アクロマンチュラ
東南アジアの熱帯雨林に潜む、蜘蛛に似た魔法生物
頑健な体躯に強大な牙と毒を併せ持ち、旧くは財物を護るために使役されていた
屠った盗人の脳髄を啜るうち、遂には人語を解すまでとなった知性は
人の為にヒトを襲うなど馬鹿々々しいと気付いてしまった
ただ己が食欲の為にと、其れらはヒトの言葉を発する獣となった
ケントは無表情で小ウィーズリーを縛り上げ、麻袋に入れて担ぎ上げた。「トゥメルの人攫いか」と問えば、「トナカイも居る事ですし」と、ドロテアに調子を合わせた。無論、ふざけているだけでもない。目が覚めた時、何を仕出かすか予想が付かない為である。お姉様でさえ、その乱雑な運び方に異を唱える事は無かった。
「あら、誰も死んでないの? それとも、その袋の中に在るのが死体?」
「いいや、生きている。辛うじてな」
「残念」
「気になってたなら見に来れば良かったんじゃないの?」
「言ったでしょ。クソの行き着く先なんて見たくないもの」
マダラスの蛇の背に乗って配管を登り、柱の仕掛けが開いたところで、マートルに声を掛けられた。壁や床が意味を為さない亡霊にとって、それは立っていると言って良いものかは分からないが、とにかくトイレの入口に居た。
「それで? 私の死因は分かった?」
「ああ。やはり継承者によるものだった。バジリスクという蛇があってな、そいつの目を見た者は死ぬ。貴公が見たのはその目だ」
「ふーん。分かっちゃうと何だか生きがいも無くなった感じね。死んでるけど」
「冥土に行くなら教えてくれ。その前にチーズを供えてやる」
お兄様はマートルに全てを伝えなかった。嘘ではない。真実を全て詳らかに伝えたところで、それは嘆きのマートルをより嘆かせるだけだろう。
「そういえばポッター達を知らないか?」
「ポッター? ヴォルデモートとかいうのを殺した男の子? 聞いたことはあるけど知らないわ。そんな有名人が私のトイレに来るわけないでしょ」
「ふむ。見たことはありそうなものだが、男子生徒の顔と名を一々覚えているはずもないか」
学内を2度騒がせた獅子寮の男子生徒であろうと、亡霊にとっては大河を流れ行く芥の様なものらしい。否、生者であれ使者であれ、究極的に言えば他人とはそういうものだろう。おそらく、過去のヤーナム人もホグワーツに歴史を刻んだ事だろうが、狩人が知られていないという事は、卒業生達にとっては騒がしい学校生活のほんのひとかけらとして沈んでいったのだろう。マートル・ワレンの死を忘れた様に、秘密の部屋を忘れた様に。
「あんたらさっさとシャワー浴びた方がいいわよ。見ただけで埃と黴だらけだもの。ここも掃除していってほしいくらい」
「ご忠告どうも」
墓所カビの様な呪的性質があるかもしれない、そう言ってドロテアとヘルマンがフラスコの中に付着物を閉じ込めた後、狩人はそれぞれの服を魔術で清めた。とはいえ、熱いシャワーを浴びたいことには変わりない。
†
職員室の扉を開けると、狩人の異様な風体に驚かれはしたものの、ややあって拍手を受けた。数が少ないのは、広間で未だ来ぬ襲撃に備えている教員も居るからだ。
「失踪者はどうなったのです」
その中で、副校長は表情を緩めることは無かった。寮監としての責任は秘密の部屋が破られたとして果たされるものではない。
ケントはお兄様に目配せを受け、麻袋を床に置いた。
「ジネブラ・ウィーズリーです。死んではおりません。手を下してもおりません。殺したいくらいですが」
「女生徒にその様な仕打ちを!? なんということを!」
「近づかないでください。此度の事件の首謀者を継承者と言うならば、これは継承者らの一味です。いつ牙を向くか分かりません。どんな事情があれ、慰めを与えるには未だ早い。
それより、少年達は?」
副校長の反応は予想していた通りであった。生存が絶望的な犠牲者であると思っていれば、麻袋に包まれて虜囚の如くに運ばれていたとなれば、悲鳴を上げるのも道理である。とはいえ、ケントに横抱きで運べとは、どんな拷問を受けても言いたくはなかった。
見回すが、小ウィーズリーへの扱いに衝撃を受けた以上に、教員達の表情は曇っていた。
「やはり、継承者の言葉は真実だったという事になりますね。既に始末していたという可能性もありますが」
「彼らを殺していたならば、同様にこの娘を生かしておく必要もあるまい」
ヘルマンとお兄様が交わす言葉を聞く度に、教員達の顔は暗くなっていくが、2人はわざとそうしている。狩人が少女を不当に扱っているわけではなく、理由があるために拘束していると言外に主張しているのだ。
「さて、ポッター達の捜索はともかくとして、依頼主に報告しなければ。寮監はどちらにいらっしゃるのです?」
「……校長室です」
ヘルマンの非情な言葉に副校長は怒りを覚えた様だが、教員達は秘密の部屋に何も対処できず、ポッター達の失踪についても何ら手掛かりはない、そうした状況でヘルマンに何を言えただろう。
副校長の言葉に、お兄様は「ならば独自の判断で動くか」と、即断した。秘密の部屋は閉じられているのだから、さしたる凶事に巻き込まれているわけでもないだろう。そう思いたいが、ホグワーツは魔界である。校長と問答を交わす余裕は時間的にも精神的にも無い。
「ディルク、何か継承者からその他の協力者の話はありましたか? つまり、失踪者もまた継承者の可能性があると思いますが」
「無いな。あれの言葉通り、あれは少年達とは全くの無関係だった。望みとは真逆に、可哀想な程にな」
「なら、秘密の部屋とは全く関わりのない別の襲撃者が居て、ポッター達を襲った。この線は?」
「クリスマスパーティーの余興には楽しい見世物だろうな。それで蛇寮が疑われ、寮監が校長に呼ばれたか?」
お兄様も考えるのが面倒になっているのだろう。継承者ではない何者かとすると、想定しなければならない事物が多すぎる。
「森番が連行され、そちらに目が向いている以上、襲撃には都合が良いですからね」
「そこから考えてみましょう」
お姉様がケントの言葉に反応した。
「あの後、校長があの子達を城に連れていったでしょう? その後、彼らはどうしたのかしら」
「僕らはそのままトイレに向かいましたね。ドロテア先輩達はどうだったんです? 身体が動かせる様になって、ヘルマンと話をして、それでトイレに来たわけで、その間に森番が連行されたって事は誰かから聞いたんでしょう。ポッター先輩達の事は聞いてたりしませんか?」
「何も無いな。ロックハートが上機嫌で「あのハグリッドが犯人だと私は分かっておりましたとも――ええ、ええ。後は秘密の部屋を封印するだけです。私にかかれば秘密の部屋はもう見つけたも同然です――あと、ほんの少し、皆さんの信頼を分けて頂ければね」と」
「何故ロックハートにキレてるのかと思ったらそれか」
「ついさっきまで倒れていたドロテアの前でそれを言う神経はどうなってるのか、頭を開いて見てみたい気持ちでしたよ」
「まぁいいじゃん。多分あたしが犠牲者だと思わなかったんでしょ。クリスマスカードを送らない女生徒の顔と名前なんて覚えるつもりもないんじゃない」
ドロテアの機嫌が良いのは、ヘルマンに気遣われたせいだろう。お姉様が顔を背け、小さく笑っていた。
「大層な自信家かしょうもないホラ吹きか。放っておけば、何の事前知識も無く素手でバジリスクを殺したとか言い出しそうですね。それで、偉大なる教授様はどちらに? まさか僕らが見つけたのとは別に秘密の部屋があるなんて話でしょうか」
「私達が先程こちらに参じた時にも居なかったな」
教授達に目を向けると、誰一人として視線を合わせなかった。
「何か為さったのですか」
「口を開けば益体も無いどころか腹立たしいことばかり言うものですから、皆さんが来る前に追い出したんです。ヤーナムの彼らが秘密の部屋を見つけたのだから、早く怪物を倒す様にと。その後、壁に文字が増えている事を知り、教員が集まってみても、彼はここに来なかったのです」
フリットウィック教授がばつの悪そうに言った。その行いは別段恥じる事でもあるまいが、同じ教育者という立場にあれが居る事が恥なのだろう。
「そうですか。思考の邪魔になっただけでしたね。では、あれは忘れてポッター達の事について考えましょうか」
「待て。森番が引っかかる。そもそも継承者は森番を利用しようとしただけであって、森番は本来今年の騒動に一切関係が無いはずだ。では何故森番が気に掛かる……森番が何だという?
