〇交錯する思い(2)
3
階段を上がる。
一段、また一段。
ゆっくりと歩みを進めると、その先には黒い影。屋上への道を守る門番がいた。
仁王立ちし、静かにこちらを見下ろしている。
Cクラスの
あまり詳しいことは知らないが、この男もまた
値踏みするような様子でオレを見下ろす。
「通してもらえるのか?」
日本語が通じるのかも知らないが、とりあえず声をかけてみる。
しかしアルベルトは全く動こうともせず、ただこちらを観察し続けるだけ。
拒絶の無言なのか、言葉が通じていないのか分からないところがもどかしいな。
大きな手で素早く携帯を取り出し、器用にどこかへ電話をかけようとする。
「Don't panic. I'm the one you are seeking for.(慌てる必要はない。オレはおまえたちが探し求めていた相手だ)」
英語でそう伝えると、アルベルトの動きが止まる。
だが返事は返ってこない。
「Today, I'll solve the trouble by myself, and no one interferes.(今日の問題はオレ一人で解決する。それ以外の介入は一切ない)」
改めて英語で説明すると、少しだけ考えた後アルベルトは携帯を
そして静かに道を開ける。通れという無言の合図だった。どうやら認めてもらえたらしい。ただ、階段の上に留まられたんじゃこっちの作戦にも支障を来たす。
「悪いがこれから龍園を
あえてその挑発を日本語で言うと、アルベルトは一度階段の下を見た。誰もいないことを確認すると、アルベルトは自らの手で屋上のドアを開いた。
それからアルベルトも屋上に出ると、ドア脇に立ってこちらを背後から見張る。
どんよりとした雲は今にも雨が降り出しそうだ。扉から離れた、フェンス寄り。そこに
そのレンズ部分は黒で塗り潰され、監視カメラとしての役割は果たしていない。
なるほど。シンプルにスプレーで視界を
状況を
「あやの、こうじ……?」
一番最初に声を発したのは伊吹。
オレの名前を聞いて、軽井沢もこちらの存在に気づく。
だがすぐに声は出さなかった。
ただ
「遅くなって悪かったな」
そう声をかける。
「どうして……どうして、来たの……?」
かすかな声を
「どうしても何も、約束しただろ。おまえに何かあれば必ず助けると」
「りゅ、
「そんなわけないでしょ。こいつは絶対にない」
「龍園。Xは綾小路を利用しようとしてるだけ。
「黙ってろ伊吹」
笑った龍園は、軽井沢から距離を置き、少しだけオレに近づいてきた。
それでも、距離にして5メートルほど空けて立ち止まる。
その時点で龍園がこっちを強く警戒していることがよく分かった。
「これはこれは、誰が来たかと思えば。いつも
「軽井沢からメールを
具体性を外し、そしてあえて龍園から連絡を受けたとは言わない。
「ほう?」
「
黙っていろと言われたばかりの
「どうした伊吹。おまえは
「思いたいんじゃない、違うって言ってるの。コイツは、コイツはただの間抜けなお
「お人好しだと? そう思うからには根拠があるんだろうな?」
「私はDクラスを撹乱するために無人島の時に軽井沢の下着を男子の
「それが
「冗談よして。そもそも犯人は私なのに、嬉しく思うわけないでしょ。ただ、明らかに怪しいヤツに対しても疑いすら持てない無能な生徒。そう認識しただけ」
そんなヤツがDクラスを裏で操っているとは思えない、というわけだ。
「龍園さんは信じるんですか? その、綾小路がXだって」
「元々綾小路は臭かっただろ。あれだけ有能だともてはやされた
「でも、露骨過ぎるって言うか……正体を隠すにしてはあからさま過ぎませんか?」
「確かにな。おまえの言いたいことも分かるぜ
「
Cクラスの中でも意見が割れる。
オレが認め、伊吹たちが認めないという特異な状況になっていた。
「一番怪しいからこそ、意図的にそう見せてた。あるいは堀北を利用する以外に方法がなかったとかな」
「でも───!」
オレは
「心配しなくても、オレがおまえたちの探し求めていた人間だ」
「はっ。やっぱり怪しいじゃない。自分でそんな風に言う? おかしすぎる」
これまで隠し通してきたからこそ素直に受け入れられないのも当然の反応だ。
「俺も怪しいと思います。本当の黒幕に
確信を得る寸前の
「あんただってXはここに姿を見せないって読んでたんじゃないの?」
「確かにな。これまで
その点に関して疑ってくるのは自然の流れか。
「俺には悪手に見えるぜ
それが唯一にして最大の証明だ。そう龍園が付け加える。
「素朴な質問なんだが、今のオレは窮地なのか?」
間抜けに問うこちらに対して、龍園たちにも一瞬しらけたような空気が流れた。
