ようこそ実力至上主義の教室へ 3

〇偽りのチームワーク

 深い眠りについていると、テントの外から不機嫌な様子の女子の声が聞こえて来た。

「ちょっと男子。集まってもらえる?」

 それは一言では終わらず、早く起きろだの出て来いだの荒ぶった様子だった。

 明け方に眠りについたオレは眠たい目を擦りながら、ゆっくりと体を起こす。

「一体何なんだよ……くそ眠ぃ」

 いらどうと顔を見合わせてからテントの外へ出る。

「どうしたの?」

「あ、ひらくん。……悪いけど、男子全員起こしてもらっていい? 大変なの」

 しのはらが申し訳なさそうに平田に声をかける。

 慌てているのか怒っているのか、とにかく篠原の様子はただ事じゃなかった。

 少し遠くで女子たちがこちら側をにらんでいる。

「分かった。今声をかけて来たから、すぐ出てくると思うよ」

 それから1、2分ほどして男子たちが眠そうな目を擦りながらテントを出て来た。

 寝ぼけていた男子は、テントの外で集まる女子を見て初めてただならぬ状況を察知する。

 オレたち男子を見る女子の目が、異常に怖かったのだ。

「こんな朝早くからどうしたんだい?」

「ごめんね平田くん。平田くんには関係のない話なんだけど……どうしても確認しなきゃならないことがあるから集めたの」

 篠原は平田を除く全員に対し、侮蔑を込めた目でこう言葉を浴びせた。

、その……かるざわさんの下着がなくなってたの。それがどういう意味か分かる?」

「え……下着が……?」

 いつも冷静な平田も、思いがけない事態に動揺した様子を見せた。

 そう言えば軽井沢と一部の女子の姿が見えない。

「今、軽井沢さん、テントの中で泣いてる。くしさんたちが慰めてるけど……」

 そう言って、女子のテントを見る篠原。

「え? え? なに、なんで下着がなくなったことで俺たち睨まれてんの?」

「そんなの決まってるでしょ。夜中にこの中の誰かがかばんあさって盗んだんでしょ。荷物は外に置いてあったんだからろうと思えば盗れたわけだしね!」

 眠気に支配されていた男子たちが、一斉に顔を見合わせる。

「いやいやいやいや!? え!? え!?」

 いけは大慌てで男子と女子を交互に見やる。その様子を見た男子が、冷静な声でつぶやいた。

「そういやいけ、おまえ昨日きのう……遅くにトイレに行ったよな。結構時間かかってたし」

「いやいやいや! あれは、その、暗かったから苦労したんだよ!」

「ほんとかよ。かるざわの下着盗んだのおまえじゃないの」

「ば、違うって! そんなことしねえよ!」

 男子たちの中で嫌な罪のなすり付け合いが始まる。

「とにかく。これ、すごく大問題だと思うんだけど? 下着泥棒がいる人たちと同じ場所でキャンプ生活するなんて不可能でしょ」

 今にもキレそうなしのはらは腕を組んで忠告する。

「だからひらくん。何とかして犯人見つけてもらえないかな?」

「それは───でも、男子がったって証拠はないんじゃ。軽井沢さんが無くした可能性もあるんじゃないかな」

「そうだそうだ! 俺たちは無関係だ!」

 平田の後ろから男子一同声を張り上げ無実を訴える。

「僕はこの中に犯人がいるとは思いたくないよ」

 男子をかばうというよりは、クラスメイトを疑うのが嫌なようだった。

「平田くんが犯人じゃないのは分かってるけどさ……とりあえず男子の荷物検査させて」

 どうやら女子一同の考えは変わらないらしく、男子側に犯人がいると決め付けているらしい。まあ、状況的にそう考えるのが自然だから無理もないが。

「は? ふざけんなって。そんなことする必要ないし。断れよ平田」

「ひとまず、僕たち男子で集まって話し合ってみる。少し時間を貰えないかな」

「……平田くんがそう言うなら……わかった。軽井沢さんにも話してみる。でも、犯人が見つからなかったら、私たちにも考えがあるから」

 そう言い残し、この場はいったん解散となった。

 平田はすぐに改めて男子を全員集め、テントの前で話し合いを持つことに。

「女子の言うことなんか無視しようぜ。疑われるとか気分悪いしよ。俺は戦うぞ」

 初日は池が女子たちから一定の信頼を得たと思っていたが、しよせん付け焼刃だったようだ。疑われた男子たちも、あらぬ疑いをかけられたら不愉快になるのも当然だ。

「だよな。俺たちが軽井沢の下着とか盗るわけないし」

 やまうち、以下男子も続いて、だよな、とそれぞれが顔を見合わせる。

 別に軽井沢が可愛かわいくないというわけじゃないだろう。平田の彼女である軽井沢をねらうなら、くしくらを狙う方が男子にとって都合が良いってことだ。

「僕も君たちを疑うつもりはない。けど、それじゃこの問題は解決しないと思う……」

 向こうで徒党を組み話し合っている女子は、今にでも飛び掛ってきそうなほどだ。

「身の潔白を証明するためにも、堂々と荷物検査に応じたほうが良さそうだね……」

 そう言ってひらは自らかばんを持ち出してきた。

「情けない僕が女子の言葉に応じた、だから仕方なく君たちも同じように足並みを合わせた。それじゃダメかな?」

「で、でもよ……」

「もちろん、まずは僕が開けるよ」

 誰かを動かすには、自分から行動するしかないと考えたんだろうけど、女子だけじゃなく男子も含め、平田が犯人だと思っているやつは一人もいないだろう。

 そもそも自分の彼女の下着を盗むなんてことはある種矛盾しているとも言える。

 ただ、こうして最初の一人が荷物を開示してしまっては、後に続かざるを得ない。

 中身を見せようとしない生徒が疑われるのは必然だからだ。平田の鞄には当然下着など入っているはずもない。

「仕方無いな……」

 平田の行動に影響を受け、次々と男子がテント前から荷物を引っ張り出してくる。

 いけやまうちはずっと嫌がっていたが、それでも流れには逆らうことが出来ない。オレ含め3人が最後となったことで、仕方なくテントの方へ。オレも二人に続く。

「くっそ、ムカつくよな。無条件で男子が疑われるなんてさ。理不尽すぎるぜ」

「ま、こうなったら堂々と身の潔白を証明して見返してやろうな」

 池は鞄をつかみ立ち上がろうとしたところで、ぴたりと立ち止まった。

「どうしたんだよ」

「あ、いや……」

 急に平田たちに背を向け座り込むと、鞄の中を確認し、慌てたようにチャックを閉めた。

かん?」

 青ざめた顔で池は硬直し、金縛りにあったように動かなくなった。

「おい、さっさと行こうぜ?」

 様子がおかしくなった池を見ていた山内が、冗談半分でこんな風に言った。

「もしかして、おまえが盗んだんだったりして」

「ば、ち、ちげえし!」

 慌てて否定した池が、鞄を抱えるようにして首を左右に振った。

 その露骨な反応に対して、流石さすがに何も感情を抱かないほどオレたちは鈍くない。

「おまえ、まさか……」

「何だよ。俺を疑ってんのか!?」

「いや、そう言うわけじゃないけど。……鞄、中見せてみろよ」

「……あ、ちょ!?」

 すばやく山内が鞄を掴むと、池の鞄の中を改める。するとそこには……。男子が絶対に穿くことの無い白い下着が丸まって隠されていた。

「お、俺じゃねえんだって! なんか、かばんに勝手に入ってたんだよ!」

「おまえさ、その言い訳は無いわ……」

 いけの慌てふためく姿に哀れみの視線を向けるやまうち

「知らないんだって、マジで! なんで俺の鞄に、ぱ、パンツがあんだよ!」

「見苦しいぞ。とにかく、ひらたちに説明しようぜ」

「はあ!? そんなことしたら、俺が犯人にされるじゃん!」

「犯人も何も……なあ?」

 山内は同意を求めてきたが、これはどういうことだろうか。

 かるざわの下着と思われるものが池の鞄から出て来た。だから池が犯人?

 そんな安直な結論になるほどこの件は単純じゃないだろう。

 いつ、どうやって下着を盗んだかはともかくとして、盗んだ犯人が自分の鞄に下着を隠すなんてこと普通はしないんじゃないだろうか。翌日騒ぎになれば、犯人探しが始まることなんて分かりきっている。冷静さを欠いていたとしても、荷物を開けようって話になった時点で慌てていたはずだ。だけど、池にはそんな様子はじんも見られなかった。

 そこから導き出される結論は、他に犯人がいて池の鞄に下着を隠していたことになる。

 よっぽど池がバカで単純でない場合に限り、だが。……さすがにないよな?

「なああやの小路こうじ、おまえは信じてくれるよな、俺がってないって!?」

「状況から冷静に考えると、池が犯人じゃないと言い切れる証拠はない」

「綾小路ぃ!」

「だけど、池が犯人である可能性が高いとも言えない。犯人だとしたら間抜けすぎる」

「そりゃ確かにそうだけどさ……。じゃあ何だよ、誰かがかんの鞄に入れたってこと?」

「それしか考えらんねえって!」

「おい早くしろよ」

 平田たちのほうからそんな男子の声が飛んできた。

「どどどど、どうしよう、マジやべえ!」

 ここでブツが見つかれば男子はともかく、女子は池を犯人だと断定してしまうだろう。

「とにかく隠すしかないな。今は」

「隠すって、どこに!? どこにも隠すとこなんてねえし!」

 確かに、現状ではとてもじゃないが隠し切れない。トイレやテント内に行く様子を見られれば、こちらを見張っている女子は疑いを強めてその場所を捜索するだろうし。

 何よりオレたちはこの場所で時間をかけすぎている。既に疑われていてもおかしくない。

「ポケットにでも入れておくしかないな」

 オレからしてやれるアドバイスはそれくらいだった。自分の下着の中や靴下なんかに忍ばせるには時間もなければ怪しい動きをさえぎるものもない。

「む、無理だって! 俺、もうそんなん、パニックだし!」

 それでも今は隠し通すしか道はないんじゃないだろうか。

「じゃああやの小路こうじ任せた!」

 そう言っていけかばんから丸まった下着を取り出すと、すばやくオレの手に押し付けた。

「……は?」

「お前が隠した方がいいって思うなら、そうしてくれよ。な?」

「いやそれは───」

「おい早くしろってー」

「今行く!」

 後は頼んだ、そう言って池が飛び出してしまう。

 やまうちも巻き込まれるのはごめんだとその後に急いで続く。

「おいおい、マジかよ……」

 流石さすがのオレも少し冷や汗が流れた。

 とは言え、最後までオレが残っていても状況は悪化するだけだ。

 隠すなら調べにくいところにしたかったが、オレだけが時間をかけるわけにはいかない。

 考えている時間はないと、鞄を持ちながら後ろポケットに突っ込んでひらたちのもとへ。

「悪い悪い。ちょっと鞄が汚れてたから手で土を払ってたんだ」

 言い訳して、池は鞄をほうる。

「調べたきゃ調べろよ。俺は無実だからさ。なあはる?」

「お、おう」

 二人は堂々と鞄を置く。平田は軽く断りを入れた後鞄の中を調べ出した。

 オレもそっと鞄を置きその場を離れる。

 そして全員の荷物を調べ終えた平田が、腕を組んで待つしのはらに声をかけた。

「全員分調べたよ。でもやっぱりなかった」

「ほんとに?」

「うん。間違いないよ、やっぱり男子は犯人じゃないね」

「ちょっと待って」

 篠原はこちらに近づいてくると、テントの中を確認しだした。

 どこかに隠してるんじゃないかと疑っているようだ。けど、当然出てこない。

 二つのテントを調べ終わった後、篠原は一度女子のもとに戻り耳打ちする。

「あのさ平田くん。もしかしたらポケットとかに隠してるかも知れないよね? さっき池くんと山内くん、それから綾小路くんがコソコソ話してたのも気になるし」

 当然と言えば当然だが、女子はそんな風にくまなくチェックするよう要求してきた。

「いい加減にしろって!」

 反論するいけに対し、しのはら含め女子が一斉に攻撃を始める。

「池くんさっきから怪しくない? もしかして本当に隠してるとか?」

「はあ!? か、隠してるわけないだろ! 調べたきゃ調べろよ!」

 両手を広げ潔白を訴える。おい……。そんな風に話を誘導したら……。

「じゃあ調べて。ひらくん、お願いできる?」

「……わかった。それで女子が納得するなら。だけどこれで見つからなかったら、もうこれ以上男子を調べ上げるはやめてほしい」

 最悪の流れだ。女子監視の元、オレと池、やまうちの3人の身体検査が始まってしまった。

 当然のことだが池と山内から下着など出てくるはずも無い。平田の慎重な調べに対しても動じず、隅々まで検査に応じていた。そしてついに、オレの番が来る。

 もはや言い逃れも出来ない状況だ。せめて自分から出した方が幾ばくかマシだろうか。

 ……いや、そんなことはないだろう。もはやどうにもならない。それなら1%でも平田が見逃してくれる可能性にけた方がいい。

 オレは死んだ魚のように動かず、平田の検査を受けることにした。

「ごめんね。すぐ終わらせるから」

 オレのことを全く疑っていない平田は、上半身からゆっくりとチェックしていく。

 そして、下着の入った後ろポケットの中に平田の手が入り込む。

 ───終わった、か。

 覚悟を決める。平田の手が間違いなく下着に触れた感触が伝わってくる。感触だけじゃ下着だと確信は持てないかも知れないが、ポケットに丸められた布切れが入っているだけで十分に怪しい。一瞬身を固くした平田は、オレの目を見てきた。

 けどその1秒にも満たない時間、視線が交錯した後、平田は下着を取り出すことなくオレのジャージを調べてから女子の方に振り返った。

あやの小路こうじくんも持ってないね」

 そう言って篠原のもとへと歩き出したのだ。池と山内が驚いて顔を見合わせる。

「3人は持っていなかったよ」

「おかしいな……あの3人の誰かだと思ったのに。でも、平田くんが言うなら……」

 正義感あふれる平田がうそをつくはずがないと、篠原も折れるしかなかった。

「一度荷物を片付けてもいいかな。話はそれからでも出来るよ」

 すべての検査が終わった後、オレは急ぎテントの中に戻った。その後を平田がついてくる。

「平田……どうして言わなかったんだ?」

 オレは率直な疑問をぶつけた。

「やっぱりポケットに入ってたのは下着なんだね?」

「ああ」

かるざわさんの下着……あやの小路こうじくんがったの?」

「いや。違う」

 短いオレの否定の言葉を、この好青年はどう受け止めるだろう。

「僕は信じるよ。君はそんなことをする人じゃない。でも、どうしてポケットに?」

 迷わず、堂々信じると言われた以上、答えないわけにはいかない。

 いけかばんから出て来たことを素直に教える。少しだけひらは考え込む仕草を見せた。

「そっか。それなら間違いなく君じゃないね。それに池くんややまうちくんとも思えない。そもそも犯人なら自分の鞄には入れないだろうし。別の所に隠すのがセオリーだよね」

 平田が普通に頭の回転が速いヤツで助かった。面倒な説明をしないで済む。

「もしよければ、下着は僕が預かってもいいかな?」

「それはいいけど……いいのか?」

 これを持つのはジョーカーを握ることに等しい。処理に困るモノだ。

「最悪犯人にされるなら僕が一番ダメージが少ないよ。一応彼氏だしね」

 そう言い、トイレに使うビニール袋を取り出すと、平田は下着をその中に入れた。

 素手で触られているのは軽井沢にとっても辛いだろうからな。

「だけど……これで悪い情報も一つ出たってことだよね。池くんの鞄から下着が出て来たってことは、犯人がクラスの中にいる可能性が高いってことだから」

「そうだな……」

 幾ら何でも他クラスの生徒がうろうろしていたら絶対に誰かが見ている。

 テントを出た後、その周囲を見回す。オレたちの荷物は個々ビニールに包まれ、テント前に無造作に置かれてあった。そして数メートル離れた位置に軽井沢たちが眠るテントがあり、女子の荷物も事件が起こるまでは同じように無防備に積まれていた。盗ろうと思えば容易にできる。オレがぶきの鞄を簡単にあされたように。

