〇誰がために
「……違うわね」
彼の言っていることが当たっていたから、図星を突かれたから言い返せなかった。
「つっ……」
とにかく今すべきことは、この満足に動かない足をどうにかすること。
しかし保健室を訪ねると先客がいたようで、3つ置かれたベッドのうち1つは、カーテンで覆われていて様子が見えない。どうやら誰かがベッドで休んでいるようだ。
「先生、どんな状態でしょうか」
昼休み前の休憩中にテーピングの応急処置を受けたけれど、効果は薄かった。
足の状態を観察していた先生が顔をあげる。
「そうね……さっきも言ったけれどやはりこれ以上競技を続けることは難しいわね」
必死に個人戦をやりぬいてきたけれど、
私が参加すれば確実に勝ちから遠のいてしまう。それだけは絶対に出来ない。
「あなたは推薦競技に出る予定はあるの?」
「はい。その予定でした。ですが参加は見送ろうと思います。この足で競技に出たところでクラスの足を引っ張ることは目に見えていますから」
「それが
幸いにも私は前の試験で得た巨額のポイントがある。棄権しても代償を支払えば補うことが出来る。私が出る予定だった3つの競技
そんな個人的なことはこの際気にしても意味がない。大切なのは誰が代役を務めるかだ。
「ありがとうございました」
手当てを受けた私はお礼を言い保健室を後にした。グラウンドに戻ろうと玄関へ向かう。
窓ガラスに足を引きずる自分の姿が映り、
玄関から外に出ようとしていると、
「良かった、
「……なにかしら。これから用事があるから手短にお願いしたいのだけれど」
「うん。ごめんね、でもここじゃちょっと。少し来てもらえないかな、大変なことになりそうなの」
「ここで説明してもらえる? 大変かどうかは聞いて判断するから」
櫛田さんは辺りを見回した後、そっと私に耳打ちした。
「……あのね、堀北さんと接触して倒れた木下さん大怪我をしてたみたいなの。今は起き上がれないほどひどいみたいで、それで……その、木下さんが堀北さんを呼んで欲しいって言ってるみたいなんだ」
その言葉を聞いて私は驚きを隠せなかった。
確かに怪我をしていた様子はあったけれど、そんなことになっていたなんて……。
「彼女は今どこに?」
「こっち」
そんなやり取りがなされ、櫛田さんは私を連れて保健室の方角に足を向けた。
1
保健室に再びたどり着くと室内には
「良かったわ、堀北さんとすれ違いになったことを話していたところなの」
「櫛田に呼びに行って
「一体どういうことなんです?」
先ほど見たカーテンで仕切られたベッドからは女子のすすり泣くような声が聞こえている。少しだけカーテンを開いてくれた茶柱先生。その奥に見えたのはベッドの上で横になっていたCクラスの木下さんだった。すぐにカーテンを閉めると、一度私を廊下へと呼び出す。
「木下は午前の障害物競走の際、接触して転んだ。そのことは覚えているな?」
「もちろんです。私と接触して転びましたから」
あの出来事から私の体育祭における歯車が狂ってしまった。
「そのことだが……木下が言うには堀北が意図的に転ばせたと言っている」
一瞬何を言っているのか理解できなかった。
「そんなわけありません。偶然の事故です。もしくは──」
「もしくは?」
私は
それは当たっている気がしたけれど、あくまでも
「いえ……ただの偶然でしかありません」
「私もそう思いたいが状況はやや悪い。
「それは彼女に繰り返し名前を呼ばれたからです。それで振り向きました」
「名前を呼ばれたか。……なるほど。しかし仮にそうだとしても問題は大きいぞ。強くおまえに
「転んだ時に偶発的に深手を負ったとしても事実無根です。私は何もしていません」
「もちろん無実だと信じている。しかし日本は弱者救済の強い国だ。それはこの学校でも変わらない。意図的である可能性が排除しきれない以上、審議に入るのは当然のことだ」
「馬鹿げた話です」
「だが、それで終わらせられる話ではない。おまえが無視すれば問題は広がっていく。他の先生方の耳に入るのはもちろん、長引けば生徒会にもな。そうなれば後が大変だ。
事が長引けば必然的に兄さんもこの件を知る。愚かな妹のせいでと困らせるに違いない。
けれど無実である以上私はそのことを訴えるしかない。龍園くんの作戦にしろ、偶然が呼んだ不幸にしろ
「私を呼んだのが事実の確認のためなら真実はお話ししました。繰り返しますが私は何もしていません。これから少し所用があるので失礼してもよろしいでしょうか」
今は一刻も早く須藤くんを見つけ連れ戻さなければならない。引き返そうとする私に、
「現段階で考えるに偶然寄りの意図的、といったところで落ち着くだろう。木下が障害物競争以降、競技を欠席していることを踏まえてジャッジすれば、同様におまえの獲得した得点は無効とし
