織田 信成(おだ のぶなり、ラテン文字:Nobunari Oda、1987年〈昭和62年〉3月25日[2] - )は、日本のフィギュアスケート選手(男子シングル)。大阪府高槻市出身。最終学歴は関西大学大学院文学研究科総合人文学専攻身体文化専修博士前期課程修了。学位は修士 (文学)[5]。関西大学アイススケート部前監督。兄はベーシストの織田信治。
主な成績に2010年バンクーバーオリンピック7位、2006年四大陸選手権優勝、2008年全日本選手権優勝、2005年世界ジュニア選手権優勝、2009年、2010年GPファイナル2位、2006年世界選手権4位など。
アマチュア引退後は、トラロックエンターテインメントに所属し、プロスケーター、スポーツ解説者、TVタレント、指導者などで活動している[4]。2017年4月1日付で母校関西大学スケート部監督に就任した[6]。
2019年9月9日、同日付で関西大学アイススケート部監督兼コーチを退任したことを関西大学が発表した[7]。
2023年12月現在、トラロックエンターテインメントのホームページのアスリートタレント一覧には記載されていない。
人物
大阪府高槻市出身。大阪府立阿武野高等学校卒業。卒業後は関西大学文学部英語英文学専修に進学[8]。2010年4月2日、関西大学学長表彰を受彰した[9]。同月22日、中学時代の同級生だった女性と婚姻届出[10]。10月1日、第1子の男児が誕生[11]。2011年3月19日に大学を卒業、4月から同大学大学院文学研究科修士課程に入学した[12]。 2013年1月5日には第2子の男児が誕生[13]。2015年3月23日に大学院を修了[14]。2016年11月7日には第3子の男児が誕生[15]。2019年10月、自身が出演する情報番組で 第4子の女児が誕生したことを報告した[16]。
祖父はアマチュア古代史研究家の織田重治。父・信義は大阪通管工業所の創業者で[17]、織田信長から数えて17代目の末裔(旗本高家の織田信高の系統)にあたる[18]と自称しているが、家系図が二代にわたり途切れている事から事実ではない(後述)。
織田信高の系統と海外でも紹介されているが[19]、これは家系図が二代にわたり途切れている事が伝えられていないからである。デヴィッド・ウィルソンが2004-2005シーズンのフリープログラムに『座頭市』は信長にちなんだという[20]。また、2010年1月には愛知県清須市の「清須越四百年事業」のPR役として信長も居城とした清洲城の名誉城主に就任している(任期は1年間)[21]。
涙もろい一面
非常に涙もろく、現役時代から人目憚らず号泣するシーンが数多い。2005年10月のスケートカナダでは、7位に終わったショートプログラム後に悔し涙に暮れたが、大逆転のフリースケーティング後には嬉し涙を流し続けている[22]。その後も、飲酒運転で摘発された際の会見でも涙を流して釈明し[23]、現役引退後には、損害賠償請求訴訟を提起してハラスメントを受けたと涙を流して主張した(結局そのような事実はなかった)[24]。
特に2005年12月のNHK杯では、初優勝が決まった瞬間にキス・アンド・クライでは大声をあげながら大号泣、母親コーチの織田憲子が笑いながらそれを宥める姿が全国に大きく放映され、織田を一躍有名にした。
他にも、2013年12月の全日本フィギュアスケート選手権で鈴木明子が28歳の最高齢で同大会初優勝を果たした時を初め、翌2014年2月開催のソチオリンピックで良きライバルだった髙橋大輔に中継で声を掛けた際、さらに浅田真央がほぼノーミスのフリーを滑りきった時や2017年4月に浅田の現役引退表明にコメントを求められた際、そして2018年2月の平昌オリンピックで羽生結弦が五輪2大会連続金メダル・宇野昌磨も銀メダル獲得のワンツーフィニッシュ達成時など、思わず泣き出す場面がテレビでそれぞれ放送されている。
