ロスマリヌス
医療教会の上層、「聖歌隊」が用いる特殊銃器
血の混じった水銀弾を特殊な触媒とし、神秘の霧を放射し続ける
歌声と共にある神秘の霧は、すなわち星の恩寵である
「美しい娘よ、泣いているのだろうか?」
聖歌隊の聖歌隊と聞いて、ハーマイオニーは何を想うだろうか。ヘルマンはその聖歌隊の聖歌隊である。ヤーナムの伝統的な聖歌もロスマリヌスの奏でる旋律もグレゴリオ聖歌とほぼ同様であり、血への欲求と悍ましい狂気に冒されていたとして、美は普遍的なものなのだろう。
新年には聖歌隊の歌声がロスマリヌスの霧に包まれた大聖堂から街に響く。その後に、お父様からのお言葉がある。
お父様は「俺には民衆の為になる話なんか出来ないよ。アンナリーゼ女王の方が威厳あっていいじゃないか」と、この行事を嫌がっているが、夜明け以来の伝統となっているらしい。お言葉と言っても短いものだが、それでも街の者は「お言葉がなけりゃ新年って感じはないからね」とありがたがっている。
「ヤーナムの皆さん。新年明けましておめでとうございます。今年も子供達が健やかに育つ様に、大人達は励みましょう。子供達はその姿を見て、健やかに育ちましょう。
今年を迎えられたことを先人に感謝し、今年生まれる命を祝い、ヤーナムの皆で育みましょう。皆に遺志の加護と祝福があります様に。
えー……毎年の様に手短に済ませたかったですが、今年は業務連絡もあります。ホグワーツ魔法魔術学校の森でアクロマンチュラの群れが確認されました。英国魔法省からの要請に基づいて、既に数名はホグズミード村の警備に当たってもらっていますが、近く森を掃討する事になります。参加したい方はビルゲンワースに詳細を聞いてください。ちょっとした小遣い稼ぎにはなると思いますので、俺も行けるなら行きたいです。長老方からダメって言われました。残念です」
狩人にとっては単に大きな蜘蛛でしかなかったが、魔法省により最大級の危険と認定されている生物である。当然魔法省だけで対処できるはずも無く、ヤーナムに悲鳴の様な駆除依頼が届いている。
お姉様とドロテアの負傷を隠蔽した事について散々なお説教を頂いてからホグワーツに戻ると、休み明けに催される祝宴の準備が進められていた。犠牲者たちは未だ石のままであるが、騒動は一応解決しており、今年は盛大な宴となるだろう。
「君への手紙だ」
談話室でケントが茶を淹れるのを待っていると、寮監が現れた。ケントがもう1つ器を用意したのを見て、寮監は「不要だ」と告げた。
寮監から手渡されたのは、銀の装飾があしらわれた黒い封筒だった。黒い手紙となると不吉さを思わせるが、滑らかに処理された重厚な羊皮紙はそれが高価なものであることが分かる。
朝食はヤーナムで摂ったため、梟が寮監に届けたのだろう。知恵の女神の使いとはいえ、鳥とは思えない知性である。
「マルフォイ家のものだ」
「私に? あ、いえ、まずは挨拶を。明けましておめでとうございます」
「おめでとう。君は理事の眼鏡に適った様だな。吾輩には校長の憶測をそのままにした事への恨みが綴られていた」
何がめでたいのかと言わんばかりの寮監だったが、一応は返礼があった。寮監とマルフォイ氏は旧友であり、両者ともに元死喰い人であったという噂である。マルフォイ氏からしてみれば裏切られたと感じるのも無理からぬことだろう。
マルフォイ氏から聞いたことは、その後に校長室で語って聞かせた。ウィーズリー家は訝しんでいたが、校長はマルフォイ氏の思惑とは別に何かを納得した様だった。
「あぁ、やはりその通りです。感謝状でした。あと小切手ですね。頂いて良いものなのでしょうか」
額面は3,000ガリオンだった。狩人一人当たり500ガリオンの計算だろう。狩人からしてみればさしたる金額でもなく、蜘蛛狩りに参加すれば文字通り片手間で得られる額であろうが、一般的には相当な大金である。様々な思惑があるのだろう。
「額面は知らないが、マルフォイ家にとってみれば大したことでもなかろう。諸君の働きは吾輩のたった50ガリオンで贖われるものでもあるまい」
「……光栄です」
そもそも寮監の私財から支払われる事の方が異常である。あの夜、わざわざ校長室でお兄様に報酬を支払ったのは校長とウィーズリー氏への当てつけだろう。校長の思惑は狩人に依頼でも使命でもなく自らの意思によって事件解決に当たって欲しいといったところだろうが、力あるものの責務とは無償の奉仕ではない。
寮監もまた無償で解呪薬の作成を強いられているのだろうと考えると、この500ガリオンの内から幾らかを寮監への贈り物に充てるべきだろうか。あまり喜んでは頂けないだろうが。
「それと、伝えることがある。森番は収監される事になった。杖の不法所持、魔法生物の違法飼育と公務執行妨害の咎でな」
「公妨?」
「左様。アクロマンチュラの駆除を聞き、激昂して暴れたそうだ。流石に校長も庇いきれん」
「校長と言えば、停職はどうなるのです。後任は副校長の繰り上げ人事でしょうか? 少しはまともになると期待したいところですが」
「停職は解除された。蜘蛛の繁殖の報を聞き、理事会が撤回したのだ。他にどの様な爆弾が城に埋もれているか、吾輩にも分からぬ。校長に据えておいた方が自分達の責任は軽くなると考えたのだろう」
「賢いことで」
「見習いたまえ。力は万能だが全能ではない」
「心がけましょう」
「よろしい」
†
騒動の解決が為されない限りは子供を休学させるつもりだという家も多かったが、大抵の子供がホグワーツに戻ってきていた。秘密の部屋は解決したとだけ伝えられても納得は出来なかっただろうが、詳細なバジリスクの説明が説得力を補強した。依然として誰が継承者であったのかは説明が無かったが、少なくとも凶器が見つかり、それを封じたという事で安心は得られたのだろう。
戻って来なかったのは、非魔法族生まれの者だった。魔法界では魔法族至上主義者によって度々騒乱が起きた事や、学校にその思想に基づく怪物が潜んでいることなど、入学時に説明されていないだろう。まともな親であれば、事実を知って子供をその様なところに行かせるはずもない。
ではグレンジャー夫妻はまともではないのかと問われれば答えに窮する。ハーマイオニーは休みが明けるなり図書館からバジリスクの資料を軒並み持ち出し、それを狩人の前に並べた。
「学校の説明は欺瞞ですよね? 本当にバジリスクだとして、何も食べずにずっと生きていられるわけありませんし、何の痕跡もないなんておかしいですよね。それに、蛇が襲ったと言うなら、蛇と話せるハリーが疑われたままじゃありませんか。