そんなことを言われても、私は無実なのだから仕方がない。無実を訴えるのは簡単だけれど時間がかかる。今はこんなことに時間を割いている場合じゃない。
「
これでよろしいでしょうか? 私は
「しかし、木下は学校側に訴えると言って聞かないそうだ。映像や証言を聞く限りでは取り下げさせることは出来そうにない。向こうにしてみれば泣き寝入りになるからな。Cクラスにとっても木下不在というのは手痛い事態だ。これがどういうことか分かるな?」
「……悪魔の証明、ですか」
茶柱先生は否定せず静かに目を閉じて腕を組んだ。
地球上にエイリアンがいる、と証明するには地球のどこかでエイリアンを1匹捕まえるだけでいいけれど、地球上にエイリアンがいないと証明するには地球上をくまなく探さなければならず、事実上不可能だ。それを悪魔の証明という。
無実を証明することが出来なければ、不公平さを生まないように
「このことが茶柱先生の耳に入った経緯はなんですか。今は誰がご
「私は
「ごめんね
「その
櫛田さんは不安げな様子で保健室の入り口を見た。
「私木下さんとも仲が良いから……休憩の合間に様子を見に来たら、話を聞かされたの」
「そういうことね」
交友関係の広い櫛田さんならおかしなことじゃない、か。ともかく今この話を知っているのは当事者の私と木下さん、そして櫛田さんと茶柱先生のみ。
出来ればここで話を止めて解決したいけれど……。
「木下さんとは話せますか」
「どうかな。今は少し
「お願いします。私としても事を荒立てたくはありません」
頭を下げると、櫛田さんも同じように頭を下げてきた。
「私からもお願いします先生」
「よし、少し話を聞いてみるとしよう」
何とか茶柱先生に許諾を
「
「
どうして彼が、今この場所に? 錯乱する頭を懸命にフル回転させ冷静を
「
そう言い、横を通り抜け保健室に入って行く。私たちも慌ててその後を追った。保健室に入るなり龍園くんは保健室の先生が止めるのも聞かず木下さんが休んでいるベッドのカーテンを開いた。
「おう木下。大丈夫か? 随分とひどい目にあったそうだな」
龍園くんの姿を見るなり木下さんは
「足を
そう言って彼はシーツの下に隠された木下さんの足を引っ張り出す。
「こりゃヒデェ。よくまぁこんなことが出来たもんだな……」
龍園くんの手の下から出てきたのは、包帯で巻かれた木下さんの痛々しい左足だった。
「ごめん……。私頑張ろうとして次の競技にも出ようとしたんだけど……でも足が言うことを聞かなくって……それで……っ!」
「自分を責めるなよ
「……偶然の接触よ。木下さん、私が転ばせたって話はどういうつもりかしら?」
「っ!」
私がやや
「木下が言うには、おまえは転ばす気満々だったらしいな。意図的にやったんだろ?」
「冗談はよして。私がそんなことをするとでも?」
「誰が何をするかなんて分かったもんじゃないだろ。それに現実を見ろ、お前より運動の出来る木下は
1人丸々メンバーがいなくなることの大きさはこちらにもよくわかっている。
でも
やはり木下さんと私を接触させたのは彼の
けれど……疑問も生まれる。私よりも点数を稼ぐ可能性の高い木下さんをぶつけてまで得られるものって? しかも推薦競技
そんなことのためにクラスメイトを傷つけ、対価を支払い勝つ可能性を下げに来る?
少なくとも私が生きてきた経験の中では、そんな非効率なことに意味は
「黙り込んで何考えてんだ?」
ポケットに手を突っ込んだまま、
「ま、俺たちが言い合ってても
半ば強引に、龍園くんは木下さんに口を開くよう
「
「私はそんなこと言っていないわ。あなた自分が
「堀北、おまえは木下との時だけ後ろを気にしてたな。その理由は?」
「振り返っていたのは認めます。ですがあれは後ろから彼女に何度も名前を呼ばれたからです。最初は無視していましたが、明らかに様子がおかしいので振り向きました」
「そうなのか木下」
今度は私から木下さんへと質問を移す茶柱先生。
「私、一度も呼んでませんっ」
茶柱先生の確認にも、木下さんは全く認めず否定した。
「本人は否定してるぜ先生。それに万が一木下が
もはやどれだけ続けても水掛け論だろう。この二人は口裏を合わせているに違いない。
「あの……木下さん、
双方の言い分を聞き終えた
「でも私、堀北さんに絶対に勝たせないって……そう言われたのっ……!」
「それは多分、負けたくないって気持ちが先行しただけなんじゃないかな? 堀北さんだって転んで動転してたと思うし、必死だったんだと思う」
私は言っていない。一言も木下さんに対して言葉を発していない。
でもそれを
「でも──私許せない……。陸上の練習だって休まなきゃいけないしっ……」
「……あなた自分で恥ずかしいと思わないの?
