マント
上衣として羽織る防寒着
その役割は袖の有る外套にとって代わられたが
典礼では権威を表わすに相応しい衣装として今日でも用いられている
故に普段着としてこれを身に纏う者は、大変な傾奇者か栄光の残り香を求める者だろう
在りもしない栄誉が戻るはずもないのだけれど
『私は誰?』という書籍が書店に並んだのは、雪が融け、新芽が綻ぶ頃だった。カインハースト出版という発行元を知る読者は僅かだっただろう。銀の縁取りが施された鮮烈な紅の表紙を捲ると現れる献辞は英国中に広まった。
「「故ギルデロイ・ロックハートに奪われた者達に献じる。」最近授業を欠席してるって聞きましたけど、取材旅行だったんですか?」
談話室で立体パズルに興じているヘルマンの前に、ダフネが本を持って現れた。
「中々骨が折れたよ。まさか被害者の親族や友人まで手にかけていたなんてね。薔薇がよく手入れされたいつから在るのか分からない無人の隣家が有って、そこで撮られた自分と誰かの写真がアルバムに収められている。気味が悪いとは思うけれど捨てられない大切なものだと答えた人もいた。
ロックハートは本人の記憶を消すどころか、存在すら消し去っていた。あれの罪を雪ぐには、地獄の業火でさえ生温い」
薔薇園は手を抜けばすぐに荒れる。故に、手入れされた無人の庭園などあり得ない事だ。
著者はジョン・ドゥという明らかな偽名だったが、ダフネがその本名をヘルマン・ツァイスだと見抜いた事に驚きはない。あるいは、その偽名さえ、名を奪われた死者を表わしているのかもしれない。皮肉と修辞に塗れ、ロックハートの罪業を暴力的な説得力で暴露していく書き振りに、校長の秘した計画を暴いたあの夜を思い出す者は多いだろう。
「故人って事はもう遺体が見つかったんですか? マリアから「多分死んでいるだろうさ」と聞いてはいましたけど」
「死体は見つからずじまいだったけれど、血に染まった紫のマントの切れ端が見つかってね。僕らはそうした死者の血から魔力を感じ取る事が出来る。余りに古いと揮発してしまうけれどね」
蜘蛛の掃討作戦は赤目犬を総動員した事で遂に終わりを迎えた。卵も遺骸も全てが灰となり、雪と共に春の空に消えていった。その魔力は森に満ち、命を育むだろう。
「カインハーストっていうのは? ヘルマンは聖歌隊っていうところでしたよね?」
「カインハーストはヤーナムを統治する者の事だ。街はボーン家とビルゲンワースという組織の合議体で運営されているが、建前上はカインハーストという王から委託されている事になっている」
ソファでくつろいでいたお兄様がダフネに説明する。他の7年生はイモリ試験に頭を震わせていたが、狩人として生きるにあたり試験成績など関係ない上に、家業を継ぐにしても魔術ではなく法律や会計を修めることになる。そもそもこれといって試験対策を要さない程にお兄様の成績は良い。最初こそ「同輩に悪いからな」と、だらけた姿は見せない様にしていたが、机に向かえば「嫌味か貴様」と言われ、遊んでいれば「楽しそうで何より」と嫌味を言われ、最早どうしようもなく開き直ってしまっている。
「もう1つ質問があるんですけど。ドロテア先輩とどこまで行きましたか?」
「……君もか」
ダフネは何事も無い様に振舞おうとしていたが、陰険眼鏡の恋愛事情への関心は隠しきれていない。同じ寮であるのだから本について問い質すなら機会は他にもあっただろうに、お姉様とドロテアが授業中で、ヘルマンが空きの時間を狙ったのだから本当に聞きたい事はそれだろう。
「何か誤解している様だけど、ドロテアを連れ出したのは彼女が居ると取材の時に便利だからだ。僕だけだと警戒されるけれど、彼女の明るさは人の心と口を軽くするからね。
それに、冷静に考えてみて欲しい。誰が犯罪被害者への取材をそうした色事に使おうとするんだ。本人も嫌だろうし、被害者達にも無礼だろう」
「そうした関係にあるのは否定しないんですね」
