ホグワーツと月花の狩人   作:榧澤卯月

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秘密の部屋

純血主義者達の秘儀の一つ
魔力を吸い上げる事で学び舎の護りを顕現させる

かつて純血主義は同胞を護る為に芽吹いた思想であったが
今やその思想こそが同胞から見捨てられてしまった

部屋から生まれ出づる蛇が叫ぶ、人には表音出来ぬその声は
血を求める獣の声か、寄る辺なき祈りに応える声のいずれであろうか



秘密の部屋

 厨房は宴会に向け全力で稼働していた。「皆様が怯えるこんな時だからこそ、幸せな食事を用意することが務めなのです」と、目を血走らせて包丁を握る屋敷妖精達に、6食を特別に用意してくれとは言えなかった。

 何か思いついたことがあるとドロテアが言う。お兄様も現況をお父様に報告しておこうと、ドロテアと共にヤーナムに帰った。

 広間で自前のチョコバーと今朝届いたダフネ達からのプレゼントを齧りつつ、妖精達の飾り付けを手伝っていると2人が戻ってきた。既に臨戦態勢で、遮光用のゴーグルを首から提げていた。

 

「父上からは、最後の一撃まで気を抜かない様に、とのことだ。

 イングリットとドロテアの件は伏せてある。父上のお気持ちがどうあれ、城の周囲に灯りを持たない父上がここに急行することは出来ない。ただ心配を増やすより、後で小言を頂戴する方が良いだろう」

「小言で済みそうにはありませんが、仕方ありませんわ。

 ……ドロテアのそれは?」

 

 ドロテアは30センチメートル程の銀の棒を握っていた。

 

「トイレ改造スタンプ。この棒の中に、精霊の抜け殻由来のゲルが入ってんの。で、先端にはルーンを刻んであるってわけ。ペコンと便器に一発、その型通りにゲルが押し出されて、それだけで消失機能付与ってね。ちょっと聖杯に潜ってトゥメル人に協力してもらったから効果は実証済み」

 

 極稀に火炎瓶でも毒メスでもなく、丸めたクソを投げつけてくる守り人が居る。尋常ではない不快さと、その見かけから想像できない攻撃力から殺害優先順位は高い。

 

「……特許でも取ったらどうかしら」

「それも考えたけど、それがきっかけで元から消失機能の付いた便器開発されたら意味ないからね。継承者をぶっ殺したら秘密の部屋の解析もしたいね。転換機構を実装できれば夢の永久機関だよー」

「それが実現したら、特許料でヘルマンの年収超えるんじゃないですか」

 

 ケントがドロテアに渡されたスタンプを器用に指先で回しながら、ヘルマンに笑いかけた、その刹那。

 

「ディルク・ボーン他5名。職員室まで来い」

 

 寮監の声が拡声され、城内に響き渡った。普段の慇懃な言葉でもなく、無駄のない命令口調から切迫した事態である事が分かる。

 遺骨を使い、職員室に文字通り駆け込むと、そこには教授陣が悲愴な顔を並べていた。寮監もまた、その表情には幽かに狼狽と焦燥が浮かんでいる。

 

「どうしたと言うのです」

「生徒があの血文字の壁に新しい文言が加えられた事を知らせてきた。「その髪は血よりもなお赤く、その肌は骨より白い。その骸は永久に秘密の部屋に」と。これを受け、各寮の監督生に確認させたところ、諸君を除けば獅子寮の生徒3名が失踪した事が分かった。

 ハリー・ポッター、ロナルド・ウィーズリー、ジネブラ・ウィーズリーだ」

「非情な物言いをしますが……継承者からの要求が無い以上、既に死亡している可能性もあります。故に、俺達の目的は飽くまで秘密の部屋の破壊。捜索及び救出は副目的です。無論、可能である限りはそれらも行いますが」

 

 お兄様の言葉に、副校長が震え出した。人の世を知らぬ若輩の狩人にさえ、こうした事件の結末は想像するに容易い。まして魔法大戦を知る副校長である。それを改めて言葉にされれば、その衝撃は大きいことだろう。

 

「ジネブラ・ウィーズリー。はぁ、成程……成程」

 

 ケントはいつの間にか刀を佩いており、鯉口を切っては鞘に戻している。

 確かにケントはハロウィン以降に様子がおかしい者としてウィーズリー家の末子を挙げていた。とはいえ、あの馬鹿二人と共に失踪したのだ。ハーマイオニーの代わりに妹を連れ回し、そして同時に拉致されたとしても別段不思議は無い。

 

「ケント、何か分かるのか?」

「僕の中で道理が立っただけの事です。どうやってというのは未だ分かりませんが、何故というなら。まぁ、別に今の状況が良くなるわけじゃありません。それより今は、すべき事をしましょう」

「あたしも何となく、かな。クッソむかつくけど」

 

ドロテアがケントに「ねー?」と問うと、ケントも「ですね」と短く返した。

 

