映画「オッペンハイマー」公式HPより

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 まさに映画「オッペンハイマー」が席巻した夜だった。クリストファー・ノーラン監督の話題作は「原爆の父」と呼ばれたアメリカの理論物理学者ロバート・オッペンハイマーの伝記映画であり、第96回アカデミー賞では合計13部門でのノミネートが発表されていた。

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 そして日本時間の3月11日に行われた受賞式では、作品賞、監督賞、男性俳優の主演と助演賞、撮影賞、編集賞、作曲賞の7部門の獲得が発表された。担当記者が言う。

「受賞数のランキングを見ると、アカデミー賞の歴史で最多記録は11部門受賞で、映画『タイタニック』など3作品です。では『オッペンハイマー』の7部門受賞を調べてみると、『戦場にかける橋』、『アラビアのロレンス』、『シンドラーのリスト』など12作品で、いずれも映画史に残る傑作ばかりです。つまりアカデミー賞の会員は『オッペンハイマー』も後世に語り継がれるべき作品だと高く評価したことが分かります」

映画「オッペンハイマー」公式HPより

 特に作品賞と監督賞の両方を受賞したことは、「オッペンハイマー」が傑出した映画作品だと“お墨付き”を与えられたことを意味する。

 だが、「オッペンハイマー」の栄光は芸術性の評価に留まらない。上映時間は3時間を超え、歴史の暗部を描く内容に加え、難解な場面もあるとの前評判だったにもかかわらず、大ヒットを果たしたのだ。

 昨年の7月に全米を皮切りに全世界で上映。現時点で興行収入は9億5000万ドルを突破したという。これは日本円で約1400億円という巨額になる。

公開当初から疑問の声

「ところが、日本公開の知らせはなかなか届かず、やっとのことで3月29日からの全国公開が発表されました。結果論から言えば、アカデミー賞7部門受賞の栄冠をひっさげての上映ですから、最高のタイミングでしょう。ただし、以前から日本公開が遅れていることに懸念を示す関係者や識者は多かったのです。XなどSNS上では『「オッペンハイマー」は日本の被爆者を侮蔑していると言われても仕方なく、日本公開は無理なのではないか』という声も相当数に達していました」(同・記者)

 実は全米での公開当初から──それも映画評論家より先に大手メディアの方が──「映画『オッペンハイマー』は世界唯一の被爆国である日本では、かなり物議を醸すかもしれない」と報じていたのだ。

 例えば共同通信は昨年の7月22日、「米『原爆の父』の伝記映画公開 広島・長崎の惨禍、描写なく」との記事を配信し、映画の大ヒットを報じた。だが、文中では《広島と長崎への原爆投下や、その後の惨禍は描写されなかった》ことも触れた。

 映画の専門家からも疑問の声が出た。ロサンゼルスに在住の映画ジャーナリスト、猿渡由紀氏が東洋経済ONLINEに寄稿、同年8月2日に「映画『オッペンハイマー』広島の被害描かない疑問 原爆被害のリアルが世界に伝わらないジレンマ」との記事が配信された。

興行成績に配慮した可能性

 猿渡氏は記事で《一部からは疑問の声も聞かれる。原爆を作った人の話であるのに、広島、長崎の被害の状況がまるで映し出されない》と指摘した上で、自身も描写の欠如を《意外に感じた》と記した。

 さらに映画を見た外国人記者も取材、興行成績に配慮し、広島や長崎における原爆の惨禍を描かなかった可能性もあるとの見解を伝えた。

 デイリー新潮も全米公開時の昨年8月4日、「映画『バービー』原爆コラ騒動 アメリカ人の意識に下げ止まり感…防大名誉教授が明かす“彼らの本音”」との記事を配信した。

 この時、映画「バービー」も大ヒットしており、宣伝の一環で「オッペンハイマー」とのコラボが呼びかけられた。その結果、何とバービーのヘアスタイルが“キノコ雲”などといった不謹慎な画像がXに投稿される事態になっていた。

 記事では防衛大学名誉教授の佐瀬昌盛氏が「現在のアメリカでは原爆投下を巡る歴史的評価で、かつて多数派を占めた投下肯定派が減少し、投下否定派が増え続けた結果、現在は拮抗している」ことを紹介した。