「それならドロテアが黙ってられるはずもないだろう? そういう関係になったら君にも触れ回ってるだろうさ」
事実、ヘルマンは書籍によって得た利益を被害者の遺族に渡していた。見ず知らずの他人の遺族とされたところで痛む心も無いと突き返される事もあった様だが、その分を他の遺族に上乗せして渡していた。ポッターとウィーズリーにもロックハートの死について情報料として支払っており、ウィーズリーは新しい杖を購入していた。
ドロテアが取材旅行に赴く際に「ヘルマンから頼まれちゃってさー」と、満更でもなさそうにしていたのも事実だが。その旅行について、ドロテアがケントに対してヘルマンの男子寮での言動を報告する様に先輩命令を出しているのも知っている。守秘義務はないのかとケントに問えば「別にボーン家の秘密とかじゃありませんし、あの2人のことは姫様も気になってるみたいですし」と、気軽に先輩を売っていた。加えて、ヘルマンが普段通りだったという報告に対してドロテアが不機嫌になったという密告も受けた。ケントへの信頼が少し揺らいだ。
「そうですか。お似合いだと思うんですけどね」
「就学前からの長い付き合いだからね。相性が良くなければこんなにも長くはやってられないさ。僕自身、僕の性格が万人受けするものではない事は分かっているし、ディルクとは未だに殴り合いの喧嘩もする。ケントは手のかからない弟みたいなものだから別だけれど」
「そう言われると俺が手のかかる兄の様に聞こえるんだが」
「そう言ったつもりですが」
お兄様が本に目を向けたまま呪詛を放るが、ヘルマンも茶を飲みながら同量の魔力を放って消滅させた。他の寮生が見物の為に集ってきたため、霧の結界を張り、目と耳を塞ぐ。お兄様とヘルマンのしていることは芸術とも言えるものだが、原因が原因だけに見せられたものでは無い。
「兄弟喧嘩くらいでそんな無杖無言の決闘なんて見せつけないでください」
「アストリアとはどういう喧嘩をするんだ?」
「そもそも喧嘩しないもの。ここ何年かは我儘や癇癪もなかったし……」
「あの子はいい子だしな。来年から1年生か。悪い虫の付かない様に見守ってやらなくてはな」
入学時、お兄様とお姉様は周囲に威嚇していたのを見て妹離れして欲しいと思ったものが、いざ自分が後輩を迎えるとなると気持ちが分かる。この様な魔境では心配するのも道理である。導いてやろうなどという傲慢は無いつもりだが、学閥抗争とも血の濃さとも関わりの無い健全な学生生活を送らせてやりたいとは思う。
「僕にもそう思ってたんですか?」
ケントは靄を抜けてくるなり、文字通り火花を散らし合っているお兄様とヘルマンに呆れた顔をした。
「いや? 後輩として可愛がるつもりではあったが。それにしても早いな」
「薬学でしたけど事故が起きて終わりました。蒸気を吸い込むと頭部が肥大する土留色の液体を作り出した学徒がいまして。大鍋から泉の様に湧き出てましたよ。患者達は医務室で寝台に縛り付けられてます」
海水に満ち、腐った果実の様になったわけでもあるまいが、頭部が肥大したと聞いて思い出すのは実験棟である。あの暗がりで殺してくれと哀願する患者達は狩人達の心に大きな傷をつけている。時計塔のマリアは、何を想ってあの狂気の中に身を置き、患者達に施しを与えていたのだろうか。
「貴公は?」
「血が薄いとはいえ狩人ですから。ちょっと瀉血すれば何ともありません。むしろ只人で影響がないなんて寮監はどうかしていますね。
それより、この喧嘩の原因は何です?」
「ヘルマンとドロテアの仲の良さかな。ヘルマンにとって貴公は手のかからない弟で、お兄様は手のかかる兄だそうだ」
「ドロテア先輩は手のかかる妹だと。いつまでそれで逃げてるんだか」
誰がと言わない辺り、ヘルマンとドロテアのどちらにも掛かっているのだろう。ケントはダフネに同意を求めたが、ダフネは遠い目をして喧嘩を眺めていた。姉妹で喧嘩は無いと言うが、珍しい物を見たという反応でもない。そもそもお兄様とヘルマンの殴り合いは今期になって幾度となく目にしているはずである。
