この「函数」は、「function」に近い音の字を当てて作った語であるという説があるが、これにはいくつかの不審な点があり、戦後の日本で生まれた俗説であると思われる。
「函数」という語は音訳ではなく、「ある変数が含まれる」という19世紀半ばの数学界における函数の認識を踏まえて作られた言葉である。
目次
1.「函数」語の初出
2.「函数」音訳説
3.音訳説の不審点
3.1.音が異なる
3.1.1.子音の不一致
3.1.2.韻尾の不一致
3.2.他の用語は意訳である
3.3.近年の日本でしか聞かない
4.「函数」の本当の語源
4.1.「函」の意味
4.2.「function」の概念
4.3.原文の記述
5.まとめ
1.「函数」語の初出
「函数」という語の初出はElias Loomis著・Alexander Wylie口訳・李善蘭筆述『代微積拾級』(1859)とされる。『代微積拾級』の中を見てみると、『凡例』3頁表に
一、諸數字之旨各異、とある。また巻十1頁裏に
函數者、言其數中函元之加減乘約開方自乘諸數也、
長數者、言幾何漸增漸減之微數也、
變數者、言其數或漸變大、或漸變小、非一定之變也、
常數者、言其變一定不變也、
凡此變數中函彼變數、則此爲彼之函數、とある。
如直線之式爲 地=甲天⊥乙 、則地爲天之函數、
2.「函数」音訳説
「函数」音訳説とは、「函数」という語は昔の中国人が数学の書物や概念を翻訳する際に「function」の発音に近い字を選んで作った言葉である、というものである。一般向けの数学書にはしばしばこの説が記されている。土井里香『おとなの楽習 (6) 数学のおさらい 図形』(自由国民社2016)
函数は英語でファンクション(function)といいます。この学術用語が中国に入ったとき、できるだけ近い発音の漢字で訳そうということで、中国語で「ハンスー」のような発音になる「函数」と書かれました。小寺隆幸『地球を救え!数学探偵団:一次関数』(国土社1996)14頁
ファンクションという英語を、中国ではその音に近い「函数」と訳したまたWikipediaの『関数 (数学)』項に
「函数」の中国語における発音は(拼音: hánshù) であり、志賀浩二や小松勇作によればこれはfunctionの音訳であるという。とあり、小松勇作『数学100の慣用語』(数学セミナー1985年9月増刊)「我が国へは中国で音訳された函数が輸入され」と志賀浩二『数学が生まれる物語/第4週 座標とグラフ』(岩波書店1992)70頁「函数という表記は,中国語でこの英語の発音に近いファンスゥをあてたものだといわれている」の記述を出典としている(引用文はノートより)。
このほか武部良明『漢字の用法』(角川書店1976)にも同様の記述があるという(未確認)。
3.音訳説の不審点
前章の通り、音訳説は現在よく耳にする言説であるが、これにはいくつかのおかしな点がある。3.1.音が異なる
そもそも、「函数」と「function」とでは、発音が全く近くない。「function」の1つ目の音節「func」について、同様の発音をする外来語が中国語でどのように音訳されるかというと、以下のようになる。
- Funk(音楽用語):放克(fàng kè)
- Casimir Funk(生化学者):冯克(féng kè)
- Nolan Gerard Funk(俳優):冯克(féng kè)
- Whangarei(地名):旺阿雷(wàng ā léi)
3.1.1.子音の不一致
「func」の子音は/f/で、唇を使って発声する音である。唇音の外来語を中国語に音訳する場合は、当然同じ唇音を用いる。- République française(国家):法(fǎ)蘭西共和國
- Phoenicia(地名):腓(féi)尼基
- Adam Ferguson(哲学者):福(fú)格森
- Johannes Vermeer(画家):弗(fú)美爾
- Anselm Feuerbach(画家):費(fèi)爾巴哈
- fluorine(元素):氟(弗:fú)
なお、例外として、唇音を喉音で写した以下の例がある。
- Daniel Gabriel Fahrenheit:華(huā)倫海特
- Pfizer(製薬会社):輝(huī)瑞
3.1.2.韻尾の不一致
