なぜ人間には羞恥心があるのか
どれだけ厚顔無恥に振る舞う人間にも限界はある。恥のない人間はこの世に一人も誕生したことがない。動物には恥がないので、ここは本当に謎である。もしかすると原始人には恥がないのかもしれない。「社会」が恥の根源であり、それ以前の原始状態であれば、恥がないかもしれない。猿には恥がないと思われるので、どこかに区切りはあるはずだが、(細かく言えば猿から人間に進化したわけでは無いが)、進化的にどこから恥の感情が生まれたのであろうか。猿にも群れはあり、強者と弱者、あるいは戦いに負ける屈辱などはありそうである。負けて悔しいという感情は一応あるはずだ。それでもやはり猿に羞恥心はないと思うので、負ける悔しさとは何かが違うのであろう。われわれの社会の基本として、「本当のことを言ってはいけない」というのがあるが、これがひとつの根幹であると思う。猿には言葉という刃物がないので、「本当のこと」が言えないし、羞恥心が育たない。おそらく、言葉という刃物への警戒心が恥なのである。公然の秘密なるものがあり、それを言葉にするだけで侮辱なのである。猿に秘密があるのかというと、言葉がないので、秘密もなさそうである。言葉は他人を罵倒するために誕生したという仮説を唱えても面白そうである。名前をつける機能が言葉であるというありがちな意見よりは面白いように思える。なぜ言葉は刃物なのか、それも難しいし、ブスにブス、チビにチビというのがなぜ刃物たりえるのか、これも難題である。優劣の感覚はもちろん猿にもあるだろうし、(ブスと美人という美醜がわかるかは別として)、大きい猿と小さい猿の優劣はわかっているはずだが、そういう体格差をチビという言葉で表現するのが侮辱になるのである。おそらく、わざわざ言わないときは、体格差が存在してないものとして振る舞っているのである。チビという言葉を口に出すとなると、体格差を如実に優越感/劣等感としてマウントすることになるわけだ。いわゆる差別用語が差別の根源であるというのはあながち間違いではない。いつもいつもわれわれは言葉で他人をマウントしているので、言葉こそが差別の根源というのもひとつの理解である。