 いつ盗んだのか、それが問題だ。シャワーを浴びるまでは問題なかったということだから、昨日きのうの夜8時頃から早朝7時頃までが犯行時間ということになる。そうした場合クラスの誰にでも犯行は可能だった。けど、夜中に犯行が行われたとは思えない。周囲が真っ暗な状況で懐中電灯を照らし荷物を漁れば光で気がつく可能性があるからだ。

 だとしたら早朝5時前後の日の出が濃厚な犯行時刻になる。

 まぁ、犯行時刻がある程度絞れたとしても、そこから犯人を絞るのは難しい。

 なら……と少し見方を変えてみる。下着を盗まれたのが軽井沢だった理由と、その下着が池の鞄の中に隠されていたということ。この点には何か理由があるのだろうか。

「僕は綾小路くんが犯人じゃないって信じてるから。だから君を助けた」

「お、おう。ありがとう」

「それで、ってわけじゃないんだけど……あやの小路こうじくんに犯人を捜してもらいたいんだ」

 ひらはオレの手を取り、そんな風に頼み込んできた。

「オレが犯人を?」

「男子も女子も、犯人が見つからないと不安だと思うんだ。本当は僕が捜すのが一番なんだけど、皆をまとめるために時間を割くから難しそうだし……」

 まあクラスの中心人物である平田には行動制限が付きまとうからな。

「巻き込まれた人間としては、確かに犯人のことは気にかかるけど。いけかばんに下着を忍ばせるようなことをする人間が簡単に見つかるとは思えないぞ」

 そんなことは百も承知か。平田も犯人探しが難しいことはわかっているはずだ。

「……ま、一応やるだけやってみる。過度な期待はしないでくれよ」

「ありがとう! ありがとう綾小路くん!」

 抱きつく勢いでお礼を言うと、平田は感謝しながら深々と頭を下げた。

 感謝する平田の気持ちは分からないでもないが、ちょっと過剰すぎる反応に見える。

 それだけ平田にとって、この下着の盗難は厄介極まりない事件なんだろう。まとまりかけたクラスに訪れた危機をリーダーとして深刻に受け止めている証拠だ。

「それから、もしも犯人が見つかったら……そのときは僕に最初に教えて欲しい。他の人には絶対に言わないで欲しいんだ」

 訴えかけてくる目力は強く有無を言わせない。

 あまりにも泰然としたその様子が、少し不気味なほどだ。

おもてになると、またこのクラスは大きな傷を負うことになる。それは避けたい。だから犯人と話すことで穏便な解決方法を考えたいんだよ。それで反省してくれるようなら、僕のところで話を止めておくことも出来るかも知れないからね」

「それはつまり事実をいんぺいするってことか?」

「隠蔽か……。言葉は悪いけど、そう取られても仕方が無いね。男子の誰かが犯人なんだとしても、僕は事実を伏せるべきだと思ってるから」

 力強い瞳でオレを見つめてきた。犯人をかばう意思があると言っているようだった。

「わかった。なら最初に平田に報告する。それでいいか?」

「ありがとう。……それじゃ僕は作業に戻るよ」

 テントを出た平田はすぐ、別の生徒に声をかけ何かを始める様子だった。

 シートから見える複数のシルエットが遠ざかっていく。

「平田ようすけ。Dクラスのヒーロー、か」

 オレは平田からの話に一つの矛盾を感じた。

 あいつはオレを信じているから助けたと言っておきながら、その直後に男子の誰が犯人だとしても事実を伏せるべきだと言った。つまり、誰が下着を持っていたにせよ、女子が監視していたあの場では事実を隠したということだ。

 ひらはオレのことなど全く信用していない。それどころか犯人である可能性を高く想定しているかも知れない。もちろんそれは自然なことだ。傍目から見れば下着を持っていたオレか、名前を挙げたいけ辺りが犯人だ。だから平田は、犯人の可能性があるオレを探偵役に指名することで救いの糸を垂らし、同時に再犯を起こさないようくぎを刺した。

 そう考えるとこの話の流れも納得できる。事件をほうむり去りたいことだけは確かだろう。

 平田が犯人ということも一応考えられるが……まぁ、それはすぐ判明することか。


    1


「ちょっと集まってもらえるかな」

 テントから出ると、平田から集合がかかる。程なくしてクラス全員が集まった。

 そしてそこには目をらしながらも、怒りに震えるかるざわの姿があった。

「男子は信用できない。このまま同じ空間で過ごすなんて絶対無理……!」

「でも、男女で離れて生活するのはちょっと問題じゃないかな……。試験はもう少しで終わる。だからこそ、僕たちは仲間なんだから信じ合い、協力し合わないと」

「……それは、そうだけど。でも下着泥棒と一緒の場所なんて耐えられない!」

 軽井沢は絶対に無理だと首を左右に振る。被害者がそう言えば平田も強くは出られない。援護するように、しのはらは木の枝を持ってきて線を引き出した。

「私たちは犯人が男子だと思ってる。だからここに線引きして男子と女子でエリアを分けてよ。男子はこっち側には絶対立ち入り禁止にするの」

 篠原はそう言って生活スペースを区画で分ける提案をする。

「んだよそれ。俺たちを勝手に犯人扱いしやがって。荷物検査も身体検査も受けたろ?」

かばんに隠してたとは限らないでしょ? 男って変態だし。とにかく犯人が見つかるまでの間、女子のテリトリーには入らないようにしてよね。てことで向こう行って」

 そういって男子にテントを移動させるように要求してくる。

 そのことに関して、当然男子側が納得するはずもなくブーイングが飛び交う。

「疑うんならお前らでテントとか動かせよ。俺たちは動かないしつだわないからな」

「あーそう、じゃあ結構。手伝うフリして荷物あさられちゃたまんないし」

「それからシャワー室も、もう使わないでよね。変態の泥棒がいるかも知れない男子に使わせるなんて冗談じゃないし」

 今までの結束はどこへやら、完全に決裂してしまったようだ。

「へっ。おまえらにテントの杭とか打ち込めるのかよ」

 状況が怪しいと感じ取った篠原は平田にこう助けを求めた。

「ねえひらくん。かるざわさんのためにもつだってもらえる?」

「……わかった、僕が手伝うよ。時間はかかるかも知れないけどそれでもいいかな?」

「ありがとう平田くん。よかったね、軽井沢さん」

「うん。信じられるのは平田くんだけ」

 うれしそうに、そしてちょっとテレたように軽井沢はほおを赤らめてうなずいた。

「けっ。平田が犯人かもしんねーだろ」

「はあ? 平田くんが犯人なわけないでしょ。バカじゃないの。死ねば?」

「な!? ふっざけんなよ軽井沢。彼氏だから犯人じゃないとか、根拠になんねーし!」

 男子からは当然文句が上がるが、この状況で男子の言葉は軽く聞き流される。平田を除く全員が疑われているから仕方ない。場は急速に煮詰まり、軽井沢としのはらが主導権を握る。

「ちょっと待って。あなたたちに異議を唱えるわ。特に軽井沢さん」

 そんな冷たい空気が張り詰めた中、平然とほりきたは軽井沢に対し強く主張した。

「なによ堀北さん。今の話に不満あったわけ?」

「男女で生活区画を変えるまでは構わないわ。犯人が見つかっていない以上、その可能性が高い男子から距離を取ることは間違いじゃない。だけど私は平田くんを信用してないもの。つまり彼が下着泥棒である可能性は除外できない。その彼だけが特別に女子のエリアに入って構わないルールを作るのは納得がいかないの」

「平田くんがそんなことするわけないでしょ。それくらいわかんない?」

「それはあなた個人の考えでしょう? 私にまで同じ考えを強要しないで」

 堀北の態度に軽井沢は納得がいかないのか、一歩堀北へ距離を詰めた。

「平田くんが犯人なんてこと絶対にない。彼氏どころか、まともな友達もいないあんたにはわかんないかも知れないけどね」

「何度も同じ事を言わせないで。彼一人じゃ納得しかねると言ってるのよ」

 堀北はあおられても動じず、淡々と返す。

「じゃあ聞くけど、平田くん以外に信用できる男子なんていないんじゃない? いる?」

「私は考えもなしに発言なんてしないわ。単純な話、もう一人男子を増やせばいいのよ。そうすれば男手も2倍になるし、男同士互いに見張らせることで効果もあるもの」

「冗談じゃないって。あたし、下着をられたのよ? 男子にはずかしめを受けたの! わかる? 犯人を引き込んじゃったら何されるかわかんないでしょ!」

「それはあなたの危機管理が甘かったことにも責任があるんじゃないかしら。知らず知らず盗まれるような原因を作っていたのかも知れないわけでしょう?」

「な、何よ危機管理って! 全員同じようにかばん置いてたんだから、甘いもなにも!」

「下着を盗っても構わない。あるいは盗られても仕方ないような日常生活を送ってるんじゃないかってことよ。あなたをうらんでいる人は結構いそうだもの」

 つまりほりきたは、犯人が単純に下心で盗んだだけじゃない可能性を視野に入れている。かるざわに対し、日頃のうらみを晴らそうとしている人物がいて、意図的に屈辱を与えた。そんな線で犯人を想像しているのかも知れない。どう推理するのも堀北の自由だが、その考えを公の場で彼女に押し付けるのは失策じゃないだろうか。

 頭は良いが対人関係に難を持つ、まさに堀北の弱点とも言える行動だ。

 大勢の前でそんな風にあおられれば、軽井沢は余計に傷つきいらつ。

 そしてその矛先は男子だけじゃなく堀北にだって向いてしまうだろう。

「あんたねえ───!」

 キレて今にもつかみかかりそうな軽井沢の前に、ひらが颯爽と飛び込んだ。

「軽井沢さん。僕としてももう一人男子が居てくれた方が助かるんだけど、ダメかな?」

 そうフォローする形で仲裁に入った。

「で、でも……平田くん以外に信用できる人なんて……」

「じゃあ俺が!」

 しゅばっと手を挙げるいけしのはらと直前までけんしてたとは思えない挙手だ……。

「待てよ。力仕事って言ったら俺だろ」

 スッと手を挙げるどう

「待てって。ここはやっぱり器用さを兼ね備えた俺っしょ」

 やまうちも続く。どうやら何度めても女子とお近づきになりたくて仕方ないらしい。

「じょ、冗談やめてよね。むざむざ変態を招き入れるようなもんじゃない。誰が犯人でもぜんぜん不思議じゃないわけだし。それとも堀北さん、こいつらでいいわけ?」

「そうね、私もそう思うわ。この3人は日ごろの行いを考えると全く信用できない。だから私なりに熟考して、犯人じゃない人物を選定したつもり」

「誰よそれ。平田くん以外にいるわけ?」

 オレは男子生徒を見渡す。平田に次ぐ安心できる男はいるだろうか。

 ゆきむらのうめいせきだが女子とは結構揉めていたし……。誰だろうと考えていると……。

「あなたよあやの小路こうじくん」

 ……は? どうしてオレ? にオレ? 思わず口がポカンとあいた。

「あははは! 笑わせないで。誰かと思えば、あんたの唯一の友達じゃない。あんな影の薄いむっつりスケベタイプ、信用なんて出来るわけないでしょ」

 別にどう思われても仕方ないが、オレの存在は『あんなやつ』『むっつりスケベ』らしい。これが1学期で満足に対人関係を築けなかった人間の哀れな末路か。

「むしろ綾小路くんが犯人だったりして。朝、こそこそして怪しかったよね」

 池のかばんから下着が見つかった時、もたついたことを言っているんだろう。

 まあ、怪しいも何もあの時軽井沢の下着が手元にあったのは事実だからな。

「ありえるかも……確か昨日きのう、夜遅くまでたきの前に居たよね、あやの小路こうじくんって……」

 どうやら女子の疑いが色濃くなり、その次のターゲットにオレが選ばれてしまったようだ。男子の中にも怪しむ人間が出始める。いけやまうちは知らぬ存ぜぬだ。

 黙っていても弁明しても分が悪そうな状況なので、黙っておく。どれだけ疑われても証拠はひらが持っているし無理やり犯人にされることもないだろう。

 しかし無実にもかかわらず犯人と疑われるのは気持ちの良いものじゃないな。

「本当に綾小路くんが下着泥棒なんじゃないの? 言い訳もしないし。前にかるざわさんをエッチな目でジーッと見てたこともあったよね?」

 女子の中からそんな怪しむ声が聞こえた。エッチな目で見ていた記憶なんて無いが、都合よく記憶を改変されてしまったらどうしようもない。こうしてえんざいが起こるんだな。

「あの……あ、綾小路くんは、そんなことしない、と思うな……」

 女子は全員疑ってくるくらいの勢いで、誰もオレの味方をしてくれる人なんていないと思っていたが、予想外の人物からかばう言葉が発せられた。

 後方で背中を丸め、もじもじとしながらもそんな風に答えオレを擁護するくらの言葉。

 誰よりも人に注目されることを苦手とする彼女とは思えない行動だった。

「え? なにそれ、何でそんなことあんたに言えんの?」

 犯人かも知れない人物を庇う佐倉に対し軽井沢は不機嫌そうに振り返る。イケイケの女子からすれば、おどおどした佐倉なんて格好のターゲットだ。ほりきたよりたいしやすい。

 瞬時に獲物を切り替え、捕食するように言葉で襲い掛かる。

「ねえ何で? 何であんたに分かるわけ? 綾小路くんが犯人じゃないって」

「それは……その……だって、そんなことする人じゃ、ないから……」

 勢いに押され、恐怖におびえながらも必死に声を絞り出す。

「はあ? 意味わかんないし。ぜんぜん答えになってないじゃん」

 佐倉が続けるなぞの擁護に、軽井沢は腕を組んでから意地悪そうに笑った。

「あれぇ? もしかして佐倉さん、地味で目立たない綾小路くんが好きだったりして?」

 ただバカにするというか、適当な理由をつけて言った軽井沢の一言。そんな根拠のない発言はサラッと受け流せばいいのだが佐倉はストレートに受け止めてしまう。

「ち、ちがっ!?」

 ずざっと後ずさりするほど驚き、佐倉は顔をにしてオロオロする。

「うわー。なにその小学生みたいな露骨な反応。わっかりやす」

 大笑いする軽井沢に、その取り巻きの女子たち。

「そんなんじゃ……! あ、あう……うぅ……!」

「は、別にいいんじゃない? あんなの好きになる子なんて、他に誰もいないでしょ。何ならここで告っちゃえば? ほらほら、つだってあげてもいいし」

「っ!!」

 周囲の目がくらに集まりすぎたことで、その空気に耐えられなくなったのか佐倉は走って森の中へと逃げていった。くしは追いかけるね、と言い残し佐倉を追う。一人で森の中に入るのが危険だと分かっているナイス判断だ。

