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推し活とお金と愛について(未完)

前置き

この記事について、またその背景について

この記事を書いた2023年までの間に、世の中ではおそらくその消費喚起効果に目を付けたであろう広告代理店や経済界によって「推し活」が(肯定的なニュアンスで)社会現象として新聞にも載る程度に一般的なものになっていた。

一方2023年は後で振り返ったら「推し活ブーム」に対する転機になっているかもしれない年だった。

これまでそれとなく認識されていたジャニーズ事務所代表のジャニー氏(すでに故人)による所属未成年タレントへの性加害がBBCによる報道や国連の調査により看過できない事実となり、ジャニーズ事務所もその事実を認め、会社名の変更などを余技なくされた。さらに一般企業にもジャニーズ所属タレントのCM契約の解除・延長取りやめなどの反応が見られるようになる。それに対してSNS上などでジャニオタ(ジャニーズタレントを応援する人々)の中に性被害者への二次加害を含むような過激な反応が見られるようになり、当然ながらそうしたジャニオタの言動に対する風当たりも強まった。

またこうしたジャニオタが「金の話ばかりしている」(具体的にはジャニオタの購買力を背景としてジャニタレとの契約を更新しない企業の不買を呼びかける、被害者の会を金目当てと決めつけて罵るなど)と評されていたことも背景として付け加えておきたい。

こうした状況を呼び水として、推し活を"総括"し、その弊害について指摘する言説もSNS上に散見されるようになった。この記事はそれらを自分なりに整理する意図で書かれた、未完の記事である。未完だがこれ以上書き直す気がなくなってしまった。なお記事の著者は女性アイドルを推しているという点で推し活の当事者である。

この記事での用語の定義

  • 推し活:「推す」対象に関わる消費行動(CDやグッズの購入など)を指し、時に「過剰に消費する」という特徴を持つ(これを定義と呼ぶのは"この記事では推し活と呼ぶ範囲をこのように限定して議論を進めたい"ということなので、「お金のかからない推し活もある」という"反論"はしないでほしい)。

  • アーティスト:いわゆるミュージシャンの他にアイドルも含む。推しの対象としては区別する理由がなく、「アイドルやアーティスト」と書くのが面倒なため。

  • オタク:特に注意しない限りアーティストなどを推す人を指す。ヲタクと表記することもある。

  • 愛:広義に用いる。

この記事に書かないこと

  • ジャニー氏の性加害やジャニオタによる二次加害の是非についてはこれ以降文字数を割かない。非であることは明確である。

  • ジャニオタの一部の過激な言動が社会規範から明らかに逸脱していたこと、一方ですべてのジャニオタがそうだというわけではないであろうことはいちいちエクスキューズしないで、ここに一度だけ書く。

  • 社会問題化しているらしい、メン地下で身を滅ぼす少女たちの件は書かない。書くだけの知識がないため。

序:ブックオフで買いました問題

「ブックオフで買いました」と書籍の著者にいうのは失礼であるという、おそらくは古くから広く普及した考え方が存在する。

何故かというと、著作物使用料は新刊を購入するときにのみ著者に還元されるもので、新古書店での購入につかったお金は著作者の元へは行かないからだ。これ自体は単に制度上そういう仕組みであるというだけの話なのだが、それを著者に伝えるのは「あなたの著作を楽しんだがあなたに対してお金を払ってはいない」というメッセージになりうるためである。言い換えると、これは「ある娯楽を享受し愛しているならばその創作者にお金が行くような形の消費行動をとるべきである」という主張である。その対偶は「創作者にお金を出さないならば、その作品を愛してはいない」となる。

私はこの主張をあまり深く考えることなく受け入れていたが、最近一考に値する(著者側の立場で書かれた)意見を目にした。大意「消費金額の多寡と(作品への)愛は関係がなく、そうであるかのように語るのは推し活ブームの弊害である」というものである。

先に指摘しておくとこの主張には事実誤認がある。「推し時代」はとても若い。「推し」という用語が広く認識されたのはAKB48総選挙がテレビ中継されていた2011年前後(この年に新語・流行語大賞にノミネートされている)で、「推し活」は2021年頃から(同前)である。もし「推すこと」が一部の人だけのものでなくなったことを「推し時代」と呼ぶならばここ数年の話だろう。