「func」の韻尾は軟口蓋鼻音/ŋ/である。「ŋ」で終わる語を中国語に音訳する場合は、一般には同じ「ŋ」韻尾を用いる。- Neil Armstrong(宇宙飛行士):阿姆斯特朗(lǎng)
- Grand Junction(地名):章克(zhāng kè)申
- Angkor(遺跡):吴(粤ng4)哥
- Hjørring(地名):約靈(líng)
「function」の「tion」と「函数」の「数」についてもほぼ同様のことが言えるが、詳細な検証は省略する。
以上のように、「function」と「函数」では明らかに音が異なっており、「近い音の字を当てた」と言うことはできない。
3.2.他の用語は意訳である
『代微積拾級・凡例』をもう一度引用する。一、諸數字之旨各異、ここでは「函数」は「長数」「変数」「常数」等と並列して説明されている。「長数」は「increment(増分)」、「変数」は「variable」、「常数」は「constant(定数)」の訳語である。『代微積拾級』ではこのほか「代数」「係数」「対数」「指数」「級数」「微分」「切線」「多項式」など多くの翻訳された数学用語が使われているが、どれもみな音訳とは考えられず、明らかにその定義から考案されている。
函數者、言其數中函元之加減乘約開方自乘諸數也、
長數者、言幾何漸增漸減之微數也、
變數者、言其數或漸變大、或漸變小、非一定之變也、
常數者、言其變一定不變也、
数多くの訳語の中で「函数」だけが音訳というのは不自然である。
3.3.近年の日本でしか聞かない
音訳説についてインターネットで検索しても日本語のサイトしかヒットせず、中国のサイトで紹介されている様子がない。李善蘭や数学用語に関する中国の論文や書籍をいくつか見たが、それらにも音訳説は見られなかった。また、戦前の本でこの説を取り上げたものも現在見つけられていない。Wikipediaの記述の出典が『代微積拾級』から100年以上後に日本で出版された書籍であることは前章で紹介したとおりである。
ところで、ここで音の不一致について再度確認する。
「func」の頭は/f/(唇音)で尾は/ŋ/、一方「函」の頭は/x/(喉音)で尾は/n/、と異なっているから音訳ではありえないと述べた。
一方日本語において、「ふ」/ɸ/(唇音)と「は」/h/(喉音)はともに「は行」という同じ系列に位置し、また「「案外」の「ん」」/ŋ/と「「案内」の「ん」」/n/はともに「ん」字で表記され区別がない。
ゆえに「func」と「函」は音声上異なるのだが、日本語音にすると「ファン(ク)」と「ハン」で、ともに「「は行」で始まって母音が「ア」で終わりが「ン」」という似た関係にすることができる。
いうなれば、音訳説は日本語にとってとても都合がいい説なのである。
以上のことから、「音訳説は、「函数」語が誕生してから100年近く経った後に、日本人によって作られた俗説」ではないか?と自分は推測する。
4.「函数」の本当の語源
前章では「函数」音訳説が俗説であると述べた。では「函数」とはなんなのか?4.1.「函」の意味
『代微積拾級』で使われている訳語は、「variable」は変化する数だから「変数」、「constant」は常に一定の数であるから「常数」、のように非常にシンプルにその定義から考えられている。「函数」も「“函”の数」ということが予想される。「函」字はどういう意味の字なのか、漢和辞典『新字源』改訂新版で調べると以下のようにある。
- ①いれる。
②つつむ。
③ふくむ。
④よろい。 - ①はこ。
②封書。
4.2.「function」の概念
「function」の語は17世紀中晩期にライプニッツが最初に用い、その後にベルヌーイやオイラーらによって整理され、18世紀には「ある数によって変化する数(あるいは式)」のように理解されていた。そして、『代微積拾級』が著された19世紀半ばの数学者は以下のように言う。
Any expression which contains x in any way is called a function of x: thus a+x, a+bx², &c. are functions of x; they are also functions of a and b, but may be considered only with regard to x.
