【期間限定再録】なみだのすいそう
ばっち恋2nd開催おめでとうございます!
2022年9月発行の既刊をwebオンリー期間限定で再録します。
アフター期間中も展示しておくのでゆっくりどうぞ。アフター後に非公開に変更します。
地下室時代、急に泣き虫になるゆうじと静かに焦るさとるが恋人ごっこを始めて本当の恋人になる話。
事変なし。
ゆうじくんはこんなに泣き虫じゃないです。でも泣き虫なゆうじくんが見たいで〜す!
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走り出した悠仁のフードが背中で、少し遅れて本人を追いかけ始める。
尾を引くように靡く赤いそれは、まるで。
泣き虫の恋人ごっこ
はじめて涙が止まらなくなったのは、地下室で映画を見ていたときだ。
思わず涙してしまうような感動的なラストシーンだった。虎杖はいい映画だったと小さな余韻に浸りながら、そのままエンドロールを垂れ流す。ソファーに座って、下から上へと逆流していく文字をぼんやりと見送った。そのBGMが二曲目に差し掛かったあたりで軽く鼻を啜る。
虎杖はそこでようやく、変だなと気づいた。頬を伝う涙が止まらない。「ぼろぼろ」と言うよりは「しくしく」だろうか。しゃくり上げてしまうような激しさはなく、鼻が詰まるせいで呼吸はしづらいが我慢できないほどではなかった。
かすかな異常事態だが、なんか泣いてるなぁと思うだけで動く気になれない。虎杖は腹の前に抱えたクマのぬいぐるみのような呪骸をそっと撫でた。これが眠っているということは特訓に支障はないということだ。ならばべつに構うことはないだろう。
そうして静かな地下室でひとりきり、虎杖は自分から垂れ流される水分を放置していた。テレビの液晶画面はすでに本編の再生を終え、メニュー画面に戻っている。虎杖はディスクを変えなくてはと思いながらも短い映像と効果音がループされている単調な画面を見つめていた。
「そんなに感動するシーンあった?」
ソファーの背後からひっそりと声を掛けられる。
「うん。たぶん」
虎杖は振り返るのが億劫で、失礼だなと思いながら顔を前に向けたまま、かろうじて返答だけはする。この地下室を訪れるのは五条と伊地知しかいない。声も気配も伊地知ではなかったから、必然的に声を掛けてきた相手が誰かはすぐにわかった。
虎杖は平常どおりに答えたつもりだったが、静かな内心に反して自分の声はつんと震えていた。
声の主である五条がゆったりと近づいてくる。虎杖は五条の場所を作るために尻を少しだけ浮かして右に寄った。虎杖が空けたスペースに座った五条の体重を受け止めたソファーが沈んで、バランスを崩さないように虎杖は足にかすかな力を込める。それでも反動でほんのわずかに上半身が傾いだ。傾く虎杖の身体に五条の手が伸びてきて引き寄せる。頭に当てられた大きな手が虎杖を五条の身体へと寄りかからせた。
「泣きたくなることでもあった?」
隣の、少しだけ上部から静かな声が落ちてくる。火山頭の呪霊との戦闘へと連れて行かれたときに知った五条の匂いを感じながら虎杖は口を開いた。
「主人公が、死んだ」
「そう」
五条が正面の画面を見ているのを感じる。ここにある映画を選んだのは五条だと思うから、きっとこの作品も一度は見たことがあるだろう。虎杖は五条の感想を聞いてみたいと思ったが、結局は声に出さなかった。ひょっとしたら声を出せなかったと言い換えても同じかもしれない。
大きな身体に見合う大きな手が慰撫するような温度で虎杖の耳の上から首を伝って肩へと辿り着く。五条の身体に寄せられた頭に、五条の頭の重みがほんのりと加わった。
「先生の服、濡れちゃう」
「どうでもいいよ」
五条本人がどうでもいいと言っているなら虎杖が気にすることでもないか。そう思い虎杖はそれ以上なにも言わなかったし、離れることもしなかった。
五条の上着の少し冷えた生地が虎杖の体温で温まり、虎杖の涙で冷たく湿るまで。まるで銅像のように同じ体勢のまま、短いループ映像を見つめた。一度だけ動いたのは虎杖が腹に抱えた呪骸を五条が取り上げて床に置いたときくらいだろう。空っぽになって寂しくなってしまった手は五条が捕まえてくれた。