「ダフネ?」
「え?」
「いや、いつまで兄妹のつもりなんだろうなとケントが」
「マリアとケント君が? 付き合ってたの?」
「違います。ヘルマンとドロテア先輩です」
「あぁ……うん、ごめん。聞いてなかった」
そう見えるのかと訊きたくもあったが、それ以上にダフネの様子が気になった。お兄様達も同様で、休戦してダフネをじっと見ていた。
「お茶淹れますか?」
「ありがたいが、ケントの次の授業はいいのか?」
「同学年みんな倒れてますから授業はありませんよ。姫様とダフネ様は?」
「次は防衛術だから実質休講だ」
防衛術の後任は決まらず、重要な試験の有る5年生と7年生にのみ寮監が臨時で教鞭を執り、他は自習となっている。今まで教わった事が無い言葉が頻出する嫌がらせだという評判だが、教科書を普通に読んでいれば理解できる内容でもあるというのが蛇寮の一部と鷲寮生全体からの評価である。それだけ今までの防衛術教育は杜撰だったのだろう。寮監がそのまま兼任した方が学徒の為ではないだろうか。
ケントは平鍋に茶葉を流し込み、そのまま火にかけ始めた。
「チャイか? 食堂から牛乳を貰ってくるか?」
「いえ、ホウジチャというものです。茶葉を炒って香ばしさを加える淹れ方で、苦味が減って口当たりはあっさりします。ヘルマン、すみませんが皆さんにこれを配ってください。干し柿は以前お渡しした事がありましたよね」
「ああ。最初は白カビが着いているのかと思ったよ」
「糖の結晶ですって説明しても警戒されたのは参りましたよ。貴腐ワインみたいにそうして乾燥を早める製法もあるみたいですけどね」
ケントが平鍋を揺するにつれ、香気が部屋に満ちていった。湯呑に注がれた茶は澄んだ琥珀色で、紅茶とも異なる。
「良い香りだ」
「珈琲とは違って焙煎したての方が香りを出しやすいですからね。お代わりも直ぐ出せますので、熱いうちにどうぞ」
一口含むと、湯の色からは想像出来なかったあっさりとした味わいがあり、仄かな甘みが舌に残った。干し柿の甘さを塗り潰すではなく、その隙間に染み渡る様な香気と甘みである。
しばし言葉も無く賞味していると、知らずと2杯目をケントに注いでもらっていた。
ダフネも茶を愉しみ、幾分か落ち着いていた。それを狙っての選択だろうが、カモミールやエルダーフラワーといったあからさまな鎮静作用のあるものを選ばない辺り、ケントの気遣いが感じ取れる。
「ありがとうケント君。おいしいわ」
「お粗末様です」
ケントは再び鍋を揺すり始め、ヘルマンはその所作をしげしげと眺めている。
「それで?」
「……妹の事で。マリアは会ったとき、どう思った?」
「快活だったな。絵画に親しんでいたことは雰囲気に合わないとも思ったが、力強さがあった。次の夏にまた見せてもらいたいものだ」
別段ヤーナムの外の子供を知るわけでもないが、父母や友人ではなく風景画を描き、その題材も静かな朝というところは気になった。だが、その中で力強い生命の息吹は感じ取れた。
「本当にそう思う?」
「ああ」
「グリーングラス家の血は呪われているの」
「何かの比喩か、それとも字義通りか?」
「血の呪いよ。聞いたことはあるでしょう?」
血の呪い。
獣の病が血液感染する呪詛であるならば、血の呪いは遺伝性疾患である。
「あの子は明るいわけじゃなくて、家族を落ち込ませない様に明るく振る舞ってるだけ。絵が趣味なんじゃなくて、家族を心配させない様に外を出歩かないだけ」
名家の血が呪われている。それが信憑性の無い噂だとしても忌避する者は多いだろうに、次期当主がそれを認めてしまっている。軽々に口に出していい事ではないだろう。故に、それを口に出してしまう事は、ダフネの精神の疲弊を表わす。
「つまり、兄弟喧嘩を見て妹を想ったと。しかし何故それを今になって? 俺とヘルマンの殴り合いなんてよく見ているだろう?」