……それとも、ハリーが無自覚なだけで、継承者は本当にハリーだったとか?」
「グレンジャー嬢、君の知性には心底感服する」
バジリスクの説明を始めるハーマイオニーに、お兄様が苦笑しながら拍手を贈った。
「マリアが説明しただろうと思っていたんだが」
「「明けましておめでとう。秘密の部屋は解決した」とだけ書かれた手紙を頂きました。お兄さん、図書館に行けない事をどれ程もどかしく思ったか分かりますか?」
「俺に似て筆不精だからな。赦してやってくれ」
ハーマイオニーが睨んでくるが、本気で不愉快になったわけでもないだろう。
「お茶をどうぞ。あー……お菓子は姫様がパーキンソン家から頂いたものしかないんですが」
「ありがとうケント君。お茶だけ頂くわ」
ハーマイオニーとパンジーが犬猿の仲である事はケントも知っている。
ケントは水筒からティーバッグの入ったカップに湯を注いだ。談話室であればまともな物が出せるが、獅子寮生を蛇寮に入れるなど出来るはずもない。
「グレンジャー、君のご賢察の通りさ。秘密の部屋の怪物は、バジリスクではあるがバジリスクではない。バジリスクの性質を持たせた魔力の塊だ」
「ツァイス先輩が仰るならそうでしょうとも。ですがそんな事が出来るなら、死の呪詛で事足りるはずですよね。何故そんな事を?」
「思想に拘る人間は、様式にも拘るというだけの事さ。ダイエットコーラとパインを載せたピザで聖餐をする教会が有るなら見てみたいね。もっとも、継承者がその思想をどこまで理解していたのか分からない。
秘密の部屋とは、外敵への防衛や非魔法族の排斥……そんな事の為に使う施設じゃなかったのさ。その根底となる思想は未だ未解明だけれども、魔法生物の死骸から魔力を抽出するための祭壇が有った。あれは、聖堂であり、霊廟だったのさ。その魔力から怪物を生み出すための術式を誰かが書き加えた。それが秘密の部屋の興りだ」
ハーマイオニーは茶を一口含むと目を閉じ、何度か頷いた。茶の味を楽しんでいるわけではなく、ヘルマンの言葉を反芻しているのだろう。2年生でこれを理解しようと思えるものがどれ程いるだろうか。
「そんな事を可能にする程の死骸なんてどこに……」
「君は歯科医の娘だったね。歯垢とか舌苔と言えば分かるかな」
「つまり、細胞程度の死骸……魔法使いの……その……排泄物が魔力の源という事ですか?」
「大正解だ。もっとも、トイレがこの城に作られたのは18世紀。蛇の術式とは年代が合わないから、最初に歪んだ純血主義思想に被れた継承者は、殺した非魔法族生まれの死体を再利用しようとしていたのだろうね。それが18世紀になって、その時代の継承者がより効率的な方法を考案した。
その思想の善悪はともかく、非常に優れた魔術師だよ」
ヘルマンとドロテアは幾度となく祭壇を調べ、ビルゲンワースに報告していたが、結局どこにもスリザリンの聖堂を秘密の部屋に変えた者の痕跡は見つからなかったという。闇の帝王がその名を以って支配しようとした事を考えれば、秘密の部屋を作り出した「偉業」を知らしめようとしないのはおかしいと2人は言った。だが、お兄様とお姉様は「スリザリンの偉業」に自身の名を書き加える事を冒涜と考えたのだろうと言った。崇敬していればこそ、ロックハートと同じ事はしないだろうというケントの言葉が決め手となった。
「……そんな事が出来るからこそ、魔法の力を絶対視して、非魔法的なモノを軽んじたのかもしれませんね」
「絶対か。今や遺骨から永遠の輝きを作り出せる時代だ。人の思索に絶対はないな」
「遺体を焼いて、その遺骨を蒸し焼きにして故人を偲ぶ。彼の大工も人々の罪を水に流せと父に頼むでしょうね」
「レバノン杉が高騰するな。方舟にするなら縁起がいいものの方が良いだろう」
「罪の赦しを金で買う。神も共産主義を信奉したくなるでしょうね」
ハーマイオニーが顔を顰めた。
「貴公を揶揄ってるわけじゃない。お兄様とヘルマンなりの人間賛歌だ。人に及ばぬ智慧を冒し、暴き、我が物にする。未知、秘密……神秘の冒涜こそヒトが人となった理由だよ」
「理解、分析、倫理、判断、解剖。それらの言葉を日本語で表して、それらを文字毎にバラバラにして意味を整理すると、全て「バラバラにする」という意味を持ちます。ああ、整理もそうですね。分かつ事は、理解なんです。
グレンジャー先輩、貴女は神を信じますか?」
「唐突ね。ヒトはサルが進化したものとは思っているけれど、宇宙は神が創ったものだとも思っているわ。別にそれが偉大なる知性と呼ばれるものでもいいけれど」
「最近は見えざるピンクのユニコーンなんて神もいるらしいですね。
取りて食べよ、これは我が肉なり……聖餐の秘儀とは神の理解です。理解し、取り込む事で教えを継承する儀式なんですよ」
獣喰らいのヴァルトールが教えられることも無く、神の声も聞かず、血の本質である虫を見る事が出来た理由は、理解しようとしなかったからだろう。神の奇跡は信じる者にしか現れず、神を信じるには神の奇跡を見る他ない。獣狩りが葬送であるなど、彼にとっては奇習にしか見えなかっただろう。故にヤーナムの民の信仰とはただの血液を媒介する寄生虫感染症であるとみなしていた。
だが、獣を狩り続け、血を浴びる事で、彼はいつしか人を獣にさせる血の力を信じてしまった。自らを辱めたローマの百卒長にも奇跡が現れた様に。
「つまり?」
「未知を暴いて智慧として、それを継承するのが人なんです。神を神として崇めるだけでは、人ではありません。そういう意味では、祭壇を秘密の部屋に変えた継承者は、秘密の部屋をただの伝説としていた者達よりも、遥かに人らしかった。その様な者は、魔術の力を絶対のものとして安穏とすることは無かったでしょう。だから、非魔法族を恐れ、それらを排撃するための備えを作ったんです」
「空には人工衛星が飛び交い、深海を探査艇が照らす。地中に行けずともゼノリスと電磁波が地底世界などない事を教えてくれる。ところがグリンデルバルドの警句を忘れた魔法族は、未だに杖が使えないから非魔法族を猿だと思っている。いつしか魔法界の秘匿も破られるだろう」
「レコードはカセットテープに代わって、もっと軽くて薄い円盤に650MBが収まるんだから、あたしの掌よりも小さな機械に図書館中の本をかき集めても足りないくらい、ぎっしりと文字が詰まってる時代がきっと来るよ。機械が人と同じ様に思考する時代もきっと。そんな時代に、魔法が魔法であり続けられるかな」
「高度に発達した科学は魔法と区別がつかない、ですか?」