「オレは軽井沢に助けを求められてここに来ただけだ。試験でも何でもない今、証明も何もないだろ? Xである証明が欲しいのなら、次の試験までとっておけばいい」
「そうじゃないだろ。おまえは今俺たちに正体を握られた。しかも軽井沢の秘密も。ここで何もせずに帰ったら、明日には大変なことになることくらい分かるだろ」
「大変なこと?」
「いい加減とぼけるのは
「どうするもなにも、オレはどうもしない」
「分かりましたよ龍園さん。
石崎が半分ほど開いたままの扉に視線を向けて言った。
「それはない」
だがそれを龍園は否定する。
「そ、そうなんですか?」
「多数のクラスメイトが軽井沢の惨状を知れば、俺が言いふらすまでもなく、それだけで軽井沢の地位は終わる。少しは頭を使って考えろ」
その確証がなければ、龍園だってこんな
「な、なるほど……」
「しかし、とぼけてんなら大したもんだな」
「もういいでしょ龍園。Xが堂々と一人で乗り込んでくるなんて絶対にない」
伊吹が龍園に進言する。
「やれやれ困ったもんだな。伊吹や石崎はおまえをXだと信じないそうだぜ」
龍園は肩をすくめ、伊吹と石崎に
「何もしないと言ったな綾小路。だがこっちには真実かどうかを確かめる必要がある。そのためには周知させて確かめていくしかないが、それでいいんだな?」
そう言い、笑顔でこちらの一手を見守る
「オレは最初から認めてるんだが。信じられないならもう少し情報を開示しよう。
疑うことをやめない伊吹にオレは声をかける。
「無人島の試験。おまえはリーダーのキーカードをデジカメで撮影するように指示されていた。だが、
「な、なんでそれを!?」
「
デジカメを所有していたことを知る人物はCクラスでも少ないはずだ。
「ちなみに、森で伊吹に出会った時、おまえの指先は土で汚れていた。おまけに座っていた付近の土は一度掘り返された
ここまでネタばらしすれば、嫌でも理解してくれるはずだ。
あの時手が汚れている伊吹を見ていたのはオレか
つまりそこまで見抜いている人物、という確実な証拠だ。
「認めるしかないな伊吹。
「待って、待ってよ。多少頭がキレるからって、それがXと同一人物だと言い切れる?」
「これ以上何を疑う必要があるんだ」
龍園は更に
「だっておかしいでしょ。仮に綾小路が本当に裏で糸を引いていたXだったとしても、何で素直に出てきたわけ!? これまでのこと全部ぶち壊しでしょ!?」
「策くらい用意してるだろ。俺たちの想像すら及ばないミラクルってやつを。そうでなきゃ……その時はただのバカになるかもな」
「策? この状況で打てる手なんて存在しない。おまえたちは
「ハッ。だったらどうする? これでおまえの存在はいつでも明るみに出来るぜ? 正体を
「ここで軽井沢にしたことを学校に報告する、ってことも出来そうにないしな」
試験中と違って、普段の学校生活における暴力は即退学ってわけでもない。
仮に
「もし俺たちの行動をチクれば、刺し違えるつもりで軽井沢の退路を断つぜ」
そう。龍園たちにペナルティを与えれば、こっちは軽井沢を完全に失う。
肉を切ったと思ったら骨を切られていたなんて場合もありそうだ。
「どうみても、こっちが圧倒的リードってヤツだ」
「状況が分かったなら満足しただろ。軽井沢を連れ帰らせてもらう」
「拍子抜けすること言うなよ。
龍園は軽井沢の腕を
「っく!」
「おまえが無意味に正体を
挑発するように手のひらをクイッとオレに二度三度向けて
「悪いが龍園。何度聞かれても期待には答えられそうにない」
「あ……?」
「オレはおまえに手のひらで転がされた。それだけのことだ」
この場にいる誰もが、そんなことをXが言うとは思ってもいなかっただろう。
軽井沢を見捨ててでも己の正体を守る残酷なX。あるいは正体を守りながら軽井沢を救い出せる頭のキレる生徒。そのどちらかで考えていたはずだからだ。
これまでは笑顔だった龍園にも、ついに陰りが見え始めた。
「こんな大げさなことまでして突き止めたXが、こんな間抜けじゃ肩透かしもいいとこでしょ。デジカメの件だってきっとマグレか何かよ」
仲間でありながらも、
演技ではなく本当にそう思っているからこそ、堂々と疑問を投げかける。
頃合いと見て、オレは次の行動に出る。
「オレは確かに正体を晒した。だが、それですぐに困るわけじゃない。オレがDクラスを影で動かしていた事実を知っているのは
「それがどうした」
「オレの存在を周知させるなら、その時はこの屋上で起きた
「それが出来ないから、おまえは追い込まれてるって言ってるんだ」
「出来るさ。軽井沢を犠牲にするだけでいい」
「……あ?」
「元々おまえはオレが軽井沢を見捨てると思っていたはずだ。なのに、この場にオレが現れてからはそうじゃないと思い込んで話していた。違うか?」
