ようこそ実力至上主義の教室へ 11

〇勝者と敗者のライン



 第6戦目に選ばれた種目は2対2で行う『弓道』。その結果はあきの奮闘によるCクラスの勝利。順当に自分たちの選んだ種目を取り合っての3勝3敗で並ぶことに成功する。

 さかやなぎは特に何もコメントすることがないのか、この種目は静かに進行を見守っていた。

 3勝3敗になることを望んでいたような、そんな様子。

 次はいよいよ最後の第7戦目。

 その内容は運命のいたずらか───


 『チェス』     必要人数1人 時間1時間(切れ負け)

 ルール・通常のチェスルールに準ずる。ただし41手目以降も持ち時間は増えない

 司令塔・任意のタイミングから持ち時間を使い最大30分間、指示を出すことが出来る


 フィッシャールールなど、着手一回ごとに時間が加算されるルールではない。

 これは恐らく試合時間が長くなる傾向にあるチェスを採用させるための策だろう。通常チェスの対局には2時間以上かかることも当たり前にあるが、1時間なのもそのためか。

「3勝3敗で、最後の7戦目に挑める。これほどうれしいことはありませんね。しかもこの種目が最後に選ばれるなんて……。やはり残り物には福があるようです」

 勝負所でさかやなぎが介入し、味方に指示を送るという狙いだろう。

 恐らく、互いがほぼ同じタイミングで介入することになるのではないだろうか。

 司令塔関与の部分を見るに、中途半端な腕前では坂柳に勝てないと思われる。

「Aクラスにとっては誤算だったんじゃないのか? ここまで追い詰められて」

「そうですね。スポーツの面では押されてしまったことを認めざるを得ませんね」

 ここまでの6戦を振り返るように、坂柳が総評する。

「ですがこの第7戦は少し違います。司令塔の実力が大きく左右される戦いになる」

あいにくと、オレはチェスが得意なんだ」

 これから先、さかがみ先生とほしみや先生はオレたちの戦いを目撃する。

 多少予防線を張っておくくらいはしておいた方がいいだろう。

「それはそれは……奇遇ですね。では私の選んだチェスは失敗だったかも知れません」

 だがまずはぜんしようせん。互いに用意した1人の生徒を戦わせるところから始まる。

 オレはまだ出番のない一覧の生徒から、ほりきたすずを選び選択する。

 一方、坂柳が選んだ生徒は───はしもとまさよし

「やはり堀北さんが出てきましたか。優等生である彼女がここまで出番がなかったのは、最後の種目まで温存していたからなんですね」

「もう切り札として取っておく必要もないしな」

 両者の選択が各クラスに伝えられ、試合の為の移動を始める。

「2人とも水分補給とかしておかなくて大丈夫?」

 試験が始まってから一度も席を立っていないオレと坂柳を心配した星之宮先生。

「お気遣いありがとうございます。ですが、ご心配なく」

「自分も大丈夫です」

「そう? ならいいんだけど……」

 張り詰めた空気が苦手なのか、どこかきゆうくつそうに星之宮先生はため息をついた。

「準備が整ったようですね。では、これより第7戦のチェスを始めます」

 坂上先生の指示があり、オレたちは一度雑談を中止する。

 用意された舞台は、講義室の一角のようだ。そこにチェス盤が置かれている。

『お願いします』

 両者、堀北と橋本がゆっくりと頭を下げる。

 いよいよ、最終戦が始まる。


    1


 私の前に置かれたチェス盤。1週間ほど前まで、ルールも知らなかったもの。

 今ここで、初めて駒に触れる。

 彼とパソコンを通じて特訓する中、チェスの深さ、面白さを理解してきた。

 相手があやの小路こうじくんやさかやなぎさんなら私には万に一つも勝ち目はないだろう。

 でも、今たいしているのはあの2人じゃない。

 もちろん、はしもとくんがどの程度の腕前なのかは未知数だ。

 けれどあの2人よりも強いということだけは、まず考えられない。

「よろしくなほりきた

 そう気安く声をかけてくるのは、対戦相手。

 Aクラスの中でも食わせ者だと聞かされている生徒。

「怖い顔してるな。もっとこの状況を楽しもうとは思わないのか?」

「常にAクラスで1年間を走り抜けたあなたたちAクラスには分からないのよ。私たちCクラスにとっては、この一戦がとても大きなものだということが」

「負けたら痛いクラスポイントの支出、それはウチも同じさ」

 このチェスに勝ったクラスが130ポイントを得る。

 これを得て1年度を終えられるかどうか、本当に大きな一戦。

「ところで俺の名前、おぼえてもらえてるのか?」

「あなたと話したことは一度もないけれど、橋本くんよね」

「光栄だぜ、Cクラスの堀北って言えば、ちょっとした有名人だからな。りゆうえんに一泡吹かせた無人島の試験の時に、初めて名前を知ったっけか」

 あの時、私は何もしていない。全ては裏で動いていた綾小路くんの戦略。

 いいえ……彼にとっては戦略でも何でもなかったのかも知れないけれど。

「俺、チェスを覚えて数か月だからさ。手加減してくれよ?」

「おあいにく様。私は1週間ほどよ」

「へえ……」

 戦いは、既に始まっている。

 チェス歴一つとっても、真実とうそこうさくしている可能性がある。

 お互いをけんせいし合い、精神的なすきを突き合う戦い。

 この試験では私語に対してとても寛容的。

 例外だったのは言葉が答えになることもある筆記試験くらいなもの。司令塔である綾小路くんと坂柳さんは、恐らくそんな戦いをもう何度も繰り返しているはず。

 そして3勝3敗で、最後の7戦目までもつれ込んだ。

 ひらくんが復帰し、どうくんが理性を持ち、そして大勢が一丸となってくれたお陰。

 こうえんくんの件だけは反省材料だけど、それはまた後日考えればいい。

 この戦いを、けして無駄にするわけにはいかない。

 私は綾小路くんが今朝の試験前に言った、あきれたくなるほど生意気な言葉を思い出す。


『相手が誰だろうと、手を抜いてるオレより強い相手はいない』


 イラっとしたけれど、それがか、今は頼もしい言葉となっている。

 はしもとくんが彼に及ばないのなら、私にも勝機はある。

 何故だろう。

 負ける気がしない。