「その通り。そして継承者達はスリザリンを信奉するが故に、スリザリンの偉業を更新して、スリザリンの名を永遠にして絶対にしたかったんだろうね。それに比べて、当代の継承者はただの墓暴きだ。敬意も理解も無く、ただ利用しようとしたんだ」
「ツァイス先輩は焦らすのが上手いですね。恋人は相当怒ってらっしゃるんじゃ? 継承者は誰だったんですか?」
ハーマイオニーはドロテアを見ながら言った。正式に付き合い始めたのかは未だに聞いていないが、ここ数日はドロテアがヘルマンに突っかかっているところを見ていない。
「前者の質問は無回答。恋人がいないからね。後者は幼き日のヴォルデモート卿とジネブラ・ウィーズリーだ」
「……そう、ですか」
「驚かないのか」
「驚いてはいるわ。けど、納得も同じだけ。あの子、ハリーと一緒にいる私に嫉妬してたもの。私にそんな気は一切ないのに。あんな目、11歳が出来るなんて思わなかった。マリアが本当に怒っている時は瞳が虹色に光るけど、彼女が私を見る目には暗くて底冷えする様な憎しみを感じたわ」
「その憎しみがトム・リドルと同調した。ヴ卿は本名をトム・マールヴォロ・リドルという。50年前、彼は秘密の部屋を開き、そして永遠に継承者であり続けるために、自身の記憶を自分の日記に封じた。その日記が巡り巡って小ウィーズリーの元に流れ着き、そして小ウィーズリーはリドルの記憶から秘密の部屋の知識と蛇語の能力を得た。ハロウィンの夜は唆された様だったが……その後、借り物の力に溺れ、自身の欲望のままに振る舞う様になった。
ハーマイオニーの感じたあれの憎しみは本物だ。あれは貴公を本気で殺すつもりだったと、リドルの亡霊は語ったよ」
ハーマイオニーはカップを両手で包み、僅かでも多くその温もりを得ようとした。夏にお父様から聞いた言葉の通り、普通の子供は自身に悪意が向けられることに慣れていない。ポッターが吐いた理由も、校長から理由の分からない試練を与えられた事に、恐怖を覚えたせいだろう。
「それで彼女は? それに、ハリーに疑いが残ったままじゃない」
「小ウィーズリーはしばらく医務室で静養だそうだ。全ては闇の帝王のせい、子供はその口先で踊らされただけ……お咎め無しとのことだ。物証がないのだから追及も出来ない。もっとも、あの様子を見た者であれば、彼女が継承者である事は間違いないのだが。どうあれ、法的な裁きは与えられない。校長曰く、学徒との交流で自らの罪を知り、更生するだろうと。私は自分が少年院に通っているとは思いもしなかったな」
「蛇寮は監獄ですけどね。ポッター先輩についてはその内忘れられるでしょう。グレンジャー先輩が戻って来られるまでに、疑って悪かったなんて軽々しい謝罪をポッター先輩が受け容れる姿を何度か目にしています。だからでしょうか、ポッター先輩に掛けられた疑いについて教員達は何も言っていません。それこそがポッター先輩が疑われる理由になったというのに」
寮生や卒業生の金によって美麗に整えられているために普段意識することは無いが、そもそも蛇寮に組分けられたからと地下牢に居住させるという発想は差別主義ではないのか。他寮の内装を見たことは無いが、星見塔と地下牢のどちらで過ごしたいかと聞かれて後者を選ぶ子供はそう多くはないだろう。
「……そう。魔法界に未成年の更生施設は無いの?」
「無い。そもそも魔法界の監獄は刑務所の様な更生を目的としていない。重犯罪者は杖を折って放逐されるか、監獄で気が狂うのを待つか。一般的な魔術師にとって杖は生命線。杖を失えばただの非魔法族と変わらない、だから魔術師に危害を加えることは出来ない。後はどこでなりとも野垂れ死ねということさ。監獄で思い出したが、森番は杖を折られた上で放校処分だったらしいが、杖の不法所持、危険生物の違法飼育の咎で収監されたよ」
「竜の件かしら? 今更?」
「アクロマンチュラ……人肉を好む大きな蜘蛛だ。50年前に森番はそれを孵化させ、それが秘密の部屋の怪物だとされて放校処分となった」
「冤罪じゃない」
「当時はな。どこから番の個体を手に入れて来たのか、今や森で大繁殖している。当時はともかく、現行法では違法飼育にあたる。今日から私達もその駆除に駆り出される事になっていてな。森から爆音が聞こえたり、火柱を見たりしても気にしないでくれ」
ビルゲンワース先遣隊からは既に森を焼き払いたいと嘆きの声が上がっている。春になり雪と寒気が過ぎ去れば蜘蛛は活発になり、駆逐することは不可能になるだろう。取りこぼせば森の外で卵が孵り、その先の予測は付かないとされている。
「なんでそんなものを育てようとしたのかしら」
「さて……ナイフや銃に憧れるのと同じか? ツァイス教授の見解は?」
「自分が殺してしまわない程度の強度が有るペットが欲しいのさ。非魔法族を見下す傾向もあるし、本質的には支配願望が強い。法や権威、それに加えて人倫に対しては反抗的あるいは無関心だが、信奉する校長には忠実。社会よりもごく身近な関係性を重視する傾向。父母のどちらかが暴力的で虐待を受けていたんだろう。犯罪の因子は遺伝するという言説もあるけれど、幼少期の経験がより大きく影響するという説が支配的だね」
「精神科医か何かですか? それとも、ハンニバル・レクター?」
「一応は医療者の端くれだけれど、何の根拠もなくそれっぽいことを言っただけさ。楽しんでもらえたかい?」
「呆れた。悪趣味過ぎます」
「それは話を振ったマリアに言ってくれ」
ハーマイオニーの軽蔑にヘルマンが肩を竦めた。冗談ではなく本当に意見を聞いたというのに、それを曲解したのはヘルマンが悪い。
「とにかく、グレンジャーさん。ひとまずは安心していいわ。蛇に襲われる事は無いでしょう。その代わり、元継承者には気を付けてね。これからもポッター君の傍に居るのなら、尚更に」
「その彼ですが、むしろ休み前よりも顔色が悪いんです。それで、マリア。貴女と話がしたいって」
「私?」
お互い嫌い合っている上に、屋敷妖精の件もある。恨みごとを聞かされるのならば分かるが、それでは顔色が悪いという話と辻褄が合わない。
「姫様にまたふざけた事をする様なら本気で身の程を分からせますが」
「あれ如きにどうこうされる様なかよわいお姫様じゃないさ」
「お姫様なのは否定しないのね……何かあったの?」
「別に暴力を交えたわけでもないが、友好的ではなかったとだけ。つまり、このかわいい後輩にとっては刺激的な彼との日常だな」
「なんだか卑猥な言い方ね」
「妬けるか?」
「胸焼けがするわ。休みの間は映画漬け? さっきから変な言い回しばっかり」
「私達はパニック・ミステリー・アクション映画の主役だったよ。アクション映画の良さは最終的に暴力で解決出来るところだな」