泣いたからって、私は彼女の正当性を認めるわけにはいかない。嘘なのだから。だから一歩、強く踏み込んでいくことにした。この場に彼がいるのなら悪い方にではなく状況を有利にするために運ばなければならない。
「自分の悪行を棚に上げて怪我した木下と俺のせいか。中々悪い女だな」
「笑わせないで。あなたは以前も
「その件に俺は関係ない。今回の件と結びつけるのはおかしな話だ」
あくまでも認める様子は無い。
「誰の目にも明らかだろ。おまえが木下に自爆覚悟で接触事故を起こした。それで決まりだ。これ以上議論の余地はねーな。さっさと上の連中に話を通すとするか」
「それは──もう少し堀北さんと話をしてあげられない……かな?」
懇願するように櫛田は龍園くんに頼み込んだ。余計なお世話といいたいところだけれど、私としても話を大きくするような
今自分自身がクモの巣にかかった存在だと感じながらも必死にもがくしかない。
龍園くんは少しだけ考える素振りを見せ、こんな提案をしてきた。
「悠長に話してる時間はないんだよ。こっちは昼休みが終われば次の
一度私を、
「手っ取り早く手打ちにしてやってもいいぜ」
「手打ち?」
「木下とCクラスが被る損害を肩代わりしてもらうって話だ」
「冗談じゃないわ、全く聞く耳の持つ必要がない話ね」
そうなれば支払う対価は安くない。それに私が完全に悪い方向で話がまとまってしまう。
「だったら話は終わりだ。手打ちにはしないが上に話を持っていくなってのは都合が良すぎるだろ
「待って。具体的にはどうすればいいのかな……?」
櫛田さんは私の前に割り込むようにして龍園くんからの提案に耳を貸す。
「おまえは物分かりがよさそうだな。そうだな……100万ポイント差し出すなら木下に訴えを取り下げさせる。これなら
「バカ言わないで。私は何もしていないもの、1ポイントも払う必要なんてないわ」
「だったら出るところに出て証明しろ鈴音。白黒はっきりつけようぜ。な?」
「あなたたちは余程自分に自信があるようね。
「嘘なんてついてないことを証明するのさ。早く生徒会長様のジャッジを受けようぜ」
龍園くんは私と生徒会長……つまり兄さんのことを把握しているような口ぶりで挑発する。私としては兄さんに迷惑をかける事態には絶対に出来ない。
生徒会長の妹が意図的に妨害
何より
でも結果的に痛みに耐えかね離脱した後、私に意図的に転ばされたと
私はここに来てついに確信する。全ては私に対する完全包囲網が敷かれていたのだと。
そして──この状況は既に覆せないところにまで来てしまっている。ただ
「あの……私のポイントだけじゃダメ、かな……
「あ?」
「私は
「麗しき友情って
ここで
「決まりだ。今から教師、そして生徒会へ訴えを出すぞ木下」
龍園くんは木下に起きるよう指示を出す。痛みに表情を
「この状態を見れば学校も深刻なことだと分かるはずだからな。不良品の勝つためなら何でもやるって凶悪なスタンスを野放しにするわけにはいかない」
私は選ばなければならない。
真実を追及し龍園くんたちと争う道。もう一つはここで
当然本来なら前者を選ばなければならない。でも、その真実を解き明かせるだけの材料はこの世に存在していない。つまりただ時間と信頼を
それなら──いっそここで彼の言う手打ちにしてしまった方が……。
歩き出す二人を私は必死に声を絞り出して呼び止める。
「待って……」
その言葉は、しっかりと龍園くんたちに届いた。歩みを止める。
「なんだ鈴音。話し合いに応じるつもりはないんだろ?」
「代償を支払えばこの話はなかったことにしてくれるのね……?」
「反則してまで勝とうとしたと認めるってことか?」
「それは認めないわ……。私は嘘をついていないもの」
「ならおかしな話だろ。おまえは一体何に代償を払おうとしている?」
「今回私はあなたの作戦に負けた。だからそれに対する代償を支払う、ということよ」
屈辱的だけれど、そう言うことしか出来ない。
「聞いたか木下。あいつは自分が悪人だと一切思ってないぜ。許せるか?」
「……許せ、ない……」
「だとよ。おまえが自分の非を心から認めない場合はこっちは応じない」
「っ……」
「といいたいところだがおまえにもプライドはあるだろうからな。今更自分が悪いと教師や友人の前で言い出せないのは分かる。だから俺個人は広い心を持って応じてやってもいいぜ。だが
私の心を
一刻も早くこの状況から解放されたかった。
「100万ポイント払えばなかったことにしてくれる、あなたが言ったことよ。そこにはそれ以外の条件はなかったでしょう?」
「確かにな。だがそれはさっきまでの話だ。おまえは1度拒否したんだろ? 今更同条件は無理だな、2度目の交渉となれば当然条件は変わってくる」
どこまでも
「そうだな。この場で土下座して頼み込んでみろよ。俺と木下の気持ちも変わるかもな」
「待て龍園。それ以上は度が過ぎるぞ」
土下座を要求する龍園くんに対し、
「教師は引っ込んでな。これは俺たち生徒間の問題だ」
教師相手にも全く
「まぁ今すぐ結論を出せってのは勘弁してやる。教師の目もあるしな。だから体育祭が終わった後答えを聞かせてもらおうか。100万と土下座で和解するか、問題を掘り返して学校中で審議させるか。どっちを選ぶのか」
そしてこうも付け加える。
「体育祭が終わったらそれで時効、解決だと思うなよ?