そして、いつのまにやら虎杖はゆるやかな眠りに落ちていたらしい。
虎杖が再び気がついたときにはベッドのなかに横たわっていた。目元が少し重い気はするが腫れて熱を持つほどではない。
五条はとっくに地下室にはいなかった。
もしかして夢だったのだろうかと思い、それならどこからが夢だったのかを考える。昨夜見ていた映画をもう一度見てみようかとディスクを探してみたがなぜか見つけられなかった。
プレーヤーのなかにも入っていないしケースごと無くなっている。だからこそ、全部が現実だったのだと虎杖にはわかった。
次に虎杖が涙が止まらない事態に直面したのも初めてと同じように地下室でひとりきり。映画を見ているときだった。
コメディー映画で、何気ないワンシーンが油断していた虎杖のツボにはまる。それで涙が出るほど笑った。ひとしきり笑って、涙が止まらないことに気づいて少し驚く。
なんかまた泣いていると虎杖はどこか他人事のように思いながら映画を見続けていた。たしかに面白かったはずの映画が急に色褪せて感じる。そこからは内容を愉快に思う気持ちとは裏腹に、一度も笑うことなく映画は終わってしまった。虎杖はまたメニュー画面を眺めるしかない。
この日の五条もひっそりと現れた。五条はソファーに座るまで無言で、冬の朝のような静けさで虎杖に寄り添う。
「泣きたくなることでもあった?」
「……涙が出るくらい面白かった」
虎杖は理由を考えてから返事をした。映画を面白かったと、たしかに感じていたはずなのに今となっては自信がなくなっている。
自分が少しおかしいことに虎杖は自分でも気づいていた。だがべつに大して困ってもいない。だからどうでもいいかなと思っている。虎杖本人にとってはそうだが、五条とってはきっとそうではない。たぶん心配させているのだろう。それがわかっているのに、どうにも取り繕う気になれない自分に虎杖はひそかに困惑した。
「重い任務だったね」
夢のように淡い記憶のあの夜と同じように引き寄せられて、一滴の優しい声がぽつんと落とされた。
友だちになれそうだと笑いながら、自分のなかではすでに友だちだと思い始めていた友人のことを思い出す。とっさに抱きしめそうになった呪骸を五条の手が攫っていく。友人の命さえ掴めなかった両手を、五条の手がすぐさま絡め取る。虎杖の太ももに五条の手の重みも加わった。
地下にあるこの部屋は五条がいないといつだって静かだ。今夜は五条がいるというのに静かなまま、しんとしている。
「泣き止む必要はないよ」
五条にそう言われて、そもそも泣き止もうとすらしていなかった自分を見つける。虎杖は了承を示すために小さく頷いた。あまりに小さな動きで、自分でも五条の上着にすり寄ったようにしか見えない。涙を擦りつけて申し訳ないと頭の片隅で謝った。
どうして心のなかだけかと言うと、なぜか喉が動かなかったからだ。虎杖の身体は最近、急な反抗期なのかもしれない。たぶん世間的にはそういう難しいお年頃のはずだ。
「これからもああいう酷いことは起きる。きっとあれより酷いことだって起きるよ」
返事のかわりにまた頷く。そうなんだろうなと思う。
「我慢が一番よくない。……我慢して、もう戻れないくらいポッキリ折れちゃうのが一番よくない」
なんだか自分に言い聞かせるみたいな言い方だなと思う。その言い方がもしかすると五条も少し平常ではないのかもしれないと虎杖に感じさせた。
「つらいことがあるなら、話、聞くけど」
迷うように言われた言葉が面白くて小さく喉が震えた。五条に似合わない話し方だと、なんとなく思ったからだろう。
「涙、止まらん」
べつにつらくはなかったが、困ってはいたからなんとか答えた。
「止まるまで泣いてみたらいいんじゃない、かな」
慰めるのが下手だなと思ってしまう。不器用な優しさに、今度は自分からすり寄った。目を閉じて頭を預けると虎杖の肩を支える五条の右手が少しだけ力強くなる。
それ以降は言葉もなく、虎杖は五条の左手の親指の爪をこすっているうちに眠ってしまったらしい。次に気がついたときは、またベッドのなかに横たわっていた。
昨夜ひとりで見ていたコメディー映画のディスクはやっぱり忽然と姿を消している。
