深夜食堂

 

(この記事は2020年7月8日に旧ブログに掲載された記事の再掲です)

モニさんがお酒を飲むのをやめてしまったので、このごろでは眠れない夜に、自分の机の前に座って、表計算ソフトの前であったり、Netflixを観ながらであったり、PCゲームにうつつをぬかしたりしながら酒を飲むことがまた多くなった。

ワインが空になって、ウイスキーに鞍替えして、ボトルが半分あくころになると、ときどき、Midnight Diner、日本のドラマ深夜食堂をNetflixオリジナルから探し出して見ることがあった。

ドラマ自体の筋立ては、ほんとうのことを言うと、あんまり自分の好尚にはあっていなくて、ちょっと新派の臭いがして、苦手の部類に属するが、小林薫とオダギリ・ジョーというふたりの、もっと作品に恵まれればいいな、といつも思っている俳優が出ているので、酔ってしまえば、安全に観られるドラマです。

ドラマの名誉のために述べておくと、誰が観ても、たいへんにたいへんに日本的なドラマだが、西洋人に評判が悪いかというと、そんなことは全然なくて、不思議や、西洋の人間も多少は異文化に心を開くようになったのか、人気があってNetflixオリジナル版は、特に、大成功だったと聞いている。

自分では、どうやって観ているかというと、小さな声でいうと、初めのオープニングだけを観ることが多いんだけどね。

見渡す限りのネオンの洪水で、新宿なのだとおもうが、ネオンの海があって、人の波があって、クルマも、店も、サインも、所狭しと溢れている。

あー、日本だ、なつかしいなあ、とおもう。
感傷的な気持のときは、涙ぐんでしまうこともあります。

作った人には大失礼だが、ドラマのほうは始まっても、日本語の意味をとるのがめんどくさいのと、字幕を観るのはもっとめんどくさいので、ただつけっぱなしにしてあるだけで、脇にある27インチのiMac本体のほうにウインドウを移して、ただ流しているだけで、目の前の43インチでは、フォーラムやツイッタや、emailで、ほかのことをやっている。

このドラマに初めて興味をもったのは、小林薫が出ていて、主演で、へえ、そんなドラマがあるんだ、と好奇心で観てみたら、のっけからCailin Deas Crúite na mBóが流れてきて、びっくりして、涙が出てきた、ということがあったからでした。

Cailin Deas Crúite na mBóは、アイルランド特有のしい旋律と西ゲール語の素朴な美歌詞によって有名な歌で、牛の乳搾りの若い女の人の美しさにぼおっとなった青年が女の人の美しさを述べるのに、女の人が、わたしはただの田舎者の牛飼いで、いまの生活でいいのです、と述べる、例の、現実をそのまま目の前に放り出して、どんな近代的な論評も拒絶する、アイルランドと連合王国人の、基礎をなす感情を歌っている。

この歌が大好きで、わざわざゲール語の歌詞までおぼえて、年中、鼻歌でうたっていたぼくは、すっかりぶっくらこいて、なんで、どこでこの日本の人たちは、この歌を見つけて選んだのだろう、と訝ったりしていた。

この頃は、日本がどんな社会でも、もう、どうでもいいのではないかとおもうことがある。

興味がなくなった、という意味ではなくて、日本がついに民主制にたどりつけなくて、アメリカ軍が押しつけていった形式だけの民主制に留まったとして、だから、どうだというのだろう、という気持になってきた。

こっちもめんどくさくなったので、飾らずに、率直に、まっすぐに述べると、ぼくは日本の文化が大好きで、しかも、ぼくの机の上のモニタのなかでは、小津はいつまでも小津で、東京物語のなかの同潤会アパートでは、若い戦争未亡人の原節子が、日本語に精通して、日本文化の秘匿された言葉を知っているものだけに通じる言葉で、違うんです、おかあさま、自分は善い人間なのではないのです、と述べる。

本棚から抜き出して俊頼を読めば、芸術的方法というものだけが透徹した思想をお前に与えるのだと述べて、透谷を読めば、彼が終生そうとは知ることができなかった西洋世界の非望の声を聴くことが出来る。