リドルの亡霊はお兄様が殺し、もう一人の継承者は心を塞ぎ、蜘蛛は目下駆除中である。結局のところ、「わるいまほうつかいはかいしんして、みんななかよくなりました。めでたしめでたし」とはなっていない。それが良い結末だとも思えないが。
†
蜘蛛狩りの夜がやってきた。
お兄様から「少年の為に」と留守番を命じられ、森の傍で焚火を眺めていると、ハーマイオニーが現れた。その隣に、足跡だけが刻まれている。
「素敵な服ね」
「かつて聖歌隊という派閥が用いていたものだ。今日ではそう明確な区別も無いがな。華美でなく、ゆったりとしていて、何より色が良い。雪に紛れるなら最適だ。紛れると言えば、ポッター。次に透明マントを使うときには、足音にも気を付けろ。特にこうして足元に雪や泥がある時はな。私も何度かそれで痛い目を見たことがある」
「忠告を活かす機会が来ない事を願うよ」
「で? 私に話とは? いや、まずはこれを飲め」
ポッターがマントを脱いだので、生姜湯を2人に渡す。風雪は無いが、身体を冷やしては風邪もひきやすいだろう。
「ククサなんて持ってたの?」
「一昨年ドロテアに習って作った。欲しければご両親の分も合わせて作るが?」
「じゃあ夏にお願い出来る? お母さんが北欧家具を揃え始めたから喜ぶわ。
あ、美味しい」
「何よりだ」
「あー……まずは、遅くなったけど、ありがとう。お蔭で僕があれこれ言われることは少なくなったし、蜘蛛から生き残れた。それと、ドビーは旅に出るって言ってたよ」
「そうか。災難だったな」
「あら、いつの間にか休戦したの?」
「今回は被害者だからな。蜘蛛の件も元を辿れば森番と校長の咎だ。素直に同情するさ。それで要件は何だ? 人生相談ならお兄様やヘルマンの方が親身に聞いてくれるぞ。同性だから共感できる事も多いだろう」
ポッターの性格からして、蛇寮の人間に何かを頼むという事は余程の覚悟があるのだろう。それをただ嫌いだからという理由で撥ねつける事は、お父様のお言葉に反するはずだ。
「ロックハートは……見つかった?」
「いや? 案外逃げのびているのかもな。記憶に忍び込み、掠め取る事で名声を得た男だ。逃げるのも上手いと言われれば納得も出来る」
「それは無いよ。ロンは運転してたから分からないだろうけど、あいつの背中に牙が刺さる瞬間を僕は見た」
「そうか。なら地獄の住人が1人増えたな」
「ちょっと……ちょっと待って。2人で納得してないで、説明してくださる? さっきのパーティーで離任されたって校長が仰ったけど、亡くなられたの?」
新年会と秘密の部屋の解決を祝して盛大な宴が催された。その初めにロックハートの離任と森に絶対に近付いてはならないとの言葉もあったが、大抵の学徒は聞き流していた。
「端的に言えば、ロックハートは殺人鬼だった。偉業を成しながらも不世出の人物からその顛末を聞き、その者の記憶を消し去って自分のものとしていた。経緯を省くと、この森でポッターとウィーズリーを廃人にしかけたが、アクロマンチュラの餌食になった。
ああ、ちなみに蜘蛛の実物だが」
火掻き棒を森に投げ込む。甲高い悲鳴が聞こえ、引き寄せるとティンパニ程の大きさの蜘蛛が飛んできた。絶命はしておらず、胴を貫かれた痛みに悶えていた。突き刺さった火掻き棒を抜き、改めて頭に刺して楽にしてやると、一瞬痙攣してから脚が折り畳まれた。その脚の1本を掴み、ハーマイオニー達から離れたところまで死骸を運ぶ。
油を注いで燃やせば、蛋白質と脂肪の焼ける臭いがした。
「これでも幼体だな。もし死骸を見かけても迂闊に触るなよ。毒で手が腐る」
「私に見せる意図を教えて頂けるかしら」
「良い学習教材になるかと。純血の一族でもそう見る事はないぞ」
「お気遣いどうも」
ハーマイオニーからは感謝の気配が全く感じられない。死骸の燃える臭いが気になった様で、杯に鼻を近づけ、生姜と蜂蜜の匂いに集中しようとしていた。
「礼には及ばないさ。それでポッター、貴公の悩みとはロックハートか?」
ポッターは生姜湯を一口啜り、深く息を吐いた後、こちらを見た。
「そうだ。あいつは僕の目を見て、僕に手を伸ばしていた。僕は助けに行くべきだったのかな。君の先輩が言った通り、僕が巻き込んだ。僕が余計な事をしたせいだ。それで僕は見捨てて逃げた。
あいつのやってきた事を考えれば、あいつは死んで当然だと思う。
……なのに、あいつの目がいつも僕を見ているんだ。あいつの声も聞こえる。こっちを見てくれ、置いていかないでくれって」
「助けに行くべきだったかと聞かれれば、それは否だ。貴公には何も出来ない。死体が増え……いや、今も死体は見つかっていないか。死者が増えただけだ。赤毛の話では、貴公がしたことはあれの忘却術を避けただけ。それ以上にその場で出来る事は無かっただろうし、それさえも幸運だったと言えるだろう。
次に、あれの幻影に苛まれるのは、私には何も言えない。意図せずして死に関わった事や、死にゆく者に助けを乞われた経験がないからな。人並みな助言としては、精神科医に相談することだな。そうした体験の後遺症は、警官や軍人……他には被災者にとって別に珍しいことでもないしな。あるいは、貴公は魔法界に居る。忘却術で忘れるという選択肢もある。それで殺されかけたのにと言う嫌悪感も分からないではないが」
ポッターの行動が関わった死は、2つある。
クィレルの顔を焼いたことは恐慌の内に在って仕方のないことだったとも言えるだろうし、そもそも不可解な頭痛に苛まれていたポッターの中には意思など無かったのかもしれない。
だが、ヘルマンが突き付けた様に、ロックハートはポッターの意思で巻き込まれた。自分の意思が他者の死の遠因になったことを自覚することは、相当な心理的負担になるだろう。
「それで、気付いたという訳だ。ハロウィンの罪も、賢者の石を巡る冒険の罪も。私とダフネが貴公とウィーズリーを嫌う理由も」
「ハリーの事は今年の夏に赦す気になったわ」
「そうなのか。まぁだからといって私がクソガキ共を嫌うことは変わりないが」
「僕も君が嫌いだよ」
「そうか。驚くほど何の感慨も無いな」
「2人とも止めて。ねぇマリア。ハリーは今年の夏をウィーズリー家で過ごしたの。どうしてだと思う?」
「話が合う方が面白いだろう? 特に詳しいわけでもないが、非魔法族が養親なのだろう? 魔術学校がどうこうと話したところで、アポロ計画陰謀論を聞くのと大差ない反応だと思うが」