「何だ?」

「いえ、これを言ったら姫様ブチギレるので。後にしましょう」

「それは私が後で余計に怒るだけだと思うが」

「とにかく」

 

 寮監が話を遮った。

 

「諸君には、早急に秘密の部屋に赴いてもらいたい。校長も同行される」

「不要です。俺達は俺達で身を守れますし、俺達の領分、俺達の方法がある。校長はある特定の者ではなく、学徒全てを護る義務があるはずだ。広間で皆を落ち着かせながら、皆を護って頂きたい」

「承知しかねる。諸君も保護されるべき生徒の一人だ。対策が済んでいない以上、諸君だけで立ち向かうのは想定以上であろう」

「対策なら直ぐに。ドロテア」

「はっ。この道具を用いれば、15分もあれば大広間と各寮最寄のトイレ全てを改修できます。便器にこの先端を押し付けるだけで、特に詠唱は不要です。生徒には指定区域のみを用いる様ご命令を」

 

 普段あれだけ軽口を叩いているドロテアの畏まった口調に、寮監も言葉を詰まらせた。あるいは、その瞳に灯る虹色の光がそうさせているのだろうか。

 

「俺達が帰ってこない様であれば、その時こそ我が街に連絡を。入口の開き方は伝えております。昨年卒業したジェラルド・シュミットあたりがやってくるでしょう」

 

 寒風の様な静寂が職員室を包む。寮監は狩人をまともに学徒として扱った事は無かったが、それでも一応は案じているのか、あるいは冷徹に勝算を測っているのか。

 押し黙ったままの教員も所詮は蛇寮生の事と切り捨てているわけではない。お兄様の言葉に理と利を見出している事が表情から見て取れる。ホグワーツという地獄で教鞭を執る者ならば荒事にも覚えはあるだろうが、それぞれの得手不得手があるはずだ。昨年度の石の護りは教員それぞれの職能を反映したものとなっていたが、ことバジリスクを模した疑似生命という分野に長ける教員はいないだろう。狩人がそれに長じているとは言えないが、ピクシー事件がそうであった様に、護る闘いは不得手である。

 狩人の戦いは己が身を削る、死闘である。故に、広間の防衛を任されたとして、自分の身を護り、継承者の首を刎ねることは出来ても、学徒の安全は二の次である。人質を取られたとして、それより他に仕方がないのであれば、振るった武器は諸共に貫くだろう。

 それがたとえ、ダフネやハーマイオニーでさえもかと問われれば答えに窮するが、今はそうさせない為に研鑽を積む事だけを考えればよい。

 

「死を覚悟していて、より長じた者が居て、何故君達だけが向かうのか。まこと、ヤーナムとは不思議なところじゃの」

 

 それまで口を閉ざしていた校長が発した言葉は、この場にいる狩人のみならず、ヤーナムの在り方さえも揶揄している様なものだった。

 

「来るべき刻。それが来るまで、我等は恐れながらも歩みを止めぬ者。その歩みは、追い立てられ、屠られる燔祭の仔羊のものではない。我等狩人は皆、心の中に星辰輝く宇宙を宿し、その中に臆病な羊を飼う。他者に拠って立てば、たちまちにその羊こそが狼となり、心を食い尽くす。

 恐れながらも、暗い嵐の中を夜明けへ進む。それこそが、我等の生きる路。たとえその路で倒れても幸いである。続く者が遺志を継ぐだろう。我等ヤーナムは、個にして全。全にして個。同胞と身を寄せ合う事はあれども、寄生するなど死に等しき在り方だ。

 ……妹と後輩が倒れた時は、心を揺さぶられた己の未熟さを改めて思い知らされたが」

「全く同じ事を、君の姉君からも聞いた。もう20年も前になるかの」

「胎は違えど、愛しき姉だ。

 校長、もうよろしいか。これ以上何を問われても、俺からは問答無用としか返す言葉が無い。俺としては貴公の言葉に別段怒りもしないが、問答を続けたところでそこに価値が生まれるとは思えない」

「……ヤーナムは、変わらんのじゃな。ヤーナムの中でのみ、完結している。それが歪みだとも、悪だとも、わしには言えぬ」

 

 校長は疲れた様に言葉を紡いだ。

 気付かぬうちに鋸鉈を握っていたが、お兄様を除けば他の狩人もまた、銘々の武器を構えていた。

 

「ほう……成程。つまり、私への当てつけか? 私はホグワーツのへの帰属意識によって石ころを護りに行かねばならなかったという事か。自らの友人であるハーマイオニーの為ではなく、肩を並べる学徒であるからと。

 故に、私の行いに価値は無く、蛇寮に与える点も無かったと。意志なき行いだったと。ほう……そうか、そうか」

 