「なにあれ。ちょっとからかっただけなのにね。だから友達ができないんじゃん」

 かるざわの公開処刑、その一部始終を無言で見守っていたほりきたは、つまらないものを見ていたように髪をでながらため息をついた。

「そろそろ話を進めてもいいかしら。茶番を見ているのは時間の無駄だから」

「あのさぁ堀北さん。その言い方カチンと来るんだけど」

 逃げ出した佐倉からはもう興味を失ったのか、再び堀北へとターゲットを戻す。

「ねえ堀北さん。どうしてあたしに冷たく当たるわけ? もしかして何かあるの?」

「何か? 何があるというの」

「だってさ、ひらくんってかついいじゃない? 頭もいいし。あんたみたいな子にまで優しいし、普通女の子は皆好きになっちゃうと思うんだよね」

 くすくすと笑いながら、自慢するようにそばにいる平田の腕を取って引き寄せた。

「言っちゃなんだけどさ、あやの小路こうじくんとじゃ……ね。外見はまあ、他の男子に比べればマシだけど、それ以外の差がひどいじゃない? だからあたしにしつしてるんじゃないかなって。そう思ったわけ」

「随分とおめでたい頭をしてるのね、軽井沢さん」

「あーやだやだ、嫉妬って見苦しー」

 集団行動は人の立ち位置や性格、心理状態を浮き彫りにするとよく聞く。

 学校の生活では見えなかったものが次々と表面化してきているようだった。

 特に、日々孤高であることを貫く堀北にとって、クラス内の女子からの受けは極めて悪かったが、それでもお互いに無視というかかかわらないことでやり過ごしてきていた。

 それが共同生活になることで、必然的に両者は関わらざるを得なくなった。

「確かに綾小路くんは、褒められたことじゃない部分も多々あるわ」

 おいっ……。フォローしてくれるのかと思ったら、逆だった。

「だけど、それと平田くんが信用できるかは別問題。あなたが平田くんを無意味に推すのが不愉快なだけよ。事実、彼を信用できるようなんて何一つ無いもの。それに、私情を挟んでいるつもりも一切ない。消去法の結果、クラスで一番信用できるのが彼になっただけ。それともあなたには、彼よりマシだと言える男子がいる? いるなら教えて欲しいくらいだわ」

 そう言われ、軽井沢は値踏みするように男子をいちべつする。そしてため息をついた。

「……まぁ男子の中じゃ一番人畜無害そうだけど。影薄いし」

 その点では納得せざるを得なかったらしい。女子の見る目は厳しすぎる。

「じゃあまあ、いいんじゃない? あたしは疑ってるけどね。ひらくんが楽になるならってことで我慢してあげる」

 かるざわたちの中では結果的にオレが選ばれたようだが、納得はいかないぞ。

 もちろんそんなことはおくびにも出さない。まためるだけだし。

 話はまとまったとばかりに解散の流れが近づく。それと同時にクラスの結束も崩壊だ。

「みんなの言いたいことも分かるけど……根拠なしにクラスメイトを疑うのは反対だ。僕たちのクラスに、ひどい事をする人間なんていないはずだよ」

 平田は悪化の一途を辿たどる状況に黙っていられずそう言う。

「平田くん優しすぎるって。他に誰がったって言うの?」

「それは僕にも分からないけど……でも、クラスメイトを疑いたくはないよ」

 男子も、ずっと女子に疑われたままでは気分が悪いのか犯人像を考える。

「なあ……もしかして───ぶきって子なんじゃね?」

 一人が、キャンプ地の端で座っている伊吹をそっと見やりながらつぶやいた。

 その瞬間まるで1匹の獲物を見つけた群れのように、疑いの矛先が伊吹へと集中する。

「伊吹ちゃんってCクラスだもんな。Dクラスの妨害みたいなしてもおかしくねーよな……。俺たちが疑われるようにさいしてさ」

「男子いい加減にしなさいよ。一番疑わしいのは男子なことに違いないんだから」

 しのはらは男子を犯人と疑ってやまない。手で払うような仕草をして男子を遠ざける。

「犯人が分かるまでの間、私たち絶対に男子を信用しないから。ね、軽井沢さん」

「当然よ。犯人は絶対男子の誰かに決まってるし」

 結局この事件をキッカケに、男女は別々に離れて生活することが決まった。


    2


 平田ようすけという男は、繰り返して言うがイケメンである。それは外見が突出しているというよりも、行動理念そのものを指していると言ってもいい。普通の人間が面倒なことも嫌だと感じることも率先して引き受けるし、また高い水準で相手に応えている。

 女子たちと協力して、組み立てたまま2つのテントを男子から遠ざける。

 一方のオレは、運ばれてきたテントのペグを地面へと打ち込んで固定させる役目だ。最初はすぐ抜けてしまい苦戦したが、すぐにコツをつかむと1つ目のテントを固定させていった。意外と簡単だ。そして今は2つ目のテントのペグを汗をぬぐいながらハンマーで打ち込んでいる。合流した平田がロープを張ってペグを打ち込む手助けをしてくれている。

「ごめんね。君にまでこんな大変な思いさせて」

 他の男子たちは遊びに出かけたり釣りで食料を調達しようとアウトドアにいそしんでいる。

「あーいや、別にひらが謝ることじゃない。むしろ任せっぱなしで悪いな」

「悪くなんてないよ。僕が好きで勝手にやってるだけだから」

 この男のイケメンたるところは、この爽やかながおの存在も大きいだろう。

「こんなこと聞くのも変かも知れないけど、どうしてそんなに頑張るんだ?」

「頑張る? 僕は頑張ってるつもりはないよ。しなきゃいけないことをしているだけさ」

 得意げにするわけでもなく、したたる汗を首にかけていたタオルでぬぐった。

「この特別試験、僕は戦いじゃなく皆が仲良くなるための大切な機会だと思ってる。だから今のこの時間を大切にしたい。そのために必要なことなら辛い作業も喜んでするよ」

 通常の人間が、裏表なくここまで善意にあふれた人間になれるだろうか。人から好かれたい、注目を浴びたい、そんな下心があって当然じゃないだろうか。

 でも平田からはそんな気持ちが全く感じられない。

 ただただ、皆と仲良くしたいという思いだけが強く感じられる。

「よし、あと半分くらいだね。ぱぱっと終わらせてしまおうよ」

 二人で残るペグを打ち込むためテントの反対側へ回り込む。

「平田くーん! ちょっとこっち来てー!」

 かるざわたち女子のグループから平田を呼ぶ声がした。

 またたく間に平田だけが取り囲まれ、ぐいぐいと腕を引っ張られる。

「ねえねえ、こっちきてー!」

「あ、まだ僕は作業が残ってるから……」

「そんなのあやの小路こうじくんに任せておけばいいじゃない。ね?」

 そう言って強引に引っ張っていこうとする。

 困った顔をする平田を見て、オレは面倒臭いと思いながらも答える。

「……ここはオレがやっとくから、行ってくれ」

「いや、でも一人じゃ大変だよ───」

「あと少しだし大丈夫だ」

「ご、ごめんね。ありがとう。すぐに戻るよ」

 ちょっとは女子に良く思われたい下心ありの申し出だったが、女子にはオレの言葉など届いていないのか、そのまま平田を引っ張って森の方へ行ってしまった。

 多分、すぐには帰って来られないだろうな。

 フラグを残して去っていく平田を寂し気に見送り、オレは再びハンマーを手にした。

 それから作業に没頭し続け、結局平田が戻ってくる前に一人で完了させてしまった。

「一人だと思ったより時間かかったな……」

 テントの向きとペグの向き、ロープの張りと気を遣わなければならない点が多かった。

 時刻は10時を回っている。これからどうしたもんかな……。

 硬直していた状態が動き出した今、ここからは手順をミスするわけにはいかない。

 でもその前に体力の回復だ。炎天下での作業はきつすぎた。

「ちょっといい?」

 ひと段落したので少しだけ休もうと思っているとぶきが声をかけてきた。

の下着泥棒の件、何て言うか大変そうだな。Dクラスも一枚岩じゃないっつーか」

「まあ、な。色々苦労は絶えないな」

「でもどんな理由にしても、女子の下着を盗むのは同じ女として許せない」

 そりゃそうだ。でもどうしてそんなことをオレに話すんだろうか。

 伊吹を保護したのはオレというよりやまうちだし、面倒を見ているのはくしたちのグループ。

 会話も少々交わしたくらいで、特別からむようなようは無かったはずだが……。

「もしかしてオレを疑ってるとか?」

 朝、しのはらたちに犯人扱いされたことを、遠目に伊吹も見ていたようだ。

「おまえが犯人なわけ?」

「いや、違うけど」

「だったら大丈夫だろ。ま、別に確証があるわけじゃないけどね。ひらって男子とおまえは一部の女子から信頼されてるみたいだったし。犯人の可能性は低いと思ったって感じ」

 かるざわほりきたのやり取りを聞いていたから、そう結論付けたのだろう。

「犯人に心当たりはないのか」

「今のところは全く。オレとしては、極力男子は疑いたくない」

「じゃあ誰が犯人だと思うんだ?」

 試しているかのような、そんな問いかけだった。オレは真横に立つ伊吹の様子を横目でうかがうが、こちらを向くことなく回答を待っていた。それでも答えずにいると、伊吹は言う。

「おまえの言うように男子が犯人じゃなかったとしたら、次に疑われるのはよそ者の私。疑う声だって絶対に出たはずだ。男子が下着を盗んだように見せかけたのかもって。違う?」

 自分が疑われていることなど百も承知なのか、ちよう気味に笑いそう言った。

 オレはその言葉に対し、瞬時にこみ上げてきた言葉を口にする。

「少なくともオレは信用するかな。おまえが犯人とは思えない」

 そう迷わず伊吹に対して答えていた。少し驚きオレの目を見てくる。それが真実かを確かめているかのようだった。オレが視線を合わせると、目をそらさず受け止める。

「……ありがと。そんな風に言ってくれるとは思わなかった」

「正直に答えただけだ」

 素直にそう言えたのは、伊吹のぐな瞳を見ただけで確信が持てたからだ。


 だから軽々に結論付ける。かるざわから下着を盗みいけかばんに忍ばせた犯人は、このぶきだ。


    3


 特別試験5日目の夜。Dクラスはおのように沈んでいた。結局、誰が犯人か判明することはなく、疑心暗鬼の状態のまま1日が経過してしまったからだ。そんな中、オレは今日きようたきの番をしていた。ただ火加減を見つつ、時折枝をほうり込むだけだから実に単調かつ楽な作業だ。それよりも問題は別のところにある。

「ねえあやの小路こうじくん。ちゃんとテント動かしておいてって言ったよね?」

「言われた通り動かしたはずなんだが」

「もっと左に動かしてよ。あれじゃ男子に近すぎるんだから」

「……わかった」

 やや理不尽なクレームを入れられ渋々承諾する。憤慨した様子で去っていく女子。

「雑務を押し付けられて大変ね」

「……どの口が言うんだよ。おまえが余計な推挙さえしなければ問題なかったんだ」

「仕方ないでしょう。ひらくんは信用ならないもの。保険は必要よ」

「平田を信用できないでいるのは、クラスでもおまえだけなんだけどな。人間誰もが裏表をもって生きてると思わないほうがいいぞ」

「それはそうね。事実私には裏表がないもの」

 なるほど確かに。ほりきたは自分に正直に生きている。うまい具合に返されてしまった。

「けれど大抵の人間は建前と本音を使い分けているはず。あなただってそうであるようにね。まして善意と偽善は表裏一体だから信用しないことにしてるの」

 それは平田だけに限った言葉ではなさそうだった。くしにも当てはまりそうだし。

「それにしても、随分と平田くんを信用しているのね」

「ああ。少なくともオレは頼りにしてるぞ。実際頼りになってるしな」

「頼りになる? 彼がいることでクラスに好影響を与えていると言えるのかしら?」

 いついて反論してくる堀北には、何か思うところがあるらしい。オレが知らない情報を握っているようで、不敵な笑みを浮かべている。

「そりゃ、平田だって万能じゃない。男女間でのごとでまとめきれないこともある。でも他の生徒には出来ないまとめ役を買って出てるし、頑張ってると思うが?」

「確かにね。大役を嫌な顔せず引き受ける行為そのものは確かに立派よ。でも、結果が付いてこなければ意味がない。いいえ、場合によっては最悪のケースにもつながる。あなたに聞くけれど、今私たちDクラスが所有しているポイントが幾つか分かる?」

「まるで、想定外の支出があったみたいだな。心当たりはないぞ」

「やっぱり、ね。あなたが信用してまないひらくん、黙っていることがあるわよ」

「どういう意味だ?」

「ついてきて」

 たきの番を中断させてまでオレに見せたいものとは一体なんだろうか。

 どこに移動するのかと思えば、それは女子テントの出入り口前だった。

 ほりきたはメインパネルの布を開けテントの中を見せる。

「これは───」

 寝るスペース以外取っていないため空っぽの男子テントと違い、女子テントの中はまるで違うしきが広がっていた。床には地面の硬さを和らげるためのフロアマット、空気を入れて膨らませたと思われるまくらが数個。更には電池式のコードレス扇風機まで置かれてある。

「反対側のテントにも全く同じものが置かれてあるわ。全部で12ポイントね」

「よく女子が暑さに不満も漏らさず我慢したなと思ってたが、こういうことだったのか」

 我慢なんて最初からせず、必要なものを買いそろえていたとは。

かるざわさんたちが申請したのよ」

 どうやら陰で相当好き放題やってるらしいな。

「私が気づいたときには注文してすべてが揃った後だったわ。誰でも申請すればポイントを使えるなんて、ルールに難ありよ」

 早々にこうえんが離脱してしまったように、ポイントの使用を止める手立てはない。

「軽井沢さんは平田くんには報告していたようだから、間違いなく彼は知っているはず。だけどあなたがこの事実を知らなかったということは他の人には知らされてないということ。本来なら絶対に共有していなければならない情報のはずよ」

 腕を組んで状況を説明する堀北の言っていることには一理あるが、平田も悪意があって黙っているようには思えない。余計な混乱を防ぐためじゃないだろうか。

 軽井沢だって平田にちゃんと報告している辺りは評価できる。

「おまえの言いたいことは分かったけど、オレから言うことは特にないな。使ってしまったポイントは返ってこないし、試験の日数も残り少ない。これ以上軽井沢たちも不必要なポイントは使わないだろう」

 素っ気ない答え方に怒られるかと思ったが堀北には想定済みの返答だったらしい。

 そのままさらりと聞き流される。

「このまま何も起こらなければ今回は大人しいかも知れない。でも、下着が盗まれた件が未解決のままなのは非常にリスキーよ。もし近くに犯人がいるのなら、今後私たちの足を引っ張るかも知れない。だから一刻も早く犯人を見つけたい」