 戦う前から、自分が優位に立つ状況しか思い浮かべることが出来ない。

「それではこれより、第7戦の種目、チェスを行う。両名席に着くように」

 先生からの指示に従い、私は席に着く。

 目の前の橋本くんは笑顔を崩さないけれど、その目は笑っていなかった。

 この試合での勝敗が、そのままクラスの勝敗に直結する。

 そのことを橋本くんもプレッシャーとして受け止めているようね。

「それじゃ始めようか」

 そう言うと橋本くんが、白と黒のポーンを手に取った。

「先攻後攻の決め方は分かるよな?」

「ええ」

 その確認をした後、橋本くんは、いったん手を隠し両手を差し出してきた。

「左手よ」

 私がそう答え、開かれた橋本くんの手には白の駒。

 つまり私が白の先攻だ。

「どんな初手を打つのか楽しみだ」

「期待に沿えるかは分からないけれど」

 私は白の駒を手に取る。初めて触れた駒の感触は、ひんやりと冷たかった。

 こうして始まった、私とはしもとくんの第7戦。

 私の初手は───ポーンE4。

 対戦が始まったことで、橋本くんからも一度笑みが消える。

 そして、動き出す黒の駒。返しの手はポーンE5。

 私はすかさずナイトを動かし、黒のポーンを狙っていく。

 何度もあやの小路こうじくんと対戦した中で、一番私が信用を置いているやり方。

 黒のポーンを守るために、相手がどう出るかで流れをつかんでいく。

「俺も色々さかやなぎから教えてもらったからな。ここで黒が不利になるようなオープニングにはしないぜ?」

 初手から、お互いに長考することなく手が進んでいく。

 持ち時間は1時間。綾小路くんが30分使うから、実質30分だけ。

 序盤から時間を使っていく余裕はない。

 打ち始めて分かったこと。それは、彼が安直な守りには入らないことだ。

 橋本くんは坂柳さんに教わったのか、定石通りの戦い方をしてこない。

 そして攻撃的な仕掛けを次々と打ってくる。

ひねくれた戦い方だろ?」

「そうね。あなたの師匠から譲り受けた戦い方かしら」

「ああ。坂柳も俺と一緒だからな。教えた時に一番フィーリングがあったんじゃないか? そっちは、こっちと違って手堅いみたいだが……独学か?」

 探りを入れてくる。私の言質から何を引き出したいのかしらね。

「この1週間、ひたすらチェスと向き合ってきた。それ以外を全て捨てて」

「へえ……ってことは、チェスが選ばれると確信してたのか」

「そう思ってもらっても結構よ」

 一手ずつ駒が動くたび、目まぐるしく駒の位置が変わっていく。

 パッと見チェックを多くかけられ、押し込まれているように見えるかも知れない。

 でも、確実にこちらの一手が橋本くんに侵食していく。

「始めて1週間って本当か?」

「おしやべりが好きなようね」

「話すことだけが俺のさ」

 モラルには反していようと、どんな話をしようと、それはルールの範囲内。

 私に止める権利はない。

「そう、1週間よ。でも、それがうそである可能性は否定できないわね」

「もし本当に1週間だって言うなら、とても独学だとは思えない。ウチの姫様みたいに、チェスに自信のあるヤツに徹底的にたたまれたとしか思えないんだが?」

「どうかしら。それも無いとは言い切れないわね」

 こちらから、無意味な情報を与えるつもりはない。

「ま、それはいい。それより、あやの小路こうじについて少し聞いてもいいか?」

 それはいい? チェス歴や師の有無なんて、彼にとっては最初からどうでもいいみたい。

 話のとっかかりにしただけで、本命は綾小路くんのことのようね。

 はしもとくんまでもが、彼に注目を置き始めている。

「何を聞きたいの?」

「俺は無人島の一件から、裏であんやくしてたのは綾小路じゃないかと思ってるんだ」

 精神的な揺さぶりをかけにきた。

 彼が選ばれた理由には、その点もあるのだろう。

「どうしてそう思うの」

「ただのかんさ。答えてくれよほりきた

「答えるも何も───あなたが何を言っているかすら私には分からないわね」

「そうか? 俺にはどうようしてるように見えるんだけどな」

「あなたが対戦相手だと分かった時、揺さぶりをかけてくるであろうことは予想できてた」

「……へぇ」

「どんな揺さぶりをかけてこようとも、私のじようは崩せない」

 白のビショップが、橋本くんのキングにチェックをかける。

 橋本くんの笑っていた笑みが、一度消える。

「話の続きをする余裕が、あなたにあるかしら?」

 ここから、これまで沈黙し続けた私の反撃が始まる。

「面白くなってきたぜ……」

 そして気がつけば、形勢は私の方へと傾き始める。

 彼もけして弱い相手じゃない。でも、こちらの読んだ通りの手しか返してきていない。

 試合が始まってまだ10分もたない中、ついに彼の手が止まる。

 初めての長考。時折こちらを見ていた余裕のある表情は、既に消えかかっている。

「いやぁ、強いなぁ。堀北、可愛かわいい顔してとんでもないんだな」

「あなたも外見に似合わずチェスが上手なのね」

「余計なお世辞はよせよ。全く、上には上がいるな」

 この勝負、このまま進めば私は確実に勝つ。その流れ。

 それを対局者の橋本くんが感じ取っていないはずがない。

 だけど───この試合は、これで決着が付けられるわけじゃない。


    2


 モニターに映し出された両者の対決。

 序盤はしもとが繰り返し攻撃を仕掛けていたが、ほりきたはそれを冷静にさばいた。

 思わず駒で守りたくなるところを、冷静に避ける手を交えながら、危機を回避。

 そして着実に進行を重ね、手を優位にしている。

 中盤に差し掛かるところだが、そろそろ堀北にも勝利の文字が浮かび始めるころだ。

 そう、勝負は堀北優位。オレと練習していた時よりも、はるかに実力を発揮していた。

「このまま終局まで見ていたくなるような、面白い勝負ですね」

 あせりを感じさせないさかやなぎの、そんなギャラリーとしての声。

「賛成だ。このまま最後まで見届けよう」

「フフ、そうですね……と言いたいところですが、そうもいきません。橋本くんを信用していないわけではありませんが、どうやら堀北さんは冷静な様子。彼が得意とする話術も、通じていないようですし」