「それこそ理にかなってないだろ。最初から見捨てておけば正体はバレずに済んだかも知れない。それが出来なかったから来たんだろ。ハッタリかましてんじゃねえよ」
「いい……。もし
倒れこんだ体をゆっくりと起こしながら、
オレはすぐに視線を
「ということらしい。信じるか信じないかは勝手だが、その時は徹底して交戦することになるな」
「あの……ひとまずXの正体が知れただけで、いいんじゃないですかね」
「私も賛成。マジで捨て身でかかってくるかも」
元々Xを
「……クク」
「確かに片方が秘密を
浅い深いの違いはあっても、両者に傷が残る。
しかも考え方によっては、軽井沢の場合は致死ダメージになるとも限らない。
過去に
ここで龍園が終了を宣言すれば、それで終わるだろう。
が───
この男は、絶対にそんな選択肢は選ばない。
「正直、今のところ拍子抜けだ。あっさり正体を
「は、はい」
「俺にとっちゃ
龍園は笑いながら、軽井沢の前髪を掴み上げる。苦痛に
だが、その
「クク……。あれだけ絶望を抱いてたくせにまるで恐怖を感じてない。綾小路がXであるかどうかの議論をしていたのがあまりに馬鹿らしいぜ。綾小路を信じきった絶対的な目をしてやがる。俺が綾小路の正体をバラせば、自分から虐められたことを報告に行きそうなくらいにな。安心しろよ。これでおまえの役目は明確に終わりだ」
もはや軽井沢への興味は
「おまえは俺を楽しませてくれたぜ綾小路。たかだかDクラスの不良品が、何度も俺の策を見切って裏をかいてきた。しかもやり方が俺に似てるときやがる。興味を持つなってのが無理な話だろ。黒幕を引きずり出してみる。それが俺の楽しみに変わった。その先なんざ考えちゃいない。会った時に考えればそれでいい、ってな」
「そして決めたぜ」
「……あんたは
「何をそんなにイライラしてんだ
伊吹はオレから距離を取ると、
「この先の行動はCクラスの危機に
「クク。
「これまであんたに従ってきたのも、あんたの
「だからあんたが今からやろうとしていることを、私は認めるわけにはいかない」
「おまえに俺が何をしようとしてるのか分かるのか?」
「4月からずっとあんたを見てれば分かる。暴力で屈服させようって言うんでしょ?」
話を聞いていた
「石崎も、
「力の差を見せ付けるにはそれが一番だからな」
「もう差は歴然でしょ」
「これまで綾小路に何度か煮え湯を飲まされたことは事実だ。その借りは返さないとな」
「だから、そういう考えがクラスをピンチにしてるってこと!」
パン、と乾いた音が響く。
龍園の手のひらが伊吹の
その途端に、伊吹は黙り込む。
「俺は俺が楽しめればそれでいいんだよ。暴力は特に分かりやすい」
今のようにな。そんな言葉が聞こえてくるようだった。
やはり龍園が
化かしあいの出来る舞台が用意されていない今、それしかないのは必然だ。
「いいか。今回のことで一番大切なのは互いに得た情報をどうしたいか、だ。綾小路は自分の正体と
今までの流れを考えれば、それは簡単に推理できることだ。
「何が起ころうとも、互いに泣き寝入りするしかないのさ」
それでも
「おまえが遅れて正体を見せた理由が少しわかったぜ。確かにこれで、お互いに場外で戦い合うことは出来なくなったな。扉を閉めろアルベルト」
アルベルトが
「だが、結局それが悪手だったことに変わりはない。おまえはここで終われると思ったかも知れないが、そうはさせねえよ」
これから何が起ころうとしているのか、この場の全員が肌で感じる。
龍園の方針は変わることはないだろう。
「退路はなくなった、か。これで思う存分おまえの望む展開が出来るな」
「まずはその
「本当に暴力に訴えるつもりか」
「何も戦いってのは頭脳戦だけじゃないからな。強固な陣を敷く軍師の裏をかいて、当人を暗殺するのも立派な戦い方だ。暴力はこの世でもっとも強い力だ。どれだけ小細工しようと、暴力の前には屈さざるを得ない」
今にも仕掛けてきそうな状況になったところで、オレは一度龍園、
「おまえの無様な姿を目に焼き付けて、それで手打ちにしてやるよ。3学期からは
「確かに人は暴力の前には屈する。その理屈は分からなくもない。ただ、その理論を
「あ?」
「この場にいる4人だけじゃ、オレは止められない」
「……?」
理解できない伊吹が、
「ク、ククク。ククククククク」
よほどおかしかったのか、龍園は腹を抱えながら笑った。
「
「い、いいんですか」
攻撃命令に、石崎が思わず
指示されても抵抗が生まれるのは無理もない。
「遠慮なくやれ」
「しかし……」
「俺たちが
「待って!」
詰め寄ろうとする
「なんでこんなバカみたいなことするわけ!?
