太平洋戦争 開戦前の1年をたどる
1940年12月14日(金) プルトニウム発見
この日、カリフォルニア大学でプルトニウムが発見されたが、第二次世界大戦中のため秘密にされた。
プルトニウムは長崎に落とされた原爆の材料。
原爆を開発した科学者を描いた番組に、BS1スペシャル「”悪魔の兵器”はこうして誕生した~原爆科学者たちの心の闇~」がある。
1941年2月11日(火) 野村駐米大使がワシントンに到着
野村駐米大使がこの日ワシントンに到着。翌12日にはハル国務長官と、14日にはルーズベルト大統領と相次ぎ会談する。ルーズベルト大統領との会談では、野村大使が信任状を棒呈。外務省外交史料館所蔵の「外務省記録」によると、野村大使は松岡外相にあてた報告の中で、大統領が国務長官に紹介されるよりも前に「オールド・フレンド」と呼びかけ、「極メテ打解ケタル態度」だったとしている。
1941年4月22日(火)訪欧から帰国した松岡外相に「日米諒解案」が提示される
この日、ヨーロッパ訪問を終えた松岡洋右外務大臣が帰国。立川飛行場に到着し、近衛総理大臣らの出迎えを受けたあと、東京市内へと移動する車中で外務次官からはじめて「日米諒解案」についての説明を受けた。松岡は同日夜の大本営政府連絡懇談会で、「日米諒解案」は「二週間か一カ月二カ月ぐらい」慎重に考えなければならないと意見を述べた。※写真はヨーロッパから帰国した松岡外相(右)。左は近衛首相。
1941年5月27日(火)米大統領 炉辺談話
この日、ルーズベルト大統領が「炉辺談話(大統領が国民へ直接語りかけるラジオ番組)」で、国家非常事態宣言を公布。「日本ニュース」では、大統領が、「西半球を侵さんとするあらゆる策動を排撃するに足るだけの力を備えなければならない」と訴える様子を伝え「アメリカの戦争参加への道をさらに一歩踏み出しました」と報じた。しかし、談話には日本への言及がなく、アメリカのメディアは日本のドイツ・イタリアとの三国同盟への熱意が冷めたと報道。そのため、松岡外相は野村大使に報道の経緯を報告するよう求め、野村大使は三国同盟における日本の立場はハル国務長官に説明していると報告した。
1941年7月18日(金)第3次近衛内閣が発足
第2次近衛内閣は日米交渉に反対する松岡外相更迭のために7月16日に総辞職、外相に豊田貞次郎を据え、第3次近衛内閣が18日に発足した。※写真は内閣情報部により刊行された週刊のグラフ雑誌「写真週報」に載った第3次近衛内閣の閣僚。
1941年8月14日(木)米国大統領と英国首相が大西洋で会談し大西洋憲章を発表
英国チャーチル首相は新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ号に乗艦、大西洋を渡りカナダのニューファンドランド島で、米国ルーズベルト大統領と会談。両首脳は、8か条からなる「大西洋憲章」を共同宣言として発表。その趣旨は(1)領土の拡大を求めない(2)国民の自由に表明する希望と一致しない領土的変更を欲しない(3)すべての国民がその政体を選択する権利を尊重、強奪された主権と自治が回復されることを希望(4)すべての国に世界の通商および原料が均等に開放されるよう努力する(5)改善された労働条件,経済的進歩,および社会保障を確保するための国際的協力を希望(6)ナチの暴政を破壊したのち,全人類を恐怖と欠乏から解放することを希望(7)全人類が妨害を受けることなく海洋を航行できるようにする(8)侵略の脅威を与える国の武装を解除し,恒久的な全般的安全保障制度を確立することに努め、また軍備負担の軽減を助長する。だった。※写真はプリンス・オブ・ウェールズ上のルーズベルトとチャーチル
1941年11月7日(金)野村駐米大使 ハル国務長官に「甲案」手交
この日、野村大使は若杉要公使と共にハル長官の私邸を訪問し、バレンタイン米国務省参事官同席のもと「甲案」を手交した。ハルは、甲案に記された中国からの駐兵と撤兵との割合を尋ねただけで、それに対する野村の説明に対しても「検討したうえで回答する」と述べたと外務省の記録にある。※写真は1941年2月に撮影されたハル国務長官と野村大使
1941年11月16日(日) 来栖特命大使がワシントンに到着
野村吉三郎駐米大使の協力者として、かつてアメリカで野村と同僚であったベテラン外交官の来栖三郎が特命大使としてこの日ワシントンに到着。「甲案」「乙案」決定を経ていよいよ日米交渉は最終段階に進むことになる。※写真は飛行機から降りる来栖特命大使
1941年11月23日(日)暫定協定案の内容を駐米中国大使が蒋介石に伝える
暫定協定案を知った中国の胡適在アメリカ大使は、その内容を重慶の蒋介石へと送った。それに大きな危機を感じだ蒋介石は、面識がなかったイギリスの首相チャーチルに電報を送る。台湾の国史館に残された蒋介石日記には、「アメリカが日本と妥協案を結んだら、中国の人々は絶望し戦いは崩壊します。それ以後のどのような助けもむなしく、中国はもはやあなた方の語る国際信義という言葉を信じなくなるでしょう」という、チャーチルに当てた電報の内容が残されている。リンク先は その時 歴史が動いた「日米開戦を回避せよ ~新史料が明かす 最後の和平交渉~」(2003年12月放送)より、胡適からの報告を受けた蒋介石の対応の部分。
1941年12月8日 開戦の日を語る 村岡花子のインタビュー (1964年放送)
太平洋戦争開戦までのおよそ1年をNHKに残された映像や、過去の番組をたよりにたどってきました。最後は1964年に放送された、村岡花子さんのインタビューです。「赤毛のアン」の翻訳で知られる彼女の、政治家でも外交官でも軍人でもないインタビューを締めくくりにしたいと思います。
戦争を取り上げるNHKの番組はこの先も作られていきます。時が進むにつれて、また新しい事実が発見され、新しい解釈も生まれるでしょう。戦争証言アーカイブスでは、古いものを残し、新しいものを取り入れ、それを比較する多角的な視点を提供することも大切な役割だと考え、これからもコンテンツを充実させていきます。