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戦国時代と柿の木と

以前、安芸高田市歴史民俗博物館で開かれた講座で
「島根に広く分布している西条柿は毛利軍が継ぎ木して持ち込んだものではないか。」
というのを論文発表したと講師の先生から聞いて、
何それぶちおもろい!!
と検索したらありました。
「街道を往った西条柿
 ~遺伝資源 西条柿の古木調査研究~」

中央図書館で貸出可だったので見にいきました。

いつも県立図書館に行くのですが、
中央図書館も結構良い棚ぞろえでした。
広島城の過去の図録があるし、
何より光成先生の「毛利輝元」と
岸田先生の「毛利元就」が並んでる!!
郷土分類以外の社会科学の棚にも
瓦造りに関しての歴史本とかニッチな本がありました。
県立よりも近いし、本の揃えもいいのですが
何分人が多い・・・。
市の図書館って人で混むのを忘れてました・・・。
ようやく空いた机席で論文読めました。

まず、西条柿について。
西条柿の古木は広島、島根に多く、
鳥取や津山にもあるそうです。
今回調べられた古木は戦国時代の400~500年生のものと
江戸時代初期の300年もの。

高宮以外の古木にはいずれも接ぎ木の跡があり、
遺伝的な形質を調べると全て「西条」と名付けた遺伝パターンを示す。
ただし、高宮の柿の遺伝パターンは「西条」と類似しており
実から大きくなったものである可能性が高い。
よって、広島~島根~鳥取~津山の西条柿の古木はいずれも
1つの接ぎ木を接いで増やしていったもの。
ということが分かったそうです。
因みに香川県の小豆島にある柿の木。
これも「西条」の遺伝パターンを示す柿らしいです。

では「西条」の柿の木はどうやって伝わったのか。
また発祥地はどこか。
というのを調べられてました。
ネットでそこの部分は検索できるのでこちらをどうぞ
結論からすると「西条」は賀茂郡の西条。
伊予の西条は樹齢が若すぎるので違う。
石川の最勝柿は遺伝系統が違う。
そもそも他は根拠となる史料がない。
一方で賀茂の西条はお寺の縁起に1239年とあり、
同時期に植えられた杉の木や
2代目になる接ぎ木した古木から
書かれた年号と樹齢が一致するのでほぼ確定。
島根や鳥取、津山の柿は西条の柿の木が原木になるんだそうです。

では「西条」の柿の木はどう伝わったのか。
安芸国内の古木を繋ぐと吉田から全て20~50km。
1日の行動範囲にあたるんだそうです。
また出雲国内の古木は富田城を中心に20km範囲。
いずれも400~500年前の戦国時代のもの。

先生は論文の中で、
古木は街道筋や寺、毛利と尼子の合戦場に多いこと。
吉田から富田の線上に古木が集中していること。
300年生のものはその周辺地域。
であることから伝播者は安芸から、毛利軍がもたらしたのではないか。
と述べられていました。

これは島根だけではなく隣の鳥取も同様のようです。
米山寛一先生の「鳥取県の柿沿革史」を参考に
鏡野町大町にある500年近い古木は
郡山城から作木村を通り国馬通峠を通る伯耆への東征ルートから
もたらされたのではないかと考えられているそうです。
同様に、日野町別所の柿は、備中→千屋花見峠→伯耆の
ルート上にあるのではないか。
とありました。

実際、各地域の柿の木の側に城跡があるのか調べてみました。
(城郭放浪記さんのを参考にさせていただきました。)
備後
西城町大屋→今櫛山城、烏屋ヶ丸塁、城屋形塁
作木村森山中西谷→松前城、松笠城、比丘尼掛城

安芸
吉田→郡山城
佐々部野辺→隆元逝去とされる場所から500m
         
出雲
東出雲町畑→京羅木山(富田城攻めの時に毛利が陣を張った山)
秋鹿町井神→向かいに鰐尾山城
枕木町→山城の伝承はないが、枕木山の華厳寺には戦国時代兵火で焼失した記録がある。
西伯町法勝寺→法勝寺山城
          ただし、法勝寺は尼子経久の菩提寺経久寺境内の木