……そうだ、去り際に少年達に言葉をかけていた。そして、城から消えた少年達。この符合は無意味ではあるまい」
お兄様の言葉に、記憶を辿る。
「お兄様、森番は「お前らが蜘蛛を追っかけるみたいに、解決の糸口を掴んでくれれば、俺は直ぐに帰ってこれる」と」
「そうか、それが比喩ではなく、本当に蜘蛛だとすれば?」
「継承者は「あれが危険な生物を飼っていたのは事実だった」とも言っていましたわ」
「校長は疑いの晴れぬまま、彼を森番として置いた。そして「生徒達を森に入らせず、森の獣たちを城に入れさせぬのはハグリッドの仕事」と語った……森番が何を育てていたのかを知っていた?」
「ソフィアおばさんは「怪物を馴致するにあたっては刷り込みを利用する他に方法は無い」ってね。森の中で、森番だけに従う獣が生きているって事だね」
「そして、アウレリアお姉様はかつて森の中でアクロマンチュラに見えたという」
結合する。幾つもの断片が結合していく。校長がこの2か月の間に何もしなかった理由も、外部の介入を頑なに拒んだ理由も、森番への疑いに何一つ論拠を挙げずに擁護しようとした理由も、全てを説明してしまえる動機がある。
それは、罪の秘匿である。
時計塔のマリアは、座して何を想ったのだろうか。夢の中とて血に酔わず、狩りでもなく、人を殺め、秘密を護る。それ程までに、彼女の隠した何かは、自身にとって、自身が想う誰かにとって、大切なものだったのだろうか。
「貴方達は何を言っているのです?」
「副校長、おそらく少年達は森にいます。彼らは秘密の部屋を解き明かす導きを蜘蛛に見出した。そして、どうやってかは分かりませんが、それが森に居る事を突き止めた」
「50年前に怪物とされた蜘蛛は森に逃げたか、森番が逃がしたか。そして森番はそれを今日に至るまで森の中で育んだ。故にこそ、森番が継承者でない事の証になる」
「アクロマンチュラ。ケトルバーン教授ならお分かりになるでしょう。あれに石化の能力は無い。そして、人肉を好む習性から、マートル・ワレンが無傷の死体で見つかるはずもない」
部屋の隅に居たケトルバーン教授はこめかみを叩きながら独り言を始め、そして頷いた。
「ああその通りだとも。言われてみれば、確かに犠牲者は皆バジリスクに襲われたものと同じだ。アクロマンチュラのものではない。しかし、危険生物なんて飼いならせんよ。飼いならせぬから危険生物として定義付けられているんだ。そんなことが出来るんなら、私はこうして義肢だらけになっていないだろうね」
「森番はどうやってか50年前に城の中で孵化させ、刷り込みが起きた。それで自分だけは攻撃されない様になってるんでしょう。森番は「あいつは良い奴なんだ! ハリーがあいつとちょっぴり話してくれれば、俺じゃねえってことぐらいすぐに分かる!」くらいにしか考えてないと思いますよ。蜘蛛にとっては飼い主が気を利かせて活餌を寄越したってところでしょうか」
ケトルバーン教授の言葉に、ケントがのんびりと応えた。その暢気さはどこから来るのか分からなかったが、太刀を検めているあたり戦闘になる事は覚悟しているのだろう。
「いえ、しかし……ハグリッドがそんなことをするとは」
「副校長、それ本気で言えます? 善悪と結果が一致しないなんて、大人ならよぉーく知ってると思いますけど。そこに転がってる1年生もね、もう片方の継承者によると本人に罪悪感無いらしいですよ」
「森番は保身か、あるいは彼らにだけは潔白を信じてもらいたかったのでしょうか。
……幼気な子供に眩い導きの光を与え、それが実は残虐な怪物の欺瞞の糸だなんて。寒気がします」
お姉様が吐き捨てる様に言った。
昨年の件からポッターとウィーズリーに対しろくな感情を持った事が無い。だが、そういった感情を漂白すれば、現在の状況は巻き込まれただけの子供である。
「……なら、何故彼らは私達教員を頼らなかったのでしょう。その結果がどうなるかは、昨年いっぱいで分かっているでしょうに」
「昨年で思い知ったからでしょう? 教員の用意した遊園地で親の仇……それも、教員の後頭部に寄生する醜く腐臭塗れの老いた愚物と向き合う羽目になったのですよ? ポッターがどう思っているのかなど知った事ではありませんが、さして興味も同情もない私からしてみれば彼が教員を信ずる理由などどこにもありはしないでしょう。
ハロウィンの夜、衆目の前で連行し、学校中から継承者として疑われることとなった。継承者ではないと話しても、教員達は自分を信用してくれなかった。被害が増え、校内には狂気が満ち、自身にさえ特別と分からなかった蛇語の才を恐れられ、獅子寮生からも疑われる始末。そして、森番が連行されるのを、誰も止められなかった。教員の誰が信用できましょうか。
異端者狩りは手続きを以って為された狂気です。ポッターへの根拠なき疑いを、連行と聴取という手続きによってハロウィンの夜に作り上げてしまった。それを放置したことは、ポッターが火炙りにされることを許したと同じ事です。もっとも、私達も森番を火炙りにする手伝いをしたわけですが。
ポッターと森番は竜の違法飼育に関わる仲で、その隠蔽まで請け負いました。年度末には亡き父母の写真の入ったアルバムを贈られてもいた様です。その森番が連行され、その窮地を救う手立てがあるというなら、それが欺瞞の糸であれ、その輝きに飛びついた事でしょう。
……あぁ、分かりました。ロックハートの居所も。彼らと同じでしょう。ポッターは教員を信用せず、級友からも疑われている。ところが、ロックハートは別だ。ロックハートはポッターの事を、自分の添え物の様に扱っていた。あれの無能が分かってはいても、彼にとっては大人でしょう。おだてれば動く肉の壁程度には役に立つと考えたはずです。
私達が失踪の報を受けて1時間半。連中が生きているならば、とうにここで森番の潔白を証明しているのではと思います。そうではないので今頃は腹の中の肉団子でしょう」
ハーマイオニーを通してポッターの置かれた状況は分かる。よくもポッターは精神を病まなかったものだ。あるいは既に病んでいるのか、それとも日頃の寮監による理不尽が精神を強めたのか。