「第一、僕らに聞かせていい話でもないだろう。もちろん、僕らが血の呪いを聞いたからといって君への態度を変える事は無い。多くは語れないけれど、僕らもまた呪われた存在だからね。だが、君の中では大きな葛藤があったはずだ。同情を引こうとするつもりなら止めておくといい。助けてくれと言われたら可能な限り助けるけれど、助けてやろうと傲慢な事を言うつもりはないよ」
「ヘルマン。加減しろ莫迦」
お兄様がヘルマンを黙らせた。ヘルマンの言葉に苛立ちはするが、筋は違えていない。助けてくれと鐘を鳴らされたならば助けるが、勝手に事情に立ち入る者は侵入者である。
「クリスマスに家に帰った後、父がアストリアを学校に通わせないと決めました。継承者の敵が本当に純血を狙わないという保証もありません。血の呪いを受けている者なら尚更に。そしてこの事件によって、反純血の気風は更に勢いを増すでしょう。あの子を心配されている母を想っての事でした。
あの子はここ数年で久しぶりに大泣きしたんです。
私は学校に通えるのにずるいと。顔も見たことも無い遠い先祖が受けた呪いを、何故子が受けなければならないのかと。私がどこかから婿を貰って子を成す頃には、自分は死んでいるのだろうと。こんな想いをするくらいなら生まれたくなかったと。血を継ぐためだけに子供を作って、その子供に呪いを継がせて何がしたいのかと。
私も両親も何も言えませんでした。使用人だけが、あの子を抱きしめて一緒に泣いていました。あの子に何も言えないまま、私は学校に戻りました。
これからウィーズリーの子が継承者だったと皆が知れば、より反純血主義は強まるでしょう。純血なんて悪の枢軸でもなくて、ただその様に生まれただけなのに、石を投げつけてもいい存在になる。そうなれば、私もここにはいられなくなるでしょう。あの子の嘆きを受け止められないまま、私も死の影に怯えながら、あの子を看取ることになる。
お父様とお母様は、初まりこそ家の事情でしたが、私と妹を愛しています。2人が愛し合ったからこそ私達が居るのに、それをあの子にディルク先輩とヘルマンの様な喧嘩をして教える事は、私には無理だったんです。
……私もこの血を恨んでいますから」
ダフネは目を見開きながらも涙を頬に伝わせている。
ダフネとアストリアの嘆きを、小ウィーズリーが親を詰ったものと同じとは言いたくはない。
友人ではあるが、出来る事など何もない。その痛みに共感する事で呪いが解ける事は無く、かといって鼓舞する言葉も見つからない。ダフネと笑い合う日々の中で、その呪いの影を知らずにいた自分が何を言えようか。
ヤーナムは医療の街ではあるが、血の呪いを解呪したという研究報告は無い。ヤーナムに限って言えば、世で言われる血の呪いの罹患者は皆無である。それは漁村民が願い、ゴースが与えた呪いの方がより強く発現しているのか、あるいは単純に呪いを受けた血脈が無いのかは定かではない。
「……夏の間に錬金術を学び始めたというのは、賢者の石に希望を見出したか。元は鷲寮に入りたかったとも、薬学に興味があるということも、マリアから聞いている。全てはその治療を志してか」
「はい。でも、浅はかでした。何世代もその呪いに怯えているのに、賢者の石を知らないはずもありません。結局、あの霊薬に解呪の力は無いと、4世紀前の祖先の手記に遺されていました。それに……」
「ヴォルデモート以前の大犯罪者達が狙わないはずもないですよね。フラメル氏が真っ当な医療者で、霊薬が不老不死の肉を作り出すなら、今頃医術なんて概念は無いでしょうし。多分、死に瀕した者にだけ、ほんの僅かな延命をさせるんでしょう。
姫様の狩った獣は、獣になった事で霊薬が真に霊薬としての力を現したのか、それか啜った一角獣の血の力か、元々軟い骨肉の代わりに回復力に優れる獣に変態したのか」
ケントがダフネの湯呑にお代わりを注いだ。
殉教者の獣、クィレル。その特性は既にビルゲンワースの知識に組み込まれている。お父様の言葉を受け、ある種の恥とも感じたせいか、ケントに詳らかに語った事はない。ケントはビルゲンワースを参照したのだろう。