もう、夢だったかもしれないなんて虎杖も思わなかった。
虎杖はその二回目以降も時折、映画を見てはひとりで泣き始めた。
初めて涙が止まらなくなった夜のように感動的なシーンで泣き出す日もあれば、二度目のように涙が出るほど笑ってそのまま泣き続ける夜もあった。
五条も忙しい合間を縫って地下室によく顔を出す。泣き続ける虎杖を見つけるたび、横に座って言葉少なにただ寄り添ってくれた。
それでも五条が耐えきれなかったように、泣きたくなることでもあったか、つらいことがあるのかとぽつりと尋ねてくる。そうされると虎杖は申し訳なさにちょっとだけ困ってしまった。悲しいわけでも、泣きたいわけでもない。この蛇口の壊れた涙腺にはっきりとした理由があるなら虎杖のほうこそ教えてほしかった。今さら誤魔化すには無意味だし、なぜか言い訳もろくに思い浮かばない。首を横に振ったり、わからないとかろうじて答えたり。虎杖にはかろうじてできることと言えばそれくらいだった。
そういえば、ある夜のこと。その日も虎杖は五条に肩を抱かれて、ほろほろと涙を垂れ流していた。いつもは前を向いている五条の眼差しが自分に向いているのに気づき、五条を見上げたのだ。黒い目隠し越しに虎杖を見下ろした五条の顔が近づく。虎杖の目尻から零れる涙を、吸い付くようにして五条の唇が受け止める。
虎杖だってさすがに驚いた。でも声はやはり出ない。虎杖が黙ったまま見上げていると、五条は「甘いよ」と苦笑する。その夜以来、五条は毎回一度は虎杖の涙を舐めるようになってしまった。そしていつも「甘い」となぜか味の感想を伝えてくる。
どこか言い訳がましく聞こえるそれに、甘いならいいよとはならないだろう。虎杖は毎度のようにそう思っていた。もちろんそれも声にはならなかったが。
涙の理由を教えることも言い訳さえも言えない。優しさにも大した反応ができないことを虎杖は申し訳なく思っていた。泣いていない平常時に会うとき、五条は虎杖に静かな夜のことをなにも言わない。虎杖もなんと切り出せばいいのかわからず、涙して寄り添う夜のことをまるで離れ小島のように遠くから独り眺めていた。
虎杖が泣き始めた一応の原因ではある映画のディスクを、虎杖が寝ているあいだに五条が毎回誘拐していく。それはなんだか面白さを通り越して微笑ましかった。かわりに補充されるのが幼い子どもでも安心して見ることのできるアニメ映画ばかりで、パッケージを見るたびにほわほわと胸が温かくなる。
そんなふうに、静かで優しいが膠着していた事態が虎杖の高専復帰も目前に迫った日にとうとう動く。
虎杖がその夜に見ていた映画は高校生が主役のラブコメディーだった。泣くような場面は虎杖的にはひとつもない。むしろ虎杖にはよくわからないからか少しだけ退屈で、大きな欠伸をひとつした。なんとたったそれだけで涙がまたも止まらなくなってしまったのだ。
そこに例のごとく五条が訪れる。いつものように抱き寄せられて、いつものように涙の理由を聞かれた。
違ったことと言えば、虎杖と現実を隔てる透明な膜が普段より幾分薄かったことくらいだろう。だから、普段はできない言い訳のひとつくらいこぼしたかった。いつも静かに泣く虎杖のように、いつも静かに焦ったり困ったりしている五条に、存在しない理由のひとつでもひねり出して教えてあげたい。
友人関係に勉強、そして恋にと一生懸命なハイスクールライフを映している画面を霞む視界で見つめて、虎杖は口を開いた。
「俺は一生、恋人なんてできないんだなって思っただけ」
恋なんてこれまで一度もしたことがないくせに、あまりに杜撰な言い訳だった。
「……いつもそれで泣いてたの?」
「今日だけ」
五条は怪訝そうにしている。自分でもどうかと思う理由だったせいか、虎杖の声はどうしても小さく震えた。しかし最初から泣いているおかげで違和感はさほどないだろう。泣いているからこそ変な言い訳をしてしまっていると言うのに、なんともおかしな話である。
けれど、言葉にして初めて自分には恋人が一生できないというのは事実だなと虎杖は思い至った。