「おいおい、急に参戦してくるなよ軽井沢。おまえはもう用済みなんだ。コイツが
水を差すなというように、
「ッ!」
そしてそのまま後ろに軽井沢を突き飛ばした。
「だからすっこんでろ」
それでもなお、軽井沢はオレのために龍園に対して
起き上がり龍園に対して飛びかかろうとする。
「心配するな軽井沢」
オレはそんな軽井沢に声をかけ、やめさせる。
「で、でもっ」
「何も心配はいらない」
「そうだな。おまえはテメェの心配だけしてろ」
石崎が前に出る。
「悪く思うなよ綾小路。これも龍園さんの指示だ」
「別にいいさ」
こうなることまですべて織り込み済みの展開だ。
石崎は、ただ無造作に
小学生や中学生でも
大振りに繰り出される右拳をオレは右手で受け止める。
「あ……?」
「石崎。やるなら本気でやった方がいい」
一度だけ警告をする。だが、拳を止められても石崎にはピンと来ていない様子だった。
止められても仕方ない動き。止められても無理のない威力だったからだろう。
オレは受け止めたままの石崎の右拳を、右手の握力で握り締める。
「お? あ、っ、え……っ!?」
「ちょっと石崎?」
明らかに様子がおかしいことに気がつき、
「あ、っ、つ! た、たんま、やめっ!」
この中で事態を真っ先に
ボスの許可を得る前に、アルベルトがその電柱のように太い腕を振り上げ、振るう。
あえて動かせるオレの左手側から攻撃したのは、石崎が逃れた後、オレが防御に回れるように配慮したものだったのかも知れない。
とは言え、余計なお世話ではある。受け流し身をかわすこともできたが、あえて多少のダメージを負うことを覚悟で、オレは
バチッと高く重い音が響く。
ジンジンと
「……
サングラス越しでアルベルトの表情は分かり
「
遠くから見る伊吹には、アルベルトが本気で打ち込んだようにも、そして石崎が本気で痛がっているようにも見えなかったのか。
あるいは信じたくない光景なだけなのか。
オレが右手の握力から解放すると、石崎は
「やれアルベルト」
龍園の指示が飛ぶ。
アルベルトは屈強な身体で突進してきて、その豪快な腕を振るう。
人体の構造上、破壊力を持った攻撃を繰り返し受け続ければダメージは
一度目は意図的に受けたが、ここから先は食らってやるわけにはいかない。
突き出された
カウンターを
無表情だったアルベルトの顔に
直撃させたこちらの拳に返ってくる硬い感触からしても、ダメージは浅い。
純粋な日本人にはない恵まれた肉体に加え相当鍛えられていることが分かる。
ならば、その鋼鉄の肉体を
人間には弱点とされる箇所が無数に存在する。
例えばみぞおちは、鍛えることが出来ない。
もちろんだからといって一撃必殺の部位だと思い込むのは早計だ。
あくまでも鍛えにくいというだけで、その痛みに慣れることや耐えることは可能だ。
アルベルトも本能からこちらがみぞおちに
それを予期した上で、オレは
「~~~~~~~~っ!」
声にならない声がアルベルトから漏れる。
「
背後から叫び、殴りかかってくる
「……来るなら叫ぶなよ……」
わざわざ敵に塩を送る石崎に
こちらの背後に回ったアルベルトが下半身から崩れていくのを確認し、回転してその顔面へと蹴りを叩き込んだ。そして即座に石崎の
石崎が
ただその信じがたい光景を、
「どうやら、俺たちが思っている以上らしいな。あそこまで強気だったのも、腕に自信があったからか。それは想定外だったぜ」
「こっちの用意した舞台が、綾小路にとってたまたま好都合だったってこと? 何よそれ……」
「それは本気で言ってるのか、伊吹」
「え……?」