「アメリカは分断社会になったと話題になって久しいですが、原爆投下の是非を巡っても分断が生じているわけです。こういう状況でオッペンハイマーの生涯を映画化するなら、確かに広島や長崎の惨状を描くシーンは避けたほうが無難でしょう。もし描かれたなら、原爆投下否定派は賛意を示しても、肯定派が拒絶する可能性があるからです。とはいえ、そうした興行的な判断を日本人が納得できるかどうかは全くの別問題です」(同・記者)

厳しい検証が求められる描写

 プリンストン日本語学校高等部で主任を務め、作家でジャーナリストの冷泉彰彦氏はニューズウィークの日本語電子版で連載されている「プリンストン発 日本/アメリカ 新時代」で、映画「オッペンハイマー」を取り上げた。

 昨年7月26日に「クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』を日本で今すぐ公開するべき理由」のコラムを配信。映画の問題点を指摘したのだ。

「冷泉氏は複数の問題点を指摘しましたが、その中の一つに臨界実験のシーンがあります。CGや音響効果を駆使し、観客に圧倒的な迫力を感じさせたのは事実だとしながら、このシーンは原爆の恐怖を描いたのか、それとも、原爆開発成功の勝利感と解釈される表現になってしまったのか、冷泉氏は《厳しい検証が求められます》と訴えました」(同・記者)

 さらに冷泉氏は、主人公のオッペンハイマーが戦後、広島の惨状を知る場面にも疑問を呈した。広島の被害を収めたフィルムを見るオッペンハイマーの姿は描写されたが、どんな光景がフィルムに映っていたのかは劇中で全く示されなかったのだ。

日米の被爆者を無視

「冷泉氏は、現在のアメリカで被爆地の悲惨な状況を公開することは、一種のタブーになっていると明かしました。その上で、23年5月の広島G7でバイデン大統領は原爆資料館を訪問しましたが、その際も『悲惨な展示は見なかった』ことも、映画『オッペンハイマー』で被爆地の描写が省略されたことと無関係ではないと指摘しました。冷泉氏は《被爆国である日本として、改めて真剣な問題提起をするべき》と訴えています」(同・記者)

 シカゴのデュポール大学で倫理学を教える宮本ゆき教授はハフィントンポストの取材に応じ、今年3月9日「原爆を作った『オッペンハイマー』の苦悩は、被害者より優先されるべきなのか。倫理学者が抱く危機感」とのインタビュー記事が配信された。

「宮本教授は、たとえオッペンハイマーが原爆開発を後悔して苦しんだとしても、広島、長崎の被爆者の精神的、肉体的な苦しみより優先すべき題材なのか、と厳しく問題提起しました。これは日本だけの問題ではなく、アメリカにも核実験で被ばくした被害者がいます。宮本教授は日米の被爆者の声に焦点が当たるより前に、原爆を作った人間と、投下した国の姿が映画化されたことに異議を唱えたのです」(同・記者)

「強いアメリカ」を描く映画

 ハフィントンポストの記事から宮本教授の痛烈な批判を引用しよう。

《この映画がスタンダードな原爆観になっていくことには危機感があります。加害側の苦悩やトラウマを無視して良いわけではありませんが、社会的に『強者』であった彼らが下した決断のもとで苦しむ被害者よりも、加害者に対する共感の方が強くなってしまうのではないか、と》

 3月12日には広島市の映画館で「オッペンハイマー」の試写会が開かれた。上映後のトークショーで、元広島市長の平岡敬氏は「原爆が作られる過程はあったが、広島の立場からすると、核兵器の恐ろしさが十分に描かれていない」との感想を述べた(註)。

「もちろん『オッペンハイマー』を擁護する声もあります。例えば映画評論家の町山智浩氏は、映画に否定的な投稿者とXで軽い論争状態となり、《オッペンハイマーが原爆投下を後悔してそれ以上の核兵器開発を拒否する話》、《広島での被爆者の後遺症の報告にショックを受け、核開発に反対するという物語》、《「原爆を作った人をヒーローとして描いているというのは完全な間違いです。彼自身の失敗と後悔、反省を描いた映画》と、映画『オッペンハイマー』は原爆投下を礼賛しているという見解に反論しました」(同・記者)

 今でもXでは激しい論争が続いている。東京では3月25日の先行公開も決まった。翌26日以降は、さらにネット上で激論が展開されるかもしれない。

註:映画「オッペンハイマー」広島で試写会 元市長「核の恐怖描かれず」(3月13日・毎日新聞電子版)

デイリー新潮編集部