 仕掛けるタイミング、か。坂柳から司令塔としての関与がパソコン上に表示される。

 これ以上引っ張れば、橋本の敗北が濃厚になると判断したからだろう。

 中盤を待たずしての参入は、坂柳にとっても予想外だったか。

 だが、その判断は的確だ。

 あと少し見送っていれば、恐らく勝負が決してしまうほどの状況になった。

 それだけ今の堀北には鬼気迫る強さがあった。

 オレは少しだけ様子を見たい気持ちにられる。成長を見たいと思ってしまった。

 堀北が坂柳と打つ時、どんな一手を返すのかに興味がいた。

「参入なさらないのですか、あやの小路こうじくん」

「下手にオレが参加するより、今の堀北に任せた方が勝率が高いかも知れないからな」

「なるほど。ではこちらは遠慮なく逆転に向かいますよ?」

 キーを打つ手が動く。そして、長考していた橋本は水を得た魚のように活発に動き出す。

 司令塔の持ち時間30分は、エンターを押した瞬間で止まる。伝達までのタイムラグは考慮されているらしい。そして対戦相手が差し返した瞬間から再びカウントしていく。

 堀北対坂柳。願わくば堀北と互角であって欲しいものだ。

 そうであるなら、堀北が優位のまま逃げ切れる可能性もある。だが、そうくはいかないだろう。絶対の自信を持った坂柳の参入。先ほどまでの流れからは、想像していないような一手が返ってきたことで、堀北が焦りを感じたのが分かった。