その「泣き虫キャラ」がすっかり定着した織田は、2014年4月にフジテレビ系列「アウト×デラックス春の面会スペシャル」の放映出演時に、織田自ら「僕よく皆さんに『いい人ですね』って言われるけど、ただよく泣くだけ。全然良い人じゃない」などと泣きながら困惑。当番組の司会・矢部浩之が「もう泣き止みなさい」と親のように声を掛けると、織田は「だから僕は表舞台から消えたいんです…たとえコーチをしても大会には帯同しない」と、裏方に廻りたいと打ち明ける。その言葉に対してマツコ・デラックスが「ダメよ、あなたは表舞台に出る人なの!」と説得すると、織田は「そう言って頂けるのが凄い嬉しくて…もう本当に生きてるだけで十分なので」と余計に涙が止まらなくなっていた[25]。
シニアデビュー以降
2006年スケートアメリカより
2005-2006シーズンから本格的にシニア参戦。グランプリシリーズスケートカナダで3位、NHK杯では初優勝を果たし、本田武史、髙橋大輔に続く日本人男子3人目のグランプリシリーズ優勝者となった。トリノオリンピック代表がかかった全日本選手権では、初め優勝と発表されたものの、採点ミスが明らかになり2位に訂正される(詳細は第74回全日本選手権を参照)。この結果、代表選考ポイントでも僅差の2位となり、トリノオリンピック出場を逃した。年が明けてからは四大陸選手権を制し(同大会での日本人男子シングルの優勝者は本田武史以来2人目)、世界選手権でも4位入賞。日本男子シングル出場枠を1から2に増やした。また練習面で、体力面で他の選手に劣るという指摘を受け、松本整の下で筋力トレーニングに取り組み始めた[34]。
2006-2007シーズン、スケートアメリカで優勝し、NHK杯では髙橋大輔に次いで2位。2年連続で進んだグランプリファイナルでは銅メダルを獲得した。世界選手権ではSPで14位と出遅れたが、プログラムを『ミッション:インポッシブル』に変えて臨んだFSでは冒頭の3回転アクセル-3回転トゥループ-3回転ループから次々にジャンプを成功させて追い上げ[35]、総合7位に入った。同時に、髙橋大輔が2位になったため、2人の順位合計により、翌2008年大会の日本男子シングル出場枠は最大の3枠となった。2007年1月に開催された第62回冬季国体群馬大会スケート競技に出場し、SP・FS共に1位で優勝。
2007年3月の誕生日で20歳になったが、同年7月27日の未明、大阪府高槻市内でミニバイクの酒気帯び運転により警察に摘発された。織田は「前日に大阪市内で関西大学アイススケート部の顧問(同大学の学生センター長)などと酒を飲んだりサウナで過ごしたりしながら競技活動と学業の両立を相談した後に、『(自宅のある高槻方面への)電車で寝過ごして時間も経っていたので、酔いもさめた』という自己判断でミニバイクを運転していた」とコメントし[36]、涙の謝罪をした[23]。後に、道交法違反(酒気帯び運転)で略式起訴され、罰金10万円の有罪となった(略式命令)[37]。この摘発を受け、日本スケート連盟は、織田の大会への出場停止(国際大会5ヶ月、国内大会3ヶ月)と特別強化指定選手5ヶ月間解除の処分を通達し、スケートカナダやエリック・ボンパール杯への派遣を中止した[38]。この一連の問題に対しては、一学生の学業相談に際して、教授らがポケットマネーで酒やサウナを共にしたことに対しても、大学側の特別扱いとして批判が起きた[39]。飲酒運転に対する大学からの処分としては、社会的制裁を受けていることと河川敷清掃をしたことから、厳重注意に止まった[40]。復帰戦として注目された11月の西日本選手権は、「調整の遅れ」を理由に欠場。代わって12月の全日本選手権での復帰を予定していたが、開催直前に「過度の精神的重圧」などの理由で欠場した。[41]。これらにより、四大陸選手権・世界選手権の出場権利を得られず、年明けの各アイスショーにも参加しなかった。
