25 MAR 2024 mon
ゆで卵と向き合う 
 意図した行動が思い通りにいかなかった時、どう思うだろうか。悲観的な人間であれば、「なんて自分は不器用な人間なのだ」と自責するであろう。
ゆで卵を作り、おやつにでも食べようとした時、あなたは綺麗に剥けるだろうか。多くの場合、わたしは凸凹の玉子と対峙する羽目になる。不器用なのだ。自責の念に駆られる。可食部が減ったこと、見ためが、ちんちくりんになったこと、ゆで卵すらうまく作れない自分。すべてがいやになって、ヘルシーで大好きなゆで卵すら嫌いになってしまいそうになる。
だから何だと言うのだ。きっと、熱湯からあげるタイミングや冷やすまで、ないし冷やす時間だって、プリンとしたゆで卵を形成する要となっているのであろう。
ゆで卵がうまく剥けない時、私は、散漫な作り方をして白身と黄身のベストな時期をことごとく見逃しているのである。つまり、つるんとした卵を作ろうとする前向きな姿勢が足りていないのではないか。
白、ないし赤の殻を剥く時、その向こうにある、かたまった白身がその状態をとどめているかどうかは、「ギャンブル」や「ガチャ」ではなく、予測可能な「調理」なのだと悟り、その境地に至れぬ自身への強い劣等感が、一つの「完璧」なゆで卵の完成へと突き動かしている。
ゆで卵が好きだ。つるんとしたゆで卵が食べたい。ならば沸かすしかない。適切な湯と、真っ直ぐなこころを。
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