「で、オレに協力して欲しいと?」

「ええ。男子側とれつが入った今、私一人だけじゃどうにもならない部分も多いわ」

 今や男女は冷戦ただなか。情報は遮断されてしまい探ろうにも探りにくいからな。

「わかった。役に立てるかは分からないが協力しよう」

 素直にそう答えると、逆にほりきたは面らったようにいぶかしげな顔をした。

「……随分と物分かりがいいわね……何かねらいがあるの?」

「人の好意は素直に受け取った方がいいぞ。男の一人として、男子が泥棒扱いされたことには不服なんだよ。協力するだけの動機は十分だろ」

 先にひらから頼まれて引き受けているんだ、何も変わるものはない。

「……まあいいわ。じゃあ決まりね」

 だが犯人だってバカじゃない。クラス全員から怪しまれているこの状況下で尻尾しつぽを出すようなはまずしないだろう。堀北は、最悪それでも良いと考えているかも知れない。この試験をこれ以上かき乱されるとポイントにも響くだろうからな。

 だが犯人には……ぶきには是非もう一度行動を起こしてもらわなければならない。

 いや、起こすはずだ。あいつの狙いはまだ完全に達成されていないのだから。

「真剣な顔をしてるわね。そんなに犯人扱いされたことが気に入らなかった?」

「この事件のせいでクラスがめちゃくちゃだな。今日きようまでくやってきたのに残念だ」

「今まで協力的にやれたのは偶然の産物よ。元々Dクラスにはチームワークなんてあってないようなもの。男女間に亀裂が入ったところで最終的な影響は低いわ。もちろん試験終了時まで持ってくれたほうが都合は良かったけれどね」

「それに、犯人が誰であれ狙いはなんだろうな。かるざわの下着が目的だったのか、チームワークを乱すためだったのか。オレには別の狙いが隠されている気がしてならない」

 別の狙い、というキーワードに堀北は腕を組んだが、少し考えた後首を振った。

「考えすぎないことね。……悪いけどテントに戻るわ」

 堀北は小刻みに呼吸しながら、髪をかきあげる素振りをしてオレから顔を背けた。

「なあ堀北、そろそろ白状したらどうだ?」

「白状? 一体何をかしら?」

 平静をよそおっているが、堀北は薄っすらと汗をかいている。いい加減忠告することにした。

「おまえ、この試験が始まった時から体調悪いだろ」

 旅行前から体調不良の兆しはあったのかも知れないが、まだ軽いものだったんだろう。

 さもなくば堀北の性格からして遊びの延長である旅行を欠席していた可能性が濃厚だ。

「……別に普通よ」

うそつけ」

 オレは嘘をつき通す堀北を捕まえ、額に手を伸ばした。触れた額はやはり熱かった。

 逃げようとしたが、堀北の動きは鈍い。軽く力を籠めるだけで動けなくなった。

「いつから……気づいてたの?」

「船のデッキで顔を合わせた時だな。あの時お前に何をしてたか聞いただろ」

「ええ。で読書していたと答えたはず」

「本当はつらくて部屋で寝てたんじゃないのか?」

「……その根拠は?」

「合流したときお前髪が乱れてた。つまり直前まで横になってた証拠だ。それに停泊したデッキはクソ暑かったのに寒そうにしてた。今だってながそでを着てファスナーまで上げてる。今日きようまでの様子を観察していたら、導き出される結論は小学生にだって分かるだろ」

 すべて当たっていたのだろう、ほりきたは返す言葉を失いしばらく黙り込んだ。

「その鋭さをAクラスに上がるために向けてくれればもう少しあなたを認められるのに」

「ないな。向けない向けない。それより体調のことは黙っておくつもりなのか?」

 手で触れた感じ、38度近い熱があることは明らかだ。それでも隠し通している。

 それは単純な理由からだろう。体調不良を申告すればクラスはマイナスの査定を受けてしまい、大きなペナルティを受ける。試験が始まってしまったのが運の尽きだ。

「もう5日も我慢しているもの、ここでギブアップしたら無駄になる。おやすみなさい」

 最後まで耐え抜くつもりだろう。意思は固そうだ。


    4


 ほおに、妙に生暖かいというか硬いものが当たっていた。

 その熱が気持ち悪くてオレは首を動かして逃れようとするが、腕のようなもので顔を固定されていたせいで逃れられなかった。

「ん……なんだ……?」

 不快感で目が覚める。そして、オレは恐ろしい状況にいることを即座に悟った。

 どうが両足の太ももでオレの顔を挟み眠っていたのだ。

すず……もう、俺、我慢できねぇ……」

「うわああああああ!!」

 自分でも驚くくらいの悲鳴を上げ、須藤のヘッドロックから逃れた。

「っせえな……んだよあやの小路こうじ、起こすなよ……ぐぅ」

 なんつー恐ろしいモノを押し付けようとしてたんだ、こいつは。

 しかも誰かと勘違いしてたようだし。男が密集して夜を明かすものじゃないな……。

 腕時計の時刻は、まだ朝の6時前だったが、一気に眠気が吹き飛び空気の暑さを感じた。蒸した状態から抜け出すためテントから出る。外に出た瞬間昨日きのうとは景観がガラッと変わっていることに気づく。

「……ついてるんだか、ついてないんだか」

 特別試験6日目の朝は波乱を含んだ幕開けのようだった。どんよりとした灰色の曇り空。昨晩一度雨が降ったのか所々にみずたまりやぬかるんだ地面があった。本格的に雨が降り出す気配が漂っている。昼過ぎからはかなり怪しいだろう。試験終了目前にして天候は荒れ模様だった。さめ程度であれば気にすることもないが、場合によっては大雨や強風も考えられる。最悪のケースを想定して動かなければならないかも知れない。

 打ち込んだペグの再確認や荷物をどうするかなどやることは多そうだ。つまりそれだけ慌しくなり人目が拡散するということだ。やがて全員が起床すると、収穫していた食料とポイントを使って蓄えてある非常食を組み合わせ口にする。質素な生活を続けていると愚痴も自然と増えてしまうものだが、最終日前日、気力で乗り切る意思が全員に表れていた。

「良かったわ。連日事件が起こらなくて」

 確かに。もし今日きようも下着が盗まれるような事件が起こっていたらこんな空気にはならなかっただろう。今男子のテントの前では朝方まで見張りをしていた男子が爆睡している。

 下着泥棒の事件を繰り返さないために考えた抑止力だ。

 ひらは大勢の生徒を集め最後の激励を飛ばしていた。そして今日を乗り切るための最後の食料を探しに行く班分けを始める。一日分の食料さえ手に入れば、ポイントを使わずに済む。まさに正念場と言えるだろう。オレたちも平田の周りに集まる。

「俺たちも行った方がいいか?」

 既につり竿ざお片手に川岸に座っているいけが振り返り聞く。

「いや、池くんやどうくんには引き続き魚を捕っていてもらいたい。今から他の人に釣り方を伝授している時間はないしね」

 方針が決まるやいなや、ひらは挙手制でグループを作っていく。当然オレは挙手なんて出来るはずもなく今回も余り者として参加することになる。

 メンバーは、ほりきたくらやまうち、そして意外なことにくしの組み合わせになった。

 堀北の体調は相変わらず悪いようだが、周囲に悟られないようく立ち回っていた。

「あなたが余るなんてどういうこと? いつもの仲良しグループはどうしたの」

 そう言えば、この試験で櫛田と行動していた女子たちの姿が一人も見えない。

「あーうん、えっとそれはね?」

 男子がいることが気になるのか、櫛田はそっと堀北に耳打ちした。

「実はみーちゃん、今日きよう女の子の日でね……。結構重たいみたいで、いつもすごく具合悪くなるの。それで他の友達はテントで付き添ってるんだよ」

 堀北の隣に立っていたオレにも櫛田の話す内容が聞こえてきた。

「体調不良と言っても生理現象はセーフのようね。当たり前だけれど。でも、なぜわざわざこのグループに? 他にも選択肢はあったはずだけど」

 やたらと櫛田にって掛かるのは、堀北が櫛田を嫌っているからに他ならない。

 基本的に人間嫌いの堀北だが、その中でも特に嫌っているのがこの櫛田なのだ。なぜ彼女を嫌っているのか。その理由は単純で、櫛田も堀北のことを嫌っているから、らしい。

 だが、この二人の関係にはずっと妙な違和感を覚えてまない。

 櫛田きようって女の子には裏の顔がある。人を平然と罵倒するほどに豹変する一面がある。しかし、その事実はオレが偶然知ってしまったものであり、普段の櫛田は基本的に誰にでも優しく、明るく、そして世話好きなかわいい女の子でしかない。通常であればしつなどの理由以外で彼女を嫌う生徒はいないと思う。でも堀北がそんな櫛田の性格に嫉妬を抱くような人間じゃないことはよく理解しているつもりだ。

 哲学者が頭を悩ませるものがある。それは『鶏が先か卵が先か』という問題だ。

 文字通り鶏は卵から誕生する生物だが、では最初の一匹は卵だったのか? という話。

 堀北と櫛田のどちらが最初に、そしていつ相手を嫌ったのかが分からない。

せつかくだから堀北さんとおしやべりしたいなって思って。ほら、この旅行じゃ全然話せてないじゃない? 夜もすぐに寝ちゃうし」

 自分が嫌われていると知りつつ、そして嫌いつつも仲良くしようとする櫛田。クラスメイト全員と仲良くなることを目標としているのなら、堀北攻略は避けては通れない道だ。

 この二人の関係性については非常に面倒かつややこしい問題が付きまとっている。

「必要ないことに付き合うほど私は暇じゃないから」

「意地悪だよねほりきたさんって。寝顔はすっごくかわいいのに」

 そんなからかうことを言ったくしに、ちょっとだけ堀北はイラッとしたようだった。

 とりあえずこのメンバーで食料を探すことになる。

「なあぶき。おまえも一緒に来ないか?」

 出発しようとしていたところで、オレは木陰で休む伊吹にそう声をかけた。

「私が……?」

今日きようで試験も最後だしな。嫌なら無理強いはしないけど」

「……そうだな。Dクラスには助けられた恩もあるから……わかった、つだう」

 かばんを肩にかけた伊吹が参加を希望してきて、やまうちが一人喜んだ。

「おーいいじゃんいいじゃん! なんかハーレムって感じだしさあ!」

 女子の割合が増えて山内のテンションも上がっていく。人手が多いに越したことはない。

 拒む理由のない堀北は特に何も答えずに森の中に足を踏み入れる。

「なんか暗い森って不気味だよな……ジメジメした暑さも怖いって言うかさ」

 曇り空ということもあって、森の中は昨日きのうまでとうって変わってかなり視界が悪い。

 脇から汗がにじみ出てきた山内がうつとうしそうに体操服をパタパタとあおぐ。

くらは暑くないか?」

 何か話がしたいともくむ山内が佐倉に声をかける。でも視線は佐倉の胸元に注がれていて、ただおっぱいを見たいという分かりやすいねらいがあった。

「え? あ、は、はい。大丈夫です……」

 スッと体を傾け、それとなく視線から逃れたがる佐倉。女の子は男の下心ある視線には敏感だって言うしな。佐倉の場合はその経験が多いから特に気づきやすいだろう。

「昨日のかるざわはひどいよな。佐倉は優しいからあやの小路こうじかばっただけなのに」

「あう、えう……」

 親身になって話しているつもりだが、その視線と内容は結構爆弾だ。

「山内。木の上なんかにも注意してた方がいいかもな。果物くだものが実ってる可能性だってあるし。その辺は背の高いオレたちがしっかりしてないとな」

「お、おう。もちろんだ」

 こうしておけば、多少山内の佐倉へ向けるいやらしい視線は防ぐことが出来るだろう。

 それでも底のない男の欲望が尽きることはないだろうけど。

「南西の方から雨雲が近づいているわね。想像より早く天候が荒れるかも知れないわ」

 場合によっちゃ午後一で雨が降り出すことも頭の片隅においておいた方がよさそうだ。

 となれば、長い間食料を探して出歩くのは危険かも知れない。もしも森の中で雨に巻き込まれたら、立ち往生を強いられるどころかをする恐れだってある。そうなれば途端に大量のポイントを吐き出すこともあるだろう。

「んー……」

 食べ物を探しながら静かに歩き続けていると、くしはオレとほりきたを交互に見ながら考え込むような仕草を繰り返し見せていた。無論堀北はすべて無視していたが。

「どうしたんだよ櫛田ちゃん」

 そんな櫛田の行動に遅れて気づいたやまうちが問いかける。

あやの小路こうじくんと堀北さんって最初から仲がいいじゃない? で、その理由って何だろうなーって考えてたの」

「そういやそうだよなぁ。お前らって何で仲いいの?」

 櫛田も面倒な話題を広げてくれる。

「別に仲がいいわけじゃないぞ」

「っていつも否定するけど、やっぱ仲いいってお前ら。今だって隣歩いてるし」

 そんなことを言われても別に意識していた覚えはない。

「あっ。私、何気に綾小路くんと堀北さんの共通点見つけちゃったかも」

「共通点って何々?」

「ほら、ちゃんと二人を見てよ山内くん。何か気づかない?」

「んんー?」

 山内はオレの顔数センチまで迫る勢いで観察する。そしてその後は堀北の方に駆け寄っていき、どんどん顔を近づけていく。あ、バカ、あんまり近づきすぎると───

 スパン、と乾いた音が山内のほおたたいた。ドラマ女優顔負けの見事なビンタがさくれつした。

 その勢いと痛みに声にならない声をあげ山内がうずくまる。

 何がひどいって、堀北はその山内に言葉どころか視線すら向けない。

「な、なにしゅんだよ!」

「おまえが近づきすぎたんだって。あいつのテリトリーくらい覚えといたほうがいいぞ」

 以前いけが堀北にちょっかい出したときも似たようなことになったし。

 そもそも好きでもない男に至近距離まで顔を寄せられたら誰だって不快に思うだろう。

「あはは……ご、ごめん山内くん。私が余計なこと言ったから。大丈夫?」

「や、優しいなあ櫛田は……」

 差し伸べた櫛田の手をとり、山内は頬を赤くしながら立ち上がった。

 そんな一部始終をぶきはちょっと驚いた顔で見続けていた。

 このおバカなやり取りはCクラスではあまり見られそうにないしな。

「く、櫛田が気づいた共通点って何だよ」

「それはね? 二人とも笑ったところをほとんど見せない! だよ。というか、綾小路くんも堀北さんもがおでいるところ見たことないなって思って」

 思わぬ指摘をくしから受け、素直に受け入れるというか納得した。ほりきたに関しては。

 相手をバカにしたような笑みは何度か見たが、あいを含んだ笑みというのは皆無だ。

「堀北の笑った顔は確かに見たことないな。でも、オレは笑ってるだろ?」

「苦笑いとかなら見たことあるけど……。こう、心の底からニコッとしたり、おなか抱えて笑うようなのはあやの小路こうじくんも見たことないよ。それとも私に見せてないだけ?」

