フクシマのあとで_2


ベニト・ムッソリーニの殺された場所に歩いておりていってみると、見慣れた黒い十字架と汚れた花束が置かれている。
Il Palio(祭礼)は今年もたくさんの人を集めていて、鷹匠や梟匠たち、宮廷音楽師や、貴婦人、あるいは洗濯女、道化のかっこうをした村のひとびとが道行く人々と談笑している。
今年は悪魔の扮装をしたひともいて、子供たちを怖がらせている。
剣士たちが、子供たちに人気を集めていて、「強い剣士になる秘訣」を子供たちに講釈したりしているのは世界共通でしょう。

これも毎年のことで祭礼を観に来たハリウッド人たちの写真を撮るためにパパラッチたちが集まっている。
そのパパラッチたちをイタリア警察の警察官たちがにらみつけている。

 

まるで、わしガキの頃のボンドストリートにたたずんで、シルバークラウドやゴーストの屋根に肘をついて、退屈に、ものうげにタバコをふかしていた運転手たちのようである。
手におおきなカメラを持っているのが違うが。

ポリツェの手引きで裏道から抜け出したハリウッド人たちが姿を消し、こういうことにはなれっこのパパラッチたちが悪態をつきながらめいめいに宿へ帰る頃になると、いま調べてみても日本語ではなんというか判らない「ランターン」がいつ見ても儚い感じのする炎をゆらめかせながら一個また一個と空に昇ってゆく。
コモ湖の夏は本格的になって、たくさんの人が世界中から押し寄せてくる。
この辺りでは、いつまで経ってもアジアの人の姿があんまり見えないのは、アジア人であると至る所で意地悪をされるからだ、と言っていたひとがいたが、あれはほんとうだろうか?

(なんだか日本語になじんだら何事に寄らず「人種差別」について考えるのが癖になってしまった^^; )

ああ、神様、と思うことがある。
神なんか、これっぽっちも信じていないのに。
おおげさにいうと、欧州の歴史は一面カトリック教会との戦いの歴史だった。
そう聴いて「カノッサの屈辱」というようなことを考える人はよほど幸せな人間か余程鈍感な人間であって、たとえばカタルーニャでは、カトリック教会がフランコ政府の手先になってカタロニア人たちが自分達の言語で話すことを禁じ、音楽を禁じ、踊ることさえ禁じるのをやめたのは、やっと1970年代になってからのことだった。
カトリック教会の卑劣さというのは、どの国でも極めて非人間的なものだが、日本のひとが自分の国ではどうだろうか、と考えれば、いつもは綺麗ごとを述べて「信教の自由」「多様なカトリック」という戯言を述べているカトリックがどのくらい斉一に福島の子供たちに対して冷淡であったか調べてみれば十分であると思う。
同じカトリックでもニューヨークのスパニッシュハーレムでハーレムの子供を守るために警察とすら激しく対立して文字通り身体を張って戦っているアメリカのカトリック教会のほうがまだマシであると感じられる。

言葉が強すぎることを恐れるが、われわれ(きみやぼくのことね)は「卑劣な人間」というものが、どんなふうにこの世界にはびこっているのか福島第一発電所事故以来、つぶさに観察してきた。

外国人から見た「日本人の訳のわからなさ」はたとえば、もじん(@mojin)さんが教えてくれた、この対談
http://www.1101.com/hayano/2013-06-21.html
にいっぱい詰まっている。
糸井重里という人は前にも何度か書いたように「日本語から意味性を奪って商品化してしまった人」「日本語全体を死語に変える魔法をもった人」であることを才能とした人であって、ここでも落ち着いて対談を読むと早野龍五というひとを「最近、目が離せないトレンド」として眺めているだけなのが判るが、判らないのは早野という人のほうで対談の冒頭で科学者として生起したことへ臨むことの重要さを述べながら、
「最悪として想定していたのは、
首都圏の退避、ないしは、
避難が必要なレベルの汚染になるっていうことです。
原発の格納容器が完全に破壊されて
中のものが全部むきだしになってしまって、
汚染の度合いも地域的な広がりも
チェルノブイリ並みになってしまう。
そういうことが起こると
首都圏の汚染もかなりのレベルになるということは
3月の半ばくらいには、うちのチームで
最悪の事態として想定していました。
また、そのころ、政府から
意見を求められる機会もあったので、
最悪の事態として汚染が広がったときに、
政治家が腹をくくって「動くな」と言えるかどうか、
ということをかなり議論した記憶があります。」
と述べていることで、
これを読んで、この早野龍五というひとの世界を見つめる角度を「科学者のもの」と感じるひとはいないだろう。

それは政治家、それもせいぜい一県の知事くらいの人が考える「大所高所」に立った唖然とするくらいケーハクな「政治的思考」であって、到底、国政レベルの政治家が考えるようなことではない。
一国の政治家というものはマスメディアを通して見ると、なんとなくバカタレなおっさんたちの集まりに見えるが、この人のような冷血漢であることは極めて稀で、いま、ちょっと思いつく名前でも(日本社会で評判が悪い)亀井静香や野中廣務が聞けば、案外と激怒するのではなかろーか。
まして、この早野という人が「科学者としての目で臨んでいる」と言うのを聞けば実質は神秘学者であったケプラーですら失笑するに違いない。
酷いものだと思う。

わしが福島第一事故以来、
http://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/18/「フクシマ」のあと/
ずっと、(というよりも怖いものみたさで、ときどき)日本でフクシマに関連して何が起こっているか眺めてきて、頭のなかで凝固してきた言葉の塊は「日本人に生まれることの悲惨さ」ということだった(ごみん)
失礼に過ぎるのは判っているが、わしの(このブログには殆ど言及されない)いちばんの大親友は半分日本人である従兄弟であり、わしの日本語の教師であり、年長ではあっても常に善良で他人を疑うことがなかった点で、常にわしの教師でもあったと思われる「義理叔父」の存在のせいで、わしはいつも「日本人」を自分に近しいものと感じて、日本語に惑溺する時間が長いとときどきは自分が「日本人」であるような気がするほどだった。
だから、それに免じて許してもらわなければ困る。

宗教者も科学者も政府に寄り添って、もっともらしいだけの虚偽を述べている社会では、個々の人間にとって頼りになるのは「叛逆者」だけである。
叛逆者たちが幸福な社会の建設に社会全体を導いていく確率は話にならないほど低いが、どこにも良心が見当たらなくなった荒野のような世界ではひとは非人間的な破滅よりも人間的な破滅を選ぶものであると思う。
革命が「絶望の表現である」という過度に文学的な表現は、そういう場合には十分に成り立つ。

日本人は聡明な国民性なので、なるべく目の前に突きつけられた現実を見まいとしているだけで、ほんとうは何が起こっているかわかっているのだと思う。
明日の朝になれば夢からさめた人のように、ほんとうは何も起こらなかったのだ、という朝の奇跡を願っているが、そんな朝は絶対に来はしないということも知っているように見える。

自分達の目の前に突きつけられた真実、「日本という国は自分達のことなど少しも気にかけていないのだ」という真実をなんとかして呑み込み、納得するために、福島第一事故以来いろいろな人がさまざまな詭弁を発明してきたが、無慈悲な時間の神は月の光に皓る白骨を手のひらに載せて目の前につきだすように現実を見よ、と要求している。
日本の社会が凍った憎悪と侮蔑で歴史に知られた「時間の神」にどんな「真実」を解答として用意するのか「日本」という共同体の価値そのものが問われているのだと思います。

 

この記事は「ガメ・オベール日本語練習帳 ver.5」からの再録記事です



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