2008年4月、ニコライ・モロゾフのコーチ就任を発表[42]。アイスショーにも復帰した。2008-2009シーズンが始まると、ネーベルホルン杯、カールシェーファーメモリアルと立て続けに優勝。国内でも西日本選手権を制し、グランプリシリーズ復帰戦となるNHK杯でも優勝。全日本選手権でも優勝した。世界選手権では、SPでフェンスに激突し、FSでジャンプの回数規定違反を犯しながらも、初めて4回転トゥループ-3回転トゥループのコンビネーションジャンプを成功させ総合7位になった[43]。同大会で6位だった小塚崇彦との順位合計が13となり、翌2010年バンクーバーオリンピックの出場枠「3」を辛うじて確保した。
バンクーバー五輪出場・7位入賞
2009-2010シーズン、エリック・ボンパール杯、中国杯とグランプリシリーズで連勝。グランプリファイナルでは2位と好成績を残しオリンピック日本代表に内定した。[44]バンクーバーオリンピックでは、SPでは4位と好発進だったが、FSで後半靴紐が切れたことによる演技の一時中断と、転倒による計3点の減点が響いて7位入賞に留まった(髙橋大輔が3位入賞・銅メダル獲得、小塚崇彦は8位入賞)。世界選手権ではSPですべてのジャンプに失敗し28位となり、FSに進めなかった。
2010-2011シーズン、スケートカナダ、スケートアメリカともに2位に終わる。グランプリファイナルではSPでは初めて4回転トゥループ-3回転トゥループのコンビネーションジャンプに成功し1位となったが、FSでは2度のジャンプの転倒があり3位。総合では2位となった。世界選手権ではSPで2位につけながらも、FSでまたもジャンプの回数違反を犯し、総合6位に終わった。
2011-2012シーズン、かねてからの左膝蓋骨靱帯炎の治療と、膝以外の使える筋肉を使ってのトレーニングを続けながら挑んだグランプリシリーズ初戦の中国杯では2位に入ったが、第2戦のエリック・ボンパール杯では7位と沈み、3年連続グランプリファイナル進出はならなかった。全日本選手権は左膝の故障のため欠場。
2012-2013シーズン、左膝の治療とトレーニングがほぼ完了。挑んだグランプリシリーズはスケートカナダ3位、ロステレコム杯5位となり、GPファイナル進出は叶わなかった。世界選手権代表をかけた全日本選手権では、SPでは転倒があり5位。FSでは4回転を決めたが、3回転アクセルの1度目で手をつき、2度目に転倒。総合で4位となり、世界選手権出場を逃した。2013年1月の第68回冬季国体(東京)に出場し、SP・FS共に1位で国体2度目の優勝。
2013-2014シーズン、ネーベルホルン杯ではSP、FSともに4回転ジャンプに成功。FSと合計スコアの自己ベストを更新し、2位に大差をつけ圧勝。スケートカナダでは、SPは2位発進するも、FSではジャンプのミスが響き、総合3位。NHK杯はSPは3位、FSは健闘し総合2位となった。GPシリーズ総合ポイントランキングは7位だったが、髙橋大輔が怪我により欠場したため繰り上げとなり、3シーズンぶりのグランプリファイナル進出が決定した。グランプリファイナルではSP、FS共に3位で、総合3位に入った。ソチオリンピック出場を懸けて臨んだ全日本選手権ではSP冒頭の4回転が3回転になるなどし、5位とやや出遅れた。FSではほぼノーミスの演技を行い3位と健闘したが総合4位に終わり、2大会連続のオリンピック出場は逃した。
現役引退後
2013年全日本選手権の終了直後、日本スケート連盟は2014年四大陸フィギュアスケート選手権(中華民国の旗 中華民国)の日本代表選手の一人として織田を選出した。しかし「(織田自身のコメントに拠れば)これからは若い選手に頑張って欲しい」という意向から、四大陸選手権の出場権を辞退(代替選出の選手は無良崇人。結果は優勝)。全日本選手権のエキシビション(12月24日)で演技を終えた直後、織田選手自身がリンク上からマイクを通じて、現役を退くことを発表した[45]。その後に開かれた引退会見では、「鳴かぬなら 泣きに泣きます ホトトギス」という自作の句を披露した。
