高野清文さんと、同時期に同じ伊豆で失踪した女性の情報を求めています。 |
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1976年7月伊豆神津島で失踪した特定失踪者高野清文さんのご家族が、その約2週間前に伊豆新島で失踪した女性(当時22歳)の情報を求めています。 皆様のご協力をお願いいたします。 昭和51年7月12日:伊豆新島で松下恵利子さん失踪 |
特定失踪者:高野清文さんは、昭和51年7月30日、在学していた電気通信大学の学生寮生17名の合宿で訪れた伊豆神津島で忽然と消えてしまいました。失踪直後から同行していた寮生や、警察・消防・役場職員、全島あげて捜索し、神津島の派出所から連絡を受けた両親は、8月1日に島に辿り着くと、無事に帰ってきて欲しいという必死の思いで探しました。海では捜索船が2艘で島を反対回りに巡回し、ヘリコプターも飛んで捜索しました。8月8~9日の2日間は、警察犬2匹を警視庁よりヘリで運び、鑑識警察署員・消防・役場職員、家族で捜索しましたが、その場で溶けて無くなってしまったように何一つ手がかりを発見することは出来ませんでした。1979年(昭和54年)10月8日には、長野県より登山家(故・富沢勲夫氏)に同行してもらい、天上山の断崖と下の茂みを捜索しましたが、何も発見できませんでした。 この高野清文さんの失踪の約2週間前、同年7月12日、やはり同じ伊豆の新島で遊びに来ていた22歳の保母さんが神隠しのように失踪していました。この女性のその後の消息は分かっていません。もし、何の手がかりもないままであるならば、高野清文さんの失踪と重大な関係があるのではないかと思われます。この女性・ご家族・同行していた友人の情報を求めています。 |
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光文社『女性自身』1976年10月28日号記事 |
わが子よ!ある母の呼びかけ第一話 恵利子、どこにいるの?
私はそんな話を信じることはできません。浜から水着のままでいなくなった恵利子が寒がって声をあげているのではと、話す人もいましたが、私には信じられません。なぜなら、あなたは・・・。 「7月12日の朝、恵利子さんと私は民宿を出て、浜に向かいました。途中でゆうべスナックで知り合った島の若者達と出会いましたが、わずらわしいのですぐ別れて、私たちは二人だけで、誰もいない北側の海岸へ出ました。二人とも泳げないので、遊んで日光浴をしただけです。私が岩に寝そべってウトウトしていると、恵利子さんが「ちょっと・・・」と私にかけて、岩を離れて、山のほうへ行く気配がしました。あなたは手をふりながら・・・。それが最後です。恵利子さんは水着のままであとには財布とサンダルが残されていました。」(谷村紀美子さん・22歳・洋裁学校生) 恵利子の蒸発は私ども親にとっては、信じられない出来事でした。自殺や家出などは絶対考えられません。あんなにあなたは今の仕事に張りきっていたのに。 保育園の保母をしていた恵利子は幼稚園の先生の資格をとるために、ピアノの練習に一生けんめいになっていました。思いきってピアノを一台買い、大喜びで弾いていた・・・それからほんの1ヶ月もたっていないのです。 泳げない恵利子が自分から水に入るはずがない。しっかりした娘で、谷村さんも言ってくれていますが、ノコノコと人の後についていくタイプでもありません。新島では消防団が100人も海にもぐり、山に分け入り、ヘリコプターまで飛んで、島はじまって以来の大捜索が行われました。 私たちもどれだけ島を捜し回ったかわかりません。 行方不明の水死体は、ほとんどが北の岬に打ち上げられると言われています。私はためしに恵利子のいた浜から、海へシャツを投げ捨ててみました。そのシャツはたしかに数時間後には、北の岬に打ち上げられていました。 警察では他殺の線に重点をおいて、徹底的な捜査を続けたそうです。しかしその痕跡はまったくないということでした。もう終わりです。 自殺でもない、他殺でもない、水死でもない、いったい恵利子はどうしたというのでしょうか?母さんはどうしたらいいのでしょう。 「わたしも長いこと島の消防団員をやってきましたが、こんな奇妙な事件は初めてですね。これだけ捜していなければ、あとは神隠しにあったとしか考えられませんよ。前に子供が行方不明になって、一週間めに浜でヒョッコリ発見されたことがありました。当人は天女に連れられて、竜宮城みたいなところで、毎日ごちそうを食べていたというんですが、口の中には海草がいっぱいつまっていましたよ。」(新島本町消防団長・森仙松さん) 私は何人もの霊媒師に頼んで、恵利子の行方を捜してもらいました。一人は恵利子が沖合いに沈んでいると言いました。一人は北の岬で海草に埋もれていると言い、また他の一人は陸に半分埋まっていると云いました。 場所は違うけれど、みんな恵利子が死んでいると言う。そんな事はありません。嘘です!本当に死んでいれば私の夢枕に立たないはずがありません、そうでしょう。恵利子はかならずどこかに生きています。 その証拠に園児の一人が、夏休みに熱海で恵利子を見かけているのです。熱海は新島からの船の発着所です。 また夏休みには、奇妙な電話が2回もありました。 「恵利子じゃないの?恵利子?」 「・・・・・・」 20分も無言のままでいて、カチャリと切れました。 もう一回は私がモシモシというと「あ・・・・」という声が聞こえましたが、その声は恵利子にそっくりでした。 恵利子は生きていて、どこかにいるのに、私達に連絡できない何かの事情があるのです。お願いです。恵利子連絡ください。また見かけた人がいたら連絡ください。心配で倒れてしまいそうな私と恵利子の帰りを待っている大ぜいの園児たちのために。 《編集部からのお願い》 松下恵利子さん(22才・7月12日行方不明)の特徴は、身長153センチ、体重48キロ、顔だちは下ぶくれ、肩までのロングヘア、目は奥二重で、歯並びはきれいです。歩き方はせっかちな感じ、口数は少なく人見知りするほうです。 |
*1:保母さん 保母さんの特定失踪者も多い |
母:松下米子さん 失踪時同行者(友人):谷村紀美子さん(当時22歳・2004年現在49~50歳) 上記3名の女性に心当たりのある方、何らかの情報をお持ちの方、またこれらと関係ない方でも、北朝鮮工作員ないしその関係者に拉致されそうになった方や、それに類する状況を目撃した方がおられましたら、特定失踪者問題調査会(電話:03-5684-5058)までご一報ください。 |
05/8/31 スーパーJチャンネル『迷宮の扉』 |
高野 清文(タカノ キヨフミ) 「北朝鮮に拉致された可能性を否定できない失踪者」 1956年(昭和31年)10月31日生、当時19才、長野県塩尻市広丘出身・両親現住所 県ヶ丘高等学校1975年(昭和50年)卒、電気通信大学2年生在籍(東京都調布市・調布寮居住)時失踪 失踪日:1976年(S51)7月30日 失踪場所:伊豆神津島 |
神津島には「オタア・ジュリア」という名の朝鮮貴族の娘が江戸時代に島流しになっていて、その慰霊祭が高野清文さんが失踪する数年前から盛んに行われるようになっていたというのだ。 この祭りには、朝鮮から団体で大勢の人が神津島を訪れていた。また、伊豆諸島や伊豆半島には在日の人が多く住んでいることが分かったという。こういうことから工作員が神津島に来ていた可能性が高くなり、高野さんらの失踪も北朝鮮がらみのものではないのかーという見方が一層強くなっている。 |
高野清文さん失踪に関係のありそうな武蔵野地域