「父母もヤーナムという街の名を知っていました。いずこかに消えてしまった医療の街と。私に言われてから、ドイツ系の名前を持つ同輩を思い出した様ですが、そうした術を掛けているんですか? 卒業したら、私も皆さんを忘れてしまうのでしょうか」
「いや。単純に当時の狩人が目立たなかったというだけだろう。そもそも僕らは闇に紛れて獣を狩る者。魔法省でも僕らの実態を知る者は限られている。こうして石や蛇の騒動に関わる事は異例だ。御当主様にしても、ビルゲンワースにしても、蛇狩りに狩人として関与していいと言われるとは思わなかった」
確かにボーン家は長命であるが故に、特殊な化粧や魔術によって老化している様に見せたり、その子供を装ったりして旧友と逢う者も居る。あるいは接触を断つ者も居る。それ以外の狩人は地底人と呼ばれる様な者でなければ只人と同じ様に歳を重ねる。それでいてヤーナムの名が然程知られていないのは、かつて狩人とは何者であるのかを知られない様にしていたからである。
今でこそ、血統魔術を継ぐ者であるという程度は語ってもよいことになっているが、幾つかの知識は街の外に持ち出してはならないと就学前に教わる。もっとも、宇宙は空にある、脳に瞳を得るなどという言葉で只人が何をか理解できようか。
「僕らがどうあれ、問題なのはグリーングラス家の血の話だ。結局のところ、肝心な話を聞いていない。君はどうしたいのか」
ヘルマンの言葉はヤーナムの民から話題を逸らすためのものではない。つまるところ、いつもと同じ意志の話である。
「……分かりません。死は恐ろしいけれど、それを恐れて何もかもから目を背ける事が正しいとは思えません。妹にも、心から笑って欲しい。助けて頂けるなら、助けて頂きたいです。けれど、もうグリーングラス家は幽かな希望に縋る事に疲れてしまっています。友人という立場を使ってヤーナムの力を借りる様な事もしたくはありません。結局助からなかったとき、マリアや皆さんと変わらず友人としていられるか、私には分かりませんから。
でも……やっぱり、辛いです」
見えた希望が偽りであったと知ったとき、ルドウイークは人を失った。狩人は偽りの輝きを追い、谷底に突き落とされる。それを知っているからこそ、軽々しく慰めの言葉を紡ぐことは出来ない。
だが、ダフネの嘆きに「分かるよ」とも「聞けて良かった」とも、知った様な言葉で共感したつもりになる事は、友人ではない。
昨夏は狩人としてではなく、只の友人としてハーマイオニーと共に行き、クィレルを殺したのだ。だが、ダフネはそれを止めた。友であるからと、易く狩人の力を求める事は違うと。
違うのだ。友であるからこそ、側に在りたいのだ。狩人としてではない、マリア・アイリーン・ボーンとして、ダフネ・グリーングラスと共に在りたいのだ。
「O Freunde, nicht diese Töne. Sondern laßt uns angenehmere anstimmen und freudenvollere.」
「……なんて?」
「あぁ友よ、この様な調べではない。心地よく、喜びに満ちた歌を始めよう。意訳すると、友人なのだから、哀切極まる祈りではなく、共に在る様に笑ってくれといったところでしょうか。
姫様の不安の表れです。聞かされていなかったとはいえ、1年半も共に過ごしてきて何一つ気付けなかったのに友人でいていいのかと。
僕としてもそんなギクシャクする先輩と姫様を見たくはないので、お二人とも素直になってください」
ケントに解説されるうちに、こうして誤魔化す事でしか心を伝えられない事に羞恥が込み上げてきた。
「うるさいだまれ」
「まぁ……マリアの言う事ももっともだね。マリアがグリーングラス家の事をどうにか出来るとは言わないけれど、このままではどうにもならないと分かってしまったことを、傍で見ていなければならない痛みは分かるだろう。その痛みを与えたいわけでもないだろう?