現役を引退した直後のソチオリンピックの開催期間中、『FNNスーパーニュースアンカー』(関西テレビが平日の夕方に放送中のローカルワイドニュース番組)で自身初の「スポーツコメンテーター」を担当[46]。その後もスポーツ関連番組やバラエティ番組のゲストとして、自身現役時代の体験談や、ライバル・新旧の日本代表選手に関するエピソードを語る機会が多い。 2014-2015年シーズンの開幕以降は、スケート大会の実況解説者として活躍が増えている。
またアイスショーやレギュラー番組など出演の傍らで、メダルウィナーズオープン・フィギュアスケートジャパンオープンのプロアマ混合大会に出場。ジャパンオープン2016においては、4回転トウループ-3回転トウループのコンビネーションを成功させ、非公認ながら現役時代のパーソナルベストを超える178.72点の得点を出した[47]。
ジャパンオープン2018においても、4回転トウループ-3回転トウループ、更に3回転アクセル-1オイラー-3回転サルコウの難しいコンビネーションジャンプを決め、新ルールによりジャンプの回数が1回減っているにもかかわらず、現役時代のパーソナルベストを超える176.95点の得点を出した。
2017年4月11日、関西大学梅田キャンパスにて関西大学アイススケート部監督就任会見を行った。
2019年9月9日、「多忙が理由」との理由で大学側より関西大学スケート部監督の退任が発表された[48]。
2021年10月1日、YouTubeチャンネル「織田信成の“滑るけどスベらない”チャンネル」を開設。初回に配信された動画では、2013-2014シーズンの浅田真央のFSに自ら挑戦した[49]。
損害賠償請求訴訟
2019年9月に関西大学スケート部監督を退任したことについて、織田は同月29日の公式ブログで「リンク内で私に対して嫌がらせやモラハラ行為があり、その影響で今年春頃から体調を崩すようになった」と「多忙」による辞任を否定し[50][51][52][53]、10月14日の公式ブログでは織田側から見た経緯を説明した[54]。しかしモラハラを行ったとされる濱田美栄コーチは週刊文春の取材に対し、挨拶し忘れたことはあったかもしれないがモラハラは無かったと反論した[55]。
11月18日、織田は濱田に対しハラスメントを行っていたとして1100万円の損害賠償請求訴訟を求めて大阪地裁に提訴[56]、大阪司法記者クラブで代理人弁護士同席のもと泣きながら記者会見を行った。訴状によると、濱田の無視・陰口などの嫌がらせにより精神的な苦痛を受け、40度を超える発熱や筋肉の震えなどで3月26日~4月2日にかけて大阪・高槻市内の病院に入院、以降も恐怖や不安から身体の変調が続いていると主張している[57][58][59][60][61][62][63]。会見の席上では、弁護士が濱田に対する提訴のほか大学に対しても織田に対する救済措置を講じるよう求めたことを明かした[64]。19-20シーズン中の提訴となったことについては「シーズン前に解決したかった。シーズン中にこういうことになってしまったのは残念」と話している[65]。
関西大学は織田の提訴に対し「アイススケート競技がシーズンに入り、多くの選手が練習に懸命に取り組んでいる時期に提訴がなされたことは大変残念」とするコメントを発表した[66]。また12月10日には、同月6日に行われた選手の保護者説明会での要望があったとして、織田からの7月1日時点での申し出に対する調査結果を発表した。10月から11月にかけて織田側に調査結果を通知しており、織田の要求については「妥当ではない」と結論付けている[67][68]。
12月に行われた1回目の口頭弁論では、濱田側が織田の訴えは事実ではないとして請求の棄却を求めた[69]。翌2020年2月に行われた2回目の口頭弁論で、濱田側はこの訴訟が名誉を傷つける不法行為であると織田を反訴。モラハラの事実が無いにもかかわらず、織田が提訴し、記者会見を行ったことでメディアに大きく取り上げられ、濱田は精神的苦痛を受けており、330万円の損害賠償を求めた。3回目は4月予定が新型コロナウイルス感染症の流行の影響で8月6日に行われた。織田側は反訴状の訴えに対し「事実であるのだから名誉棄損では無い」として、証拠として濱田が選手や指導者に対し暴力や暴言を日常的に行っていることを指摘した。濱田側は「過激な言葉を使ったことはあるけれど、侮辱的ではなく、あくまでも指導の範囲内」であるとしている[70]。