 少し不満そうにのぞんできた。はい、今回もドッキンコ頂きました。脈拍急上昇。

 無人島にいながらも素敵な香りがこうをくすぐる。恥ずかしくなって目をらした。

「……遺伝子が左右してるようだぞ。よく笑う人と笑わない人の違いは」

「うーん……なんかヤダね、そういう理由。たとえ本当だったとしてもさ」

 ま、それがすべてじゃないだろうが。主に育ってきた環境が左右させる可能性はある。

「一回練習してみない? がおのさ。どうかな?」

「ひとまず、この辺りを中心に始めましょうか」

 堀北がそう言った。

「え? 笑う練習?」

「いつまで旅行気分でいるの。食料を探す話に決まっているでしょう」

 ピシャリと櫛田を強い口調でたしなめる堀北は、すぐに散開させるべく指示を飛ばす。

「一人で行動せず二人で探すこと。その点には注意して。行きましょう綾小路くん」

 呼ばれたので堀北と歩き出す。

「あっ……あう……」

 ん? 後ろでちょっと後を追いかけてきていたくらが肩を落とすのが見えた。

「一緒にさがそーぜ佐倉!」

 佐倉の背中から声をかけたやまうちは、グッと親指を立ててオレに見せてきた。

 どうやら二人きりになれたチャンスを活かしてみせる、という合図だろうか。

「よろしくねぶきさん」

 残った櫛田と伊吹がペアを組む。伊吹も無愛想な子だが櫛田なら問題ないだろう。

「堀北、例のキーカードはどうやって管理してるんだ?」

「試験6日目に確認してくるようなことじゃないわね……。常に身に着けてるわ」

 そう言って上着のポケットに手を入れてここにあると教えてくれた。

「装置を更新する時はひらくんの手配した生徒の間に紛れるようにしてやってる。伊吹さんや他の生徒に知られるようなことにはなっていないはずよ」

 まあ、その辺はあまり心配していない。

 一番気を遣うべきところだからくやってるだろう。

「もし良かったら少し見せてくれないか」

「え? ちょっと、ここで?」

「むしろここでだから都合がいい。ベースキャンプだと目立ちすぎる」

「……そうだけど、カードを見てどうするつもり?」

 少し怪しむような目を向けるほりきたに、事情を説明する。

「実は今まで黙ってたことがある。これはくらも一緒だったから後で確認してもらってもいいが、オレは初日にキーカードのようなものを持っていた生徒を見ているんだ」

 どうくつの前でかつらが手にしていたカードのことを堀北に言って聞かせる。

「だが、アレが本当にキーカードだったのかは分からない。オレは実物をちゃんと目にしたわけじゃないからな。拾ったテレホンカードだったなんてオチだと笑えないだろ?」

「……そうね。あなたが確証を持てたなら、大きな成果を得られるかもしれない」

 理由に納得がいった堀北はぶきを警戒し背中を向け、そっとカードを取り出した。オレはそれを受け取り表と裏を確認する。裏面はよくある磁気カードの作りだが、ちやばしら先生の告知通り、表面にはリーダーの証明である『ホリキタスズネ』の名前が彫られてあった。

 手で触れてみても、がせたりするような代物じゃないことが分かる。

「どう? 葛城くんが持ってたカードと同じ?」

「いや……どうかな。見ればはっきりすると思ったが……記憶にある色と違うかも」

「クラスによってキーカードの配色が違う可能性はあるわね」

「ああ。でも決断するには材料が足りない。ミスすれば取り返しはつかないからな」

 カードを返そうとしたとき、オレは手元からカードを地面へと落としてしまう。

「あっ!」

 オレが焦って声を漏らすと同時に、カードを拾おうと手を伸ばす堀北。

 すぐに拾い上げカードを上着にしまうが、当然声のせいで周囲の注目を集めてしまう。

「どうしたのー?」

 くしがちょっと心配そうにこちらを見ていた。伊吹も同様だ。

「いや、何でもないんだ。ちょっと虫がいて驚いただけというか。悪い悪い」

 謝って堀北のほうに視線を向けると、そら恐ろしいほどのぎようそうにらけられていた。

「す、すいません……」

 激オコになった堀北はオレから距離を取ってしまう。

「フラれたのか?」

 ニヤニヤしながらやまうちが近づいてくる。

「なあ山内。少し相談があるんだが耳を貸してもらえないか」

「なんだよ恋の相談料は高いぞ?」

「この辺の地面は、雨の影響で泥だらけだろ? だからこの泥を、ありったけ堀北の髪にかけてもらいたいんだが。頼まれてくれないか」

「……は? ば、そんなことしたら俺が殺されるっつの! 絶対やらねえぞ!」

 もちろん二つ返事が貰えないことは分かっている。

 だが、これはオレが実行するには不自然すぎる行為だ。うそをつくのが得意であり、日頃からふざけた行動を取っているやまうちだからこそやれる芸当だろう。

「おまえさ、ほりきたに怒られたからって、いくらなんでも仕返しはダサいぞ!」

「もし実行してくれたら、くらから教えてもらったメアドを提供する用意がある」

「なっ───!?」

「どうだ」

「さ、佐倉のメアド……くっ。や、やるっきゃねえだろ、それはっ」

 恋に生きる男は、恋に死ぬ覚悟を早々に決める。この決断力は素晴らしいな。

「絶対だからな? 嘘だったら承知しないぞ?」

 オレがうなずくと、山内は近くの泥を両手いっぱいにかき集め堀北の背後に回る。体調が悪くなければ気配にも気づいただろうが、今周囲に気を配るだけの余裕が堀北にはない。

 山内の奇怪な行動に気づいたくしぶきが、不思議そうに見守っている。

 そして山内は実行した。堀北のれいな黒髪に両手で思い切り泥を被せた。そして両手でベタベタと塗りたくった。そこまではやる必要はなかったんだが、まぁいいか……。

「うははは! 泥だらけだぞ堀北! おもしれぇ!」

 悪戯いたずら小僧のように笑い、指差す山内。

 事態が瞬時に把握できなかったのか、堀北は少しの間動かなかった。だが状況を理解すると立ち上がり、指差す山内の腕を無言で掴んだ。

 え? と疑問の声を漏らした瞬間には山内は堀北によって投げ飛ばされていた。


    5


 お昼前、オレたちは収穫なくベースキャンプへと戻ってきた。太陽が出ていないとはいっても真夏の森の中は想像以上に暑い。汗をかかない方だと言っていた堀北でさえも、薄っすらと汗ばんでいるのが見て取れるほどだ。

「早く洗った方がいいよ、堀北さん。相当ドロドロだよ……」

「そうね……流石さすがにこの状態はつらいわ」

 髪も服も泥だらけの堀北は不快で仕方ないだろう。体調が悪くても例外じゃない。

「あなたのことは一生うらむから。覚悟しておいて」

 ボコボコにされた山内は、おびえたように体を震わせてオレの背後に隠れた。

「おお、おれ、俺は、や、やったぞ。約束、約束は守れよなぁっ!」

「大丈夫だ。試験が終わったら必ず教える」

 佐倉には悪いが、勇敢に行動した山内には報いる必要がある。

「あちゃ、でもシャワー室は無理みたい……」

 既に探索から帰ってきた女子たちがシャワー室前に集まって順番待ちしている。

 皮肉なことにかるざわグループで全部で3人並んでいる。

 ほりきたたちが今から並んでも結構な時間待つことになるだろう。

 泥だらけの諸事情があれど、堀北に敵意を見せる軽井沢が順番を譲るとは思えない。

 あそこに割り込むのは難しいだろう。

「川を使ったらどうだ? それなら手っ取り早いだろ」

「……そうね。それ以外に方法はなさそう」

「私も泳ごうかな。ぶきさんも一緒に泳がない? 結構汗かいたと思うし。私たちが許可すればCクラスが川を使ってもいいよね?」

 無断でスポットを利用するのがダメなだけで、ルール上は問題ないはずだ。

「私はパス。泳ぐのが好きじゃないから、大人しくシャワー室を待つ」

「じゃ、じゃあ私も……」

 伊吹に便乗するように、くらも男子の目に水着姿をさらしたくないのか拒否した。

 堀北は、改めて一度シャワー室を見てから背を向ける。

 温かいお湯の出るシャワー室がベストなのは間違いないが、曇り空とはいえかなり蒸し暑い。具合の悪い状態で待ち続ける自信がないんだろう。

 オレはボロボロになったやまうちとテント前に向かう。

「俺はちょっと、テントで休む。殴られた箇所が痛い……」

 よぼよぼと歩きながらテントに入っていった山内は、ちょっと泣いてるようだった。

 適任者だったとはいえ、酷な頼みをしてしまったな……。

 さて、堀北の様子は、と。既に水着に着替え始めているのか、表に姿はなかった。

 その間にもシャワー待ちの人数はどんどん増えている。軽井沢たちの後ろに佐倉、更にその後ろに伊吹。そして新たに別の女子が二人後ろに並んでいる。

 一方、川で泳ぐ生徒の数も多く、気持ち良さそうに泳いだりはしゃいだりしていて楽しそうだった。数分して堀北とくしも水着姿で現れる。

 一人になったオレは男子のかばんが積み上げられた荷物置き場に行く。

 それからキャンプ内を転々と歩いて人気の少ない場所を探して回った。

 5分ほどで戻ってくると、川で体を洗った堀北が上がっていくのが見えた。

 体調の悪い堀北からすれば冷たい川の水は体に毒だろう。

 泥を落とした段階で満足したに違いない。

「おっと、く動いたようだな」

 シャワー室を待つ列の最後尾に並んでいる伊吹の姿を確認して、オレは小さくうなずいた。


    6


 オレが男子テントの前でほりきたが出てくるのを待っていると、15分ほどして彼女は姿を見せた。その様子はどこか変で、下を向き目を伏せたまましばらく立ち尽くしていた。

 それからゆっくりと顔を上げ辺りを見渡す。

 オレと目が合うと、その瞳はどこかはかなげに揺れているように見えた。

 足取り重く近づいてくる姿は、単純に弱っているからだとは思えない。

「……あやの小路こうじくん。少し来てもらえるかしら……」

 呼ばれたオレは一度振り返り、伊吹がシャワー前に並んでいるか改めて確認する。

「どうした。何かあったのか?」

「ついてきて……ここでは話せない」

 それだけ言い、堀北はキャンプ地から離れ森の方に歩いていく。

「どうしたんだよ。また森に入って食べ物でも探すつもりか?」

 こちらの呼びかけには答えず、堀北は歩き続ける。

 歩みを進める堀北が足を止めたのは、キャンプ地が見えなくなるほど離れてからだった。

 振り返った堀北は何かを口にしようとして、抵抗があったのか一瞬ちゆうちよした。

「……これは私の油断。ミスだと自覚したうえで話すこと。いい?」

「ミス?」

「……盗まれたのよ」

「ま、まさかおまえの下着が盗まれた、とか言わないよな?」

「違うわ。もっと最悪ね。盗まれたのは……キーカードよ。完全に不覚だったわ」

 自己嫌悪に陥った堀北は、今まで見たこともない表情を見せていた。

「あなたを信用したからこそ話したのよ。犯人の可能性がある人物になんて絶対に相談しないから。死にたくなるほど屈辱的な話だしね……」

 その点に関しては光栄だが、落ち込む相手の前で喜ぶわけにはいかない。

「大失態ね……」

「いや、悪いのは盗んだヤツだ。そうだろ?」

「だとしても責任問題よ。体調が悪いからとか、泥だらけだったとか関係ない」

 悔しそうにうつむく堀北。情報流出は、試験に多大なダメージを与える恐れがある。

「一秒たりともカードを手放しちゃいけなかったのよ。なのに私は……」

「自分を責めるな。慰めにもならないと思うが、おまえは精一杯やってたと思う」

 聞こえていたかどうかは分からない。ただ悔いるように下唇をめていた。

「今はとりあえずおもてにしない方がいいだろう。事態の把握が先だ」

「ええ……私もそう思うわ」

 事実を全員が知ればパニックになる。それだけは避けておきたい。

「私が疑う人物は2人。かるざわさんか、ぶきさんのどちらか」

 前者であれば、単純な嫌がらせってことだろう。

 カードを無くしたほりきたが慌てふためく姿を見て楽しむために盗んだという説。

「残念だが確率は低い。軽井沢はずっとシャワー室の前にいたぞ」

「間違いない……?」

「ああ、断言できる。軽井沢の命令を受けそうな女子二人も同じだ」

「そうすると、ぶきさんが犯人である可能性が高い、ということになるわね。彼女にはカードの存在を知られた可能性があるし、あまりにタイミングが良すぎるもの。だけど盗み出すのは非常に危険なけと思わない? キーカードにはリーダーの名前が刻まれているんだから見るだけで十分のはずだもの。わざわざペナルティを犯すするかしら」

 オレに答えを求めているかのように、不安げな瞳を向ける。

 そんな堀北の肩に手を置き、安心するように言葉をかけた。

「それはタイミングを見て伊吹に聞けば分かることだ。伊吹を疑うのなら目を離さないほうがいい。持ち逃げされるのが最悪のシナリオだろ?」

「そうね。でもごめんなさい、先に戻ってもらえるかしら。すぐに後を追いかけるから」

「……そうか。わかった。先に戻って伊吹を見張ってる」

 一人で吐き出したい気持ちもあるだろう。

 オレは堀北を一人残し、ベースキャンプへ戻った。


    7


 10分ほどして戻ってきた堀北は、キャンプ場の不穏な空気を感じ取った。

 それは仮設トイレの裏手から見える、薄暗い煙が原因だ。

 たきをするには早すぎるし、場所もおかしいことに気づく。

「あの煙は? 一体何があったの?」

 オレは堀北と合流し、近くで騒いでいたいけを捕まえて事情を聞く。

「それが大変なんだって。火事だよ火事! トイレの裏で何か燃えてんだよ!」

 シャワー室の前に並んでいた女子は全員いなくなっている。

 火事の騒ぎを聞きつけて移動したのだろう。

「伊吹さんの姿も見えない。この火事も彼女の仕業かも。彼女はどこに?」

「火事に気づいて、今しがたあっちに歩いていったところだ」

 急ぎ仮設トイレの裏手に行くと、そこにはひらたちの姿があった。そして伊吹の姿も。

 堀北は伊吹に声をかけようとしたが、その横顔をみて躊躇ためらった。

 それは、ぶきの表情があまりにリアルだったからだ。

 火事が起こっていることに戸惑いを隠せない。そんな顔をしていた。

「……彼女がやったんじゃない、ということ?」

 そんな疑念がほりきたを襲い、迷いが生じる。

 キーカードを盗むとしたらもう伊吹しかいない。火事を起こすとすれば伊吹しかいない。

 なのに、その伊吹は現場にまだ残っていて火事に驚いている。

 火元をのぞむと、何やら紙の束が燃えた跡が残っていたが、既にほとんどがすすになっていたため一瞬なんだったのか分からなかった。

 だが、見覚えのある一部分が焼け残っていたため、それを見た瞬間理解する。

「マニュアルが燃やされたの?」

 堀北も見覚えのある部分に気がつき、そう問いかける。

「うん。どうやらそうみたいだ。誰がこんなことを……」

「……次から次へと……」

 堀北は小さくつぶやき、悔しそうに目を伏せた。

「僕の責任だよ。マニュアルはかばんの中に保管していたんだ。テントの前に積んであったし、昼間だから誰かにられたりするなんて思いもしなかったんだ。でもまずはきちんと消火しないと……」

 犯人探しよりも、ひらは火元を確実に絶っておくことを優先し川へ向かう。

 空のペットボトルに水をみながら、平田は暗い表情で呟いた。

「なんで……誰がこんなことするんだ……どうして、皆仲良く出来ないんだ……」

 自然と手に力が籠っていたのか、ペットボトルをぐしゃりと握りつぶしてしまう。いつもの爽やかな表情はどこへ行ったのか、どこか恐ろしい雰囲気さえ漂っていた。常にリーダーとしてクラスをまとめ動いている平田の心身には大きな負荷がかかり続けている。