君の葛藤も分かるさ。去年、石の護りにマリアが挑もうとした時、止めただろう。マリアとグレンジャーを待ちながら、泣いていただろう。それを今になって狩人に助けてくれとは言いたくは無いだろうし」
「無論マリアだけではない。俺もまた、後輩の苦しむ姿を座して眺める様な事はしたくはない。助けるとは確約しないが、助けになる様に精励することは確約しよう。
経緯がどうあれ、教会の教えを継ぐ狩人は医療者だ。血の呪いを病と捉えれば、それを剋する事に狩人としての在り方は揺るがない」
「絶望に苛まれて獣になられても困りますしね。いや、あるいは本当に狩った記録もあるかもしれませんよ。名家の力ある血です。その絶望にくべられる祈りも大きいでしょう。それに、獣となったグリーングラスを狩った時、マリアもまた獣に成るかもしれない。
……建前としてはこんなところでいいでしょうか」
ヘルマンもまた、ダフネに名前で呼ぶことを許す程度には彼女を好意的に見ている。しかし、それ故にヤーナムの力を使う事は摂理に反すると考えている様だった。
今日のヤーナムは人にして上位者たるボーンの血族を擁し、惨劇から湧き上がる獣の病を根絶せんが為に在る。だが、世界中の戦争を終結させ、貧困と飢餓を失くすわけではない。人の世が起こす事は人が解決するべきであるからだ。悪夢から人の世に零れた血の飛沫を拭い去る事がヤーナムの使命であり、上位者の血を以って現実を好き勝手に塗り替える事は赦されない。
そして、アメンドーズの様に長い腕を幾本も持つわけではない。救える人の数は少なく、水を掬ぶ様にその指先から零れる事もある。その現実を前にして、自らの友であるからと救う事は少なくともヘルマンにとっては不誠実なのだろう。
「貴公も不器用だな」
「線引きは必要ですからね。英国魔法界の成人は17歳ですが、17年と16年364日とではどれ程違うのか。では364日と363日とではどう違うのか。363日と362日では? それを繰り返せば、生後1秒でも成人ですよ。それが実際にどういうものであれ、そうだと決める事が重要なんです」
「何とどう向き合うかを決める事は、自分が何者であるかを決めるという事ですか。じゃあドロテア先輩にはどう向き合うつもりなんです?」
「五月蝿い黙れ」
ヘルマンはケントを睨むが、ケントは目も合わせずに給仕を続けた。
「何だ? 僕がそんなに嫌いなのか?」
「いえ? 普通に尊敬してますよ」
「なら「敬愛するツァイス先輩」と言ってみろ」
「Cho sugoi Zeiss daisenpai wo majide sonkei shiteimasu」
「英語で言えよ」
「あい かーんと すぴーく いんぐりっしゅ」
「マリア。先輩として言う。コイツを躾けてくれ」
「よしよし、良い子だ」
猟犬にそうする様にケントの頬を撫でてやると、ケントはもう一つ干し柿を出してくれた。汝右の頬を撫ぜられれば左の頬も撫ぜられるが為に菓子を差し出せ。気の利く後輩である限りは今後も撫でてやろうと思う。
ダフネの涙が失せ、自然に笑える様になった頃、お姉様とドロテアが帰ってきた。談話室の一角を占領する靄の結界に驚くかと思えば「また喧嘩? 飽きないねー」というドロテアの言葉にダフネがまた笑った。結界を解くと、泣き疲れたのだろうダフネは部屋で午睡を取ると言う。天文学の時間までには目の腫れもひくだろう。
ダフネが女子房に入ってから、ヘルマンが口を開いた。
「よくやったケント。僕はこういう事に不慣れだからね」
「いえ、ヘルマンの援護のお蔭です。ディルク様や姫様をダシにしてダフネ様を笑わせるわけにはいきませんからね」
「私の友人の為なのだから、別に気にせずとも良いのだが」
「僕自身が姫様を小道具の様に扱うのは嫌ですから。それと、ヘルマン。一応誤解の無い様に言っておきますけど、尊敬しているのは本当ですから」
「少し疑ったよ」
「何があったん?」
ドロテアが小首を傾げながらヘルマンに問う。お姉様は干し柿をナイフで切り分けていた。
「グリーングラス家は痛っ! いや、すまない。今のは僕が悪かった。血の呪いの罹患者だそうだ。噂は聞いていたけれど、やはりね。