「龍園が暴力を使って相手を支配するタイプの人間であることはとっくの昔に
「は?」
伊吹が首を
「待てよ綾小路。
「ここまで丁寧に話してもまだ状況が見えてこないか」
ふーっと息を吐いた後、オレは
「オレとおまえが、こうやって向かい合うことは前から決まっていた。そして互いに学校へと告げ口が出来ない状況の中、
龍園はこれまで、自分が計画を立て、予定通りそれを順調に実行してきた気になっている。
だがそれは大きな誤りだ。
「もしオレが本気で正体を悟らせないつもりなら、最初から
ここまでは龍園側に否定する材料は無い。当然だ。
「おまえはオレと軽井沢が
「ク、クク。面白いことを言うじゃねえか。俺の手のひらで、あえて泳いで見せたと?」
「正確には手のひらで泳がされているように見せて、こっちが泳がせてたんだよ」
「謝らせてくれ
こちらの一部始終を見ていた龍園は、技量を見せ付けられても楽しそうに笑う。
「何なのよ……あんたも、綾小路も……!」
下着が見えることなど気にした様子もない。
いや、正確にはそんなことを考えるほど冷静じゃなかったのかも知れない。
オレは後方に下がり、落ち着いてその蹴りを
伊吹も改めてスイッチが入ったことだろう。
即座に地面を二度三度踏み、距離を詰めて
非常に良い動きだ。
体調不良があったとはいえ
「っ」
こちらが
「ホントにあんたなワケ……?」
「ここまで見ても信じられないか?」
「ムカつく。なんかわかんないけど、ムカつく!」
再び
「っ!?」
お遊びに付き合ってやってもいいが、あまり長い時間をかけるのは得策じゃない。
オレは
頭を
「暴力は何も
伊吹、
龍園の右腕とも呼べる生徒たちが崩れ落ちた今、残っているのはただ一人。
その光景を一人目撃する
「この状況を見ても、まだ冷静でいるのは
「頭のキレだけじゃなく、暴力まで一級品とは
素直な敬意を表すように拍手し、龍園がオレの前まで歩いてくる。
「その上で俺が何を言いたいか分かるか?
「さあ」
状況を
余裕を見せているのは単なるハッタリだけじゃないんだろう。
龍園にしかない、龍園だけの優れた特質。
それがあるからこそ、ここまで堂々としていられる。
「暴力の勝敗を決めるのは、何も腕っ節だけじゃない。心の強さも関係する」
龍園がやや腰を低く落とし
オレは後方に飛びそれを避ける。
すぐに龍園は追撃するように距離を詰め、今度は利き腕の右拳を繰り出す。
「悪いがまともに攻撃を
更にそれを避けると、今度はオレが仕掛ける。
龍園の前髪を掴むべく伸ばした右腕。
それに素早く反応を見せ、龍園は左手でそれを払った。
───直後、オレの
「っ!?」
オレの右腕に気を取られた瞬間、即座に攻撃を仕掛けた。
龍園は立て続けに攻撃されるのを回避するため、一度距離を取る。
「やるな龍園」
総合力が石崎を
そこそこ重い一撃が入ったのに、倒れる気配がない。
「
そう言って笑った。
だが、まだアルベルトに勝てるほどの
「
今までより一層笑みを強め、遠慮の全くない攻撃が繰り出される。
武道を習っていた動きじゃない。
反撃するのは
4発目の
「なんで表に出て戦わない。おまえなら堂々とやり合えるだろ」
「こっちにも色々ある」
「そうかよ。だったら勝って聞かせてもらうとするか」
「勝てると思ってるのか」
「クク。おまえは負けないと思ってるのか?」
「……悪いな。負けるのは想像つかない」
龍園に見えていて、オレに見えていないもの。
「この場ではおまえが勝つだろうな。だが、明日は?
「繰り返してれば、いずれ勝てると?」
「しょんべんしてる最中は?
