記憶の継承へ決意を新たに

列車転覆「浅海事件」から70年

2019年5月6日(月)(愛媛新聞)

 愛媛県松山市大浦の線路脇にたたずむ「殉難之碑」。1949年5月9日に起きた国鉄(現JR)予讃線の列車転覆事件「浅海事件」で犠牲になった乗員3人を悼み、61年に遺族や国鉄職員有志らが建てたものだ。事件は9日で発生から70年。地元住民や関係者は事件の「風化」に危機感を抱きつつも、記憶の継承へ決意を新たにしている。

 

 「シュー、シューという蒸気音は、まるで断末魔の鼓動。えたいの知れない大きな黒い怪物が息絶えるようでした」。当時高校1年生だった長野邦計さん(85)=同市大浦=は、脱線し、崖から落ちる寸前の機関車を見た。異様な光景は今も脳裏から離れない。

 

 事件は結局、迷宮入り。真相が謎に包まれたことなどもあり、大浦地区の人でも事件を知らない人が多いのではと長野さん。同地区の住民約250人のうち、当時を知る人は「10人前後」とも。

 

 長野さんは仲間と共に、殉難之碑や周辺の清掃を続ける。JR四国の関係者も毎年5月9日に碑を参拝する。とはいえ、「地元でも(浅海事件と同じ年の)松川事件のほうが有名かもしれない」と長野さん。後世に浅海事件をどう伝えていくか。長野さんらの思いは尽きない。

 

 

 

【悲惨さ次代に語り継ぐ 生々しい現場証言 安全運行 責務胸に】

 

 1949年5月9日、松山市大浦で起きた国鉄(現JR)予讃線列車転覆事件「浅海事件」。発生から70年がたとうとしている現在も、当時を知る人たちの証言は生々しく、事件の悲惨さが鮮明に浮かび上がる。

 

 地元の消防団分団長で現場から数百メートルのところに住んでいた長野文雄さん(93)=同市大浦。列車の車掌から脱線を知らされすぐ現場に向かった。重たいレールが目に見えて分かるほどずらされており、戦時中に海軍で工具類を学んだ経験から察した。「事故じゃない。誰かが意図的に仕組んだんや」

 

 発生は夜明け前。車掌と暗闇の線路上を駆けると、もうもうと蒸気を漂わせる列車が見えた。客車はあるが、機関車が見当たらない。空が明るくなると、脱線で切り通しの小山に衝突した弾みで、進行していた松山方向と逆を向いた先頭の機関車の姿が浮かび上がり、驚愕(きょうがく)した。

 

 遅れて現場に入った団員の中原牧雄さん(91)=同=は、長野さんらとともに、車体に挟まれたり、積んでいた石炭に埋もれたりした遺体を目にした。「自分と年齢が近い人たちがあんな目に遭い、気の毒でならなかった」

 

 長野さんらによると、警察は長野さん宅の離れの2階に現地本部を置き、1週間ほど常時十四、五人の捜査員が出入りした。脱線した準急列車より先に貨物列車が通過する予定だったため、当初は列車強盗説が有力視された。

 

 しかし、捜査は混迷を極めた。当時、国鉄の人員整理に伴い松山機関区でも争議があったばかり。反発した労働組合員らによる犯行も疑われた。労働争議を抑え込むため米軍が仕組んだとの説も出たが、結局、解決には至らなかった。

 

 事件で重傷を負った機関士の藤田康さん(故人)は、事件の約2年後、徹子さん(86)=松山市祝谷1丁目=と結婚。犠牲になった乗員の一人で機関助士見習だった徳田昌三さん=当時(20)=の妹だ。

 

 結婚後、藤田さんは事件の話をせず、徹子さんも同じだった。「主人はきっと、自分だけ生き残ってしまったという罪悪感のようなものを、ずっと持っていたんでしょう」。藤田さんの名前は本来「三光」だったが、事件の約4カ月後に「康」に改名。事件が理由なのか、訳を聞けないまま、藤田さんは2008年、80歳で亡くなった。

 

 JR四国松山運転所の野本秀樹所長(58)は旧国鉄時代、松山気動車区で藤田さんと3年ほど働いた。事件の話を聞くことはなかったが、自身も運転士として何度も現場を通り、心の中で手を合わせてきた。

 

 事件から70年を迎える9日は、地元住民や松山運転所社員らが殉難之碑を前に慰霊行事を行う。1961年に建てられた碑は老朽化が進み、倒壊の懸念も出ている。野本所長は「(碑は)事件を伝えるシンボル。地元と相談し、補修するなどして残していきたい」と語る。犠牲者や安全運行に努めてきた先輩らの思いを受け止めることは、後輩の責務とも強調。「若い社員に(事件の記憶を)引き継ぐためにも、命日の慰霊行事は途絶えさせない」

 

 

 

 【浅海事件】 1949年5月9日午前4時25分ごろ、温泉郡難波村大浦(現松山市大浦)の予讃線浅海―伊予北条間で発生。時速約55キロで走行していた高松発宇和島行き準急列車(8両編成)が脱線転覆し、機関助士と機関助士見習の計3人が死亡、機関士と乗客計4人が重傷を負った。線路のボルトが8本、犬くぎが7本抜き取られ、レールが75ミリずらされていたことなどから当時の警察は人為的な犯行とみて捜査。約3カ月後に福島県の東北線で起きた列車転覆事件「松川事件」との類似性や関連性も指摘された。延べ約7千人の捜査員が投入されたが、64年5月9日に時効が成立した。

 



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