真に蜘蛛の餌食となっているならば一応の同輩として花を贈るくらいはしてやろうとも思ったが、嫌いな相手に贈られたところで侮辱にしか思えないだろうと考え直した。
「マリア、そこまでだ。副校長が心労で倒れる。副校長、彼らが森に向かったとは俺達の推測でしかない。彼らが城のどこかで蜘蛛の巣を破いているだけかもしれない。それはともかくとして、アクロマンチュラは狩っていいだろうか。少年たちが一応は秘密の部屋の解決の為に動いたのだ。騒動の一環として請け負おう。
……改めて状況を整理すれば、頭が震えそうだ。人を容易く殺める危険生物が学び舎の敷地を跋扈しているなど、教員の後頭部に闇の帝王が寄生しているのと同じくらい冗談にしか思えないのだが」
「彼らが無事なら連れ帰りますし、そうでなくても切れ端くらいは拾って帰りますよ。大腿骨や頭蓋骨は硬くて敬遠するでしょうから」
「ヘルマンも止めろ。副校長に恨みでもあるのか」
「まぁ、個人としてどれだけ努力されたのかは知りませんが、ポッター失踪は教職員の怠慢も一因だ。面倒が増えた事は非常に憤っています。ですが、秘密の部屋と森番の罪の秘匿を除いても未だ何か足りない。去年と同様に、裏に校長のポッターへの執着を感じます。
イングリットも何か言いたげだね」
「校長は大臣達に森番の潔白を訴えていらっしゃいましたが、その理由を説明なさらなかった。いえ、「ハグリッドを連れて行ったところで事件は解決せんよ」と仰った。無実だとは一言も口にしていらっしゃらなかった。
校長は、知っていたのでしょう。森番が50年前から今日まで飼育しているのは、アクロマンチュラであり秘密の部屋の怪物ではないと。
ポッター君達の危機を森番の責に帰すならば、校長も同じだけ罪深いと言えますわ」
蜘蛛狩りに校長の意向も関係ないのだろう。副校長は力なく頷くだけだった。
†
「何故アウレリア様は生かしておいたのでしょうね」
ヘルマンが枝を躱しながら口を開いた。
連中は蜘蛛を追う為に徒歩だったのだろう。昼間まで降っていた雪に、城から森に向かう3人分の足跡が残っていた。箒に跨り空から探すにも、鬱蒼とした森は雪を纏い、白い波の様にしか見えなかった。そのため、こうして木々の間をすり抜けて飛行しながら足跡を追っている。
昨日が新月であり、月はほんの僅かな切れ込みの様に空に在り、代わりに星々が月光にかき消される事無くちりばめられ、煌々としている。辺境の地ヤーナムも人の灯りは有り、ここまでの星空は見たことが無かった。
その星明りの下でしていることは、ポッターあるいはポッターの遺体捜索というのはなんとも言い難い感情になる。
「死んだものと思っていたか、あるいはお姉様が殺した後に森番の嘆きに応え、校長が別の個体を用意したか……そもそも、アウレリアお姉様は殺すほどもない、単に大きな蜘蛛としか思っていなかった節もある」
「ロマの頭を砕いて殺すを体現したお方だしな。あの一本気な性格だ。義兄の苦労が偲ばれる」
「あら、そうでもありませんわ。以前街で見かけたときは、それはもう仲睦まじい様子でしたわ」
お兄様の言葉に、お姉様が弾んだ調子で答える。それでいて、目線は足跡を追っている。聖杯探索に於いて、気がそぞろとなって罠を踏む事はままある。だが、この場に居る狩人達は身内の浮かれた話をしている様で、狩りの意識は抜けていない。
「あのアウレリアお姉様がですか? 同じ父母の血を継ぐ者として見てみたい様なそうでもない様な」
「やっぱ恋とか愛とかって人を変えるんじゃないですか? それとも立場でしょうか」
ケントが知った様な事を言うので笑ってしまった。
「いや、成程と思ったぞ。ケントの言う事も馬鹿にしたものじゃない。俺がジェラルドから最上級生の立場を引き継いだことで見えてくるものもあった。妻となって得た智慧もあるだろう」
「馬鹿にしたつもりはありませんよ。ケントが恋だとか愛だとか真面目に言うものですから」
「似合いませんか?」
「ヘイ! なんか来るよ!」
先行していたドロテアが急停止したので続く。並ぶと、確かに視界の奥で何かが光っている。
「ランタンか松明? 魔術の光じゃないね」
「それにしては大きすぎる。指向性も強いみたいだ」
葉から舞い落ちる雪の華が、光の輪郭を浮かび上がらせている。2条の光が森の奥で激しく上下していた。
「あ、分かった! 車だ!」
城に在る車と言えば、ウィーズリー家の違法改造車だろう。となれば、ウィーズリーが居る可能性はある。空を飛ばないのは、暴れ柳との衝突の影響でその機能が故障しているか、あるいは教員から空を飛ぶことを咎められまいとしているのか。
お兄様を先頭に、光に向かって飛ぶ。車もまた、こちらに向かってきていた。その車の先に、雪を覆う黒い波のうねりが見えた。
蜘蛛の大群である。
「繁殖していたとはな」
「森番に真実薬でも飲ませるべきですね。他に何を飼っているんだか」
「城どころか街一つ食い尽くせそうですわ」
「ヤバすぎでしょ。あのデカい頭に脳みそは入ってんのかなぁ」
車は器用に倒木や木の根を避けながら走っているが、三次元的に追いすがる蜘蛛に距離を詰められている。
「星空の下でドライブとは、ませた少年だな。免許証を拝見したい」
お兄様は車に近付き、運転席のウィーズリーに話しかけた。
「なんなんだアンタ!? 今の状況分かってるのか!?」
「口を慎めウィーズリー。少しでもお前達の恐怖を和らげようとするお兄様の気遣いが分からないのか」
「分かるわけないだろう! 馬鹿じゃないのかお前!」
「そうか、済まなかったな。お兄様は猿の言葉には通じていないんだ」
「言ってる場合ですか姫様。それに……それだと姫様は猿と会話できる事になりますよ」
「ポッター君と、後ろは……ワンちゃん? そのままお逃げなさい。後は私達が」
お姉様が「護れ」の一語で障壁を展開し、飛び掛かって来た蜘蛛を圧し潰した。
「ロックハートはどこいったー?」
ドロテアが車の屋根に降り立ち、機関銃を取り出しながら訊いた。そのまま彼らの防御に就くつもりなのだろう。
「知らない! 多分死んだよ!」
ロックハートの名を聞いた瞬間、ポッターが肩を震わせた。ずっと押し黙っているのも、それが理由か。
「事情は後で聞こう。ドロテア、守護を任せた」