「虐待されてたのよ。日常的な暴力、暴言、嫌がらせ、実子との差別的な扱い……性的なものを除けば、児童虐待に相当するものはすべて。児童保護機関に通報したら、直ぐに児童福祉司がやってくるはずよ。学校だって把握できるはずなのに何もされていないのは富裕層だから。
ドビーが現れて、ハリーにホグワーツに行くなと警告したのは伝えたわね。その時、ドビーは養親の経営する会社の大口顧客の頭に、ケーキを落としたの。それで監禁されて、餓死しかけたところに双子とロンが救出に来たの」
「冗談……ではないのだろうな」
昨年、ポッターの嫌がらせへの耐性について虐待を疑ったことがある。その時は馬鹿馬鹿しいとその考えを捨てたが、事実だったとは。
冬の夜の寒さとは違う、臓腑をむしり取られた様な痛みと寒さが襲い来る。
父母を失った赤子をその様な環境に放り込んだのか。闇の帝王が滅んだと喜び、そして夫妻の知己は誰も幸せを与えようとしなかった。
魔術から遠ざけたのは、魔術で肉親と死別した子への配慮などではなかった。ただの、無関心の結果だった。
その子供が11歳になると、魔法界は英雄と讃えたのか。
そして校長はその子供を本当に英雄にする為に、災厄を叩きつけたのか。何と残酷な獣であろうか。
「……貴公を嫌いな事は変わりないが、事情は理解した。屋敷妖精の事も、虐げられた自分を重ねたのか」
「結局、誰の為にもならなかったけれどね。ボーン、泣かないでくれ。嫌いな奴に泣いて憐れまれても困る。君を嫌いになれなくなりそうだ」
「家を出ろ、ポッター。父母が健在で、愛を受けている私が言っても響きはしないだろうが、家族とは血の繋がりではない。私はヘルマンを兄と、ドロテアを姉と、ケントを弟の様に感じている。家とは寝床ではない。家族の在るところだ。貴公は学校に留まるべきだ。少なくとも、養親の下に居るよりは人間でいられるだろう」
「そうできればいいんだけどね。それと、今これを言うのは卑怯だけれど、ハグリッドは僕が生まれて初めて優しくしてくれた大人なんだ。だからハグリッドの大切な友人達を、たとえ僕らにとって危険な害虫だとしても、敬意を以って……駆除して欲しい。そう君の家族に伝えてくれないかな」
「元より人の都合で殺される事に憐れんではいるが、貴公の分も上乗せする様に伝えよう」
生姜湯を一気に喉に流し込む。先程よりほんの僅かに塩気が増していた。
目を閉じると、爆轟が木々をなぎ倒す音が風に乗って耳に届いた。その中に、蜘蛛達の叫びが幽かに含まれていた。
ヘルマンの言う、理不尽を理不尽のままに受け容れてしまうポッターの性質は、そうしないと生きていけなかったから。反抗すればより酷い暴虐が襲い来る。いつしか何をしても無駄だと諦め、ただ嵐が過ぎ去るのを待つだけになった。
そう仮定すると、理解できるものは多い。だが、マルフォイに対峙したときやクィディッチで時折見せる衝動的で激烈な怒りはどこから来るのだろうか。
「……先程も言った通り、ロックハートについて貴公が望む様な事は言えない。自分で納得する方法をとるしかない。治療を受けず、自分でケリをつけるのも選択肢の一つだ。悪人だから死んで当然だと思い込むのも良い。あるいは戒めとして心に留め続けるのも良い。
結局は選択の問題だ。その問題について、自分がどう向き合うのか。治療と同じだ。病巣を切除するのか、投薬治療するのか、あるいは疑似科学や民間療法でもいい。医者に言われるがままに治療されるのと、医者に提示された治療方法を選ぶのとでは、その結果に対する納得が違う。
お兄様やヘルマンにも諭されていたが、敢えて嫌いな相手に話を聞いてもらいたいと思う理由をご説明頂けるかな?」
「揶揄うつもりはないけど、君達ヤーナムの人は暴力的だ。それでも悪人ではないから、僕を騙して罠に嵌めたりしないで、助言をくれた。包み隠さず、僕やダンブルドアを残酷に責めながらね。
それで、君は僕を嫌っていて、お兄さん達よりずっと子供だ。だから、直接的で簡単な方法を教えてくれるんじゃないかって」
「やっぱり私は貴公が嫌いだよ。
貴公にとってそうした短絡的で都合のいい助言がお望みなら、私が言えることは簡単だ。校長を殴れ。貴公への思惑がどうであれ、ロックハートを引き込んだのは校長だ。今年の防衛術の教員がまともであれば、貴公が教員を頼ることなく、森で死んでいただろう。そうすれば、傲慢な感傷に浸る事も無かっただろうさ」
「傲慢?」
ポッターが気色ばむが、ハーマイオニーが手で制した。
カップにたっぷりと蜂蜜を入れ、再び湯を注ぐ。2人に視線を向けると、両者がカップを差し出してきた。
ハーマイオニーは「蜂蜜少な目で」と注文を付ける。親からこの時間に甘い物は良くないと言われているのだろう。
「傲慢だ。貴公が殺した、それは間違いない。だが、ロックハートの死を俯瞰してみれば、貴公の役割はこの一匙の蜂蜜にも満たない。貴公が直接殺したわけでもないし、殺すために誘い込んだわけでもない。あの場で貴公に出来る事も無かった。
反省と自傷は違う。何もかもを自分のせいだと責めるだけでは、結局は何も見ていないのと同じだ。もっともこれは去年私が言われた事だがな。
ロックハートは貴公を利用して自分の名声を高めようとした。その選択の末路が死だった。貴公はその路に立っていただけで、その路を行くことを選んだのはあれ自身だ。貴公やウィーズリーによって心を頑なにさせられたわけでもない。強いて言えば、その路を敷いたのは校長と森番だ。校長を憎み、全てが校長のせいだと考えれば自分の中の罪悪感は薄れるだろうさ」
昨夏の校長はまさに神を気取る狂人だった。
神は自らの名を知らしめるために、民を虐げる圧政者の心を冒し、頑なにさせ、更に罪を重ねさせた。神学者によれば、その自作自演は罪人に罰を与え赦すためだったというが、ロックハートに与えられる赦しが何であるのかは分からない。
「そうすれば、ジニーと同じだって言いたいんだろう」
「そこまで悪し様には言わないが、貴公らが一昨年のハロウィンの夜の罪から目を逸らしたことと同じだろう。少なくとも心は軽くなるだろうさ。全ては偶然の産物で、全てを他人のせいにして、罪のない楽園に居られる。心貧しき者の為に神の国はある。罪を知らぬ者は罪を負う事もないからな。精神の豊かさは苦悩の深さだ。智慧の実を食べなかった白痴の獣の方が幸いとは、随分と楽園は刺激的なところだ。今頃ヴォルデモートは川辺で神と並んで魚でも釣っているか、仔羊の串焼きを齧りながらポーカーに興じているだろう」
「マリア。心が貧しき者っていうのは愛されていないと思っている人の事よ」