「ブックオフで買いました問題」は明らかにそれより長い歴史を持ち、ネット上で繰り返し擦られてきた。いつから言われているのかを特定するのは難しいが、漫画家らが新古書店に係る問題意識により「21世紀のコミック作家の著作権を考える会」を発足させたのは2000年に遡る。つまりこのような発想自体は「推し」よりも前からあり、「推し時代」が原因になって現れたものではない。

それを指摘したうえで、上記の主張にはやはり一考の余地がある。他ならぬ愛について語っているからである。

"愛と金"の対立による推し活弊害論について

再掲すると「消費と愛は関係がなく、そうであるかのように語るのは推し活ブームの弊害である」というのがこのタイプの推し活批判である。この指摘は推し活弊害論の中で最も重要な類のものだ。そして答えは簡単であるように見える。愛は金ではない。そして浪費は明らかに悪徳である。他に何を言うことがあるだろうか?

推し活の三形態

これに答える前に、多分推し活を次の三つの類型に分類すると少し整理しやすくなるのではないかと思っている。もっともこの三種が数直線上に乗るような「程度」の問題なのか、このうちのいくつかは直交するものなのかどうかは整理がついていない。

  1. 自己完結

  2. 支援

  3. 依存

自己完結型の推し活

このタイプの推し活は、コンテンツを鑑賞したり、推しに関わるグッズやそれに類するものを身に着けたり、囲まれたり、眺めたりすることで心を充足させる。二次元に対する推し活は必然的にこれになるし、メジャーで手の届かないアーティストを推す場合もこうなるだろう。
変な言い方かもしれないがこれらの人々の消費は純粋である。消費行動と自己の幸せが端的に直結しているからだ。そして実のところこの種の消費行動は推し活ブーム以前から存在するものと大して変わらない。人々は以前から愛する洋服やアクセサリーやプラモデルを購入して幸せになっていたのだ。

支援型の推し活

インディーズやメジャーではないアーティストを推す場合、少し異なる事情がある。活動を持続するためには資金が要るのだが、普通彼らの資金は潤沢ではない。オタクとしては活動が終わってほしくないというモチベーションがある。そしてファンベースが小規模であるとき、自分の消費は推しの活動の継続に少なくない影響がある(かのように思えてしまう)。

このような関係での推し活は単にコンテンツから幸福を得るということの他に、「支援」という要素が強くなる。この点で推し活は推しに「生き残ってほしいための投票」に似ている(「推し」という言葉がAKB48総選挙とともに定着したことを思い出そう)。ただしその支援は何らかの形でアーティストに金銭的に還元されるやり方でなければならない(ブックオフ問題を思い出そう)。例えばライブに足繁く行ったりグッズを沢山買ったりというようなことだ。ここにおいて消費と美徳が結びつく余地が発生する。

(この後もうちょっと書こうかと思ったが未完)

依存型の推し活

(この項未完)

推し活において消費は美徳になるのか

(この項未完)

"知識対消費"の対立による推し活批判について

推し活弊害論には次のようなものもある。大意「昔のオタクは対象についての知識を溜め込むことによってオタクになったが、いまやお金を注ぎ込みさえすればオタクになれるかのようである。これは現代の推し活の弊害である」というものだ。

この論は「オタク」という言葉でたまたま一致する2つのものを並置させてしまった、誤った対立設定であるように見える。例えば「鉄オタ」とか「ガンオタ」というときの「オタク」(以下区別するときは「オタク_1」)は、「ジャニオタ」とか「ドルオタ」とかいうときの「オタク」(同「オタク_2」)とは異なる^{[1]}。オタク_1になることは対象にまつわる雑多で広い知識を収集することと結びついている。それは正しい。一方例えば「あるアイドル(グループ)のオタクである」というのは、概ねその対象を推しているということの言い換えに過ぎない。推すこと自体に大量の知識は要らない^{[2]}

オタク_2の台頭によってオタク_1が廃れたとか肩身が狭くなったという事実があればこのパターンの推し活弊害論にも根拠があるということになるのだが、別にそんなことはないように見える。そもそもオタク_1とオタク_2が対象とする分野はあまり重なっていない^{[3]} 。オタク_1の対象領域は「際限のない知識の供給源」であることが求められるのだが、オタク_2の対象はよほど歴史のあるものでない限り知識に圧倒的な差がつくことはない(そのような例を求めるとビートルズなどもはや推し時代以前のものになってしまう)。

