何度でも書く。羽生結弦となら、大丈夫だ。悪しき糸、共に断ち切らん… 『カルミナ・ブラーナ』 私たちは運命と共に、人間讃歌の善き心の中にある

日野百草 ファンしか知らない羽生結弦

目次

人の悪意が運命に作用する。神は人の心の写し鏡である。社会が乱れれば、神も乱れる

 運命が神の子としての天使、純粋無垢な羽生結弦青年を弄ぶ。

 人の悪意が運命に作用する。

 神は人の心の写し鏡である。

 社会が乱れれば、神も乱れる。

 運命を司るフォルトゥーナはローマ神話の女神、転じて女神はカトリックにおいて「天の女王」(あるいは天后・イエスの母であるマリア崇拝につながる)と呼ばれる。

 いま、運命の女神=天の女王、その名に相応しき巨星、大地真央が神の子の運命に、『羽生結弦 notte stellata 2024』に降臨した。

 大地真央という大女優の経歴はいまさらなので語らない。いや、偉大なものにつまらない注釈などはいらないのだろう。田中絹代、京マチ子、山田五十鈴と日本の歴史上の大女優はあるが、私たちは羽生結弦という時代を歩むとともに、この大地真央という時代も体感している。

大地真央という巨星を得て、羽生結弦が暗黒の刻をもがく

 それにしても大きい。羽生結弦もそうだが、その実際の背格好以上に大きく見えるのは優れた演者の証でもある。いわゆる「舞台映え」というやつだが、そんな言葉で収まらないほどに大地真央という巨星が羽生結弦の前に立ちはだかる。いや、もう彼女はすでに女神であり、「天の女王」であった。

 見えない糸が見える。

 運命の糸が見える。

 人と、定めとの葛藤、羽生結弦の四肢はそれほどに躍動する。バレエのそれと同様に、四肢が人を表現する。運命に祝福され、ときに弄ばれし人を。

 この、まさに神がかった表現力はどうしたことだ。大地真央という巨星を得て、羽生結弦が暗黒の刻をもがく。実のところこんなものは後づけでしかなく、私はただ固唾をのんで見つめるしかなかった。そこにあるのはアイスショウなどではなく、フォルトゥーナと青年の神話そのものであった。

 もちろん羽生結弦は「フィギュアスケート」という命題から決して逸れることはない。革新であっても、フィギュアスケートである必然性がそこにはある。突飛なミュージカル調と思う人はあろうが基礎と技術、そして繰り返すが、エッジの確かさこそが羽生結弦の革新を「フィギュアスケート」たらしめている。この舞踏の下は氷なのだ。氷であるはずなのに。

 ゆえに青年の翻弄される姿は危うく、だからこそ気高くそこにある。

そして純粋無垢な青年の心は、運命に打ち勝つ。運命に祝福される

 そして純粋無垢な青年の心は、運命に打ち勝つ。

 いや、私はあえて「運命に祝福される」としたい。

 それまでの禍々しさは消え、女神=天の女王は羽生結弦を祝福するかのように、さらなる楽園を創造する。

 私にはそう、天の女王=聖母マリアを思った。

 女神=天の女王、宗教学の話は置くが、私には「天の女王」であった。運命神はギリシャ神話のテュケからローマ神話のフォルトゥーナ、そして女神の名はローマ・カトリックの「天の女王」(天后・聖母マリア。聖母でなく「主の母マリア」とするプロテスタントでは否定的)となるが、羽生結弦を包み込むその笑顔を神々しい佇まいこそ、まさしくマリアであった。神の子は、神の母に祝福された。

芸術における「超越」は自己の魂だけではいかなる天才でもなしえない

 これまで羽生結弦のプロ転向(便宜上書く)後の新プログラムの数々には驚愕ばかりであった。しかしこの『カルミナ・ブラーナ』はさらに次元の違う立ち位置にあるように思う。アーティストであり、アスリートであり、エンターテイナーである羽生結弦の芸術性という意味で、その氷上舞踏芸術の進化という点で、極めて重要な位置を確立したと考える。

「音楽と共に滑り、踊る」というフィギュアスケートの形が産声を上げておよそ150年、ジャクソン・ヘインズによる現代のフィギュアスケートとアイスショウの原型はアイスフォリーズ、ホリデイオンアイス、ボリショイアイスなどの興行となり、そしてソニア・ヘニーやディック・バトン、そしてカタリナ・ヴィットといったオリンピアンたちがつないできた。

 その欧州文化がいま、日本の羽生結弦(すでに「世界の」だが)によって受け継がれ、さらなる進化を遂げている。私は「事件だ」と書いたが、歴史的にも『カルミナ・ブラーナ』は事件である。羽生結弦という系譜が誕生した、とでも言おうか。

 もちろんそうした芸術における「超越」は自己の魂だけではいかなる天才でもなしえない。善き魂のシンクロニティこそ超越を成し得る。大地真央という巨星は、羽生結弦をさらに輝かせる恒星であり、羽生結弦が月とするなら、大地真央はまさしく太陽=女神=天の女王=マリアであった。

その歴史の目撃者となれた、私たちは本当に幸せである

 私は『カルミナ・ブラーナ』を観ることができてよかった、その歴史の目撃者となれた、素直にそう思う。いやはや、そう思うしかないほどに「事件」だ。私たちは本当に幸せである。羽生結弦という存在と大地真央との邂逅、それもまた歴史の必然だった。

「おお、フォルトゥーナ」――それもまた見えない糸、運命の糸であった。私たちもまた時を置かず、羽生結弦という弦をかき鳴らそう。間違いなく、私たちは羽生結弦という運命と共に、人間讃歌の善き心の中にある。

 最後に何度でも書く。羽生結弦となら、大丈夫だ。悪しき糸、共に断ち切らん。

この記事の著者
日野百草

1972年、千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。国内外における社会問題、社会倫理のノンフィクションを中心に執筆。ロジスティクスや食料安全保障に関するルポルタージュ、コラムも手掛ける。2018年、評論「『砲車』は戦争を賛美したか 長谷川素逝と戦争俳句」で日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞を受賞。

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