「りょーかい、でっす!」
射線を開くと、電動鋸の様な銃声が後ろから轟く。銃弾を受けた蜘蛛達は、破孔から血と内臓の破片を噴き散らして絶命した。
ドロテアの作った足場に降下し、箒を鞄に突っ込み、代わりに引き出すのは獣肉断ち。己の筋力を恃む狩人にとって、周りを囲む敵を駆逐するには最も信頼できる武器である。古く、洗練されていないとする狩人も居るが、素早い棍棒であり、良く伸びる鞭剣であり、そしてそのいずれの形態であれ鋸歯を伴った重い一撃を繰り出すこの武器に、果たして洗練という概念が必要であろうか。
振るえば、車を追っていた幾つもの蜘蛛が千切れた肉片となった。
「何だ。大して蜘蛛と変わらんな」
「血が有効ではない事だけお気をつけください」
お兄様は斧を振り回し、蜘蛛を断ち切りながら吹き飛ばした。お姉様はレイテルパラッシュから水銀弾を撃ち込んだが、聖杯の蜘蛛の様に引き攣れを起こす事も無く、怒りに牙を打ち鳴らすだけだったので、その口に剣先を差し込んでいた。
「もう秘儀を使いたくないので僕は杖で良いですか?」
「ああ、俺ももう2週間は月光剣を振るいたくない」
魔力こそ輸血液で回復しているとはいえ辟易しているのだろう。ヘルマンは仕込み杖を振るい、器用に蜘蛛の脚の関節を切り刻んでいた。そこにケントが近づき、鋸槍で頭を切り裂いた。
「あ、すみません。森の灯りってどちらに在るんでしょう」
「ここから……いや分からんな。泉の近くにある」
「飛んだ感じ、そう遠くはないはずです。帰りに寄っていきましょう」
「ありがとうございます。
……今更な疑問なんですが、先輩方が探索している時、どうして襲ってこなかったんでしょう。今まで蜘蛛を見かけたのはアウレリア様だけですよね? 50年前からここで繁殖しているなら、ヤーナム出身で見かける人なんていくらでも居るはずですけど」
「余程お姉様が深くまで進んだのかしら」
確かに襲われた記憶はない。ケンタウロスから退去を求められた事はあるが、こうした蜘蛛を見たことはない。これだけ大型で牙も毒もある蜘蛛であるから巣を作る生態が有るかは分からないが、仮にこれだけの数が営巣していたならば、イズの天井を覆うそれよりも目立ったことだろう。
「しかしここまで多いと殲滅出来るのか不安になってきたな。さっきから何匹か逃げ出そうとしている。あるいは後方への伝令か? 人語を解し、社会を築くらしいからな。群れの長は今頃逃げ出しているかもな」
「もう森を焼く位しか方法は無いんじゃないですか? 蜘蛛を殺しても卵がどうしても残るでしょう」
「ケンタウロスから猛抗議されるな。城に火矢を放ちかねん」
「あの連中はこいつらと縄張り争いとかしないんでしょうか」
お兄様は走り寄るのも面倒になったのか、近づく蜘蛛の頭を斧で叩き割るだけにしている。そこから折り取った牙を、逃げようとする蜘蛛の背に投げつけていた。ヘルマンに至っては、使い慣れていないはずの回転鋸を起動して突っ立っている。
暫くそうして骸の山を築いていると、急に蜘蛛の群れが攻撃を止め、一斉に距離を取り始めた。
「白旗でもあげるつもりか?」
「虫如きに白旗という概念があるのかしら」
「森番が教えてるんじゃないか。アルファベットとマザーグースも愛情を込めて教えてるんだろう」
「……と、何か来ましたね」
蜘蛛の海が割れ、その奥にはどの蜘蛛よりも大きな個体が居た。群れの長だろう。
「よくもやってくれた喃。穢れた血狂い、冒涜的殺戮者どもめ」
「ほう、これはこれは流暢な英語だ」
「儂らの住処を暴かれ、儂の子等を殺されてから20年……忘れたとは言わさんぞ」
「忘れた? 俺達は知らん」
「嘘を吐け!」
長は牙を鋏の様に打ち鳴らし叫ぶが、虚勢だろう。覇気を感じられないのは骸の山を築かれたせいか。
「知らぬ? 同じ匂いがする……甘い、苛烈な程に甘い血の匂いだ。縄張りに入り込んだそこの女が、儂らの姿を見た途端、儂の子等を引き裂きおった。儂も稲妻を纏った棍棒に打たれ、盲となった。儂は無様にも子等の骸の山に潜り、死を免れるしかなかった。その女が去り、子等の骸を食べた時の味は忘れもせん。そして僅かに残った卵を孵し、ここまで増えたのだ。それをまたしても殺しに来たか」
「ああ、アウレリアお姉様だな。同じ匂いとは私の事か」
やはり、アウレリアお姉様は森の奥深くまで進んだのだろう。それまでヤーナムの民が立ち入らなかった程の奥部か、あるいは群れの規模が拡大し、その縄張りも大きくなっていたのか。そしてお姉様は殺し尽くしたと考え、お父様には森に大きな蜘蛛が居たとだけお話をされた。蜘蛛はヤーナムの民の血を恐れ、再び森の奥に潜む様になった。
「匂いがどうとか気持ち悪いですね。死ね」
急に激したケントが長に向かって全力でナイフを投げつけるが、子蜘蛛が跳んでその射線を遮り、死んでいった。
「血の臭い……また殺したのか!」
「私ではないし、そも、貴公らが縄張りとしている事の方がおかしい。ここは学び舎だ。ボルネオに帰れ。さもなくば死ね。その許可は副校長から頂いている」
「約定を違えるのか! ハグリッドは儂に安息を約束し、儂に妻を与え、血を増やした。見るがいい、ここに並ぶ勇士達を。全てはハグリッドが与えた。だからこそ、儂はハグリッドとの約定によって、ヒトを襲わなかった。儂の子等にもそう教え込んだ。
それを反故にしたのはお前達だ血狂い共め!」
お姉様はおそらく、聖杯の経験から蜘蛛を見た為に真っ先に殺そうとしたのだろう。悪夢の内にある蜘蛛でなくとも、この連中は危険生物である。森番が違法飼育した事に端を発するとはいえ、ここに居る事それだけで、殺害される理由にはなる。
森番の撒いた罪の重さに頭痛がしているのは誰も同じだろう。お姉様の手からは、血が滴り始めている。
お兄様が頭を抑えながら、口を開いた。
「あー……文化が違う様だが、まず1つ。貴公がハグリッドと呼ぶ人間は、学校に於いても人間社会に於いても、貴公らを飼育する権限は無い。当時は法整備が無かったが、現在もそうした関係があるのならば十分に違法だ」
「飼育だと!? 飼育! 儂らを毛のないひ弱な猿如きが飼育するだと!」