2021年3月2日、2月末の第7回弁論準備手続きで双方が相手に求める和解案を提示することが確認されたため、双方への確認が無いままに裁判は和解に向かっていると報じられたが[71]、実際は双方が全面対立したまま、2022年12月1日に結審[72][73]。2023年3月2日の大阪地方裁判所の判決で「認めるに足りる証拠はない」として織田の請求は棄却された。濱田の反訴請求は一部認められ、織田は220万円の賠償を命じられた[74][75]。双方が控訴しなかったため3月17日に地裁判決が確定した[76]。
現役復帰
2022年11月1日、自身のYouTubeチャンネルにて、9月に日本スケート連盟に復帰届を提出し現役復帰したこと、また国民体育大会冬季大会の予選にエントリーしたことを発表した[77]。特別国民体育大会では総合9位となり、演技後に翌シーズン以降も現役を続行することを宣言した[78]。
2023-2024シーズンでは西日本選手権を優勝したが、日本アンチ・ドーピング機構(JADA)の規程により国内最高レベルの競技大会に出場する6か月前までに競技に復帰する旨を届け出て競技外検査を受ける必要があったにもかかわらず、復帰届を提出したのが7月であったために上位6人に与えられる全日本選手権への出場権を得られなかった。また、特別国民体育大会も本来であれば出場資格がなかったため、JADAは「規則に沿って対応を進めている」と説明している[79]。10月29日に自身のインスタグラムにて、7月に日本スケート連盟から登録期間を過ぎているので除外申請書を世界アンチ・ドーピング機構に提出してほしいと連絡があり除外申請書を提出したものの、8月末に却下されていたこと、日本スケート連盟の許可の下で西日本選手権に出場し、全日本選手権出場の可能性を探っていたが前日に日本スケート連盟から全日本選手権に出場できない旨をリリースすることを告げられたことなどを投稿した[80]。
2023年8月26日、全大阪2フィギュアスケート選手権に出場。今季、新たに挑むブノワ・リショーに振付をお願いした「エンジェルズ」でのフリー演技を披露し140.78点で2位となった[81]。
2024年1月29日・30日、北海道苫小牧市・nepiaアイスアリーナで行われた第78回国民スポーツ大会冬季大会に出場。ショートプログラムは78.09点の3位、フリーで148.16点の4位で、合計226.25点で3位となる。
家系詐称
織田信長の末裔と自称しているのは父親の信義で、信成本人の認識は「祖父が言っていたから」と話しているレベルであるが、過去には事実であるかのように自らテレビなどで自称する場合もあった。
この自称については「曽祖父から遡って4代が不明となっている」など不明な点が多く、証拠となるものは示されていない[94]。2014年7月時点で曽祖父である13代の名前を出すと共に、10代から12代を省略した家系図を公表しているのみである[95]。信成も家系図の空欄の存在を知っており、テレビ番組で述べている。
また旧柏原藩織田家の当主である織田孝一(織田信長の子孫ではないが家系上の末裔)によれば、大名となった各織田家の末裔[96]はどこも、信成がフィギュアスケート選手として有名になるまで信成の家系を認識しておらず、真に信長の末裔であるかどうかは判断できないという[97]。
下図の長裕までは信高流の系図『寛政重脩諸家譜』の抜粋であり、誰でも記載できる系図である[98]。説明のために記すが長裕以降を保証するものではない。
仮に系図が真実であれば、血統的には信長の七男である信高の17代目の男系子孫となるが、空欄がある家系図は成り立たないので男系子孫とは認められない。責任が本人にあるかどうかは別として家系詐称にあたる。