「負けることが怖くないのか」
「恐怖なんて俺にはないのさ。一度も感じたことがない」
「恐怖がない、か」
なかなか面白いことを言う。
恐らくそれが龍園の自信の源。
「おまえも痛みを知れば分かるさ。常人はそれが後々恐怖へと変わるのさ」
「だったら、その痛みってヤツを教えてもらおうか」
「望むなら幾らでもな!」
龍園はオレの両肩を
「
心配し叫ぶ
だが、食らおうと思って食らった一撃だ、心配するようなことじゃない。
「二度、三度食らえば分かってくんだろ! なあオイ!」
同じ箇所を狙うように、龍園は
踏み込むと同時に距離が近づき、左手で顔をガード。
右手を突き出し、それを引きながら
今日一番の
オレは後ろによろけ、全身を駆け巡る痛みと出会う。
「どうだ。これでわかってきたか?」
「……
「おまえも、俺と同じように恐怖を感じないとでも言うつもりか?」
「そうじゃないさ
オレは痛みによる恐怖の存在を知っている。
敗北者になることが、どれほど
目の前で、何度も何度も崩れ落ちていく存在を見てきた。
だがいつしか、それは恐怖じゃなくなった。
冷めていくのを感じた。
他人がどれだけ苦しみ絶望しても、自分が痛むことはないと知ったからだ。
己を守る
「もっと遊ぼうぜ!」
龍園が叫び、二度三度とオレの腹部へと集中砲火を浴びせて来る。
「ちっ! お見通しかよっ」
それを焦ることなく
「遊んでやがるのか?
「おまえの言う恐怖ってヤツが、本当に呼び起こされるのか試してるんだ」
「どこまでも
力の差を感じていながらも、龍園は勢いを失う様子を見せなかった。
これが向こう見ずの無鉄砲なら話は別だが、自分の
龍園に優位な段階から計算を狂わせ、
無論、上限を読み間違えていただけで、さしたる問題ではない。心を折るまでに必要な工程のひとつが長引いただけ。その分龍園は痛みを負うことになる。
「おまえ、どこでそんな力を身につけた。普通じゃないな、綾小路……」
喧嘩の場数を踏んで
オレは答えず、一歩一歩開いた龍園との距離を詰めていく。
ギラリと鋭い目はこちらに一矢
「それだけの能力がありながら、こそこそ隠れてやがったわけだな。
「見下すも見下さないも、そんなことを考えたこともない。他人が成功しようと失敗しようとオレには直接関係のないことだらけだからな」
その答えが気に入らなかったのか、
「そんなわけがあるかよ。人間ってのは欲の塊なのさ」
無欲な人間など存在しない、と強くオレの考えを否定する。
もちろん、オレにだって欲と呼べるものは
ただ、それはまた別の話。
これ以上遊んでも、多分何も変わらないだろう。
オレは体勢を立て直す。
「だったら恐怖するまで何度でも
もういいさ龍園。
顔面への
「がっ───!?」
意識が刈り取られるほどの衝撃を受け、龍園が吹き飛ぶ。
だが一撃では刈り取らない。
あくまでもその一歩手前で威力を押しとどめる。
コンクリートに腰から落ちたところで龍園の上に馬乗りになり、左右の
「おまえは恐怖を感じたことがないって言ったな龍園」
「はあ、はあ……クク、そうさ。俺は恐怖を知らない。一度も知ったことがない」
視界の半分が
だが威力は損なわれ、
代わりに、オレは上からの的確で強烈な一撃をお返しする。
龍園の表情が
「ずっ、ぷっ……! 俺は
少し
オレは再び拳を振り下ろした。
「かはっ! ……あ、くそが、また喋り辛くなりやがった」
左右への攻撃を、小さく小刻みに繰り返す。
だが、それでも龍園は本当に恐怖しなかった。
「暴力ってヤツは人間の本心が見える。殴るやつにも、殴られるやつにも」
好きなだけ殴れよと挑発する。
「はあ、はあ……ク、クク……さぞ楽しいだろうな
龍園は目を開く。
その龍園に対し、オレは顔を
既に顔は
それでも龍園は恐怖しない。
人間として、本来備わっているはずの感情の一つ。
それが機能していない。
「もういいだろう龍園」
こちらからそう提案するが、当然龍園が受け入れるはずもない。
「ク、クク。どうした綾小路。俺はまだ参っちゃいないぜ。息の根を止めてみろよ」
自らの命を差し出し挑発する龍園に対し、オレはもう一度拳を食らわせる。
痛みにこそ表情を
「
こちらを見る目は出会った時から変わっていない。
目先の敗北ではなく、最後にやってくる勝利を信じて疑わないようだ。
「今ここでおまえが俺に勝っても、俺は何度でも食らいつく。学校のどこにいても、
今まで、そうやって龍園は逆転し生き残ってきたんだろう。どれだけ強い相手でも、常に無敵なわけじゃない。その隙を逃さず仕掛けてきたからこその自負。
暴力を持って相手に恐怖を植え付け、支配する。
こいつを敵に回すと、いつ襲われ
「今一時の
反撃する力を失いながらも、龍園は最後の最後まで笑い続ける。
「人間は弱者に対した時、面白いように感情を
感情の裏に恐怖が潜んでいる?