「次に、貴公がそう俺達を罵倒する様に、一般的なヒトにとって貴公らは重大な脅威だ。つまり、先に述べた通り、森番個人と結ばれた約定はヒトの社会にとって何ら意味はなく、貴公らは非常に危険な駆除対象である。
そして20年前の者も、俺達も、貴公ら程度に殺される脆弱な存在ではない。それだけの事だ。
それだけの、事だった」
「戯言を! 儂らを殺す事が道理であると言うのか! 道義によってヒトを殺さなかった儂らを殺す事が!」
「そうだ。20年前はともあれ、先程少年達を襲っていただろう。貴公らの言い分は有るだろうが、俺達の社会に於いては、貴公らは最早生きる事を赦されない存在だ」
「僕からも。マリアはボルネオに帰れと言いましたが、ヒトを襲う事を覚えた生き物を野放しには出来ない。ここで死んでもらいます」
ヘルマンが言い終えた直後、お姉様の焔が黒い海を緋色に変えた。
悲鳴を上げる暇もないまま、蜘蛛達は物言わぬ骸となった。
「イングリット、済まなかったな」
「いいえ。言葉を交わしたお兄様やヘルマンの方が辛いでしょう。マリアも」
「私は特に。あ、いえ……アウレリアお姉様が雑魚だから見逃したのではなかったと知れて良かったと思いました。自分にとって脅威ではないから、人にとってもそうではない。そういうわけで生かしておいたのではなかったと。
……そうであれば、森番と同じですから」
「あの方は孤独を好み、己の力を最も信じるが、他者への慈しみがないわけではない。俺も狩りに同道したのは僅かしかないが、優しい異母姉だ。多少思い込みの激しいところはあるがな。だからこそ、背中を預けて良いと思える男に逢えたのは幸せだろう」
「本人にそう言えば無言で殴られそうですけれどね」
アウレリアお姉様は無口で、偶に口を開けば突拍子もないことを言う怖い姉という印象はあったが、今度お話を伺いたくなった。
「ボーン家の心温まる話はともかく、このままじゃ木に延焼します。ポッターも気になりますが、まずは消火を」
「骸はそのまま燃やしてやろう。素材として剥げば金には成るだろうが……」
「そうですね。それに、埋めても森が毒で冒されるでしょう。僻墓をここに作りたくはありません」
危険生物であれ、知性があった。それを個人の欲望で育て、人の都合で殺したのだ。その骸さえ金に変えるというならば、どちらが獣か分かったものではない。
「それと、魔法省に通報しましょう。森番は収監されるべきだ。それに、危惧した通り卵はどこかに残っているはずです。討ち漏らしも居るでしょう。まぁ、結局は僕らに駆除依頼が下りてくるでしょうが。その時にケントの使者に灯しましょう。今日は流石に遅くなる。まだ宴は終わってないはずだ」
「秘密の部屋が終わっても、俺達に暇は無いな。ケント、勉強がしたいなら聖杯に籠ってする様に。時間がいくらあっても足らんぞ」
「はい、ディルク様」
†
「だーかーらー! あんたらがウチの寮嫌いなのは知ってるけどさ! 飛んでるブラッジャー弄るなんてフーチ教官でも無理だってば! ハーマイオニーちゃんから聞いたけど、妖精がやったんでしょ!?」
「じゃあ飛んでない時に細工したかもしれないじゃないか! それにどうやって妖精がやったって証拠だよ!? お前らが妖精送り込んできたっておかしくないだろ!」
「はぁぁぁぁ? なら教官が気付くでしょ! あんな蛇寮みんな死ねなんて空気で不正なんて見逃すはずないっしょ!? あたしら憎さに頭も言葉もおかしくなってんじゃん! 第一ブラッジャーに不正するなんて面倒な事しなくたってジョーダンぶち抜いたでしょ!?」
「ほぅらやっぱブラッジャーで攻撃したのバ! レ! バ! レ!」
「くっそがぁぁぁぁぁ!」
森を抜けると、ドロテアと赤毛が火を囲み、口論していた。
自身が腕を砕かれた試合の事だろうに、ポッターは虚ろだった。尻が濡れるのも気にならないのか、雪の上に座っている。その隣に森番の愛犬が寄り添う様に伏せていた。
轍はうねり、森に消えている。乗客を降ろした後は森に帰ったのだろう。
「おっかえりー。火柱がここからも見えたよ。大分やれた?」
集めきった骸に、再び火を放ち、完全に灰にした。お姉様の様に血に優れる狩人でなくとも、大抵の狩人は魔術の焔をビルゲンワースで習得している。魔術に優れなければ、油壷と松明が有れば事足りる。手段はどうあれ、目的を達成する事が狩人にとっては重要なのだ。獣に弓で立ち向かおうと、剣を持って屠られるよりは余程狩人としてまともである。
「ええ。あの場に居た個体は全て。残りの駆除はいずれ」
「そんな……ハグリッドの友達だったんだよ!?」
クィディッチ談議にも加わらずに塞ぎ込んでいたポッターが、唐突に立ち上がり、叫んだ。
「あんたさ、あれに襲われたんでしょ? 他人が誰を友達にするなんて口を挟む事じゃないけどさ、ヒトを襲う生き物を喜んで育てるって意味分かる?」
ドロテアが舌打ち混じりに答えた。相当苛立っていたのだろう。ドロテアの怒気を受けたポッターは唇を噛みしめ、押し黙った。ウィーズリーはドロテアに同意し、首を自分で折ろうとしているかの様に幾度も頷いていた。普段であれば蛇寮生への敵愾心が優りそうなものだが、余程蜘蛛か森番に対する嫌悪が強いのだろう。
「だからハグリッドはダメなのさ! 怪物はどうしたって怪物だよ! だってのにみんなが怪物を悪者にしたんだと思ってる! それで牢屋に入れられたって誰にも文句言えないだろ!」
赤毛の言葉に、恐ろしい獣とデュラの言葉を思い出す。人は皆獣であり、獣はやはり人なのだと言う。赤毛は蜘蛛を怪物と断じたが、欲望に突き動かされ、他人を害する事に躊躇のない自身の妹をどの様に受け止めるのだろうか。
「姫様」
「ん?」
「ドロテア先輩が呼んでます」
呆けていた間に、ドロテアを中心にポッター達から少し離れたところに狩人が集まっている。
「さっきからブツブツブツブツ「僕が殺した……」とか凹んでるし、もう片っぽは「スリザリンが助けに来るはずなんてない」とか言ってるからさ、おねーさんとしてクィディッチで話逸らしてたわけ。助けてあげたなんて言うつもりはないけどさ、まるであたしらが悪いことしたみたいに言われたらムカつくでしょ。