 だから考える。自分以上の実力者に切り替わり、どう立ち向かってくるのかを。

 そしてしっかりと、序盤に貯金した持ち時間を使い一手を返す。

「少々ハンデの時間が足らなかったかも知れませんね」

 堀北の一手に対して、坂柳は5秒と思考することはない。

 即座に急所となる一手を返す。

 与えられていた勝機へのチャンスは、あっという間に吐き出されつつあった。

 既にわずかなリードしか残されていない。ほりきたの手が止まる。

 そして、未熟ながらに見えただろう。力の及ばない相手との対局の絶望感。

 追い上げられ、追い詰められていく自分。

 2分、3分。堀北は、もはや動くことが出来ないでいた。

 ここがライン。勝者と敗者を分けるラインだ。

 オレは押され始めた堀北からのバトンを受け取るため、関与の合図を送る。

 それはインカムを通じ、音となり堀北にも伝わる。

 一度、カメラを見上げた堀北。そしてうなずき、その思考の全てをオレにゆだねる。

 ここから戦うのは堀北とさかやなぎじゃない。

 オレと坂柳。その一騎打ち。

「さて、これでやっと───私たちの勝負になりましたね」

「そうみたいだな」

 持ち時間は30分と限られているが、終局までには十分足りるだろう。

 オレと坂柳は会話を続けながらも、キーボードを動かす手は休めない。

 両者が一手にかける時間は10秒から長くて20秒ほど。エンターを押して送信した時点で、こちらの持ち時間が減ることはなく止まってくれるらしい。

 中盤までの流れを見ていれば、この先どう持っていくかは描き済みだ。

 よどみなく、互いの駒は盤面を縦横無尽にけ巡る。

『おいおい、おまえらどんな異次元の戦い方してんだよ……!』

 モニターの向こうから、指示に従い一手を打つはしもとの声。

『私たちの戦いが、情けなく見えるわね……』

『……だな』

 どうようするのも無理はない。素人とプロ、それくらいの差がある交代。盤上からどちらが有利で不利なのか、一見しただけでは分かっていないかも知れない。

 いや……そんなことよりも……。打ち始めてすぐ、強制的に理解させられる。

 オレは息をんだ。

 素直に敬意を評したいと思わされるほどのチェスの腕前だ。

 チェスの世界に進んで、名をせていたとしても何ら不思議がない。

 幼い頃、ホワイトルームでチェスを習ったことがある。

 プロの講師とされる大勢の人間と打ったが、その誰よりも強い。

「どうですかあやの小路こうじくん。私の一手は、あなたの心に届いていますか?」

「ああ。痛いほどにな」

 中盤戦を過ぎ後半戦に突入しても、差を広げるどころか詰められないことで精いっぱい。

 何か1つの判断ミスをすれば、こっちは一気に押し込まれるだろう。

「心配していませんよ。あやの小路こうじくんはさいなミスなど絶対にしない」

「だったら、あきらめてくれてもいいんだけどな」

「それは出来ない相談です。ミスがないのであれば実力を上回り正面突破するまでです」

 ほりきたはしもともいつしか言葉を失い、ただオレたちの手となって駒を動かすだけ。

 やがて後半戦が近づいてきた頃……さかやなぎの手が止まる。

 普通の流れなら、次に打ってくる坂柳の手は分かっているつもりだ。

 だが───ここで坂柳の謎の長考。

 ここまでオレたちは手早く戦ってきただけに、橋本にどうようが走る。

 言葉こそ出さなかったが、坂柳のピンチだと感じ取ったのかも知れない。

 数分の沈黙を経て放たれる一手。長考によって導き出された一手は強力だった。

 オレはミスをしていない。付け入るすきを与えたつもりもなかった。

 しかしこれは───。

 今度はオレの手が止まる。

「ああ、なんと楽しい時間なんでしょうか。もう、ギャラリーへの気遣いもどうでもいい。私はただ、この一戦を人生で最高のモノにしたい。そう今強く願っています」

 ほしみや先生、さかがみ先生共に、どこまでチェスの知識があるのかは分からない。

 しかし、2人もただならぬ一戦だと肌で感じ取っているだろう。

 1分、2分。時間は止まることなく過ぎ去っていく。

 オレは潤沢に持っていた持ち時間を、嫌というほど吐き出していく。

『何を……何をしているの綾小路くん』

 モニターの向こうから、静かに見守っていた堀北の声が飛んでくる。

『もう、あと5分程しかないわ……!』

 そんなことは分かっている。

 一局の中で、4人の思考が入り乱れた複雑なチェスゲーム。

 まぎれもなく優位側だったオレたちは、今完全に並ばれている。

 次のオレの一手は生死を分かつ一手になる。

 どれだけ時間をかけて読んでも、使い過ぎということはない。

「あなたはその程度で終わる人ではありませんよね、綾小路くん。見せてください」

 勝つことよりも、全力のオレを引き出すことにしか興味のない坂柳。

 おまえにとっては、自分が楽しむためなら試験の勝ち負けなど関係ないんだろう。

 あと3分を切った。思い描いていた終局までの道のりは、いったんすべて白紙に戻した。

 そして新たに、勝つための道筋を構築する。2分を切る直前───。

 オレはキーボードをたたき、堀北に指示を送る。

 それを待っていたかのように、堀北は再び動き出した。

 力強く盤面をかける駒。再度、橋本のあせり。

 先ほどまでのスムーズな展開と違い、坂柳の一手も長くなっていく。

 最初は30秒。次の手も30秒。その次の手は、1分。

 逆にオレは1秒、2秒でその手に答えていく。

 こちらの勝利で終わる道筋に、今オレはさかやなぎの手を引いて歩いている状態だ。

 もうすぐ終盤戦。あと少しで勝敗は決する。

 こちらからの、チェックメイトの一手。

 まだ逃げ切る手は残されているが、それもあとわずか。

 この後すぐにその逃げ道もなくなる。

「見事、です……」

 褒めたたえる坂柳の言葉。

 1分、2分、3分。坂柳の2度目の長考。

 持ち時間の少なくなっていく中、貴重な1秒1秒がけずられていく。

 先ほどまで語り掛けてきていた坂柳から、それ以上声は聞こえてこない。

『おいおい、おいおい!』

 叫ぶはしもと。残り時間は2分を切り、ついにオレを下回る。

 30分使い切れば、持ち時間を残す橋本にたくすしかなくなる。実質敗北の確定だ。

『坂柳! これでこっちの負けなのかよ!』

 橋本には逃げきるビジョンが思い描けなかったのだろう。

 坂柳の持ち時間が、1分を切った。

「本当に見事ですあやの小路こうじくん。あなたは私の望みに十分応えてくれました」

 時間が減っていく中、坂柳はもう一度オレを褒め称えた。

「冷や汗をかく、というのを初めて身をもって実感しました。あなたは強敵だった」

 終わりかけた時を、坂柳がつなぐ。

「───これで終わりです」

 坂柳のつぶやき、敗北の言葉は、橋本には聞こえない。

 司令塔には対局を終わらせる権限はない。

 時間切れと共に双方の打ち手に戻され、改めての投了となる。

 あるいは最後のチェックメイトまで橋本が続けるという手もあるが。

 どちらにせよ、今坂柳が投了の意思を示した時点で戦いは終わった。

「楽しい戦いでした。終わらせるのは実にしい……」

 40秒を切った。穏やかな坂柳の声。そして、同時に聞こえてくるキーボードをたたく音。

 投了を認めた言葉ではなく、自らの勝利を確信した坂柳の痛烈な一手。

『……待ってたぜ……お姫様!』

 橋本が、いや……その裏に立つ坂柳からの起死回生の攻撃。

 その一手を受けた時、オレもまた背中に電流が流れる感覚に襲われた。

 死にかけた黒がよみがえり、再び息を吹き返す。

 二手、三手と打っていくうちに、オレの道筋から外れていくのを感じる。

 そして───気がつけばこちらが追い詰められていく。

 気がつけばさかやなぎの勝利の道筋に誘い込まれてしまっている。

 二転三転する状況から、オレに再び訪れるせいじやくの時。

 持ち時間わずか1分半を切る今、最大の窮地に立たされる。

 そんな状況を、きっと駒を動かすほりきたも強く感じ取ったに違いない。

 先ほどまで見えそうだった相手の敗北。つかめそうだったCクラスの勝利。

 それが遠のいていく感覚を、今堀北は強く味わっているだろう。残り1分を切る。

あやの小路こうじくん……』

 堀北は顔を上げず、オレに語り掛けてくる。

『負けたくない』

 ただ、自分の気持ちを口にする。

『私は……』

 今言いたいことを、堀北は口にする。

『私は……私は負けを認めたくない……勝ちたいの……』

 心の底からの叫び。

『今だって、必死に勝つための一手を考えて、考えて、考えてる』

 堀北らしからぬ、感情に任せた叫び。