で、黙ってますが……ディルクは何か思いついたんですか?」
ヘルマンは周囲の寮生に聞かれない様に、ドロテアに囁いた。耳元に吐息が当たったのか、ドロテアは肩を跳ねさせ、ヘルマンの顎を打った。
お兄様は目を瞑り、眉根を揉んでいる。
「白い丸薬は論外だな。血に潜む虫は呪われている状態こそ正常なものとして捉えているのだろう。グリーングラス家の先祖が賢者の石による霊薬を取り込んだとして、解呪に至らなかった理由をそこに求める事も出来る。輸血液は誓約を結んだ狩人でなければ意味が無く、ダフネ嬢にしてもアストリア嬢にしても下手をすれば内在闘争による獣化の危険性がある。瀉血をするにしても、血の全てが呪われているとすれば行き着く先は木乃伊だ。では白血病の様に造血器官の移植ではどうかと考えれば、それも結局呪われている部位はどこか、移植したとてそれさえも呪われるのではないかという話になる。
では血の呪いとは何故発現するのか? 全てのグリーングラス家の血族が呪いを発現させるならば、とうに血は絶えているはずだ。
そこに手掛かりがある様に思う。星の子等が成長すれば星の娘に成るのかどうかは分からないが、成ると仮定しよう。では、あれらが加齢によって変態するのであれば、イズは暴かれていなかっただろう。野良エーブリエタースの大群に囲まれたレバーなど考えたくもない」
「驚いた。本当に真面目に考えてる。
まぁ、イソギンチャクの砲台でさえ苦労しますからね。それで得られるのが玩具みたいな傾神秘の結晶ですが、あれ悪意の塊にしか思えませんよ。
ボーンの血族は肉体の全盛期までは成長しますけど、別に変態するわけじゃありませんしね。それとも、何かがあれば新しい腕や尻尾が生えるんですか?」
ヘルマンは事も無げに言うが、いつかは老いたヘルマンやドロテアを看取る時が来る。老婆となった狩人の葬儀で、若いままの姉達が静かに佇み涙を流していた事を思い出す。彼女らにも、お兄様とヘルマンの様に殴り合い笑い合う日々があったのだろう。
「知らんのか。兄が言うには、父上は酔って蛞蝓になった事があったそうだぞ。冗談か何かの比喩かは知らんが、人形に訊けばクスクス笑っていたのが不気味だったな」
今日に於いて交通の要衝たる狩人の古工房であるが、人形が未だなお安置されている。誓約を結び、狩人となった者には、彼女が動き、庭園を掃き清める姿を見る事も出来る。寒い日には茶と菓子を出してくるなど、夢幻の内にあるヤーナムでは決まりきった事しか語らない彼女に比べれば些かの人間味を見せるが、それがかえって不気味でもある。
「ただひたすらに血を啜り、遺志を貯め込んだところで何者にも成り得ないのだろう。その手段によってアンナリーゼ女王が不死となった事は驚嘆する他無いが、女王は上位者ではない。あのお方自身には神秘の業や血の力を扱う術がないからな」
「殺しても死なないというのはある意味どの上位者よりも優れた者ですけどね。その肉片をその加害者の眼前で拾ったという御当主様はどの様なお考えだったのか……」
「訳も分からず獣狩りの夜に巻き込まれたのです。事前知識の有る私達ではその恐怖や困惑は計り知れません。故に、何がまともで何が狂っていたのかなど、私達が断ずる事は出来ないわ。臍の緒と呼ばれた寄生虫の血を啜った理由も、それこそ天啓としか言えないでしょう」
女王の血を啜り、臍帯血によって上位者に至り、そして望んだ女を孕ませた事で夜を明かした。改めて整理すると、お父様の行いは意味不明である。
肉片を持ち運び、それをふと思い立って祭壇に捧げる事で復活させるという意味不明さはどうかしていたと、お父様自身が語った。
正史となっている最後の夜では、お父様はアルフレートに招待状を渡さなかった。夜が明け、医療教会の欺瞞と処刑隊の末路を懇々と説き、共に血と瓦礫の散乱する街を清潔にしたという。ジェラルドの様に処刑隊の遺志を継ぐ者は、今日ではヤーナムの治安を担う者となっている。