「一人で背負いすぎる必要は無いと思うぞ」

 慰めにもならない言葉を平田にかけると、小さくありがとうと言って立ち上がった。

「この件は……ちゃんと話し合わなきゃいけないだろうね」

「そうだな。火事はDクラスの殆どが目撃してる。真相を知りたがってるはずだ」

 気落ちした表情で、平田は汲み上がった水を手に火元へと戻っていく。

「ねえ、誰がこんなことしたわけ? うちらのクラスに裏切り者が居るってこと?」

 戻ってくると、かるざわを筆頭に男子と女子がにらみ合う形でたいしていた。

「何で俺らを疑うんだよ。下着の件とこれとは別問題だろ?」

「わかんないじゃない。それを誤魔化すために燃やしたりしたんじゃないの?」

「ふざけろよ、んなことするわけないだろ」

「ちょっと待ってみんな。落ち着いて話し合おう」

 オレはひらから水を渡すよう要求し受け取る。代わりに残り火を消すことを引き受けた。

 すぐに平田は輪の中心へと赴き、けんしないよう仲裁に入る。

 昨日きのうの下着泥棒の件もあってか、双方共にヒートアップし収まる気配が無い。Dクラスの面々はこの場で犯人探しを始めずにはいられない様子だった。

「とりあえず、これで燃え広がる心配は無いな」

 ひっくり返し空になったペットボトルを二、三度振る。もう中身は残っていなかったはずなのに、火元にポツポツと水滴が滴った。オレは空を見上げる。

「雨、か」

 ほおに一粒のしずくが落ちてきた。

 雲は先ほどより更にどんよりと黒ずんできている。

 もうすぐ本格的な雨が降り出す証拠だ。

 本来なら全員で一丸となって、最後のピンチを乗り越えなければならないのに、男女は強く対立しあうように睨み合って動かなかった。

「もう無理。まじで最悪。このクラスに下着泥棒と放火魔がいるなんて最低よね」

「だから俺らじゃねえって。いつまで疑ってんだよ!」

 いつまでも決着がつかない戦い。いつもならすぐに止めに入るはずの平田は、何故か呆然と立ち尽くしジッとしていた。誰が犯人かを考えているんだろうか?

「つかかんぶきちゃんの姿みえなくね……?」

 やまうちが、先ほどまで近くにいた伊吹の姿がないことに気づく。

 そして、置かれていたはずの鞄もなくなっていることを知った。

「もしかして、この火事の犯人って……」

「怪しい、よな。火事なんて起こすとしたら、それってやっぱり……」

 男子の疑念が伊吹に向き始め、女子も少しずつ伊吹を疑いだす声が出始めた。

 しかし、解決を前にして雨は次第に強く降り始める。

「やば。とりあえず話し合いは後にしようぜ。いろいろ濡れると大変だ!」

 いけたちは慌てて食料や外に出していた荷物をテントの中にしまい始めた。

「平田、指示をくれ!」

 そう池が平田に声をかけたが、じっとその場から動かない。

 平田は何も無い空間を見つめてずっと動かなかった。

 そうしている間に、雨音はどんどんと大きくなっていく。

 少し様子が気になったオレは、平田の傍に近づくが、気づく気配が全くない。

「どうして……どうしてこんなことになるんだ……これじゃ、あの時と同じだ……」

 小さくつぶやいたその意味は理解できるはずもなかったが、ただ事じゃないのは確かだ。

 いつも冷静で落ち着きのある平田らしくない。

「僕は───なんのために、今までなんのために……」

「おいひら何やってんだよ!」

 遠くから平田を呼ぶ声。それでも平田は、聞こえていないのか動こうとしなかった。

 オレがそっと肩に手を置くと、びくりと驚き、ゆっくりと振り返った。

いけが呼んでるぞ」

「……え?」

 平田の表情には生気が通っておらず、青ざめていた。

 二度、池に呼ばれた平田はゆっくりとだが正気を取り戻す。そこで雨が降り始めていることに気がついた。

「雨……」

「池たちを手伝った方がいい。服なんかも干しっぱなしだしな」

「そ、そうだね。すぐ片付けないと」

あやの小路こうじ。平田のやつ大丈夫かよ」

「さすがにショックだったみたいだな。こうも立て続けに事件が起こると」

「中学ン時、優等生の坊ちゃんがいたんだけどよ、重責っつーの? 色々抱え込んでたせいである時爆発してよ。そっから一時クラスはめちゃくちゃになったんだよな」

「平田にもその兆候を感じると?」

「まぁ、流石さすがに爆発は言い過ぎにしてもよ。どっか危なっかしいぜ」

 どうの野性の直感みたいなものだろうか。でも意外と当たっていそうだ。

 この特別試験が始まってからひらは様々なことを背負って行動している。

 それは学校生活でのトラブルとは比にならないほど大変なものだろう。

 平田を取り巻く環境は確実に変わり始めている。

 かるざわの下着ドロに火事騒ぎ。心中はこの空のように荒れ模様だろうな。

「ま、今はとりあえず荷物の方を何とかしようぜ」

 既に片づけを始めていた生徒に混じって手伝う。

 幸いにもほぼ終わっていたようで1分ほどで完了する。

「さてと……全ての準備が終わったな」

 ぶきが姿を消すことは想定内だったが、同時にほりきたも消えたか。

 可能性は半々と読んでたが、むしろ好都合な方に進んでくれたようだ。

 ぐに浜辺へと続く道を見据え、オレはゆっくりと一歩を踏み出した。


    8


 私は重い体を無理やり動かし、強く降り始めた雨の中、伊吹さんを追いかける。

 雨雲に覆われた空は太陽を遮断していて、視界は悪い。伊吹さんの姿は見えなかったけれど、幸いにもぬかるんだ地面には足跡がある。これを辿たどれば彼女にたどり着くはずだ。

 ベースキャンプから100メートルほど歩き、道なりに右へ左へと進んでいくと、意外にもその人物は待ち人の来訪を期待しているかのように立ち止まっていた。

 私は思わず物陰に隠れたが、意味などなかったようだ。

「どういうつもり?」

 振り返りもせず、小さな雨音を突き抜け伊吹さんの声が聞こえてきた。

「追って来てるのは気づいてる。出てきたら?」

「いつから気づいていたの」

「最初から」

 短く答えた彼女の様子は、今まで感じさせたことがない不気味なものだった。物静かで口数の少ない印象は変わらなかったが、何かが違う。

「それで私を追ってきた理由は?」

「直接言われなければ分からないのかしら」

「わからないな」

 これじゃあまるで、私が悪者みたいね。

「追われる理由はあなたが一番よくわかっているんじゃないの?」

「本当に心当たりがないっていうか。なに、なんなわけ?」

 振り返ると、ぶきさんは私の目をぐ見つめてきた。

 その目には一切の曇りがない。思わず謝りそうになったくらいだ。

 私にも確証がない。自分の勘を信じて行動しているだけに過ぎない。

うそを言ったって仕方ないと思わない?」

 こちらの迷いを瞬時に見抜いたのか、畳み掛けるようにそう言ってきた。

「少なくとも私を追ってきた理由をあんたの口から説明受けたいな」

「下着が盗まれた件や火事の騒ぎ。Dクラスは災難続きだわ」

「それが?」

「一部からあなたが疑われていたことは理解してるわね?」

「ああ。私は部外者だから疑われるのは仕方ない」

「つまりそういうことよ」

「私が犯人だと? 証拠でもあるわけ?」

「残念だけど下着の件に関しては何ひとつ証拠がない。でも私はあなただと思ってる」

「なかなかひどい話だな。証拠もないのに疑うなんて」

 それだけ彼女のやり方が上手かったと、褒めるくらいしか出来ない。

 5日目まで何も行動を起こさなかったことや、積極的にDクラスに近づこうとしないことで、逆に疑われずに過ごさせてしまったのだから。

「あなたを疑う理由。それは今日きようの行動のせいよ。その説明は不要でしょう?」

 どうにかして、伊吹さん側から証言を取りたい。私から疑った理由すべてを説明するということは、リーダーであることを自白するも同然だから。99%自信があっても、1%無実の可能性があるのなら真っ直ぐに追及することは避けなければならない。

「単刀直入に済ませましょう。私から取ったモノを返して」

 目の前にいる伊吹さんは私の目を見ることもなく言った。

「知らないな」

 そう答えると足早に歩き出す。

 私もその速度にあわせて追いかける。

 伊吹さんは進路を変えるように森の中へと足を向けた。

「どこに行くの」

「さあ、どこだろうな」

 森の中はぐ進むことが難しい。それはこの数日間で思い知った。

 ましてこの天候では視界もろくに得られない。

 でも伊吹さんは構わず森の中に足を踏み入れた。

 真相を知るために追いかけてきたのだから、ここで引き下がることは出来ない。私が失態を犯した以上責任を持って問題を解決してみせなければならない。

 ミスを取り返さなければいけない。ミスを取り返さなければいけない。

 私の頭の中で、同じ言葉が何度も何度も繰り返される。

 まだ高校生活は始まったばかり。こんなところで、つまずいてなんていられないの……。

 それがかるざわさんに対し強く出た自分へのけじめでもある。

 動悸が激しくなる。少しずつ、息を殺しぶきさんへの距離を詰めていく。

 場合によっては、無理やりキーカードを取り戻すことも視野に入れなければ。

 大丈夫、私なら上手くやれる。上手くやれる。上手くやれる。上手くやれる。

 冷静じゃないことは自分でもよくわかってる。

 でも、今はそれでも何とかするしかない。頼れる人なんて、誰もいない。

 私はこれまでもこれからも、一人で上手くやっていく。

 森の中は切り開かれた道よりも雨や風は幾分マシだった。

 けどその分視界は更に悪くなるうえ、思ったとおり足場も格段に悪い。

 そして小道を右へ左へと進むうち、当然ながら私は方向感覚を失っていく。でも一番の問題なのは私の体調で、先ほどから時間を刻むたびに悪化していくのが分かった。

 今までは前兆あるいはちょっとした熱で済んでいたけれど、この雨を浴びて体温が下がったからか限界ラインが決壊し一気にが襲い掛かってくる。

 伊吹さんは突然立ち止まると、ふと一本の木を見上げた。その視線の先には雨でれた一枚のハンカチがくくりつけられていた。

「どこまで追ってくんだよ。いい加減にしてくれない?」

「私から盗んだものをあなたから取り返すまでよ」

「落ち着いて考えてみてもらえない? もし私がキーカードを盗んだんだとしたら、いつまでもそんな危ないもの持ってるわけないだろ。そんなところを誰かに見られたら即失格。私自身ポイントを失うだけじゃ済まなくなるんだけど?」

 盗まれたものを返してと言っていただけで、私は一度もキーカードとは口にしていない。

 つまり伊吹さんは、今自白したようなもの。

 その点を追及しようとする私に、伊吹さんは白い歯を見せて薄く笑った。

「私が自白した。なんて思ったか? 残念だけど違う」

「なら、どういうことなのかしら……」

「あんたとのおしやべりにも飽きたってことさ」

 伊吹さんはしゃがみ込むと、両手を使って地面を掘り始める。

「は、くっ……」

 私は強烈な眩暈めまいと吐き気に襲われ、思わずそばにあった大木に背中を預けた。

「随分体調が悪そうじゃない」

 こちらの様子に気がつき、ぶきさんが一度振り返った。けどすぐ作業を再開する。

「はあ……はあ……っ……」

 今まで極力呼吸を乱さないようにしてきたけれど、これ以上は無理だ。

 降りしきる雨を吸ったジャージが、私の体温を急激に奪っていく。

 横になりたい衝動を堪えるのが精一杯で、満足に顔を上げることもできなかった。

 ……体力のことを考えるなら、ここで仕掛けるしかない。

「伊吹さん。力ずくで調べさせてもらうことになるわ。それで構わない?」

 そんな風につぶやくと、土を掘り返す動作を止めた伊吹さんは立ち上がり近づいてきた。

「───力ずく? もっと具体的に言ってくれない? 暴力振るうってこと?」

「……最後の警告よ。素直に、返しなさい……」

 強い口調で私は伊吹さんとたいする。強引な手は避けたかったけれど仕方ない。

 こんな姿、誰にも見せられないわね……。以前、どうくんがある問題を起こした。Cクラスの生徒を殴り、学校を巻き込んでの裁判になった事件だ。あの時、私は降りかかってきた火の粉を払った須藤くんを断罪した。自業自得だと一度は見捨てた。

 その私が、今こうして暴力で解決しようとしているのだから、とんだお笑いぐさね。

「最後の警告か……分かった分かった。だったら好きにすれば?」

 彼女はかばんを地面に落とすと、両手を軽く挙げて降参のポーズをとった。

 ここへきて随分と素直ね。でも、観念した様子にも見えない。

 ただこの機を逃すわけには行かない。私はまず、鞄を確認しようと手を伸ばした。

 その次の瞬間、伊吹さんの細い足が私の顔に向け放たれた。

 もしも、という微量の警戒に救われた。

 私は後方へ飛び、りを避ける。

 跳ねた泥が防御姿勢をとった両腕に付着する。

「へえ。やるじゃん」

「暴力行為は即失格よ……」

「こんな場所で誰が見てるって言うんだか。それにおまえもやる気だったろ?」

 ニヤリと彼女が笑ったかと思うと、次の瞬間私は肩をつかまれ押し倒された。

 予期せぬ出来事に受身を取ることも出来ず、ぬかるんだ地面に倒れ込む。

「ちょっとの間寝ててもらえる?」

 真上から見下ろす彼女の顔は、既にまんしんそうの私にはぼやけて見えてしまっていた。

 胸倉を掴まれ上半身を引っ張りあげられると同時に、伊吹さんはこぶしを握り締めた。

 それをまともにもらえば意識は寸断される。私は流すように払い地面を転がって脱出した。

 必死に上半身を起こそうと、どろどろの地面に手をついて起き上がる。

 私は初めて武道をやっていて良かったと思った。

「へえ? 意外と動けるじゃない。何かやってた?」

 慌てることもなく、感心したようにぶきさんは値踏みするようにこちらを見た。

 こちらに武の心得があると瞬時に見抜いた彼女もまた、並みの使い手じゃないということね。この状況を最悪と言わずして、何と言えばいいのか。

「全く……この試験、私は失態ばかりね」

 私は何一つDクラスに貢献していない。それどころか、体調が悪いくせにしゃしゃり出たせいで、懸命に頑張るDクラスの足を引っ張ろうとしている。

 最初から伝えておけばよかった。気分が優れないからリーダーは別の人にお願いしたいと。あるいは拒絶すればよかっただけなのに。それをプライドが邪魔して許さなかった。

 大勢をバカにして、役立たずと罵って来た自分が何の役にも立たないのが嫌だった。

 はは……。心の中で、私は乾いた笑いを漏らした。

 私が、こんな風に自分に言い訳をすることなんて、今まであっただろうか。

「あなたでしょう……? キーカードを盗んだの」

 追撃を加えようとしていた伊吹さんの動きが止まる。だけど、すぐに距離を詰めてきた。

 右腕からの攻撃と見せかけた、高く速いり。

 それを避け、私は反撃に転じようと腕を伸ばした。瞬時に危険を察知した伊吹さんはその手を避ける。そして次の攻撃へと切り替え、目まぐるしい攻防を強いられる。

 足場が悪い中、それを苦にしない足運びは熟練のそれを思わせる。おまけに相手を傷つけることへの躊躇ためらいも一切見受けられない。

 この状況を楽しむように、伊吹さんは白い歯をこぼすように笑った。

 こんな形で彼女が大きく笑うところを見ることになるなんてね。

 動き回ったせいで、強烈な寒気と吐き気に襲われる。立っているのもやっとの状況だ。

「ここまで頑張ったご褒美に真実を教えてやるよ。カードを盗んだのは私だ」

 伊吹さんはポケットに手を突っ込むと、ゆっくりとカードを取り出した。

 こちらに向けた表面には、私の名前がしっかりと刻印されてある。

「……ここに来てあっさり認めるなんてね」

「認めても認めなくても関係ないところまで来たからな。私から暴力を振るった証拠はない。学校側に正しいジャッジを下すことなんて絶対に出来ない。そうだろ?」

 その伊吹さんの読みは当たっている。この状況を学校側が察知できるようは皆無。

 伊吹さんも私と同じ結論に至っていた。

 ここで私が一方的にやられたとしても、伊吹さんは幾らでも言い逃れが出来る。私が訴えたところで、両成敗されておい。損をするのはポイントを有するDクラスだ。

 でも、キーカードさえ取り戻せれば僅かながら助かる可能性はある。

 確実な証拠を押さえることで、Cクラスに非を認めさせるしかない。

 キーカードには指紋が残っている。盗まれたと正当性を主張できるチャンスはある。真実を明るみにするためなら、学校側も徹底的に調べ上げてくれるかも知れない。その望みを捨てるわけにはいかない。