おお!びんご!
城跡ではないところに巨木があるのは陣を張った跡だと考えれば
十分考えれます。

ただし、今、この古木は危機に瀕しています。
現に生活の変化で昭和40年代に400~500年の古木は随分伐採されたようです。
遠藤融朗農学博士が昭和30年代に調査した記録によれば
廿日市宮内
八本松に2本
真庭落合町福田
那阿郡旭町丸原
枕木町月坂
邑生町炉谷
と今では消滅している木もあるようです。
西条柿は接ぎ木のため、樹齢500年が限度らしく
それ以上成長すると台木が重みに耐えられずに裂壊現象を起こして崩れていくんだそうです。
どうやら柿の木の寿命も関係していたようです。

現在、西条柿の生産ナンバー1は島根です。
中でも多くの古木が残るのが京羅木山のある東出雲町畑
ここの地域には「西条柿は安芸から伝わってきた。」と言い伝えがあり、
地元で使われる「柿の枝をけずる」という言葉も安芸言葉。
第二次尼子攻めがあったのは永禄年間なので
柿の樹齢460年ともぴたりと符合するそうです。
何故、京羅木山に柿の木がたくさん接ぎ木されたのか。
農学博士の竹下修博士によれば
「柿の幼木に戦友の弔いをかねて接ぎ木した。」
我らが秋山先生によれば
「天野隆重を初め、元秋らが城主となったことで
 人心の安定した1500年後半に伝播した。」

などの説がありました。

ううん、ただ伝播状況を見るに京羅木山のは毛利陣所。
第二次尼子攻めは包囲戦。
それも永禄5年7月から永禄8年春までの長期間に渡るもの。
畑という地名ですが山の中腹地です。
名前からして尼子攻め時に畑を作っていたのではないでしょうか。
また第一次の大内は兵糧経路を絶たれたことで撤退。
なので兵糧の大切さは痛いほど分かっており、
石橋を叩いて壊しそうなほど慎重な元就さんのことなので
持久戦に持ち込んだ時に自給可能な方策ぐらい考えていそうです。
竹下先生の戦友の弔いで樹木葬。
は隆元の例などからすれば十分可能性としてはあると思います。
ただ秋山先生の出雲平定後説。
それだと月山富田城周辺に多くなるんじゃないかなと思いました。
先生に今度お聞きしたいのですが先生3月で退官なされる・・・。
最終講義に行きたかったのですが卒業式前日・・・。
休むわけにはいかないので友に御餞別を渡そうか考え中です。

最後にこの論文を書かれた前重道雅先生。
柿の古木を調べていて一番感嘆したのが
法勝寺の柿の木だったそうです。
法勝寺は尼子経久の菩提寺である経久寺があり、
経久の妻が菩提を弔っていたそうです。
尼子を滅ぼした毛利の持ち込んだ柿の木を食べて生きた経久妻。
彼女の事を考えると何とも言えない気持ちになったとおっしゃられていました。

・・・が、私としては別の意味で感動しました。
経久妻は吉川氏。
妙玖の大叔母です。

法勝寺は月山富田城からかなり離れた場所にあり、
正直晴久さんから疎まれたのではないかと勘繰るぐらい遠いです。
まあ、孫に息子一族を殺されているから婆様としては複雑だったでしょう。
そこに西条柿が伝播している。
ということは元春か誰か安芸の吉川一族が尋ねてきている証拠だと思います。
元春にとって経久妻は血の繋がる実の大大叔母。
1人侘しく生きる彼女のために安芸から柿の木を送ったのではないか。

残念ながら現在はその柿の木は伐採されてないため
詳細な樹齢は分かりませんがそうなんじゃないかと私は思います。

因みに吉川一族、元春の息子の広家の時、
妻の宇喜多氏が柿を食べて調子を崩して亡くなったことから
大朝中の柿の木を切り倒せと命じた。という話が残っています。
宇喜多氏は秀吉の養女として大阪城住まいですから
柿にあたったというよりも心理的なものが大きかったんではないかと思いますが
本来、伝播状況から考えると安芸の北部にたくさん柿の古木が残っていても不思議はないのに
さほどないのはこのせいかもしれないなと思いました。

植物が語る歴史。面白いなと思いました。
因みに西条柿はあんぽ柿として糖度は柿の中でも一番高いです。
これを好んで持ち込んだ。
毛利家というか元就さんはやはり甘いもの好きじゃないかと思いました。


JAしまねの柿のHP
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主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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