「妻達の尻に敷かれ、上位者になってなお女王に傅くとはつくづく女は恐ろしいものだ。アンナリーゼ女王がその気になっていれば俺の母親は4人いたかもしれないな。いや、あるいは既に俺の知らない異母兄弟がいるかもしれない。英雄色を好むと好まざるとに関わらず、胤を請われる事は有るだろうからな。
……話を戻そう。血の呪いとは、何かによって発現するものだとみていいだろう。因子こそ継がれるが、発現するかは別なのだろう」
「無能者と同じ。血中に虫がいたとして、それが魔力を生じるかどうかは別の問題。無能者同士の子であっても、魔力を発現させる者も居る。そういう事かしら」
「逆でもあり得るんじゃない? 何かの作用で本来発現するはずの呪いが抑制されているとか。どっちにしたって、何かが切っ掛けになってるってのはディルク先輩にさんせー。
ケント、お代わりちょーだい」
「はい喜んで」
夏にグリーングラス邸を訪問するまで、ダフネに妹が居る事は知っていたが、どの様な子であるのかは知らなかった。ダフネからもこれといって伝えられることも無く、夏になりようやくその人となりを知ったつもりでいた。
ダフネとアストリアの違いとは何であろうか。知ったつもりであったアストリアは向日葵を思わせる明るい少女だったが、それは擬態であるということだった。日を追う様に笑顔を見せているだけで、実際は硬い殻を纏っている。
あるいは、ダフネもそうなのだろうか。慈愛を以って接している様で、その中の昏い怯えを覆い隠していた。それは、ダフネからの信頼を得ていないということだろうか。
「マリア。また悩んだ顔をしているわね。ダフネから嫌われていたんじゃないかって心配しているのでしょう?」
お姉様が湯呑を置いて、嘆息した。開心術を使うまでも無く心を見透かされていた。
「それは違うわ。友達だからこそ、言いたくない事もあるでしょう。友達という立場に甘える事を恥じて、友達では無くなってしまう事を恐れて、余計に言えなかったのよ。クリスマスに妹さんの事があって堤が破れてしまっただけで、いつかきっと話すつもりだったと思うわ。
だって、いつ急にお別れを言う事になるのか分からないと思えば、そちらの方が恐ろしいもの。マリアもいつか血に呑まれてダフネを殺める事になるかもしれないなんて、ダフネに伝えた事はあって?
第一、嫌っているのなら同じ寝室を使うはずもないでしょう?
それに、無二の友と思うのなら、たとえ与えてもらわなかったとしても与えなさい。与えられたから応えるのでは、ただの商売相手でしょう。愛とは見返りを期待しない事、与えられずとも変わらなく想い続ける事よ」
「……心得ました」
お姉様は親しまれているが、特に親しい友はいないと、ドロテアが言った事がある。曰く「イングリットはね、友達の基準がキビしーんだよ。それに卒業したら会わなくなるだろう人間とそんなに関わってたら、後で辛くなるしね。誰にでもあらあらうふふって愛想振りまいてるのも、逆に近寄らせない為のショセージュツってワケ。なのに勘違いした男子が言い寄ってくるって嘆いてんだから若干アホだよねー」とのことだった。
阿呆呼ばわりには同意しかねるが、お姉様の人との距離感が独特である事は分かる。そんなお姉様だからこそ、ダフネを想う気持ちに嘘は無いのだろう。
「さて、今日明日でどうにかなるものでもないだろうが、教室棟、実験棟、メルゴーの高楼、それらしきところは探してみよう。狩りではなく、学ぶとあらば久しぶりに学徒の正装に身を包むことになりそうだな」
「マントの有無は?」
「無くていいだろう。ミコラーシュに同族と思われても腹が立つ」
狂人ミコラーシュ。装いこそビルゲンワースの学徒のものであれ、その思想はかけ離れている。脳に瞳を得るという、即ち蒙を開くという言葉を、物理的に実行しようとした連中の首魁である。確かにあれらが行った儀式は月を呼び、上位者に見えた。しかし、その上位者の名も知らず、その上位者から与えられた慈悲は、文字通りに瞳を得た脳だけであった。
肉体を木乃伊にやつしてなお、悪夢の中で上位者との語らいを求めるそれが身にまとうマント。それは、在りし日への追憶を意味するのだろうか。
ゲールマン翁はマリアへの想いを人形に込め、そして捨てた。ミコラーシュが操る傀儡人形には、何が宿るのだろうか。