「愛をどの様に数値化するのかは知らないが、経済状況と知能指数と犯罪率は多くの場合比例する。富める者こそ心が貧しいと言うなら、今頃ウェストミンスター寺院はスプレーアートだらけだろうし、それを取り囲む邸宅は火に包まれ塩の柱が立ち並ぶ。逆にイーストエンドは乳と蜜の流れるテムズ川に覆われた約束の地か?」
「ああ言えばこう言う……」
「僕にはマルフォイの方が豊かで、ロンの方が貧しいなんて思えないけど」
「私からしてみればどちらも変わらない。犬2匹を並べてどちらの鳴き声がうるさいかと言われても、伏して黙れとしか言い様がないだろう。毛並みはマルフォイの方が良い様だが。
話は済んだか、ポッター。城に戻るなら、振り返らず、マントも使わず、全力で走って戻れ。蜘蛛にも復讐という概念はあるらしい」
森の端で、梢から雪が不自然に落ちた。クリスマスと異なり、月が明るく城を照らしている。ただ憎悪に駆られ、遮蔽物も無いままに突撃を目論むのは、狩りを教わって間もない幼体の群れだろう。
あれらの復讐は正しい。人の都合で持ち込まれ、人間の都合など知る由もなく森に満ち、狩人によって殺戮される。それは何かを食べなければ生きていけない生きとし生ける者の原罪と違い、押し付けられた理不尽である。
お兄様は法に則る事こそ人理と仰ったが、人と蜘蛛とを仲立つ法はない。そうした意味では、森番と亡き蜘蛛の長との約定は尊いものなのだろう。
「……僕にはこれを見届ける義務がある。僕が森の奥に行かなければ、少なくともハグリッドが元気な内は、アラゴグ達はヒトを襲わなかったはずだ」
「そうか。また夜間外出で減点されても後悔するなよ。ハーマイオニーも残るか?」
「もちろん。ちなみに副校長から夜間外出の許可を特別に頂いているわ。ハリーが透明マントを使っていたのはその……前みたいに噂されるでしょ」
「成程。ポッター、友人は選べ。貴公が継承者ではないと私達が考えていたのは、貴公がそんな事を出来るはずもないと考えていたこともあるが、ハーマイオニーが貴公の様子を事細かに伝えてくれていたからだ。
額の傷に群がり、蛇語を話せば遠ざかった連中の中に、友人だと思っていた獅子寮生はどれ程いる? 疑って済まなかったと笑いながら謝罪した者は?
これからも校長から何かを押し付けられるかもしれない。その度に、貴公はその連中に傷付けられる」
「君に言われなくても自分で選べる。入学して直ぐ、マルフォイにもそう言ったよ」
「初対面がどうだったか知らないが、貴公はあれと友人になる路もあったはずだ。あれは少なくとも身内には寛大だし、額の傷も気にしない。自分の家と自分が一番だと思っているからな」
「マリアもそうでしょ」
「私はこいつと友人になるつもりはない。同情はするが、失望させられることが多いだろうからな」
一度は期待した。ポッター達は一昨年のハロウィンの夜、ハーマイオニーを殺しかけたと知り、己の罪を知り、それをハーマイオニーに秘匿され、教員から咎められる事も無かった。その彼女の心に触れ、クソガキは己を知るだろうと期待した。
だが、その罪の重さに耐えきれず、自分達が彼女を助けようとしたなどと心に覆いを掛けた。それが虐待に因るものだとしても、その覆い隠しきれない腐臭には吐き気がする。
そのクソガキが、普通の子供になるまでに幾つの汚物を見せつけられるのか。それを傍に立って見続けられる程、自分は出来た子供ではない。早くお兄様やお姉様に並び立てる様に走り続けるだけで精一杯だ。
「見えるか? あの朽ちた松の右だ。影が動いているだろう。そこから更に少し右、ヤドリギだらけの楢の裏からも来る。この距離なら銃を撃てば済む話だが……ポッターのお望み通り、敬意を払おう」
袖から引き出すは、葬送の刃。
「鎌?」
「我らが業の祖。我等が武器の元型。
大型の武器故に動作は重く、間合いを覚え、然るべき時に踏み込まねば逆に痛手を負う。その死闘による葬送こそが、生きる感覚を狩人にもたらす。今でこそ、それを教える役割は鉈と杖と斧の3種に分かたれているが、狩りとは本来これの事だ。命を刈り取る、葬送の儀。死を以って生を感じ、遺志を継ぐ。
拙いながらも、私の狩りを御覧じろ」
木陰から現れた1匹の蜘蛛が牙を打ち鳴らしながら雪上を走る。それに駆け寄り、縦に鎌を振り下ろす。刃は蜘蛛の尖兵を両断し、雪に覆われ凍った土を弾き飛ばした。
柄を左脚で軽く蹴り、土から引き抜いたその勢いに任せ、柄を背に回す。魔力を込めながら待ち、同時に飛び掛かって来た3体を薙ぐ。巨躯の守り人でさえ弾き飛ばす一撃は、蜘蛛に悲鳴さえ上げさせない。
更に一振りして血を払い、後ろに跳び退くと、次の蜘蛛の脚が遅れて地面に突き刺さった。右半身を前に出し、その蜘蛛の頭に刃を掛け、刎ねる。宙に浮く牙と刃が擦れあい、金属音を立てながら火花が散った。耐久性の代わりに威力を上げる血晶を捩じ込んではいるが、流石にこの程度で壊れる様なつくりではない。
流れるままに左肩まで振り上げ、柄を捻って刃を反転させる。武器の変形機構を作動させながら、まごついている群れに大振りの一撃を加えた。仕掛け武器の神髄はその変形機構にある。血に因って変態する狩人の業は、武器にも同じ事が言える。その変形の力を攻撃に用いた時、それは尋常ならざる威力となる。
柄が外れ、曲刀となる。最後の一匹が飛び込んできた瞬間に合わせて跳び込み、両断した。
雪原から蜘蛛の気配は消え失せ、葉擦れと己の息遣いだけが残った。
「精進が足りないな。辛うじてハーマイオニーに無様は晒さなかったが……疲れた」
傷は負わなかった。だが、持久力が足りない。結局、どんなに筋力や技術を身につけたところで、武器を振るう度に疲弊しては闘えない。葬送の刃は特に持久力を奪われる武器である。疲労感が増す代わりに効果の高まる血晶は珍重されるが、その理由は戦闘に与える影響が少ないからである。しかしこの武器は、その僅かな影響でさえ致命的となり得る程に消耗する。老体でありながら加速の業を用い、月光を放ち、この武器を振るうゲールマンは、やはり祖となるべくにしてなった狩人なのだろう。
息を整え、返り血を清めてからハーマイオニーの元に向かうと、ポッターは顔を顰めた。
「何だ?」
「君のお姉さん達は君よりも強いんだろう?」
「ああ。一撃を入れるどころか近づく前にやられる事もある」
「そんなお姉さん達を倒す程の怪物を、ジニーは操った。そんなにあの子が強いなら、誰があの子を変えられるって言うんだろう」
「お姉様とドロテアの名誉の為に言うが、熊を殺す程の銃であれ、引き金を引くだけなら10に満たない子供にでも出来る。子供が銃を撃ったら熊が死んだ。だからその子供は熊より強い、そう言えるか?