『でも、私には坂柳さんを越えるような一手を打つことは出来ない……そんなことが出来るのは、あなたしかいないの!』

 オレは目を閉じる。

 残された時間は、あと数十秒。

 最後の最後の最後の最後。

 この後続く試合を考えれば、30秒を切った時点で負けは確定するだろう。

 もはや安全なルートはどこにもない。この戦いで、勝つための最後のチャンスに賭ける。

 打ち込む。キーボードに、素早く確実に、オレから繰り出せる一手を。

 そしてエンターを押し送信。持ち時間のカウントはここで止まる。

 堀北はただただ祈るように、オレからのメッセージを待ち続ける。

 オレが指示を送り30秒ほどった頃、堀北の目が見開く。

 インカムを通じ、待ちに待った合図が堀北に届いたようだ。

 オレは一度、さかがみ先生とほしみや先生を見る。

 2人もチェスの行方を見守るように、モニターに視線はくぎけだった。

『まだやろうってのか……綾小路』

 笑ったような、そうでないような、複雑な表情のはしもとがカメラを見上げる。

 堀北から放たれる、一手。

 再び動き出す坂柳の持ち時間。

「お見事です、綾小路くん」

 さかやなぎはその一手を受け、再三にわたる敬意を表した。

「ここまで、複雑かつ強力な敵と戦った経験は覚えがありません。私の一手にことごとく応え、対等に、時に上回る一手で返してきました」

 こちらの一手を受け終局が見えたであろう坂柳が、そう言って見当する。

「今あやの小路こうじくんが打った一手も、まさに文句なしの一手でした。常人には到底たどり着けない領域であることは疑う余地もない」

 感無量と言った坂柳の声は、少し震えていた。


「───しかし」


 坂柳の声が、静かに室内に響き渡る。

「これで、私の勝ちは揺るぎないものになりましたね」

 そう言いキーボードに指示を打ち込む。

 答えを待ち続けたはしもとが、すぐさま指示に従い駒を動かす。

 オレもまた、それに応戦するよう駒を進める。終局は近い。

 会話なく、駒の動く音だけが響く。

 あと5……4……3……。そして、ついに……。

 クイーンサクリファイスからの、チェックメイト。

 最強の駒とされるクイーンをせいにした、究極とも呼べる奥の手。

 その技による勝利は格別なものがあるが、あまりにもハイリスクで失敗すれば自身の敗北は必至。それを、この追い詰められた土壇場で決めてきた。

 ほりきたの手が止まる。

 インカムから、オレの言葉が流れてくることにわずかな希望を持つが、それも一瞬。

 自らも悟っただろう。もはや、逃れることの許されないチェックメイト。

 勝敗は決した。

『綾小路くん……』

 それでも、堀北にはあきらめきれない何かがあったのだろう。

『答えて、綾小路くん……。もう、何も手はないの……?』

 オレはキーボードから手を放す。

『綾小路くんっ……!』

 誰よりも、Aクラスに勝つことへの勝利を望んでいた堀北。

 オレにたくせば、あるいは勝てるかもしれないと、全てをゆだねた。

 この最後の7戦目。ごわい橋本相手に優位に立ちまわったことを褒めたい。

 堀北には何一つ落ち度はない。

 インカムの指示に従った堀北の一手を超える、最善の一手を打たれただけ。

 司令塔が持つ持ち時間が0を刻み、通信が途絶える。

『……負けました』

 うなれるように、ほりきたはしもとに頭を下げる。

『ありがとうございました』

 橋本もそれに応えるように頭を下げた。

「───それまで」

 その結末を静かに見守ったさかがみ先生の言葉と共に、第7種目の試合が終了する。

「今の種目、Aクラスの勝利です。よって、今回の最終特別試験の結果は4勝3敗でAクラスの勝利となります。Cクラスも大健闘でした」

 最後のチェスが終わりを告げる。とりあえず、後で言い訳を考えておかないとな。オレが司令塔として関与したことで負けたチェスだ。どうして堀北に任せておかなかったのかと不満が飛んでくることは避けられない。

すごい戦いだった……でいいのよね? とにかく大健闘だったねーCクラス」

 ほしみや先生が相変わらずな感じでオレをなぐさめてくる。

「アレだったら先生の胸の中で泣いたっていいのよ?」

「星之宮先生」

 ふざけたことを言っている星之宮先生に対し、坂上先生が露骨にいらち名前を呼ぶ。

「じょ、冗談ですよ冗談」

 びくっと肩を反応させ、慌てて坂上先生に頭を下げる。

「でもあやの小路こうじくん。君は思ったよりもずっと凄い子みたいね。フラッシュ暗算のとんでもない10問目を正解したり、チェスでさかやなぎさんと対等に渡り合ったり。それに筆記試験も高得点の部分を正解に導いてた。あ、あとオマケに足も速いんだっけ……」

 そこまで言って、少しの間星之宮先生は考え込む。

「何それ。今までそういう能力を隠してたってこと?」

「今回たまたまくいっただけです」

「そっか、たまたまかー。そういうこともあるよねー……なんて……。うん、サエちゃんが綾小路くんを目にかけてる理由が分かった気がする。なるほど、反則よね」

 どれだけ抑えようと思っても教師の前では見せなければならない部分も少なくない。

「安心して~。ここで見聞きした詳細を他の生徒に言いふらしたりはしないから」

 そう言ってオレの肩を優しくでる。そして耳元に顔を近づけてきてこう言った。

「先生は綾小路くんみたいな子嫌いじゃないけど、敵として見たら大っ嫌いかも」

 そう言い残して離れていく星之宮先生に笑顔はなかった。

 図らずもBクラスの敵として、その認識を持たれてしまったようだな。

「もう試験は終了しました。生徒は速やかに退室するように」

「坂上先生、一度教室に戻った方がいいんでしょうか?」

「いや、これで本日は終わりです。そのまま帰宅してもらっても構いませんよ」

 どうやら、一度全員で集まるってことはしないらしい。それならそれでありがたい。

「いいよねー生徒は。これで帰れるんだから」

ほしみや先生は後片付けの準備を」

「わかりましたぁ」

 さかがみと星之宮は多目的室からの撤収、そのための準備を始めた。緊迫感ある戦いの直後とは思えないかんした状況だったが、さかやなぎがパソコンの向こう側からゆっくりと姿を見せる。

 教師が生徒から離れるのを待っていたのだろう。

「お疲れさまでしたあやの小路こうじくん」

「ああ。そっちもな」

 まずは互いに7種目戦いあったことに対する挨拶を交わす。

 時間はたったの30分だったが、頭をフル回転させたんだ。疲労は相当なものだろう。

「チェスはタフさが求められますからね。序盤のほりきたさんの見事な立ち回りと、そしてそれを上回る綾小路くんの飛びぬけた戦いぶり。見事でした」

 満足げな顔をしている坂柳。十分に全力を出せたようだ。

「正直、想像よりもはるかに強かった。堀北の優位を潰したんだ、文句なくオレの負けだ」

「そんなことはありません、これはとても良い勝負でした。最後まで勝負はどちらに転んでもおかしくはなかった。ですが私の打ったあの一手が、勝敗を分けたことに関しては、異論ありませんね?」

「見事なクイーンサクリファイスだった」

 現実はモニターの向こうで起こったこと。

 オレの指示と坂柳の指示。そのこうさくの結果、坂柳がそれを上回った。

 そこには、逆転もミラクルも残されていない。

 確実な勝ちと敗北が、学校の裁量によって判断され決定、確定した。

 善戦はしたが、CクラスはAクラスに敗れクラスポイントを30ポイント失う。

 結果だけ見れば軽傷だが、他クラスの結果はどうか……。

「何かオレに望むことはあるか?」

「望むこと、ですか。特にありません」

 優しく微笑ほほえみ、坂柳は満足そうにうなずいた。

「私はあなたと戦うことだけを楽しみにしていました。そしてそれがかなった。十分です」

 それなら、オレとしても応えられただけ良かったんだろう。

 あまり長話をしていて坂上先生に目を付けられると厄介だ。オレも席を立つ。

 退室の為、扉に手を伸ばそうとしたところで、多目的室につきしろ理事長代行が姿を見せた。

「いやぁ、実に良いものを見せて頂きましたよ」

「これはこれは、月城理事長代行。特別試験をご覧になっていたのですか?」

「ええ。私たち学校側は不正がないよう、管理する立場にありますから。別室で、お二人の司令塔としての関与、そして試合の成り行きを全て見ていましたよ」

 そう言って、手をたたきながら両者をたたえる。

「どちらも一歩も譲らない、互角の戦いとはまさにこのことでしょう。私たち学校側としても、とても良いデータを取らせていただきました。今回の勝負は、来年度以降大きな財産として残ることを確信しています」

