人生とは、ボーナスタイムである。
幽体離脱経験者によると、この世の中はエネルギーが集合する心地よい場所で、過去も現在も未来もなく、時間も空間も超えて好きな場所に移動をすることができる場所であるという。宇宙はビッグバンにより誕生したと言われている。幽体離脱経験者が「宇宙が誕生した瞬間に行ってみよう!」と行ってみたが、ビッグバンなんてなかった。そこは、エネルギーが集まる心地よい空間で、あれが欲しいと思えば即座に手に入る、夢のような空間だった。
だが、問題があった。何でも夢が叶う空間は、退屈な場所でもあった。入れ食い状態の釣り堀と同じで、悪戦苦闘しながら大魚を釣り上げるロマンもドラマもなかった。この話が真実かどうかはさておき、私は「わかる」と思った。死後の世界が「何でも夢が叶う空間」だとしたら、肉体を与えられて、限界を与えられて、寿命などと言った制限を与えられているなかで、私たちが生きる目的は「どう遊ぶか」なのではないだろうかと思うようになった。
人生は平均80年のボーナスタイムだと思う。人間は平等だが、環境は圧倒的に不平等だ。なぜこの国に生まれた。なぜこの時代に生まれた。なぜこの家に生まれた。なぜこの顔に生まれた。数え上げたらキリがない。だが、これは「神が我々に与えた壮大な前振りである」と言っても過言ではないと思う。前振りは、効いていればいるほど、落ちた時の爽快感も、相当なものになる。大事なことは、今、与えられているものをどう生かすか、今、自分の目の前にある筋書きをどのように変えていくか、ここが腕の見せ所である。
この世の中は行動するアホが人生を謳歌する。合理性はなくとも、生産性はなくとも、たった一人の「どうしてもこれをやりたいんだ!」が爆発的な初動のパワーとなり、周囲の人々を巻き込み、一人の夢がみんなの夢となり、興奮と熱狂の渦を巻き起こし、後世に語り継がれる伝説となる。与えられた環境や能力は『業』であり、変えようと思ってもなかなか変えられるものではない。矯正することはできても、必ず、反動が来る。自分の業を変えようとするよりは、業を認め、業を受け入れて、業を肯定する。合言葉は「ルナティックに行こう!」であり、ある程度の狂気は仕方のないものとして受容する。深刻になることが一番よくない。日本文化は極めて美しいものだが、油断していると重くなる。適宜、軽さを取り入れる必要がある。ルナティックに行こうとは、吉田松陰が言った「諸君、狂いたまえ」に通じるものがある。映画でもなんでも、やり過ぎている人たちは素晴らしい。怒られないように周囲に合わせて生きるより、怒られたとしても「どうしてもこれをやりたいんだ!」を貫いて、やり過ぎてしまった人たちの方が生きたと言える。
人生とは、ボーナスタイムである。問題は、死ぬことではない。生きなかったことだ。今のままの生き方で、笑って死ねるか小僧ども。私たちは、やがて「何を願っても即座に叶ってしまう場所」に行く。極めて安全で、極めて安心で、極めて退屈な場所だ。落ち着くのは墓場でおっけー。死んでからでも遅くない。生きている間は遊ぼう。合理性を無視し、成熟を拒否し、ルナティックに行こう。サディスティックな部分が抑圧されると、マゾヒスティックな部分しか出せなくなる。今、この国は一億総マゾヒストみたいなことになっている。自虐は自虐で愉快だが、時にはルナティックになる必要性を認め、受け入れ、肯定する。成功をすることもあれば、失敗をすることもある。失敗の方が多いかもしれない。だが、遅かれ早かれ、私たちは失敗も成功もできない場所に行く。人生とは、それまでのボーナスタイムだと思う。
バッチ来い人類!うおおおおお〜!