渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

89年式NSR250Rを脇阪寿一が十国峠で走らせたら

2024年03月27日 | open

89年式NSR250Rを脇阪寿一が十国峠で
走らせたらあの頃にタイムスリップした…


バイクが停まっていたらタイヤ
を観察するのは当たり前の事
だ。
タイヤを見たら「失礼だ」と
か言うドカンチは最近二輪と
いう乗り物の存在を知った

参のド素人世代
でしかない。
それを陰でこそこそ書き立て
る匿名ネット掲示板が
大好物
なクズみたいな連中。

タイヤを見られるのが嫌なら
車を停めた時にカバーでも
かけておけ。
バイク乗りでなくバイク載り
のネトクズ。


89式NSR-SPロスマンズには
私もよく乗った。レーシング
逆シフトにセットした個体。
SPはサスが良いだけでなく、

ホイールもマグネシウムで
保安部品を外せば即コース
を走らせられる車体だった
(オイルポンプは外して混合
にするのは常識)。

同じMC18でも88式よりも
89式のほうが格段に進化し
ていた。次のMC21では更に
熟成されていた。
何が?
あの最悪ハンドリングが型が
新しくなる程徐々にネガ部分
が捨象されて来ていたのだ。
だが、それでもヤマハの良質
ハンドリングにはホンダは最
後まで追いつけなかった。
これは事実だ。
ホンダの車でヤマハを置いて
いく走りが現実に起きていた
のは、それは乗り手が超絶職
人技を発揮していたからだ。
フロントブレーキをあてなが
ら加速とか。それを限界速度
域で行なう。
それだけでなく、いろいろな
事をしないとヤマハに勝てな
いのがホンダだった。
そこに往年の王者スズキが
絡んできて、ある年はスズキ
が最速の年度もあったりした。
1980年代末期~1990年代初期
は激戦時代で非常に面白いシ
ーンが観られたパラダイス時
代だった。
1984年以来2ストレーサーから
撤退していたカワサキさえも
がワークスマシンをGPレース
でテストランさせる程だった。

カワサキ X-09(1992
)純レーサー






市販車改造車のF3(フォーミュ

ラ3)レースの人気は、本家本
元のGPマシン(純レーサー)
のレースよりも人気があった。
ある全日本選手権などは1レース
のエントリーが500台、ノービス
クラスの祭典である鈴鹿4時間
耐久レースのエントリーは1500
台(ライダーだけで3000人以上)
という時もあった。予選は1秒の
間に数百人いたりした。
日本国内限定レースのF3の人気
は市販車の人気上昇に直結した。
国産各社は熱いモデルを次々と
登場させていたのが1980年代末
期~1990年代中期だった。
だが、そのブームはF3レース
自体が消滅することにより、
沈静化した。同時に日本の歴史
的な空前絶後のバイクブームは
消滅したのだった。
そして、レース人気の衰退と共
に、一般車においても「乗れな
い人間」が大量発生する社会
現象が登場し、現代に至る。
彼らは別段オートバイが好きな
のではない。単なる移動手段と
して二輪を利用しているだけだ。
極言すれば、「バイク乗り」で
はない。郵便配達や新聞配達や
出前デリバリーの人たちをバイ

ク乗りとは呼ばない。それと
同じ。オートバイに乗るのが目
的ではなく、別な目的の為に
二輪を利用流用しているだけ。
それらはオートバイ乗りでは
ない。これガチで。





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