 だけど、次のアクションでぶきさんを制圧できなければキーカードは取り返せない。これだけ大胆な行動を取る彼女がバカだとは思えない。持ち去られてしまえばカードは永久に見つかることはないだろう。そうなれば、られた盗ってないの押し問答になるだけ。

 こちらからは、もう駆け出して詰め寄るだけの元気は無い。おまけに握りこぶしを作るだけの体力もなかった。すべて向こうの力を利用させてもらうしかないわ。

 伊吹さんには急ぐ理由があるのか、それとも私を過小評価しているのか、地を駆け攻撃を仕掛けてきた。一方的な狩りを楽しむハンターのように。

 視線が一瞬私の足元を見た。けどそれはフェイク。下半身に意識を集中させておきながら、彼女は迷わず顔に向け、最小限の動きで右こぶしを振るってきた。ぎりぎりまで引き付け髪をかすめるほどの近距離で攻撃を避けると、彼女の勢いを活かす形で背中にわずかばかりの力を加えた。倒すまでには至らないまでもバランスを崩した伊吹さんの腕を取ろうとするが、彼女もまた瞬時に状況を把握し私の腕をすり抜けた。

 力と速度を利用しようとしていたことを見抜いていたんでしょうけど、私も避けられることは想定していた。最後の力を振り絞って、私は左こぶしを彼女のみぞおちにたたんだ。

「は───!」

 呼吸できなくなった伊吹さんが、苦しむようにその場でひざをついた。でも、それと同時に私の体力も限界に達し、ぐにゃりと視界が歪んだ。追撃が出来ず頭を押さえた。

「最悪……もう、限界ね……」

 無理して激しく体を動かしたせいで、体調は絶望的なほどに悪い。

 だけど、ここで倒れるわけにはいかない。私の一撃は浅く、倒すには至らなかった。

「分からないな……。私はてっきり、おまえが一枚んでると思ったんだけどな」

 伊吹さんは泥だらけの顔をぬぐいながら立ち上がる。

「噛んでる? 何のこと……?」

 話すかどうか一瞬迷った様子を見せた伊吹さんだったが、やがてポツリと漏らした。

「マニュアルを燃やしたのは私じゃないってことだ」

「……ここに来てまだうそを重ねるつもり?」

「あんなものを燃やして私に何の得があるって言うんだ? あの火事の騒ぎで再び犯人探しが始まることは必至。いずれ私を強く疑いだす。百害あって一利なしだろ」

「それは───」

 確かに伊吹さんの言う通りだ。彼女は火事が起こる前にキーカードを盗んでいた。

 わざわざマニュアルを燃やしてあおるようなことをする必要はない。

 じゃあ、誰が───? マニュアルを燃やすことに意味なんてあるの?

「私が回りくどくおまえと話してたのも、それを確かめるためだったんだけどな。どうもおまえは違うみたいね。でも、それはそれで腑に落ちないっていうか。Dクラスにいると思う? おまえよりも先に、私の犯行だって気づけそうなヤツ」

 わかるわけないか、とぶきさんがため息をついた。

「っ……まさか……」

 私の脳裏にある人物の姿が浮かんだ直後、視界から伊吹さんが消えていることに気づいた。次の瞬間、鈍器で殴られたような衝撃が私の頭部を襲うと、強く突き倒される。

「お喋りは終わりだ」

 無意識下で起き上がらなければと手をつくも、その手を伊吹さんの右足が軽く払うだけでまた私は成すすべなく再び倒される。

 伊吹さんは私の前髪をつかむと、グッと引っ張り上げる。

「は、離しなさい……」

「悪いな。私も色々立て込んでるんだ」

 フッと軽く振りかぶった右からのビンタが私のほおねらう。思考も体も限界だったけれど、それでもこのままやられるわけにはいかない。掴まれた前髪の手を振り払った。

 そして不格好な動きで立ち上がり距離を取ろうとする。

 でも足がもつれ、力尽きるように地面へと再び崩れてしまう。

「こんな強引な方法が、許されると思っているわけ……?」

「さあ。答える気は無いな」

 距離を詰めると、彼女は高く足をあげ私の顔にりを繰り出してきた。

 何度自分自身で繰り返しただろう。私は……大きなあやまちを犯した。

 一人でミスを取り返そうとして、取り返しのつかない状況にしてしまったのだ。


    9


 完全に意識を失ったほりきたを見下ろし、私はその場で大きく深呼吸した。

 これほどごわい相手は久しぶりだ。

 もしコイツの体調が万全だったなら、どちらが勝ってもおかしくなかった。

 それほどにこの女は強かった。

 再度作業を開始し、程なくしてビニールに包まれた懐中電灯と無線機を掘り起こした。

 出来ればこれを使わずに済ませたかったんだけどな。

「なんだ……?」

 地中に埋まった2つを取り出した直後、私は不可思議な感覚に捕らわれた。

 原因は分からない。ただ、何となく自分が埋めたときと少しだけ状況が違う気がした。

「雨のせい、か……?」

 考えすぎだろうと思い、私は無線機を使う。そしてどこかで連絡を待っているであろうあの男に現在地を伝え、体を休めるよう座り込んだ。

 それから30分ほどっただろうか。視界の先で懐中電灯の明かりが光った。2度、3度。それはモールス信号のように規則正しい。私は足元の懐中電灯を使い同じように合図を送る。互いが共鳴しあうように導きあい光は強くなっていく。

 そして見たくもないムカつく顔、りゆうえんが姿を見せた。

「よう。ご苦労だったなぶき、上出来だ」

「……当然でしょ」

「当然? おまえがヘマしなきゃここまで足を運ぶリスクは取らなかったんだよ」

「仕方ないだろ。デジカメが故障するなんて想定外だったんだ」

 そう。デジカメさえ壊れなければキーカードを撮影してそこで終了。確実な証拠が手に入った。無線機を使って龍園を呼び出す必要もなかった。だけど結果として、大きなリスクを抱えてカードを持ち出すことになり、ほりきたに私の正体が知られることにつながった。

「で、カードは?」

「ここにある」

 ポケットからカードを取り出し、それを龍園へと渡した。龍園は懐中電灯でカードを照らし、『ホリキタスズネ』と彫られた名前をしっかりと確認する。

「お前もこっちに来て確認しろ。元々はテメエが要求した条件だぜ。安心しろ、この天候とくらやみだ。誰もいるはずがない。用心するのは結構だが時間を無駄にするな」

 物陰から姿を現す男。それはAクラスのかつらという男だった。

 冷静沈着で堅実を重んじるタイプ。ウチのリーダーとは真逆の男。

 私は平静をよそおったが、内心龍園の恐ろしさを再認識せずにはいられなかった。

 この試験が始まった直後、龍園は私に対してAクラスを丸め込むと言っていたが、コイツは本当にそれを実行したということだ。一体どうやって……。

 葛城は龍園から堀北のカードを受け取ると、その肉眼でしっかりとカードを確認する。

 偽造などこの無人島で出来るはずもない。

「本物のようだな」

「これで納得したか?」

 確実な証拠を提示されたにもかかわらず、葛城は険しい表情を変えなかった。

 慎重な男だって話は耳にしていたけど、ここまでくると一種の病気だな。

「しかしよくDクラスに潜入できたものだ。疑われなかったのか?」

「普通にやれば疑われる。ま、どうやったかは企業秘密だ」

 私は無意識のうちにほおでる。Dクラスにスパイ活動をする作戦が出た時、りゆうえんは私をひっぱたくことでうそを真実に変えた。痛みもそれに対する憎悪もすべて本物。

 当然、Dクラスの生徒は殴られて追い出されたのだと勘違いする。

 もしも私がをしていなければ、ああもすんなりは入り込めなかっただろう。

「いつまでも考え込んでんじゃねえよ。白か黒かの判断くらい出来るだろ。それにお前はもう半分俺たちに体を預けている状態だ。ここで引き下がる間抜けだけはするな」

「……そうだな」

 そう答えたものの、納得するには至っていないようだった。その様子を見ていた龍園はいらつよりも、獲物に襲い掛かるような笑みを浮かべこうささやく。

「ここで大きな手柄を立てないでどうする? おまえが生徒会に立候補して落ちたうわさが広まって以降、さかやなぎ派が優勢なのは知ってんだぜ? 今がチャンスだろ?」

「貴様……なぜそれを」

「手を組むことでAクラスは磐石の地位を手にする。そうなれば、寝返った連中だってお前の傘下に戻ってくるだろ? それとも俺を敵に回すか? そうなればどうなるか……」

 かつらは悪魔と契約を交わしたわけじゃない。ただ交渉しただけに過ぎない。でもその考えが甘い。悪魔と対話してしまったが最後、それは強制的な血の契約につながる。

「坂柳が不在の今しかない。ここで決断できないヤツにAクラスの統治は無理だ」

「……約束通りこちらも交渉成立だ。お前の提案を受け入れよう」

 葛城はそう言って龍園に対し手を差し伸べた。龍園は答えず不敵な笑みだけ浮かべる。

「それでいい。お前は正しいジャッジをした」

「ちょっと、交渉って何。私にも詳しく聞かせてもらえる?」

 こいつらがどんなことをしようと勝手だけど、内容を知る権利は私にもある。Aクラスを目指すうえで、本当に龍園につくことが正しいのかを判断しなければならない。

「手を組んだんだよ、Aクラスとな」

「俺は帰らせてもらう。長居してリスクを上げたくないんでな」

 葛城は、そのカードを私の手元に戻してきた。そして一人やみの中に消えていく。

「それで交渉って? その内容は? 見返りはなんなわけ?」

 空が雷雨で白く光り輝くと、直後海の方角に轟音と共に雷が降ってきた。龍園はピクリとも反応せず、ただただ不気味な笑みを浮かべ私に契約の内容を語る。

 その内容は複雑で単純なものじゃなかった。だが、通常の方法では苦労に苦労を重ねても達成が困難であろう、大きな見返りが約束されていた。大半の生徒はリタイアし、船で休日を満喫しているという試験開始前は想像もつかなかった状況も含め、何もかも龍園のねらい通りに動き出している。こいつのことは死ぬほど嫌いだけど、やはりAクラスにもっとも近い男だ。私はそれを再認識した。

「けど……かつらが約束を守り続ける保証はあるわけ? いずれにされるかも」

「当然その点はカバーしてある。あいつは絶対に約束を守らざるを得ない」

 私はほりきたのもとへ歩み寄り、しっかりと指紋を拭き取ってからキーカードをその手に握らせた。この女に出来ることは何もない。Cクラスにリーダーを見抜かれていると知りながらも、試験終了までただ黙って耐えるしかない。この1週間Dクラスを観察していたからこその確信。この女は誰のことも信用していない。キーカードが盗まれたと知った直後も、クラスメイトに報告する素振りもなかった。唯一あやの小路こうじには心を開いているようだったけど、あの男もまた孤立型。付け加えて無能も合わされば脅威でも何でもない。それにキーカードがあれば、自らの失態でリーダーを見抜かれたことがDクラスにバレずに済ませられるかも知れない。

 この女の性格はある程度把握してる。我慢強く強情。他人の意見を聞き入れないタイプだ。つまり、どれだけ苦しくても残り時間を耐え忍ぶだろう。

「せいぜい賢い頭を使って、自分を守ることね」

 そして私たちはくらやみの中、森の中に静かに溶け込み姿を消した。


    10


 駆け足でれた地面をぶきの後を追う。ひとつ厄介な問題は天候だ。天候次第では足止めをらう可能性もあるし、事故に巻き込まれる可能性もある。それに思ったよりが沈むのが早く、懐中電灯なしでは突き進むことが困難になり始めていることも不安ようだ。雨足はいっそう強くなり、だんだんと風も激しく吹き荒れ始めていた。

 悪いことばかりの空模様だが、利点も無いわけじゃない。

 大粒の雨で視界は数メートル先ほどしか確保されておらず、一本わき道に入れば迷い込んでしまいそうだったが、雨のお陰で二人の足跡がぬかるんだ地面に残っているので、それを追うだけで済むのは楽だった。そんな二人の足跡が突如として途切れる。いや、途切れたのではなく、より深い森の中へと続いていたのだ。鋭角に進路が変わっていることから、迷い込んだのではなく意図的に森の中へ足を運んだということだ。

 懐中電灯で、森の奥に向け光を当てると、二人の足跡はどんどん奥へ入っていた。

 わざわざ危険な森の中へ足を向ける理由なんて、どこにもない。念のため浜辺に続く正規のルートを先の方まで照らしてみるが、やはり足跡はなく地面は綺麗だった。

 前髪から垂れる雨を一度手で払い、オレは足跡を追い森の中に入る。

 当然視界はいっそう悪くなる。もはや夜になってしまったと言っていい。不気味な雰囲気さえ漂ってくる暗い森を、二人の靴跡だけを頼りに突き進んで行く。

 30メートルほど前進しただろうか。一瞬視界の先に明かりが差し込んだ気がした。

 オレは即座に自らの持つ明かりを消し息を潜める。ジッとその灯りの方角を見つめると、また、一度、二度と灯りが見えた。懐中電灯だ。それはまるで合図を送りあっているかのよう。ぶきほりきた? いや、それはない。伊吹はともかく堀北は明かりになるようなものは何も持っていないはずだ。オレはその光に向かって静かに足を向け距離を詰めた。