もうそれで十分で、日本は誰がどう観たって全体主義で、個々の国民は「国体」の幻影によって踏みにじられて、気息奄々、息も絶え絶えな暮らしを送っているが、少し距離をとっていえば、それは日本の人達の問題なので、ここからは、いくら遠隔操作のマジックハンドの言葉を手に入れても、直截、良くすることに参加することはできない。

日本の人に話しかけてみて、限界を感じた、ということもあります。

フェミニストにしろ、LGBTサポートの人にしろ、自分が社会のなかの人間として少しでも助力したかった種類のひとびとは、正直に述べて、日本語の人はゴロツキじみていて、NZや他の英語世界のひとびととは、随分、勝手が異なっていた。

あんまり言葉を交わしたことがない「金玉蹴りフェミニスト」の人が、どういうことなのか、「ガメ・オベールが人種差別主義者なのは誰でも知っている」と述べている。

LGBTQサポートを生業にしている?らしい人が「ガメ・オベールがカルトの教祖であってドメスティック・ヴァイオレンス夫なのは言うまでもない」と述べている。

このときは流石に、あまりに人間としての程度が悪くて、うんざりだったのでモニさんに話したら、「わたしはガメはいっさい日本人と関わらないほうがよいとおもう」と言う。

大仲良し友だちのひとりは、たまたま英語世界のフェミニスト運動のなかで有名だが、酔っ払って、うっかりこぼしたら、「フェミニストであるよりも日本人だということもあるかもな、ガメ」と微妙なことを述べていた。

慰めてくれたのだとは、おもうが。

自分が属していない文明/文化に対しては「距離のとりかた」はたいへん大事なのは判っている。

編集者の友だちが教えてくれた人で、いつもは「森の人」と呼んでいる、巖谷國士さんという人は、自分にとっては、たいへん判りやすい人で、この人は日本語で話しているのに、英語かフランス語で話しているかのように、位相を踏み換える努力なしに言っていることが、すんなり頭に入ってくる。

「この人は日本の人だから」と考えて補正しなくてもいい、不思議な人です。

日本の人であることを意識しなくてすむ人は、ネットの外では、幾人かいて、16歳くらいから、ふたりとも、アメリカ、NZ、フランスと30年くらいも日本の外で暮らしていた日本人夫婦や、いろんな人がいるが、ネットの世界は意外と田舎で、そういう人と出会うことは少なかった。

ネットで会った人でいえば京都で不登校児童として子供時代を過ごして、子供なりに懸命にこの世界で生きのびる方法を考えたのでしょう、15歳でニュージーランドへやってきて、そのまま定着して、いまでは自分がやってきた頃よりもおおきな娘さんがいる晩秋 @debut_printemps も、ふつうにキィウィ・ウーマンで、「このひとは日本の人だから」と反応を偏光器にあてて修正しなくてすむが、自分が経験した限りでは、やはり数は少なさそうです。

考えて見ると、自分にとっては日本は「深夜食堂」のドラマそのものとおなじ見え方で見えている。

うまく言えないが、情緒過多で、なんだかうんざりさせられるようなくどい感情がまとわりついていて、それなのに、その世界の文法がわかってしまうと、そこから目が離せなくなってしまう。

なにもかも、下手な演技や、つっかえ気味の科白まわしで、ガックンガックンしているのに、最後まで観ていると、途方もなくやさしい気持になる。

この日本のダメな魅力は、日本人でない人間の、しかも日本が好きで、ずっとずっと眺めてきた人間にしか判らないのではないか、とおもうことがある。

情け容赦ないことをいうと、文化の質は高いのに、日本の社会なんて、チョーだめで、政治もダメダメダメで、性差別に至っては神様に許してもらえないほどダメな社会だが、その瘴気の底には、なにかが横たわっている。

グローバリズムには、ひとつの定規しかなかったが、日本を観ていると、もしかすると、それは決定的な誤謬であったかもしれないとおもうことがある。

いまは、自分が、日本のなにごとかが好きなのだという自分の感覚を大切にしようと思っています。

論理よりも直観が正しいことに辿り着くということがあるかもしれない。

あるいは、The lunchboxのShaikhが述懐したように

“The wrong train can take you to the right station.”

ということですら、あるのかもしれない。

少なくとも、性急に、西洋物尺をあてはめて、云々デンデンすることはない。

多分 (←口癖)



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