 オレがつきしろ理事長代行の目を見ると、愉快そうに視線を合わせてきた。

 それだけで会話を交わさずとも、全てが理解できる。

「ご満足いただけたのなら良かったです、月城理事長代行」

 さかやなぎは頭を下げる。この戦いが成立したことに、何よりも充実感を感じていた。

「そういえばBクラスとDクラスの方は決着がついたのでしょうか?」

「ええ。あなたたちの1時間ほど前に」

 ずいぶんと速い決着だな。

「どちらが勝ったのです?」

 坂柳も興味があったのか、結果を聞く。

「5勝2敗でDクラスが勝ちましたよ。大金星を挙げましたね」

 りゆうえんいちを倒したか。これで190ポイントの変動。

 Dクラス、いやCクラスは息を吹き返しつつあるな。

 そしてオレたちはまた、Dクラスから出直しということになる。

「一之瀬さんは手痛い敗北をしてしまいましたね。まぁ無理もありませんが」

 りゆうえんがいなければ、まずBクラスの勝ちだっただろう。

 自分自身のために動いたのか、それともクラスのためか。

 何にせよあいつの中にも変化が生まれ始めたということだ。

 そして同時に、それはいちにとってきようが戻ってきたことでもある。

「皆さん退室頂きましょう。特別試験は終わったのですから。先生方もどうぞご退室を」

 さかがみ先生、ほしみや先生共につきしろ理事長代行は退室を促す。

「しかし、我々には後処理が───」

「それはこちら側で対応させていただきますよ」

 月城理事長代行が合図を送り、数人の作業員が一斉に室内に入って来る。

「どなたですか。学校の関係者ではありませんよね?」

 げんそうに坂上先生が聞き返す。

「今回の試験データを、政府はいち早く知りたいそうでして。そのために派遣された方々です、どうぞご安心を」

 理事長代行にそう言われてしまっては、教師としては引かざるを得ない。

 2人はかされるように作業を切り上げ、多目的室をオレたちと共に出る。

 教師たちは、そのまま職員室に戻るのかオレたちに気をかけることもなく歩いて行った。

 一方のさかやなぎは、怪訝そうな様子で作業員たちをいちべつする。

 しかし多目的室の扉は閉じられ、ご丁寧に鍵までかける音が聞こえてくる。

「何か気になることでも?」

 多目的室の中にとどまらなかった月城理事長代行が、坂柳に聞く。

「いえ、何でもありませんよ」

「そうですか」

 さて───オレも帰るか。携帯を確認するとほりきたからメッセージが届いていた。

『お疲れ様』

 そんな短いメッセージ。不平不満は、また後日聞くことにしよう。

「じゃあな坂柳」

 軽く言葉を残し帰ろうとするが……。

「───ちょっと待っていただけませんか、あやの小路こうじくん」

「なんだ」

 廊下を歩くオレを、坂柳が呼び止める。

 勝利の余韻に浸っていたはずの坂柳の表情に、陰りが見え始めていた。

「……本当にあなたは、最善と考えて最後にあの一手を打ったのですか?」

 最後の最後。オレが長考の末に導きだした結論に疑問が浮かんだようだ。

「実際に勝ったのはおまえだ。それ以外に何がある」

「いえ……すみません。私が余計なことを想像してしまっただけですね」

「オレに勝ったことがうれしくないのか?」

「そんなことはありません。ですが、私は心のどこかで、あなたに負けることを願っていたのかもしれませんね」

 それはまた、変わった考え方だ。

「言っておくが一切手は抜いてない」

「ええ、分かっています」

 それでも、さかやなぎはどこかに落ちない様子だった。

 自分の見ていたオレに対する像が、もっと大きかったのかもしれないな。

ざんこくな人ですねー、あやの小路こうじくん」

 多目的室の扉の前に立ったままのつきしろ理事長代行が、そんな言葉を投げかけてきた。

 坂柳が振り返る。遅れて、オレも仕方なく振り向いた。

 優しく微笑ほほえむと、月城理事長代行はオレたちの下に歩いてくる。

「あなたは残酷な人だ」

「どういうことでしょうか、月城理事長代行」

 オレではなく、坂柳がそう問いただす。

「お答えしてあげてはどうです?」

「なんのことですか」

「素直に教えて差し上げたらよろしいのに」

 多目的室で『所用』を済ませたから、余裕というわけか。

「あの勝負、本来なら勝っていたのは綾小路くんだったのですから」

 聞き捨てならないセリフを吐かれ、坂柳が食いつかないはずがない。

 わざわざ自身のリスクをおかしてこの男はなぜ、口にしようとするのか。

「何のことですか。オレは実際に負けたんです」

「ええ。そうですね。確かに事実はそうです」

 月城理事長代行の性格が分かるようなしやべかただ。

「しかし過程は違った───そうですよね?」

 黙って聞いていた坂柳も、その事態を理解し始める。そして悟る。

「なんとおろかなこと……。学校側が、私たち生徒の試験に強制介入したのですか」

 それは心外、落胆ではなくふんがいまぎれもなく坂柳の怒りだった。

「あなたがいけないのですよ坂柳さん。私の言いつけを守らなかったばかりに、綾小路くんにプロテクトポイントなどというものを与える結果になってしまった。それを奪い去るには多少強引なやり方をするしかないじゃないですか。一応ここは『学校』なのですからね」

 なるほど。そのしゆくせいのために、こんな無意味なネタバラシをするのか。

「まったく。全てがこちらの思惑通りに運んでいたなら、今回で綾小路くんを退学にさせられたのですが、この学校にはやけに熱心な先生方も多いようで。手を焼かされますよ」

 オレがパソコンに入力した、長考の末の指示。

 だが、キーボードから打ち込み、伝達するまでにかかった時間は約30秒ほど。

 これまでは打ち込み10秒ほどで届いていたはずの指示に起こったタイムラグ。

 その原因は、げられてインカムから自動音声を流されたからだ。

 コンピュータ内から操作し、過程と結果を別のモノにした。

「あの時彼は、別のところに指すつもりだったんですよ。最善と思われた手を超える、更に最善なる一手を。こちらも大量の人員、マシンを用意して準備していましたが、非常に難しい判断を強いられました」