「勝ちたいのか? 負けたくないのか? お前はどんな感情を持ってるんだ綾小路」
勝ちたい?
負けたくない?
「おまえは今……俺を支配して笑ってるのか? 怒ってるのか? それとも興奮し喜んでいるのか? あるいは
コイツはさっきから何を言っているんだろうな。
だが、ひとつだけ確信できることもある。
こんなつまらないことに、心が揺れ動くことはない。ということだけ。
感情を
もう何度目かも忘れた
「っ!」
もう止めたりはしない。
右へ左へ、ただただ同じ威力の拳を繰り返す。
龍園の顔が引きつる。
ああ、それだ龍園。
おまえにも見えたんだろう?
恐怖という感情は、己の中に確かに存在する、ということを。
今までよりも強烈な一撃を、
最後は意識を刈り取る一発。
おまえはこっちの心をコントロールしようとしているつもりだったかも知れないが、操られるような心は
オレはゆっくりと龍園の上から立ち上がった。
これ以上、寒空の下
「悪いな、
「それは……大丈夫。ちょっと寒すぎて感覚はなくなってきたけど……」
座り込んだまま一部始終を見ていた軽井沢の前に手を差し出す。
「オレに幻滅したか?」
「当たり前、でしょ……。最初から裏切ってたんだから」
「そうだな。なら、どうして龍園に売らなかった」
「……自分のため。ただ、それだけ」
そう言い、オレの胸元に倒れこみ
「怖かった……怖かったよぉっ……!」
「今は何も考える必要はない。今日されたことも、今ここで起こったことも。
踏ん張る力も残っていないのか、その身全てをオレに預ける
軽井沢にしてみれば、本当に災難続きの数ヶ月だったはずだ。
偶発的に起きた真鍋たちによる
精神は不安定でボロボロだろう。
「
だが、軽井沢
屋上で再会した時にそれを確信した。
「おまえを傷つけたのはオレだ。許してくれとは言わない。ただひとつ覚えておいてくれ。今日のように、おまえに何かあればオレはおまえを助けに来ると」
「きよ、たか……」
これだけ打ちのめされながらも、軽井沢はオレという宿木からは離れない。
軽井沢は、オレという存在なしにはこの学校に存在できないものにまで達した。
この先オレが存在する限り何があっても心が砕け散ることはない。
もしも、仮に早い段階でオレが軽井沢を助けていたらどうだっただろうか。
確かに約束を素早く果たしたということで、軽井沢からの依存が強くなったことは間違いない。しかし、逆に次に同じような目にあって見捨てられたとき、軽井沢の
ところが、最初の段階でここまで引っ張ることで、どこまで行こうとも最後まで信じぬくという意思が生まれる。それと同時に、軽井沢が簡単に裏切るような人間でないことも
もっとも、オレの名前を吐いていたとしても、それはそれで『罪悪感』にさいなまれ、以降オレが有利に動けたことは考えるまでもない。
手に入れた軽井沢恵という
必要性があるかどうかは二の次で、手中に収めておくに越したことはない。
「少し降りた先で生徒会長……今は元生徒会長だが、と多分
「わ、わかった……
「オレには後始末が残ってる。それに一緒にいるところを見られると何かと面倒だ。先に帰ったほうがいい」
そう言って軽く背中を押し出すようにし、
「さてと……」
屋上に4人を放置して帰るわけにもいかない。
オレは
そして最後に
「っく……」
「目が覚めたか」
「この問題が……これで終わったと思ってんのか、
「終わりだ。まさか今から続きをやろうなんて言いださないだろ」
どんな人間が見たって、今回の勝負に決着がついたのは明らかだ。
「俺はどんな手段でも使う。勝つためならな」
そう言って、龍園はゆっくりと上半身を起こした。
「必要なら戦争だ」
「オレに殴られた、とでも言って訴えるか?」
「……クク。さすがにそれはダセェな。だが、勝つためならそれも選択肢のひとつだ」
どれだけ無様でも、オレに勝つためなら検討するってことらしい。
「なんなら強引におまえが仕組んだことにしてやろうか?」
「一応助言だけしておくが、オススメはしない。降りた先で元生徒会長が待ってる。詳細は知らなくても問題行動があったことはすぐにバレるぞ。先に仕掛けたのが龍園であることは、屋上の監視カメラを
何枚でも保険をかけておくのは当たり前だからな。