もっとも、私達は熊を殺すのに仕掛け武器も銃も必要ないが……いや、話が逸れた。重要なのは、力の大きさではなく力の使い方を知る事だ。お兄様はそれに優れるからこそ、私より腕力が無くとも、お姉様より魔力が無くとも、遥か高みにいる。
あれの手元に最早銃は無いのだから、あれはただの恥知らずな1年生に過ぎない」
一度とて、お兄様に勝てた事は無い。未来が見えるかの様に、踏み込んだ先には剣が振るわれ、避けた先には月光波が放たれ、輸血しようとすれば銃弾を撃ち込まれる。遥か遠く感じる、狩人に成りたての頃。度重なる敗北に拗ね、勝てなければ泣き、手加減されれば怒る、面倒な妹だっただろうと思う。
「クリスマス以来、僕はジニーと話してないから本当の事は分からない。けれど、君のお兄さんの言った通りなら、その銃を握ったのは僕のせいだ」
「動機がどうあれ、貴公の責任だとは言っていない。お姉様もドロテアも、貴公を憐れみこそすれ、恨みなど持っていない。改めて言うが、継承者騒動について、ハリー・ポッターは馬鹿げた英雄願望に突き動かされたクソガキでもなく、継承者でもなく、純粋な被害者だ。ジネブラ・ウィーズリーは形式的には継承者であり、本質的にはただのストーカーだ。偏執によって突き動かされ、それが何をもたらすかを理解しながらにして、暴虐を振りまいた邪悪だ。
いいか? 銃はそこにあったが、引き金を引いたのは奴だ。貴公が奴の耳元で敵を撃てと囁いたのか? 違うだろう」
「フレッドとジョージが言ってたじゃないか。いくつもの偶然が重なったからそうなったって。ハグリッドだってそうだ。冤罪で退学にならずに、きちんと学校に通っていれば、もしかしたら竜を孵化させたり蜘蛛を育てたりしなかったかもしれない。ジニーを悪く言って何かが良くなるとは思えないよ」
一応は慰めたつもりだったが、ポッターは早口で反駁した。否、反駁と言うには的を外している。未だ収監されている森番への想いが、そうはならなかったで終わる話をこじらせている。
校長は無罪と信じたハグリッドを森番に据え、蜘蛛の繁殖を黙認してきたのだ。時を移してあの少女を照らしてみれば、何ら処罰も処置もされることなく、放置されているだけである。校長は周りの人間があの獣を躾けてくれるだろうと期待して、予防注射もせず、首輪も着けず、狂犬を放し飼いにしている。その行く末が明るいものでは無いことは、誰しもが分かる事だろう。
ハーマイオニーはポッターに憐憫の目を向けて、肩を叩いた。
「ハリー。あなたはロックハートの事で自分を責めすぎてる。だから何でも自分のせいだと思って、自分を傷付けて赦されたいと思ってるのよ。あなたはあなたでしかないし、あなたの手の届くところにしか、あなたの責任は無いの。あの子がああなったことはあなたのせいじゃないし、あの子がどうなるのかもあなたの責任じゃないの。
殺されるかもしれなかった私にとってみれば、あなたの言う事は正直不愉快だわ。私があの子に恨まれるのは、私が悪いって事? 原因や動機となったことと責任とは必ずしも同じじゃないわ。蒸し返す様で悪いけれど、私がガリ勉のぼっちだからトロールとトイレに閉じ込められた、だから自業自得って言うの? それは原因の内の1つだとは思うけれど、私のせいだと言われたくないわ」
「ごめん。あの時の事も、今言った事も。でも、そういうつもりじゃないんだ。ただ……なんて言ったらいいのか分からないけれど、今のままジニーが悪いで終わらせるだけじゃ、僕や他の誰にとっても良くない事になると思うんだ」
ハーマイオニーは社交性の無さが自分を陥れる事となったと校長に言われ、ポッター達と仮初の友人関係を作る事となった。その結果、ポッター英雄化計画の駒に組み込まれたのだ。それを彼女の悪だとするならば、全き善人はどこに居るのだろうか。
「こうした事はやはりお兄様やヘルマンが適任なんだが……ポッター、貴公の言葉に出来ていない漠然とした不安や怒りは、自分がそうであったかもしれない、自分がそうなるかもしれない、という恐れだろう。
その恐れは正しい。私もそうであり、ハーマイオニーもそうであり、お兄様やお姉様もそうだ。人は変わるし、善人が悪行を為す事も、悪人が善行を為す事もあるだろう。
何故獅子寮に入れられたかも分からない。あの夜にそう言っていたな。正解は簡単だ。貴公が選んだからだ。私が同胞たちと同じ寮を望んだから蛇寮に入ったのと同じ様に。
智慧を求め、忍耐強く、勇敢で、手段を選ばずに答えを求める。組分け帽子はヤーナムの民をそう評したが、ではそうではない人間はいるのか? 愚昧で惰弱で臆病で無為な者になりたい者がいるのか?