それは置いといて、あれの妹の事は話してない。秘密の部屋は解決したとだけ。どーせ城に戻ったら校長がテキトーに都合が良いこと言うんだろうし、「あんたらの恩人置き去りにして城で食べるご馳走はどんな味だろうね」ってここに置いといた。
森の火を見て副校長の猫がさっき来たし、聞きたい事があるなら今のうちに」
副校長の猫とは、クィレルを狩った夜に遣わされた守護霊だろう。毛艶良く、しなやかに宙を駆ける姿は美しく思えた。
「ロックハートの顛末は聞きたいが、今は心を壊しかねんな。ひとまず心を落ち着かせる。それでいいか?」
「異議なし」「ええ」「あたしも」「私もありません」「僕もです」
ポッター達は密談が気になっていた様だが、近づくのは恐ろしい様だった。
「じゃあ帰るか。この時間ならまだ飯は残っているだろう」
お兄様がポッター達の服にこびりついていた泥を清めた。蜘蛛に車から引きずり降ろされたのか、あるいは蜘蛛に襲われていたところを、車が助けに来たのか。
しかしあの車の給油や整備はどの様に為されているのだろうか。
「なんでアンタらが来たんだ?」
「副校長の依頼だな。厳密に言えば君達の救出ではなく、危険生物の駆除任務だ。
……心配していらした。説教は覚悟しておけ」
赤毛はお兄様に噛みつくが、お兄様は反応を予想していたのだろう。淀む事無く答えた。更に反撃が来るとでも思っていたのか、ウィーズリーは身構えていたが、お兄様が何も言わず歩みを進めた為に拍子抜けしていた。
「危険生物……ハグリッドはどうして僕らを行かせたんだろう」
「貴方に信じてもらいたかったのでしょうね。自分は50年前、人を殺していないと」
「何が殺してない、だ! 僕らが死んでたら殺害数2人と1匹だぞ! 秘密の部屋の怪物が居るんなら、アイツはホグワーツの怪物じゃないか!」
「僕らは生きているけど、少なくとも1は確定だよ。ロックハート先生だ」
「あれは人じゃない。人の皮を被ったイカレだ」
ウィーズリーは吐き捨てたが、ポッターは首を横に振った。
「……少年。
考えさせたくは無かったが、気に病む様であれば仕方ない。自らの裡に秘めてもいい。全て吐き出してしまうのもいい。都合の良い、話したいことだけを話してもいい。校長に話したくない事があるなら、俺で良ければ聞くぞ。校長と俺達の軋轢は知っているだろう」
「そりゃ、嫌という程にね。おかげで僕らは寮杯を――」
「ロン。黙っててくれ」
ポッターはウィーズリーに森番を貶められた事に気が立っているのか、あるいは本当にお兄様に話したい事があるのか。
「アラゴグ。あの蜘蛛の群れの長の名前です。ハグリッドがそう名付けたと言っていました。彼は秘密の部屋の怪物ではなくて、ハグリッドは冤罪で退校処分になったって。じゃあ、どうしてハグリッドはあの時そう言わなかったんだろう。自分が何一つ悪い事をしていない、そう思えるなら、胸を張ってそう言えばいい。なのに、そうしなかった。
だから、ハグリッドは分かってたんだ。自分のしていることが良くない事だって。なのに、それは止められなかった。ハグリッド以外には襲いかかる怪物があんなに増えていても、50年間何もしなかった。
僕はハグリッドをどういう人だと思えばいいんでしょう」
白い息と共にポッターの心が吐き出される。雪を踏みしめる音と、ポッターの途切れ途切れの声が、冷えた夜気に吸い込まれていく。
「マリアの話では、森番は君の友人で、君に家族の想い出を贈った人物だという。それが悪性を持っていた事に、君は衝撃を受けている。そして、君は森番に疑いを持っていることに背徳感を持った。そういう事かな」
「多分、そうだと思います」
「どう思えばいいか、それは君自身が決める事だ。君にとっての森番の価値は君にとってのみ作用する。俺達にとっては間違いなく悪であり、今までは幸いにして人が死ななかっただけに過ぎない。それは森番に備わるある種の善性がそうさせていたのかもしれないし、校長や他の教員が何か手を打っていたのかもしれない。しかし、理由がどうあれ森番の行いは赦されるものだとは思えない。
だが、俺達にとってそうであるからといって、君にとっての森番がどういう人物であるかは関わりの無いことであり、森番の本質もまた関わりの無いことだ」
ポッターが森番とどの様な関係であれ、それは両者以外には何ら意味のないことだ。
あれのした事は何一つ擁護出来ない。己が欲求のままに力を振るい、他者を弄ぶ。それは、継承者となったジネブラ・ウィーズリーと同じである。それはまた、人の進化を謳い、その実探求の熱に溺れただけの墓暴きや実験棟の研究者とも等しい。
「本質?」
「君達獅子寮生は、俺達蛇寮生を悪しき魔術師の巣窟であると思っているだろう。だが、蛇寮生という属性を外した時、そこには何が残る。君達は蛇寮生だと思っていた者の内面をどれだけ知っている? マリアもそうだ。血塗れ女帝やら、トロール・イーターやら大層な二つ名を付けられているが、俺にとっては愛しい妹でしかない。
同じ様に、君の知っている森番は君の知り得る限りの森番でしかない。それは森番の本質と言えるだろうか。見たいものを見たい様に見る限り、それは見えてこないものだ。そして、人は他者に自分を見せたい様に見せている。50年前の継承者はその本質を隠す才に優れていた。あるいは、ロックハートもそうだろう。
君が今夜知った森番の在り方は、森番の一面にしか過ぎない。それは氷山の一角かもしれないし、あるいは聖書の内のほんの僅かな誤植かもしれない。君が森番を信じるならば、より深く知るべきであるし、最早信じるに値しないと思うのであればそれもいい。
まぁ、俺は本質がどうあれ罪は贖うべきだと思うがな。俺達の手は、あれが育てた蜘蛛の血で染まっている」
「最後で台無しですよ、ディルク。せっかく先輩らしい事を言っていたのに。
さて、ミスター・ポッター、あるいはミスター・ウィーズリー。心の整理は付かないだろうけど、ロックハートについて教えてくれ。ただの無能ではなく、人面獣心だったと知ったその顛末を」
台無しにしたのはヘルマンである様にも思うが、やはりロックハートは気になる。あの本を小ウィーズリーに与えた者は誰であるのか分かっていない。ロックハートが単なる無能ではなく悪人だとして、あの自己顕示欲やポッターへの執着とを組み合わせれば、奴が本の持ち主であったと推測することも出来る。