たとえば相手が呪いなんてものがわからない、普通の一般人の女の子だったとして。宿儺の器だとか、死刑猶予中で終わりが決まっているだとかの大事なことを隠して付き合うのはよくない。だが虎杖が誠心誠意どんなに言葉を尽くして説明したとしてもきっと、両面宿儺という呪いの王の恐ろしさを真実理解させることはできないだろう。それをわかっていて付き合うなんてのは騙すのと一緒で、身の危険に直結するぶん、下手な結婚詐欺よりもたちが悪い気がした。
それに、たぶん自分と付き合うとその女の子は危ない。今はもう、虎杖もそのことを知っている。
では最低限、自分の身は自分で守れる呪術師ならばどうだろうか。それはないな、とすぐに思った。宿儺の恐ろしさを知る呪術師であるからこそ虎杖を相手には選ばないだろう。そのうえ上層部に睨まれてまで虎杖相手に恋愛をするだろうか。
まあこんな想像も虎杖を好きになってくれる相手が現れないと、すべて取らぬ狸の皮算用と言うやつだろう。そもそも虎杖自身に好きなひとができないことには考えても無意味だ。虎杖はまだ特定の相手を真剣に好きだと思ったことがない。
「恋をする人もいればしない人もいる。でも悠仁は恋をしたいと思ってるんだね」
自分の考えに沈んでいた虎杖に、五条の淡泊な声が届く。
「……うん」
虎杖はたった二文字で嘘をついた。
「悠仁なら恋人なんて簡単にできるよ。作るだけならね。だからそんな悲しいこと言わないで」
頭がいつもより働いていないせいか、なんと言うべきか悩んだ。大人の意見だなとは思う。なんとなくいいな、程度で交際を始めることができる人たちがいるのもわかる。だが虎杖は恋だなんてしたことがないから、その感覚が現実的なものだとは思えない。
たった今まで考えていた自分の立場についての認識は、自分を大切にしてくれているひと相手に説明する気になれなかった。
「僕としよう」
あいかわらず平坦な温度で言われた言葉を一度素通りさせて、のんびりと追いつく。のろのろとした速度で左上を見上げた。
虎杖を見下ろしていた五条の口角が上がっている。
「僕と恋をして、僕を恋人にしたらいいよ」
「すきじゃないひとと付き合えんよ」
虎杖はおっとりと返事をしながら、たしかに五条なら虎杖に関する大体の問題は解決かもなぁとは思った。
けれど代わりに教師と生徒だとか年齢だとかの別問題が浮上してくるだろう。その程度、宿儺の器や死刑執行猶予中なんてものに比べたら些末な問題なのかもしれないが。
「お試しというか……そうだね。まずは恋人ごっこだとでも思えばいいよ」
「こいびとごっこ」
確かめるように繰り返す。耳慣れない言葉だった。幼い子どものような虎杖に五条が小さく笑う。
「それに、大丈夫。悠仁は僕を好きになるよ」
目隠しで大半を隠されたその顔があんまり優しい。それで、不思議なのだが虎杖はこくんと大人しく頷いていた。ひょっとしたらこの瞬間の虎杖は、大きなアイマスクに隠されたあの綺麗な目を見たかったのかもしれない。見えていない瞳が今、どんなふうに優しく光っているのかを知りたい気がした。
そういえば虎杖はともかく、五条は好きでもない男のガキと付き合えるんだろうかとも考える。けっこうテキトーなところがある人だからかな。なんてことを考えてみても虎杖には五条の考えなんて一つもわからない。
まばたきの拍子にまたこぼれた涙に五条が無造作に吸い付く。整った綺麗な形の唇はいつも柔らかな感触を頬に残す。黙って見上げる虎杖と目が合った五条はやっぱり苦笑した。
「甘いよ」
虎杖の口元にまで流れている涙は当たり前にしょっぱい。いつ聞いても変な嘘だ。涙を甘いと言われたら、もしかして世間一般的には嬉しいものなのだろうか。
「しょっぱいよ」
虎杖は自分の涙に対して素直な感想を漏らす。
「……好きな子の涙は甘いんだよ」
五条が笑う。虎杖にはその表情がなんとなく困っているみたいに見える。それで「あ、」と思った。けれどそれに続く言葉の形は掴めずに終わってしまう。
結局、その夜も虎杖がいつのまにか眠りに落ちるまで五条とはただ寄り添って過ごした。
翌朝、虎杖がベッドで目覚めても瞼は腫れていなかったし布団は被っていたし、映画のディスクは無くなっていた。どうやら優しい彼氏ができたらしい。変なの、と思った虎杖はひとりでかすかな笑いをこぼした。