスライク」で「浅田真央は未来の子供たちのため」というシナリオを作って書けばいい。理屈はあとづけなので、どうとでも書ける。実際、大谷翔平と比べる記事もそうだったはずだ。

 いい年した大人が、大出版社の社員やスタッフがそんなレベルで仕事をするのかと思う向きもあるかもしれないが、残念ながら「そんなレベル」もいる。学歴やキャリアと人格は別問題だ。「マヲタとユヅリスト(ネットスラングから派生してメディアが乗じた蔑称)は対立させれば面白い」「推し同士の揉め事は燃える(炎上、という意味)」と、ネットの一部にある「対立厨」そのままに公然と記事を書く人が本当にいたりする(これは文春や女性セブンと別媒体で本当に某編集者から聞いた言葉)。

 もちろんそんなのは全員でなく、一部にそういうメディアの人間がいて、迎合して売れればなんでも構わないという方針を打ち出す上がある。売れなければ消えるだけだが、一定の数字を出すからたちが悪い。もちろん羽生結弦という「ブランド」に乗じて。

だからこそ私たちは声を上げなければならない

 だからこそ私たちは声を上げなければならないのだが、繰り返し声を上げることは本当に大事で、事実とは繰り返し語らなければ伝わらないのだ。おかしな話だが、虚構のほうが簡単に伝わり、残る。事実は事実であるほど「真実」となるまで時間がかかる。それも何度も繰り返し声を上げなければ事実は真実にならない。

 およそ100年前のニジンスキーもまたいわれなき誹謗中傷に苛まれたし、死後もまたそうしたメディアがこぞって面白おかしく書き立てたが、それに対して事実を伝え続けたのはかつてのバレエ・リュスの仲間たちや協力者、そして多くのニジンスキーを愛した当時の人々だった。それでもいまだにでたらめを書かれたり、ニジンスキーの墓にわけのわからない彫刻が置かれたりする。読売文学賞を受賞した『ニジンスキー 踊る神と呼ばれた男』(みすず書房)を執筆した鈴木晶・法政大学名誉教授はその彫刻に対して「ニジンスキーを愛するすべての人が、この醜悪な彫刻が撤去されることを願っている」と書いている(同書、382頁)。どうしても書かなければいけないからこそ書いたのだと思う。それこそ作家性の発露だと思うが、私たちも羽生結弦という歴史を、史実と共にある創作者であるからこそ、声を上げる。

 それでも歴史における「虚構」は確証バイアスに陥り易いので、繰り返し事実とその裏づけが必要になる。だからこそ学術とは同じことの繰り返しのように見えることもあるのだが、とくに虚構のほうが信じてもらえるし拡がりやすく、そしてメディア側も虚構(あるいは未検証)のほうが裏づけは要らないので書くのに楽で量産し易い。

 まして結文も「批判」にもなっていない「“故郷”の新リンクでの表現は異なるようだ」と逃げを打っているだけ、もちろん執筆者の名前もない。まあ、同じ物書きとすれば「卑怯者」の記事と言って差し支えないように思う。

繰り返すが、稚拙であり、「愚か」である

 またメディアの手の内を私のほうから明かすとするなら、この記事の大元は「女性セブン」本誌である。つまり「女性セブン」という雑誌を買って読む人しか本来は読めない記事である。それを「NEWSポストセブン」というネット媒体でネット記事として改めて出す構図がある。「AERA」本誌と「AERA dot.」と同じ構図でこれは他媒体も同様である。また「毎日新聞」と「サンデー毎日」、並びに執筆者である「元サンデー毎日編集長」というフリーライター、という構図と同様である。

 いずれも羽生結弦関連で物議をかもした媒体だが、日頃のせっかくの良記事も同じ社内、グループ内の別部署のために台無しになってしまう構図、これは「表現の自由」が各編集者および記者、ライターにあるがためのものだが、そこに「較」がなければ正しく前に進まない。ひとえにメディアの問題であり、自戒も込めるなら憤りを越して恥ずかしく思う。

 ともあれ今回の「女性セブン」の記事は繰り返すが誤りであり、稚拙であり、「愚か」である。それにしても文春に乗っかって何を書きたかったのか意味不明だが、こうした記事があるようでは、ただでさえ若者からそっぽを向かれ、多くの銀行や病院、美容院などから消えて久しい女性週刊誌、消えゆく定めのように思う。

 時代のアップデートについていけない媒体は消える定め、相手のレベルに落ちないように、羽生結弦と共にある人々は「事実」にしっかり声を上げる、歴史を、時代を前に進めるということは、そういうことだ。私も信じるからこそ、共に声を上げ続ける。

この記事の著者
日野百草

1972年、千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。国内外における社会問題、社会倫理のノンフィクションを中心に執筆。ロジスティクスや食料安全保障に関するルポルタージュ、コラムも手掛ける。2018年、評論「『砲車』は戦争を賛美したか 長谷川素逝と戦争俳句」で日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞を受賞。

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