「アイツは忘却術師だった。それも、パパの職場に居る人達よりも上手いくらいだと思う。アイツの書いてきた本は、みんな本当にそれを経験した人達から話を聞いて、それから全部を忘れさせて出来たものだった。
それでマーリン賞貰えるってんだから、マー髭さ」
「……つまり、森の奥で君達は忘却術を掛けられそうになり、それを辛くも逃れて来た?」
「半分正解。ハリーがハグリッドの言葉を思い出して、一緒に透明マントを使って蜘蛛を探し回った。怪物や継承者が居るかもしれないからね。それで、蜘蛛の群れが一列になって、森へ向かっていくのが分かった。
先生たちは僕やハリーの言う事なんか聞いちゃくれない。アンタらがハリーを継承者だって決めつけて殺しに来なかったのが不思議だよ。先生でさえハリーにビクついて、目も合わせなかったんだぜ。
けど、ロックハートは別だ。あいつは馬鹿だから、秘密の部屋の手掛かりを見つけたって言えば、喜んでついてくるだろうと思った。自分の手柄に成るだろうしね。声をかけた瞬間は跳び上がって驚いてたけど、話をしたら飛んでいきそうなくらい喜んだよ」
想像通り、ロックハートを頼ったらしい。奴からすれば、失踪したはずのポッターとウィーズリーが現れ、自身や小ウィーズリーが捜索されていることを知らない。何も知らない馬鹿なガキ2人が秘密の部屋の手掛かりまで持ってきた……そう心中で狂喜乱舞しただろう。
「森に入って少ししたら、アイツがハリーに杖を向けたんだ。無能っぷりは知ってたから、別に怖くは無かったさ。それで何が出来るんだって訊いたら、アイツの悪行をペラペラと喋ったよ。
しまいには「可哀想な事に、森に棲んでいた怪物への恐怖で彼らはおかしくなってしまった――そう、世間は納得するだろう。ダンブルドアの下で悲惨な事故が起きるはずはない――ですが、無謀にも夜の森に踏み込んだ者にさえダンブルドアの目が行き届くとは限らない。私は君達の捜索を行い、森の中で心が壊れていた君達を見つけ――救い出した」なんて、溜めに溜めるいつもの調子だった。
ゾっとしたよ。フレッドとジョージが冗談を言うみたいな気軽さで、僕らの頭をどうにかするなんて言うんだ。
蜘蛛がそこに来たのはツイてたかもしれない。蜘蛛はまずヘラヘラ笑ってたアイツに飛び掛かって、それから僕らだった。僕らは逆さ吊りにされて奴らの巣まで連れていかれた。それでハリーと蜘蛛が話をした。ハグリッドがどうとか、秘密の部屋の怪物がどうとか話をしていたら、アイツがハリーに向かって「全てを忘れよ」ってね。逃げるための囮にするつもりだったんだ。ハリーは避けたけど、その先に居た子蜘蛛に当たって……多分、呼吸の仕方を忘れたんだろうな。ぴくぴくもがいて死んだよ。そりゃ蜘蛛もカンカンさ。
で、ハグリッドのせいで死ぬんだなって思ってたら、パパの車が来てくれたってわけさ」
ロックハートは単なる作家であり、ロックハートという看板を用いた制作者集団である。その予想は、最悪に近い形で的中していた。
「成程。ロックハートは無能ではなかった。書籍化出来る程の体験をした不世出の者を探し出し、その者から必要な情報を聞き出した後、忘却術で始末していた。その後、聞き出した話を自分に合わせて改変し、世に送り出した。娯楽に係る功績を讃えた勲章とはいえ、叙勲される程にその虚像は大きくなった。
世が世なら、密偵として身を立てられた事だろうな」
「ええ。何よりも、人を殺す事を躊躇わず、殺しても何ら傷を負わない精神性。大義の下に行うならば、英雄にもなれたでしょう。我欲……それも、虚栄心を満たす、それだけの為にそれを行ったのだから、邪悪としか言い様がありませんが」
そう、ヘルマンの言う通り、ロックハートとは殺人者である。たとえ、それが人の理性を全て消し去る様なものでは無かったとして、その者の現在を形作る過去を抹殺することは、部分的ではあれ殺人である。
英国の魔法族は非魔法族について火を用いる野蛮な猿程度にしか考えていないが、その倫理はその猿から遥かに劣後する。死と服従と拷問の術を殊更に穢れた闇の魔術として恐れ、その他の呪詛で如何なる苦痛を与えようと、闇の魔術とやらでなければ忌むべき暴力ではないとする。
ロックハートは偉大な冒険者の精神を殺めても、心臓が動いてさえいれば、その心に些かの疚しさも無かったのだろう。
「やったことってヴォルデモートと同じでしょ。結局、あの連中の言ってたことって「まほうぞくのぼくはすごいんだぞー」って思わせたかっただけ。ロックハートも「ぼくはすごいんだ! もっとぼくをみて!」ってわけ。あー吐きそ」
ドロテアがヴォルデモートの名を出したことにウィーズリーは顔を青くしたが、ポッターはそれよりも暗い表情だった。
犬を森番の小屋に押し込み、城へ向かう。
「その邪悪を強く望み、教員として招いた校長は、いったいどういうお考えなのかしら。これこそヘルマンの言った校長の裏なのではなくて?」
「おそらくは。ミスター・ポッター、何の根拠もないただの推測だけど、伝えておくよ。ああ、心に秘めなくてもいい。校長は心を読むからね。君が校長を信じようと、僕の言葉をそこに垂らす毒の様に感じても、それは校長の手の内に在る。
校長にとって、君は特別だ。それは自明の事だ。君の輝かしい冒険譚の為に、犯罪者を泳がせ、その犯罪者が狙う財物を学び舎の中に置き、君と君の周りの者が秀でる事に合わせた護りを施したのだからね。
君が望むと望まざるに関わらず、君は世間で英雄として扱われている。ダンブルドアとポッター、その両者とも知らないという魔法族は英国には居ない。ロックハートという歪んだ自己愛を持つ者にとって、君の存在は殺したいほど妬ましく、黄金で出来た踏み台だ。君の体験を自分のものにして、ヴォルデモートは実は自分が殺した、そう言えたらどんなにか幸福なことだろう。それが全くの出鱈目でもない事は、先程杖を向けられた時に良く分かったはずだ」