(Augustus De Morgan『The Elements of Algebra』(1837)P168)
8.Definition.――Any algebraic expression involving a symbol x is termed a function of x, and may be represented under the abbreviated general form f(x).
(George Boole『An investigation of the laws of thought』(1854)P71)
35. A function of a quantity is any expression containing that quantity.
(Elias Loomis『A Treatise on Algebra』(1868)P18)
彼らは共通して、「ある数xが含まれる任意の式を、xの函数という」と述べている。
つまり、前節の漢和辞典の記述とあわせれば、「函数」は「xを“含む”」から「“函”数」であるということがわかる。
4.3.原文の記述
「function」がなぜ「函数」と翻訳されたか、というのは実は『代微積拾級』を読めば容易にわかる。冒頭に引用した巻十1頁裏の文章をもう一度引用する。
凡此變數中函彼變數、則此爲彼之函數、「此変数中に彼変数を含むとき、此を彼の函数という。例えば直線の式 地=甲天+乙 があるとき、地を天の函数という。」と書いてある。これは「function」の概念の説明であるが、この文章を読めば、「函数」は「函彼變數」であるから「函数」と訳されたということは自明である。
如直線之式爲 地=甲天⊥乙 、則地爲天之函數、
念のために、『代微積拾級』の原著である『Elements of analytical geometry and of the differential and integral calculus』を確認しておこう。
(158.) One variable is said to be a function of another variable, when the first is equal to a certain algebraic expression containing the second.
Thus, in the equation of a straight line,
y=ax+b,
y is a function of x.
(Elias Loomis『Elements of analytical geometry and of the differential and integral calculus』(1835)P113)
「ある変数が別の変数を含む代数式と等しい時、前者を後者の函数とよぶ、例えば直線の方程式y=ax+bについてyはxの函数である。」と書かれており、『代微積拾級』の記述とほぼ一致する(当たり前だが)。「函彼變數」が「containing the second (variable)」に対応するということもわかる。
以上まとめると、「function」は「ある数xが含まれる任意の式(あるいは数)」であると数学者達に認識されており、またLoomisの著書にもそのことが書いてあった。李善蘭はその中の「後者の変数を含む」と言う一節を「函彼變數」と中国語訳するとともに、「function」を「“函(彼変数)”数」の認識から「函数」と造語した。ということになる。
ついでに、これは、「函数」の「函」は「はこ」を意味する、という説も否定するものである。この説も「函」字がもはや「函館」にしか用いられないことによって、「ふくむ」という意味よりも「はこ」の意味の方が連想しやすい、日本ならではの説ではないかと思われる。
5.まとめ
『代微積拾級』において、李善蘭は数学用語「function」を「函数」と造語して翻訳したが、これが、原著や同時代の数学書の「ある変数を含む」という記述から、他の訳語と同様に用語の定義から考案されたものであることがわかった。このことから「函数」の「函」は「はこ」を表しているという説は誤りであること、それに加えて「function」と「函数」の発音の隔たりから、近い発音の字をあてたという説も誤りであることも示された。
「はこ」説や音訳説が広まっている範囲が時間・空間的に近年の日本に偏っていることや、日本語話者にとっては連想しやすい構造になっていることから、これらの俗説は戦後日本人によって生み出された臆測である可能性が高いと推測できる。
しかし、現在のところこれらの説の初出は明確にはわかっていないため、これについては今後の調査を待ちたい。
追記(2018/09/14)
当記事公開後、音訳説が掲載された書籍について調査してくださった方がいらっしゃいました。
Midnight Floating Thought:「函数」音訳説について探してみる
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