そう
後に残された私は、どこか
「大丈夫?
「大丈夫……。それよりも今何分かしら。先生、休憩時間はあとどれくらいですか?」
「あと20分ほどだな。昼食がまだだろう、早く済ませることだ」
もうそんな時間なのね……。とてもじゃないけれど昼食を取っている暇はないわ。
私は一刻も早く
「失礼します」
私は焦る気持ちを抱え、二人を置いて保健室を後にした。
2
だから動揺し、解決策を
「情けないわね……」
そう、本当に自分が情けないと思った。
玄関口に近づいた時、新しく校内に歩んでくる二人の存在が居た。それが普通の生徒であれば私は何ひとつ気に
「兄さん──」
聞かれるか聞かれないかギリギリに
橘書記は私に気づいたらしく視線を向けてきたものの、兄さんは見向きもしなかった。
相手にしてもらえないことには慣れている。本当なら声をかけて話したい。でも、Dクラスでくすぶっている私にはその資格も権利もない。
そのはずなのに……。
「今回の体育祭、今Dクラスがどんな状況か理解しているのか?」
それは橘書記に向けられた言葉なんかじゃなく、私を見て言った兄さんの言葉だった。
「……それを今痛感しているところです」
素直にそう言った。参加表のリストが漏れているとは思わず、ただ漫然と日々を過ごした私のミス。個人競技の細部に至るまで、見事なまでにCクラスにやられてしまっている。
「でも安心して下さい。兄さんにご迷惑はおかけしませんから」
そうだ、それだけは絶対に避けなければならない。この一件は
幸いにも彼は100万ポイントと土下座で和解すると提案してきた。
なら結果として良かったのかもしれない。それで兄さんに迷惑をかけずに済むのだから。
でもこんな形じゃなくて、ちゃんとした形で話がしたかった。その思いだけが心残りだ。
願わくば当初の思いのまま、最後のリレーで。その夢は足の負傷と共に消えてしまったけれど。だけど苦しんでいる姿を見せたからと言って兄さんは私に同情したりはしない。
だからせめて前向きにいよう。もうここまで打ちのめされたら失うものは
「失礼します」
そういい、私は飛び出すようにして玄関から外へと向かった。
足の痛みを
でも簡単には見つからない。広々とした敷地内は見て回るだけでも相当な時間を要する。
残り時間が10分を切りそうなところで、私は一度グラウンドまで戻ってくる。
「やっぱり戻ってないわね……」
まだ行ってない場所があるとすれば、ケヤキモールか、寮か。校内のどこかということも考えられる。とてもじゃないけれど探しきれない。
そんな私の前に、彼……
「
「須藤くんを探しているの。一度もグラウンドには姿を見せてない?」
「ああ。今のところな。説得する気になったのか」
「彼はDクラスにとって貴重な戦力だから。それに嫌でも気づかされたから」
「というと?」
私の心境の変化に興味があるようだったが、今は
それに彼に話したところで事態が好転するわけでもない。
私と
既に昼休みの休憩は折り返した。でも須藤くんは誰にも姿を見せていない。
このまま午後の推薦競技の間も雲隠れされるとDクラスは、須藤くんの不在が大きく響き、敗北は確定的になる。
「須藤の居場所に見当はついてるのか? もう
「いえ、それはまだ。でも行ける範囲は限られているはずよ。もし人目を気にしているのなら寮に戻っている可能性は高いんじゃないかしら」
「足の方は大丈夫なのか?」
「痛まないと言えば
「オレは遠慮しておく。一緒に行動しても邪魔になるだけだからな」
「そう……」
私としても、その方が好都合かも知れない。そう思い痛みに耐えながら歩き出した。