自分が何者であるのかは、何を自分の意志とするのかだ。私は狩人であろうとするから狩人であるし、私はマリア・アイリーン・ボーンであろうとするからマリア・アイリーン・ボーンだ。もちろん、他者との関わりによってあるべき私は変質していくだろうが、少なくとも歪んだ所有欲の為に他者を傷付けたいとは思わないだろう。今はそれで十分だ」
何者であったかはどうあれ、何者にならんとするかは選べるのだ。森番は欲望に忠実であったから収監され、ロックハートは欲望に忠実であったから蜘蛛の牙に倒れ、小ウィーズリーは欲望に忠実であったから継承者となった。理性ではなく欲望に忠実な獣である事を選んだのだ。
「重ねて言うが、自分が悪になるかもしれないと恐れる事は正しい。
残酷だが、虐待を受けて育った人間は虐待をする傾向が強い。これは偏見でもない、統計的な事実だ。愛情や感情の表現方法を、そういうものだと認知が歪まされているからだ。だが、それを悪だと思うのであれば、それを悪と思い続ける意志を持て。
その意志こそが、貴公の導きになる」
それが欺瞞であれ、導きの光を見ていた時には、月光の狩人は醜い獣ではなく人であった。人々に嘲られ、詰られながらも、彼は狩りの中に見えた光を人のよすがとした。
「私から言える事はそれだけだ。ロックハートの事をどう納得するかは自分で選べ。それさえも他人の選択に任せる様なら、最早人とは言えない。さぁ、城に戻って寝床に入れ。ハーマイオニーが冷える」
「……ありがとう」
「いや、前言撤回だ。少し待て。殊勝な態度に、良いものを見せてやろう」
浮遊術で子蜘蛛の死骸を集め、山とする。そこにロスマリヌスの霧を噴き付けた。
「……凄い」
「綺麗ね」
「見るだけにしてくれ。触れれば指が骨も残らず消し飛ぶぞ」
噴気によって起きる駆動音は歌声を模したものである。銀の霞は風に流される事無く留まり、地に星界を顕現させる。星の娘と共に在り、宇宙を感じとらんとした聖歌隊にとって、狩りとは葬送でも医療でもなく、交信であったのだろう。
結局、聖歌隊としての試みは失敗したのだが。
処刑隊に狩られ、連れ去られたカインハーストの子等は、ビルゲンワースの思索を継いだ医療者となり、交信を試みた。そしてそれは悉く失敗し、血の薄い者は罹患し、カインハーストの血を色濃く継いだ者だけが生き延びた。学術者でもあった聖歌隊にとって、意志や思索ではなく生来の血によって上位者に見えたという結末は、対立するメンシス学派への敗北である。
現代の聖歌隊にとって幸いであったのは、ユリエが聖歌隊とビルゲンワース両者の教えを継いでいたことだろう。お父様曰く「夜が明けたのに問答無用で彼方してきたのには参ったね。まぁ実家がああなって、寝食を共にした友人が狂人だと知ったなら誰も彼もが疑わしく想えるのは仕方ないことかもしれないけどさ」とのことだったが。
何度か掌を切って血を吸わせ、ロスマリヌスを作動させ続けること5分。蜘蛛の骸は霧の見せる星々の一部となって、消えた。
「この武器はロスマリヌスと言う。薬草のローズマリーと同じく、原義は海の雫だ。呪いと海に底は無く、故にすべてを受け容れる。同胞を殺された恨みも、ヒトへの憎悪も、全ては星の海に還り、やがて別の命の糧となるだろう。そうして命は継承される。本来、秘密の部屋とはそういう儀式の為の静謐な聖堂だった。美しい霧を生み出すこんな薬缶も、究極的には相手を殺める武器だ。それが今では典礼のラッパやバグパイプ代わりで使われている。
分かるか? どう在ったかと、どう在ろうとするかは大きく違う。だからこそ、お兄様もヘルマンも貴公に言葉を授けた。世に流される芥でもなく、校長の傀儡でもなく、人で在れと。そう在ろうとした結果が妖精の事だとして、その結果がああであれ、悪ではない。誤っただけだ。過ちを犯さぬ者は死人だけだ。生者であれば過ちから学ぶ事もあるだろう」
ポッターは黙って目を瞑り、幾度か頷いた。
嫌いな相手に助言をもらったとて、直ぐに受容することは出来ない。出来ていれば、ポッターの薬学の成績は惨憺たるものでは無いだろう。
暫く待つと、ポッターが口を開いた。
「なら、君はジニーにもそう言える?」
「継承者だと貶められた原因だというのに、随分気に掛けるな。惚れたか?」
「茶化さないでくれ。ロンの妹なんだ。気にするのは普通だろ」
ウィーズリーはポッターを裏切らなかった数少ない人間である。そこにポッターが抱くものは感謝か依存かは分からない。
いつまでウィーズリーがポッターの友人であり続けられるかも分からない。それを断ち切って弄ぶ様な事はしたくないが、とはいえ甘ったるい嘘で飾り立てる事は誠実ではないだろう。
「少なくとも、今は言えない。石になっている者に対してならばともかく、壮健であるお姉様やドロテアに詫びの一つもない。報復を恐れているわけでもない。自分に裁かれるべき罪は無いと信じたいからだ。
校長は学徒の交わりに人の導きを見出すと期待しているようだが、あれはどこにも進もうとせず、罪から目を背け、自分だけの穢れなき楽園を探している。それが表すのは死だ。暗く、冷たい棺の中には敵も無く安息だろう。死のアルカナも停止を表わしているんだったか。卜占は興味がないから詳しくは知らないが。
ああ、間違っても貴公が導こうなどと思うなよ。ろくなことにならないというのもあるが、一応の乙女として、それがどれほど残酷な拷問であるかは忠告しておこう」
「乙女? 残酷? 忠告はありがたいけど意味が分からないよ」
「ハリー、マリアは冗談で言ってるわけじゃないわ」
「己が恋だと思っている感情が、それを向ける相手を貶め、傷付けた。罪を自覚すればする程に、その手に染み付いた汚れを知る。自らが傷付けた者から笑顔を向けられて、汚れた身を晒そうと思えるか?」
焦がれる様な妄執の炎は、ポッターが近寄る事でいずれ身を焼き尽くす業火となるだろう。盛り合い焼け死ぬのは勝手だが、それで再び災禍を振りまかれる事は迷惑だ。
「知恵の実だ。罪を犯さねば恥を恥とも思わない。しかしその智慧により神の大きさを知り、故にこそ神に背いた罪の深さを知る。貴公が神とは言わないが、奴にしてみれば神にも等しい上位者だろう」
神が与えなかったものをその手に収めんとし、その冒涜の罪は呪いとして報われる。事物を神ではなく人の善悪によって判断する様になってしまったことこそ罪だと言うが、神に全てを委ねて生きる肉人形のままで在る事は正しいとは思えない。神が全知全能であり、唯一にして絶対で在るならば、自らの似姿はおろか、天と地さえも作る必要はない。
しかし、それが世の始まりであれ、ヤーナムであれ、ホグワーツであれ、簒奪は罪である事に変わりはない。寛大な神であれば、願えば与えられただろう。たとえ悪夢の内であれ、願いに応えて瞳を持った脳は与えられたのだ。
トム・マールヴォロ・リドルという蛇に唆され、継承者の知識を齧ったとして、その罪から目を背け続けるならば、それは畜生以下である。
殺める事の意味を忘れ、暴く事の罪を知らぬ者。その末路で至る、罪なき者の楽園が狩人の悪夢である。狩人を止め、人を止め、獣にすら成り下がれず、ただ夢幻の内で永劫の殺戮にのみ生を得る、憐れで呪われた咎人の楽園である。
「食べたのは毒林檎だったけど、白馬の王子様は現れなかったのね」
「お姉様とドロテアは蛇に襲われ、一度は石になった。キスで目覚めるなら苦労はしないとヘルマンは言っていたよ。愛だけで満たされるのは物語の中だけだ。私達は物語の中に生きてはいない。
蛇と言葉を交わし、林檎を齧ったとて失われる楽園は無いし、齧らなかったとして与えられる楽園も無い。昔はどうだか知らないが、罪を代わりに背負い死んでくれる都合のいい救い主などいない。そして貴公が茨の冠を戴く必要もない。あれは石打ちに処されるべき女であり、秘密の部屋の騒動に限れば貴公は誰に石を投げようと赦される存在だ。どこに投げてもストライク判定だ。MLBで最優秀投手に成れるだろうさ。
さぁ、城に帰れ。明日から授業だろう」
「……ありがとう、ボーン」
「礼なら連れ出したハーマイオニーに言え。私の言葉はお兄様達の受け売りでしかない」
ハーマイオニーが城の中に消えるまで眺めた後に、森に視線を戻す。
森の奥深くから、天を焦がす様な火柱が上がっていた。遺骸の灰は塵に、塵は土に、そして海へと流れていくだろう。