 雨の中小さな雑音のように聞こえてくる人の声を耳にし、オレは姿を隠す。

 そこに誰がいるのか、何を話しているのかはさいなことだ。問題なのはオレが見つかること。それさえなければ状況の把握は二の次だ。

 それから程なくして懐中電灯の明かりが遠ざかっていく。どうやら終わったらしい。

 念のため警戒しながら近づいていく。するとそこには……。

 大木のそばで、事切れたように意識を失い倒れた泥まみれの堀北の姿があった。

 力なく崩れた手の近くにはキーカードが1枚落ちている。

 傷ついた体に、掘り返された土の跡。

 状況から見て、伊吹以外の存在にも堀北がリーダーであることを知られたということが確定した。キーカードを拾い上げた後、堀北を抱き起こす。

「ん……っ」

 抱き上げられていることに違和感を感じたのか、かすかに声を漏らすと、ゆっくりとだが確実に堀北は弱々しく目を開いた。

「気がついたか?」

「あやの、こうじくん……?」

 自分の状況を理解できていないのか、ボーっとした一言を漏らす。

「っ……頭、痛い……」

「相当熱が出てるからな。無理しないほうがいいぞ」

「そうか……。私、伊吹さんに……でも、どうしてあなたがここに……」

 寝てろと言ったのに堀北は熱が上がりそうな勢いでアレコレ思考を巡らせていた。

 そしてちょっとずつ状況を理解し始める。

「やっぱり……私のキーカードを盗んだのは伊吹さんだったわ」

「そうか」

「……私には、もうどうくんたちをバカに出来ないわね」

 醜態をさらし、どうすることも出来ない事態を嘆くように目を閉じた。

「24時間隠し続けられるような試験でもないだろ。どうしたってすきが出来る」

 フォローしたつもりだったが、それが余計傷心中の堀北を落ち込ませてしまったようだ。

「誰かに頼ることを知っていたら避けられたことね……」

 本気でリーダーの正体を守り通したかったなら、心の底から信用できる仲間を頼る必要があっただろう。そうすれば言葉通り24時間体制でカードの存在を守り通せた。

 しかしほりきたにはそれが出来る友達が一人もいない。

 情けない、と自分に繰り返し小さくつぶやいていた。

「意識を失っていた時、りゆうえんくんの声を聞いた気がしたの……。おかしいわね、彼はもう、とっくにリタイアしているはずなのに……」

「意識を失ってたんだ。多分夢でも見たんだろう」

「夢だとしたら、もっと最悪ね……」

 龍園の声を聞いた気がした、か。眠って意識がなくなっていても、脳は自分で自分を起こせるようになっている。無意識のうちに龍園の声を拾っていても不思議ではない。

「ごめんなさい……」

 オレが無言で考え込んでいると、堀北は謝罪の言葉を口にした。

「なんでオレに謝るんだよ」

「それは……あなた以外に謝る人がいないから……」

 うーむなるほど。なかなか考えさせられる一言だ。

「悪いと思うなら、今後は信頼できる友達を作ることだな。まずはそこからだ」

「それは難しい相談ね。……誰も私のことなんて相手にしないもの」

 そんなあきらめきった自虐に、むしろ兆しのようなものを感じ取ったオレは笑った。

「笑われても仕方ないけれど、バカにされるのは不愉快ね……」

「いやそうじゃない。お前の中でも仲間が必要だと感じ始めてるんだと思ってな」

「誰も、そんなこと言ってないわ……」

 いつものほりきたなら、相手を侮辱するなりするはずだが、今回の発言には別の意味が含まれていた。自分自身を咎める意味が言葉に含まれていた。

 でなければ『私のことなんて相手にしない』なんて言い回しはしない。

 それでも簡単じゃないよな。今までずっと突き進んできた道を器用に変えられるなら誰も苦労しない。堀北のうつろな目はオレを見ているというより、オレを通し他の誰かを見ているようにも見えた。

「そんなこと、ずっと前から分かっていたはずなのに……」

 世の中は一人で生きてはいけない。学校も社会も、大勢の人間がいて成り立つものだ。

「もうしやべるな。病人なんだぞ」

 大人しくしているよう説き伏せるが、堀北はざんを止めなかった。

 だが、堀北には誰かに頼るという選択肢はない。見えているのに選べないのだ。

「私一人の力で、Aクラスに上がってみせる。この失敗は必ず取り戻して見せる……」

 力なくオレのそでつかみ、そう訴えかけてきた。

「クラス全員から恨まれる覚悟は出来てる。……それだけのミスをしたんだもの」

「この学校のシステム上、一人で戦ったってAクラスには上がれない。どうしてもクラスメイトの協力が必要だ。それは避けられないことだぞ」

 目を開けている体力もなくなってきたのか、堀北の瞳は閉じられてしまった。

 堀北のオレの袖を掴む手の力はかすかながらも、力強さを感じさせた。

「認めるわけにはいかないのよ。どれだけ厳しくても、それでも……私は一人で……」

「あーうるさい。もうしやべるな。病人が一人でなにを言っても説得力は皆無だ」

 オレは抱き上げた堀北を少しだけ強く抱きしめる。

「おまえは重責には耐えられない。そんなに強い女の子じゃない。残念だけどな」

「なら私に諦めろというの? Aクラスに上がる夢を、兄さんに認めてもらう夢を」

「誰もそんなことは言ってない。諦める必要もない」

 胸の中で小さく苦しむ堀北を見下ろし、こう言葉を付け足した。

「一人で戦えないなら、二人で戦えばいい。オレが手を貸してやる」

「どうして……? あなたは、そんなこと、言う人じゃない……」

「さあ、どうしてだろうな」

 オレは答えず言葉を濁す。程なくして力尽きた堀北は、再び意識を失った。

 今しなければならないことは、誰にも悟られずにこいつを運び出すこと。リタイアさせるのは簡単だが、腕時計の非常ボタンがどんなものなのかが分からない。

 もしもヘリが緊急出動しようものなら、辺りには風を裂く音が響き渡るだろう。

「っと……道を間違えたか……危ない危ない」

 小道に出ればと願いをこめて進んでいたが、残念なことに傾斜のきつい崖に出てしまった。あと一歩踏み込んでいたら転がり落ちていただろう。

 下の方を照らしてみるが、どうやら10メートルほどあるらしい。残念ながら見当違いの方向を歩いているようだ。とにかく元来た道を引き返すか。

 ほりきたに負担をかけないようゆっくりと反転しきびすを返そうとした、その直後───。

 足場の土が不運にも崩れ、体がバランスを崩した。ひとりであれば踏ん張るなり木を掴むなり出来たが、残念なことに両手は堀北を抱えてふさがっている。落ちることは避けられない。堀北をかばおうと咄嗟に体を丸めるが、成すすべもなくきつい傾斜を転がり落ちて行く。

 数秒間、オレは意識が飛んでいたのだろうか。落ちきった直後の記憶がはっきりしない。

 ともかく堀北がをせずに済んだのは幸いというべきか。

 傾斜を見上げるが、堀北を抱えた状態ではとてもがれそうにない。

「……しくじったな」

 だが、今はここで立ち往生している場合じゃない。

 意識を失った堀北を今度はおんぶし、真っ暗な森の中を懐中電灯一本で進んでいく。

 体に打ち付けてくる雨が容赦なく体力を奪いに来る。何より背中の堀北から伝わってくる熱は尋常じゃない。これ以上雨にさらされるのは危険だ。

 しかしここは森の中。運よく人が入れるようなどうくつや、人工物があるわけではない。

 なら、あとは自然の力に頼るしかないだろう。

 幸い木々は生い茂っていて、場所によっては比較的体がれずに済む場所もある。周囲でもひときわ大きな大木を探し、その真下へと身を寄せる。もちろんすべての雨をしのげるわけじゃないが、それでも生い茂った葉っぱが多くの雨を防いでくれていた。

 そっと堀北を降ろし、横にする。ジャージが汚れてしまうのはこの際我慢してもらうしかない。オレはその場に座り、堀北の頭をひざの上に乗せた。

 これで周囲が涼しければまだ救いがあるんだが、湿度が高いせいでジメジメして暑い。

 体調の悪い堀北は寒いと感じているのか時折身をちぢこませるようにして震えている。

 少しでも負担が軽くなればと、オレは胸に堀北を抱き寄せ、ただ静かに時を待った。

 どれだけ時間が経過しただろう、荒い息を繰り返しながら堀北が目を覚ます。ボーっとしているせいか自分が置かれている状況をく理解できないようだった。

「どうして、あなたが? ……私は……?」

 一時的に錯乱しているのか、少し前のことが思い出せないようだった。

 オレはことの経緯を説明する。それを全て理解できたかは少し怪しいところだ。

「そうだった……思い出したわ」

「それは良かった」

「どうかしら。失態も思い出したから、最悪かも」

 そんな自虐ネタが口に出来るなら、ひとまずは安心だ。

「もうそろそろ6時だ。ほりきたつらいと思うがリタイアするべきだ。体が持たないだろ」

 今まではギリギリ装えて来たかもしれないが、これ以上は不可能だ。

「それは出来ない。私のせいで30ポイントも失うわけにはいかないもの……。私はかるざわさんたちに強く当たったのよ? バカみたいじゃない……」

 体調不良に対するペナルティは重い。ポイントだけで言えば、軽井沢が個人的に利用したものよりも多い。悔しそうに腕を自分の目の上に置いた。それは潤んだ瞳を隠すためか。

「それだけじゃない……私はキーカードを盗まれてしまった。わかるわよね……?」

「Dクラスは更に50ポイントを失うことになる」

 堀北が小さくうなずいた。そうなれば、もうDクラスに残されたポイントはわずかだ。

「私を置いてあなただけでも戻って。そうすれば、ひとまずは私の点呼不在だけで済む」

「それでどうするつもりだ」

「明日の朝までに……何とか一人で戻ってみせる。点呼のときだけ不調を我慢すれば、きっとリタイアは何とかなる」

 それで、マイナス5ポイントで済ませる。そういうねらいだろう。

「そんなにこの状況は甘くない。お前は今相当弱ってるし、演技で乗り切れるほど担任も優しくない。何より、自力で戻ってくることも到底無理だ」

「それでも、そうするしかないの……。Dクラスにポイントを残すためよ」

 キーカードの件は抜きにしても、点呼とリタイアに関してはポイントを守れる可能性はある。それが小さな数字じゃないことは確かだろう。

「行って」

 弱りきった堀北だが、言葉の奥に宿った意思のようなものには不屈の闘志を感じさせた。

 自分が足を引っ張ることは我慢できても、他人を巻き込むことは我慢できないらしい。

 こちらが黙り込んでいると、ふらふらのまま体を起こし、頭を大木へと預けた。

 私のことはほうっておけ、ということだろう。

「じゃあ遠慮なく置いていくぞ。このままじゃクラスメイトから責められるからな」

「……ええ。それが正しい判断よ。すべての責任は私にあるわ」

 冷たいオレの決断に対しても、的確だと褒める堀北。弱りきった自分自身を恥じるのみだった。震える体を抱きしめ寒さに耐える。人に頼れない性格も難儀なもんだ。

 まだまだ天候は荒れ模様で、雨風が収まる様子はない。

「明日の朝、本当に一人で戻ってこれるんだな?」

「ええ……大丈夫」

「……堀北。この状況でリタイアしないことが、正解だと思うのか」

 オレは余計なことを口走った。

「当然でしょう……。リタイアの選択肢は、私にはない」

 不屈の闘志を燃え上がらせるのは勝手だが、それで負けてちゃ何の意味もない。

「なあ。どうして今絶望的に追い込まれているんだと思う」

「……私の怠慢が招いた、失態。それだけ」

「違うな。まるっきり違う」

 ほりきたすずは自分なりに精一杯戦った。そして、無難に試験を終えようとした。

「……行って……あなたを仲間だと思うからこその、私のお願いよ……」

 そう口にした堀北は、ハッとしたように口元を押さえた。

「訂正するわ。……今のはなかったことにして」

「いや、そこが一番なしにしちゃいけない部分だとオレは思うけどな」

「いいの。私は、一人で……っ……」

 急に体を起こしたことは、やはり堀北にとって負担だった。苦しそうに目を閉じる。

「行って、お願い……」

 最後にそう言い残した堀北は、またも意識を失った。

 オレはそっと堀北を抱き起こし、少しでも楽な体勢にしてやろうと位置をずらした。

 そして立ち上がると、まだ収まることのない雨模様を見上げて息を吐いた。

「自分の意思でリタイアしてもらった方が、楽だったんだけどな」

 この強情なお姫様は、最後まで試験を投げ出そうとはしなかった。

 立派だ。そう、立派だと思う。おまえの考えも行動も、ほぼ正解だった。

 けどな、残念だが堀北、ひとつ決定的に間違っていることがある。

 今この瞬間だけ、本心で語ろう。


 オレはお前を仲間だと思ったことはないし、クラスメイトとして心配したこともない。


 この世は『勝つ』ことがすべてだ。過程は関係ない。


 どんな犠牲を払おうと構わない。最後にオレが『勝って』さえいればそれでいい。


 お前も、ひらも、いや、すべての人間がそのための道具でしかないんだよ。

 ここまで堀北が追い込まれたのは自分の責任じゃない。そうなるようオレが加担した。

 だから自分を責めるな。おまえはオレの役に立ったということだ。

 懐中電灯を照らしながら、ぬかるんだ道を進む。

 もう靴は泥だらけで、靴の中も水びたし。既に気にならない。まずは場所の把握だ。

 傾斜を下ったことで、Dクラスのベースキャンプ地から遠ざかったことは間違いない。

 でも、裏を返せば浜辺までの距離は間違いなく縮まったはずだ。

 数日間歩いた森の中を、頭の中の地図を頼りに進んでいく。

「やっぱり近かったか」

 やがて、オレは浜辺へと辿り着いた。海には船が浮かび明かりが灯されている。

 それから数分かけて元の場所に戻ってくると、力なくその場に倒れていたほりきたを抱き起こす。れいな顔が泥で汚れてしまっている。

 堀北を抱き起こすが、意識が戻る気配は全くなかった。

 オレは堀北を抱え、ベースキャンプの方角ではなく浜辺を目指して歩き出した。

 そして歩き続け、時刻は午後7時を回っていたが、何とか目的の時間内に辿たどりついた。

 教員たちの設置したテントも今は折りたたまれ風に飛ばされないようにされている。桟橋にかけられたタラップを上り、オレは船のデッキへと辿りついた。

 そこで教員の一人がこちらの存在に気づき駆け寄ってくる。

「ここへの立ち入りは禁止だ。失格になるぞ」

「急患です。彼女は熱を出して今は意識を失っています。すぐ休ませて上げてください」

 状況を伝えると、教師は指示を飛ばし担架を持ってこさせた。そこへ堀北を寝かせる。

「彼女はリタイアということでいいんだな?」

「それで問題ないです。ただ一つ確認させてください。今はまだ8時前ですから、彼女の点呼は無効ですよね?」

 時刻は午後7時58分。かなり際どいが間違いなくセーフのはず。

 ここで教師のげんを取っておかなければならない。

「……確かに。ギリギリそうなる。だがお前はアウトだぞ」

「分かっています。それともうひとつ、このキーカードをお返しします」

 ポケットから取り出したキーカードを教師へと手渡した。

「じゃあ、オレは試験に戻りますので」

 この場にとどまり続けるわけにもいかず、オレは雨が降りしきる中再び浜辺へ降り立つ。

 これでDクラスは、ほりきたのリタイアによって30ポイント、そしてオレの点呼不在で5ポイントを追加で失うことになった。

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