ポッターは望まずして、父母を失って勝手に付けられた英雄という称号に振り回された。すれ違う者は額を覗き込み、英雄である事を期待した。唯一得意とする箒では、副校長の私欲により競技場に引きずり出された。森番と友誼を育み、夜間外出による減点でその名は地に堕ちた。そしてある日、学び舎に持ち込まれた賢者の石を護る為に、番犬の護る冥府に下った。
そして、その1年の全ては、ポッターを本当の英雄にするための校長による策謀だった。
それに付き合わされたハーマイオニーの心痛は良く知っている。理性と校長の言葉がせめぎ合い、屈した。寮を超えて結ばれた友人を、危険と分かっている道に連れ込まなければならなかった。故にその夜明けには、より深い縁が結ばれることとなった。
では、ウィーズリーはどうだろうか。ポッターは結局、英雄に成り損ねた。その茶番に巻き込まれたウィーズリーにとって、昨年度に得たものは何だったのだろうか。
「では、何故校長は他でもないミスター・ポッターに執着するだろう人物を、教員に招いたのだろう。それは、それが君の為になると考えたからだ。校長は知っていたはずだ。かつて学び舎に在りし日、ロックハートに魔術の才がろくになかった事も、今や人の記憶を簒奪して回る殺人鬼である事も。何せ、心が読めるからね。
ロックハートを通じて君が何か……ああは成るまいとする意志かもしれないし、あるいは自分の見せ方かもしれない。君は他者にとって自分がどういう者であるかを気にするが、他者にどう見せるかは恐ろしく下手だ。それは純真さや誠実さかもしれないし、肩書のない本来の自分が愛されることへの欲求かもしれないが、何が君をそうしたのかは分からないから断言はしない。
いずれにしても、ドロテアが言った通り、ロックハートはヴォルデモートに近しい精神構造をした者だ。
つまり、校長がロックハートを招いたのは、君がロックハートの真実を暴く事を期待していたのだろうと思う。ロックハートは、今年の君に与えられた冒険なんだ。僕はそう思う」
ポッターが身体を折り、えずいた。昼食から大分時間が経っているせいで、石畳に広がるのは胃液だけだった。お兄様が無言で手を振り、それを消した。
「僕に害意があるわけじゃない。僕にとって君は同じ場所に居るだけの他人でしかない。だが敢えて君にこれを伝えたのは、君には君に降りかかる理不尽に憤る権利がある事を知ってもらいたかった。君は君を取り巻くものに流され、身を委ねてきた。ご両親の事もそうだろう。昨年度全てもそうだ。君は確かに箒の才に優れている。それは曲がりなりにも選手としてやってきている僕から、偽りなく賞賛しよう。だが、その箒さえも副校長の我欲から与えられた翼だ。
不憫だと思う。けれど、そのせいで君は君の意思と行いに対する責任を取る事を知らない。だからこうして、今夜も友人と犬と殺人鬼と共に、秘密の部屋の怪物が居るかもしれない森の中へ進んでしまった。「僕が殺した」と、そう言っていたね。そうだ。ポッター、君が殺した。ロックハートは悪人で、死を以って贖うべき罪人だろう。けれど、その断罪でもなく、葬送でもなく、その罪とは何も関係がない、森番の言葉に突き動かされた結果の死だ。君がロックハートの死だった」
「止めろよ!」
ウィーズリーがヘルマンの胸倉を掴んだ。
「ハリーが可哀想って言うんなら、どうしてそうやって追い込むんだよ。どいつもこいつも、ハリーに何をさせたいって言うんだ。ダンブルドアが何考えてるかなんて知るもんか! 結局ハリーを傷付けてんだから、アンタもダンブルドアと変わらない。ネチネチとハリーに嫌味を言ってるだけじゃないか!」
「それを受け容れてきたのが彼だ。怒りと癇癪は違う。自分が何故今そう在るのかを考えないまま、都合のいい言葉や状況に踊らされた結果が今だ。怒りは理不尽を覆そうとする意志の力だ。ただ蜘蛛の巣に引っかかってもがくこととは違う」
「通訳すると、そうやって自分が理不尽に巻き込まれた事を、理不尽だなって思うだけで受け容れちゃってるから、結局は何でも自分のせいじゃないって思う様になっちゃったでしょってコト。だから、ロックハートを連れ出して、ロックハートが多分死んだ今になって、自分の選択ってやつの責任とかその重みを初めて実感したわけ。別にあんたが直接殺したわけでもないのに、自分が関わったって事の重みに耐えられなくなって、凹みまくってる。
でも、いい勉強になって良かったね。これが去年、ハーマイオニーちゃんがトロールに殺されてて、それが全部クィレルを野放しにした校長のせいだなんて言ってたら、マリアはあんた達殺してたよ。それこそ、断罪でも葬送でもなく、自分の為にね。あの時はもうダフネちゃんの友達だったし、マリアだって友達とは言ってなかったけど、気に掛けてたから。
あたしらがこうやって落ち着いてられるのも、ロックハートだから。死んでもいい奴が死んだところで、まぁいいやって思うだけだし」
ヘルマンよりも直接的なドロテアの言葉は、より深く心に刺さった様だった。
「そう厳しく言ってやるな。少年達には少年達なりに、教員を信用出来なかった理由はあった。それに、自分にさえ分からない蛇語の力など、最早誰に縋ればよいのかも分からなかっただろう。ああ、蛇語を話すからといって、俺達が君をどうこう思う事も無い。多少、世界が広がるだろうと思うだけだ。そこのケントなど、英語、独語、日本語の三カ国語話者だ。君の1.5倍、語学に優れる。
赤毛の少年。ヘルマンもな、言葉通り、君達に害意があるわけではない。見ていて忍びないのだ。こうも校長に良い様に振り回され、自らの意志を失い、校長が望む君達に作り替えられていくのを見ているのはな。もっとも、俺達がこうして話していることもまた、君達にとっては同じ事だろう。反校長思想を植え付けたいというつもりも無いし、そもそも俺達は校長と結果的に反目しているだけであってそれを望んだわけではない。
ただ、君達には思考の自由を与えたい。校長は君達の生存と無事を喜ぶだろう。校長の心地よい言葉に心を委ねる前に、それに従うか否かを思考するべきだ。そうヘルマンは言っている。分かったら手を放してやってくれ」
ウィーズリーは手を放し、ヘルマンに背を向けた。
「どうして、僕なんだろう」
ポッターの呟きが、廊下の冷たい石壁に弾けた。