 露骨に下手な手に変えれば、誰の目にも不自然になってしまう。

 そうならないための、難しい一手をつきしろ理事長代行側も強いられたということだ。

「そういう意味では、こちらの手を読み切ったさかやなぎさんもお見事ではありましたが」

 もはや、それはしようさんでもなんでもない。

「なぜ進言しなかったんですか、あやの小路こうじくん」

「進言したところで無駄。いえ、彼にはそもそも進言することなど出来ないんですよ」

 簡単なことだ、と月城理事長代行が説明する。

「ホワイトルーム出身者で、しかも強引にこの学校に潜り込んでいる状態である彼が、目立つようなことを望むわけもない」

 オレが月城に介入されたなんてことを広めれば、厄介な問題に発展する。

 何とももどかしい話だが、泣き寝入りするしかないのが状況だ。

みじめでも勝利は勝利。喜んでは如何いかがです?」

「……挑発がお上手ですね、理事長代行。しかし───その代償は高くつきますよ?」

 怒りを含んだ笑顔を受け月城理事長代行はもう一度、簡単に拍手した。

「たかだか高校1年生の子供が、ずいぶんと面白いことを口にしますね。お山の大将をしているから、気まで大きくなってしまいましたか」

 本来、同じ土俵にいる学生にしてみれば坂柳を敵に回したくはない。

 しかしこの男にしてみれば、子供が大口をたたいているだけにしか見えないだろう。

「代償が高くつくというのなら、今すぐ何かして見て下さいよ。さあ、早く」

 何も起こせるはずがない、わずかなせいじやくの後。

「さて、私はそろそろ引き上げます。大人は色々と忙しいので」

 歩き出した月城理事長代行は、わざわざオレたち2人の間に割って入って来る。

「出来れば自主退学を選んでください。これ以上他の生徒を巻き込まずに済みますよ」

 そう言葉を残し月城は廊下の先へと進んでいった。坂柳も、その後ゆっくりと歩き出す。

「あまりに白けてしまうオチでした。非常に不愉快です」

「悪いな」

「綾小路くんが謝ることではありません。子供同士の事情に大人が割り込んだ事で起きたことに落胆しただけです。最高の思い出を踏みにじられてしまいました」

 勝利が傷物になってしまった、ということは一切気にした様子はない。

 あくまでも勝負に対して傷がついたことを許せない様だった。

「ただ───これで納得してくれ、というのは、多少無理があると思いませんか?」

 足を止めたさかやなぎがオレを見上げる。

「そうだな。確かにその通りだ」

 つきしろ理事長代行の介入を黙っておくつもりだったが、結果的に坂柳の耳に入って良かったのかも知れない。自分自身の中にも、小さな引っ掛かりが残っていた。

「理事長代行にげられてしまう直前、その続きから私と勝負してください」

 今、ここで坂柳の進言を断ることは簡単だ。

 だが、それは坂柳の何かを壊してしまう気がした。そしてオレ自身の何かも。

「断る理由はなさそうだ。ただ、どこで勝負をつける」

「図書室には、チェスが置かれてあるのをごぞんでしたか?」

「いや……初耳だ」

「私はたまに利用してチェスで遊ぶのですが、そこを利用させてもらいましょう」

 反対する理由もなく、オレたちは場所を図書室に移す。

 特別試験を終え、すべての課程を修了したこともあってか、今日は誰もいない。

 せいじやくすぎる図書館の中、オレはチェス盤を手にした。

 二人掛け出来る小さなテーブルを使うことにし、そこにチェス盤を置く。

 坂柳はぎわよく、最後の状況を再現した。

「さあ、あの時と同じ状況です。あなたの本当の一手を見せてください」

 オレは駒を持ち、打たれるはずだった位置に駒を進める。


    3


 それからの勝負は、互いに言葉を交わすこともなく時間が流れた。

 夕暮れ時の中、ただ白と黒の駒だけがコトコトと音を立て続ける。

 しかしそれも本当にわずかな間だけ。

 終盤戦から始まったこの戦いに、長い時間は不要だった。

 やがて訪れる終局の時。坂柳は盤面を見つめながら静かにそっと息を吐いた。

 チェックメイトをかわす方法は、どこにも残されていない。

流石さすがですねあやの小路こうじくん。この勝負は私の負けのようです」

 一手一手が死活を分かつ勝負だった。

 何一つ不満がないのか、坂柳は満足そうに敗北を認めた。

ずいぶんと素直なんだな」

「私が敗北を認めない、プライドの高い女に見えましたか?」

 正直見えなかったと言えばうそになりそうだ。

「私が知りたかったのは、どちらが上であり下なのかということ。その結果に不平不満をらすようなはしません」

「ただ、勝ちはしたかも知れないが、あくまでもこれは再現。あの時、あのタイミングで同じように運ばれた試合だった保証はない」

 新たな手を考える時間が生まれてしまった可能性を排除しきれない。

 いや、何より───。

「この一局は、ほりきたはしもと相手に作り出した優位な戦局。見るからにオレの方に分がある途中での交代。とても対等な勝負をしたとは思ってない」

 このチェスの盤面で作られた展開は、堀北が優位に運んでいたからこそ実現されたもの。不利な状況から形勢を逆転して見せたさかやなぎの手腕は確かなものだ。

 もし一からチェスの勝負をしていれば、オレが勝つ保証はない。

 勝負を提言されても、逃げることが許されるなら逃げたいくらいだ。

なぐさめているおつもりですか?」

 おかしかったのか、くすくすと笑う坂柳。

「そういうわけじゃない。事実を客観的に述べただけだ」

「私は今の結果に満足しています。それでいいじゃありませんか」

 満足しているのなら確かにそれでいい。だが、こっちがすっきりしない。

「この特別試験が発表された段階で、1対1の種目に絞って直接オレと競うことも出来た。おまえがそう提案すれば、オレは受けざるを得なかった。なのに、どうしてそうしようとしなかったんだ?」

 もちろん、10種目の内7種目のランダム戦。必ず選ばれる保証はない。それでもお互いが1対1の種目で折り合いをつけておけば、高い確率で実現されたはずだ。

さいな理由ですよ。あやの小路こうじくんの推察通り絶対に実現する保証がないこと。そして不用意に私と1対1の対決をすれば、どうしても周囲に怪しまれてしまうこと。その2つを避けたかったんです。全て理事長代行に利用されてしまいましたが」