さらにいうとオタク_1も、少なくともかつては知識を得るために身銭を切っていたのであり、その知識は消費と独立したものではなかった(「サブスクのリリースを隅から隅まで聴いて月1000円程度の消費で音楽オタク_1になる」のようなことが可能になったのは本当にごく最近のことである)。

最後に重要なことだが知識それ自体は愛ではない。相関がある場合は多いだろうが、知識は浅くても愛は深いことはありうるし、愛の深さを知識の量で計ることにも妥当性があるとは思えない。

[1] ドルオタがなぜオタクと呼ばれるようになったのか私は知らない。おそらく女性アイドルオタクのインセル的な属性が従来のオタクと符合したというだけのものであろう。

[2] 補足として特殊な例について言及しておく必要があるだろう。例えば吉田豪のような人は「アイドルのオタク」と言っていいような人物だと思うが、この場合の「オタク」はアイドル界隈全般について雑多な広い知識を持っているということ=オタク_1であり、どこか特定のアイドルを推しているという意味ではない。特定のアイドルでなく全アイドルの歴史とシーンを対象とするならばそれは「際限のない知識の供給源」になりうる。
現代においてリアルタイム世代ではないのに「80年代アイドルオタク」をやっているような人もオタク_1に近い。そのような人がやっているのはやはり知識とアイテムの収集である。

[3] ただしオタク_1とオタク_2の対象が重なりうる領域としてアニメの分野がありえる。しかしこれも作品によって分かれるかもしれない。

適正な対価論に基づく推し活批判について

推し活批判には次のようなものもある。大意「我々消費者はコンテンツやパフォーマンスへの適正な対価としてお金を払っているのであり、それを超えてお金を注ぎ込むのは歪んだ消費行動だ」というものだ。

こういうことを言う人はとても正くて賢明でまともそうに見える。どれくらい正しいかというと古典経済学における理想化された消費者くらい正しい。つまりそのような人は市場に流通するコンテンツについて、費やすコストに対して得られるメリットを計算することができ、代替となる別のコンテンツと比べて高かった場合は代替コンテンツのほうを選択するのである。問題は娯楽や芸術に対してそんな"合理的"な人が現実にいるのかという点だけだ。

また、このような主張を敷衍すると娯楽や芸術の価値は市場経済の論理によって決まり、価値が低いものは市場から淘汰されてよい(されるべきだ)ということになってしまう。これに同意する人はかなり少数派だろう。そして推すことはむしろそうした論理に対する抵抗とみなせるのである。

最後にこの論にはコンテンツの価値とお金のことしか登場しない。愛が入りこむ余地がないのである。

推しがキャンセルされることについて

ジャニオタの狂乱はアイドルの世界では殆ど前例のないこと、つまり「推しがキャンセルされる」ということをトリガーにしていた。加害的ジャニオタを批判していた人は勿論正しいのだが、それとは別に一度考えてみてほしいのは、「自分が心の拠り所にしている大切なものが社会規範によってキャンセルされるとき、自分はまっすぐ社会規範の側に立てるか」という問いである。

これに全く悩まずにイエスと答えられる人は、おそらく実際のところ大切なものがないのではないかと思う。それはそれで幸せであるかもしれない。
悩む人はジャニオタの反応があれだけ過剰だったことを、共感や同意はできないにしても、頭では理解できるだろう(もう一つ考えてみると面白いのは同じ問いを「社会規範の変化により」と変えてみることだ)。

あんな過剰な反応はジャニオタの幼稚さから来ており、自分はそんな風にはならない、と思う人は松尾潔氏^{[4]}に対して山下達郎の熱心なファン(の一部)がどのような言葉を浴びせたかを思い出すとよい。彼らは松尾を売名と決めつけ、山下達郎のセールスや集客が落ちていないことを強調して彼を嘲笑ったのであった。こうした言動は「山下達郎もキャンセルされてしまう危機感」を背景にしていたであろう。山下達郎のファンのボリュームゾーンは若くとも50代以上であり、いい大人と呼ぶに十分過ぎるが「推しのキャンセル」はそのような人も狂わせるだけのインパクトがあるのだ。

[4] 音楽プロデューサー/ライター。ジャニー氏の性加害問題について公の場で批判的発言をしたことによりジャニーズ事務所と関係の深い山下達郎の事務所との契約を解除され、その経緯を伝えるツイートで山下達郎の名を出したことで注目された。

推し活は人を幸福にするのか

(この節未完)

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