「……最初から部外者を目撃者にも出来たのに、しなかったのか」
「一度おまえを叩いておかないと、攻撃を
「俺がこの敗北で納得するとでも?」
「少なくとも、オレはそう思ってる。おまえの敗因はたった一つだ龍園。攻略する順番を誤った、それが
包み隠さず言うと、龍園は苦笑いを見せた。
「はっきり言いやがる……」
「リベンジマッチはいつでも受け付けると言いたいところだが……オレは今後目立ったことをするつもりはない。出来れば他を当たってくれ」
すぐに龍園らしい言葉が返ってくると思ったが、
「あえて目撃者に距離を取らせたことを深読みすれば、俺が今後もおまえを執拗に
「極力避けたいが、そうするしかないだろうな」
「そして、俺だけじゃなくこの場に居た
処分のほどは定かじゃないが、相当重たい処罰になるのは避けられない。
「オレの正体と軽井沢の過去が絶対であると過信したのも失敗だったな。未然に防ぐにはもっと大掛かりにやるか、見張りを多く立てておくべきだった」
この学校というエリアの中では、どうしても
「つまり俺が存在し続ける限り、Cクラスは手負いのままってことか」
「別にこっちに対して
「そんな口約束を信じるほど、俺は甘くねえよ。もしもCクラスによっておまえが
「かもな」
確かに絶対の約束にはならないな。
常に頭を押さえつけられた状態ではCクラスはまともに機能しないか。
「だがどうする? 起こった事実は取り消せないぞ龍園」
「うるせえよ。おまえとの勝負は終わりだ。そして、俺自身の戦いもな」
龍園は伊吹たちを見回すと、携帯を取り出し何かを入力した。
そして、屋上の床の上に、伊吹の足元へと携帯を
「何よ……」
黙ってオレと龍園の会話を聞いていた伊吹が
「責任は
「は……? 龍園、あんた、何言ってんの……? バカ?」
「そ、そうですよ龍園さん! ここでのことは口外しないわけですし、責任なんか取る必要ないですよ!」
今回の出来事は互いに公言できない。そういう表向きの平等。だが実際はDクラスが圧倒的に優位であることに龍園は気づいた。それを帳消しにする方法はたった一つしかない。
「
「
くだらねえと龍園は言葉を吐き捨て、同時に口の中に
「暴君が許されるのは、その権力が意味を成している間だけだ。ここまで負ければ、それに付き従う人間はいなくなる」
これまでの横暴な態度も、行動も、全ては結果が
他クラスを巻き込んでのX探しはそれだけ多くの波紋を生んでいた。
ここまで強引な手法を取り敗れた自身に、その資格はないと悟ったか。
思ったよりもずっと物分りがいいようだ。
ここまでお
「ふざけないでよ。なんで私に
「おまえが俺を嫌ってる。だからこそだ。残ってるプライベートポイントは全員で分け合え。俺が退学することで
契約者本人が学校を去れば、確かにそうなる可能性は高い。
「龍園さん、マジで言ってるんですかっ!?」
「うるせぇよ。叫ばなくても聞こえてんだよ」
薄く笑う龍園。
「後はおまえらでやれ」
本気で退学する決意を固めたのだろう、携帯に見向きもせず立ち上がる。
「じゃあな」
そういい残し、屋上を去ろうとする龍園。
その背中には
「いいのか? 本当に学校を
龍園をオレは呼び止めた。
「なんでテメェがそんなことを気にするんだよ」
「ここで負けたことの意味すら知ることなくここから去れば、おまえの成長はそこで終わるぞ」
「あ?」
「なんでオレに負けたのか。それを知らないままでいいのか」
「……抜かせ。そもそも俺を助ける意味がどこにある。おまえのことも
「そうだな……。
つまり打算的な話だ、と付け加えておいた。
「もし今回の件が予期せぬ形でオレたちの思惑を飛び越えたとしても、幸いオレは人目につく箇所はどこも
「……だったら筋書きはこうだ。働きの悪いおまえらに制裁を加えようとしたが、逆に返り討ちにあい、俺は一線から
それならオレにも迷惑はかからない、と言うことか。
「あんた……そんなんでいいわけ?」
「ここにいる全員が、
「一つだけ追加で言わせてもらおうか。自主退学するのは勝手だし、疑うのも勝手だが、オレは今回の件を誰かに言いふらすつもりは無い。下で待機している元生徒会長にも、ここでのことは
「だったら止めるな。俺は人を簡単に信じたりしない」
そう
後に残される