 坂柳はオレへの配慮も忘れず、可能な限り気を遣って特別試験に臨んだ。

 だからこそつきしろの介入に心底腹を立てたのだろう。

 今日選ばれた7種目もその順番も、恐らく完全なランダムではなかったと予測できる。

 完全にフェアな戦いは実現できなかった。

「それに私はAクラスで一番チェスの才能があると思った橋本くんを、あなたは堀北さんを育てた。その点においても私が負けていたということです」

 坂柳は、ゆっくりと一度頭を下げた。

「綾小路くん。あなたと戦えて良かったです。これで私の中で1つ答えが見えました。あなたはまぎれもなく天才である、ということが。けして偽者などではなかった」

「チェスでリベンジしてこようとは思わないのか」

「思って欲しいですか?」

「……いや、思わない」

「フフ、素直ですね」

 こうして静かな対局が実現したのも、非常にレアな限られたタイミングがあってのもの。

 特別試験が終わり、明日から長期休みに入る今だからこそ、誰もいない空間が作れた。

「私がリベンジをしない理由ですが……。正直に申し上げて、チェスの技量はほぼ互角だと判断しました。遊びで10回やれば、5勝5敗になってもおかしくはない。私の見立ては間違っていますか?」

「いや、的確だ」

 面白いくらいに、実力はきつこうしている。

 対戦を繰り返せば、まさにさかやなぎが口にしたような戦績になるはずだ。

「ですが、ここ一番という勝負では、あやの小路こうじくんに少し軍配が上がるとも感じた。その時点で今の私は負けているのだと思ったんです。まぁチェス歴は綾小路くんの方が少し長いですからね。きっとその差でしょう」

 少しだけ負けず嫌いなところが顔をのぞかせつつ、どこで勝つかが重要だと坂柳は言う。

「チェスでリベンジをするとなると、遊びが遊びでなくなってしまいますからね。チェスは楽しい娯楽、その程度にとどめておきたいんです」

 ナイトの駒をひとつ手に取り、坂柳はそんなことを口にする。

「チェス歴の話だが、やっぱりおまえは見てたんだな」

「はい。ホワイトルームで対戦相手を圧倒する綾小路くんを見ていました。それ以来、私はチェスをたしなむようになったんです。いつかあなたと対局する日が来ると信じて」

 オレがAクラスの種目を見た時に感じた直感は当たっていた。

 チェスがこの種目に選ばれたのは単なる偶然じゃなかったということだ。

「さて───そろそろ帰りましょうか」

「オレが片づける。座って待っててくれ」

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

 駒と盤を、オレは元の位置に戻しに行く。

「残念なことではありますが、今後は綾小路くんから少し距離を取ります。私がいつまでもあなたに執着していてはクラスメイトに怪しまれるでしょうし。何より……」

「何より?」

「私はあなたのことが知りたくて知りたくて仕方がないんです。ずっとずっと追い続けてきた、出会うことのなかったおさなじみのような心境なんです。簡単に競い合いが成立してしまっては、その価値も薄れてしまう」

 いとしそうにオレを見て、笑みを浮かべる。

つきしろ理事長代行のことを思えば、生徒同士で争っている暇はないと思いますしね」

 本末転倒だな。この学校じゃ、生徒と生徒が争い合うもののはずだ。

 似たような争うことがあっても、また介入がないとは言い切れない。

 むしろオレをぼうがいするためなら何でも利用するだろう。

 その点で言えば、オレも片方を警戒しないで済むのならありがたい。

 四方八方敵だらけじゃ、疲弊も著しいものになるしな。2人で図書室を後にする。

「思えば、2人でこうして帰るというのは初めてのことですね」

「そういえばそうだな」

 いつもさかやなぎの周りには誰かしらいる。

 それにオレたちが並んで歩くことは、普通の考えじゃ中々たどり着かないことだ。

「すみません、歩くのが遅くて」

「そんなことは謝ることじゃない」

 確かに足取りは遅い。ハンデを抱える坂柳がいるからだ。

 しかし不思議と、今日はそれがありがたいと感じた。

 普通に歩けばあっという間に寮についてしまう。

「今後はどうするのですか?」

つきしろの出方を見るしかない。代行でも理事長だ、下手な手は通用しないだろうしな」

「そうですね。あの様子では父の復権も簡単ではないでしょうし」

「お前の方はどうするつもりだ?」

 そう聞くと、坂柳は少し考える仕草を見せる。

「ひとまずは従来通り、楽しみながら過ごします。かつらくんが私に対してほんを起こすならその相手をしてあげますし。いちさんが迫って来るようであれば、たたつぶして遊ぶのも面白いですし。彼女が退学になればBクラスの崩壊が見られますね」

 人形相手に無邪気に遊ぶ少女のような笑みを浮かべる。

りゆうえんくんの動きは全く見えませんが……もし戦線に戻ってくるようなら彼とも戦ってみたいものです。こうしてみると、意外と退屈しない学生生活を送れるかも知れません」

「それは良かった」

あやの小路こうじくんはどうなさるのです?」

「表立って活動するのは、出来れば勘弁願いたい。ほりきたに頑張ってもらうさ」

「彼女の成長には目を見張るものがありそうですしね。私も楽しみにしておきます」

 いつか坂柳の口から、一之瀬や龍園と同じように警戒される相手として名を連ねることが出来るようになるだろう。そうすれば、坂柳も一層楽しくなるはずだ。

「……一つ謝罪させてください」

「謝罪?」

「先ほど1対1を避けた理由をお話ししましたが、アレはうそです」

 1対1を避けたのは、オレを目立たせないようにするためのはいりよ

 その答えを撤回する坂柳。

「本当は、1秒でも長く綾小路くんと一緒の空間にいたかったんです」

 そう言って右手を差し伸べてくる坂柳。

 握手かと思い握り返すと、左手でオレの手を包んできた。

「人は触れ合うことで温かさを知ることが出来る。それはとても大切なもの。人肌のぬくもりも、けして悪いものではありません。覚えておいてください」

「どういう意味だ?」

「遅くなった、私からのメッセージです」

 オレが理解できないままでいると、さかやなぎはゆっくりと手を放し歩き出す。

「さあ、帰りましょう」

 どうやら、何のことかは教えてくれないらしい。

 沈んでいくゆうを見つめながら2人で帰路につく。

「そう言えば聞きましたか? Aクラスのよしくんは───」

 昔話をするような間柄じゃないオレたち。

 何の目的なく、ただひたすらに日常の話を繰り返した。

 寮に辿たどく、その瞬間まで。

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