 言葉を紡ぐだけの理性を残せていたのは、やはりハーマイオニーの存在である。秘密の部屋を暴かぬ限り、彼女に安息は無い。ここで職員室の全てを破壊しつくすよりも、秘密の部屋の怪物を殺し尽くす事に力を注ぐべきだ。

 

「僕から申し上げますが、僕らはヤーナムの他に在るホグワーツの為にもなる事をしている。それが僕らの使命によるものであれ、それで救われる生命が有るならば、それを穢す道理は貴方に無い」

「おうとも。じゃが、わしは君達に狩人の使命としてではなく、ホグワーツの生徒であるから自らの意志でホグワーツを援ける。人であるからこそ人の世を想って欲しいと、何年も……そう、何十年も思っておる。それを狩長に伝えてはくれんかの」

「それを言うならば、まずは貴方がヤーナムを知るべきだ。貴方が今の貴方の目でヤーナムを見ている限り、ヤーナムは山々と湖に鎖された因習の蔓延る辺境の地でしかない。

 ディルク、行きましょう。寮監、トイレの件をお願いします」

 

 諾意を得ぬままに部屋を出るが、知ったことではない。蛇がどれだけ居ようと、あの殉教者の獣がそうであった様に、殺し、殺し、殺し尽くせばよいだけの事だ。

 寮に戻り、ヤーナムの伝統的な狩装束に着替える。ああまでも言われた以上、ホグワーツの制服に擬えた狩装束で事に当たる気はない。

 ダフネのベッドを見やる。ケントとドロテアは継承者の正体に何か得心がいった様だが、ダフネやミリセント、パンジー達が継承者に害されないとも限らない。ハーマイオニーならば尚更である。校長はヤーナムで完結しているなどと妄言を垂れたが、このホグワーツで心を交わした友人は居るのだ。たとえそれが自分の友人という、ごく利己的な理由だとして、彼女らに益することを何故不満に思うのか。腹立たしいことこの上ない。

 

 談話室には、狩人の装束に好奇の目を向ける者が多くいた。

 彼らに「幸せを運ぶトナカイさんだよ。怪物をぶっ殺しに行ってくるねー」と真顔で言い放つ、ブラドーの徴を被ったドロテアの姿がそこにあった。

 お兄様は伝統的なヤーナム様式に倣い、ヘルマンは聖歌装束、ケントは和装である。それぞれの装束には規定されていないものの、皆一様に面布を纏い、下水への臭気対策も行っている。

 

「鴉羽の狩装束か」

「はい。マリアの装束にしようかとも思いましたが、今日はお姉様が」

「ごめんなさいね。炎を扱うなら、やっぱりこの恰好が一番身が入るもの」

「いえ。もう一つの私の名、アイリーンの装束も気に入っていますので。それと魔眼がもたらす狂気への耐性を考えて、気休めとはいえその力にあやかろうと」

 

 ドロテアがフランキ監督生の淹れた珈琲を飲み終え、嘴の仮面に今日限りの偏光と耐魔眼性能を付与してくれた。永続的なものとなると工房の設備と大量の手間がかかると言うが、一時的なものとはいえ、暖炉の前で編み物をするかの様に為せる技量には頭が下がる。

 将来的には工房の職人を目指しているという。職人にとって重要なのは手先の器用さだけではなく、どの様な戦闘を想定できるか。ドロテアは十二分にそれらを満たしているだろう。

 

「さっさと片づけて宴にも出たいものだ。予定通りなら後2時間か。失踪者がいるのは蛇寮には伝わっていない。寮監が抑えたのだろう」

「何十匹分有るんでしょうね、魔力」

 

 ケントが暖炉でマシュマロを炙りながら言った。直接齧ってもいいが、珈琲に浮かべても美味い。

 

「それこそ50年分溜まっているとしたら面倒だな。便所で飯を食いたくはないぞ」

「様子を見て再編成しましょうか。1人か2人ずつ休憩取れれば良いですね」

「ヘルマンにしては珍しく楽観的だな」

「転換機構が僕らの血の秘儀を転換なんて出来るわけもありません。もし出来るとすれば、秘密の部屋の設計者は上位者をも超える存在という事です。つまり、あり得ません。銃も秘儀もやりたい放題ですよ。

 さ、15分経ちました。仕事の時間です」

「アレックス。詳細は省くが結論だけ言うと、トイレを使うなら寮内か広間の傍にする様、皆に伝えてくれ。さもなくば、最悪俺達は死ぬ。ではな」

 

 お兄様の言葉に、怪訝な顔をしながらもフランキ監督生は頷いた。築き上げた信頼によるものだろう。改めて、校長の言葉が理不尽な難癖にしか思えない。

 3階の廊下に着いたとき、遠き山に陽が落ちた。マートルが窓ガラスに首を突っ込み、それを眺めていた。

 

「マートル」

「何? 私の趣味を邪魔したいってわけ? それとも、ババアかよって馬鹿にするわけ?」

「どーでもいーよ。ここ、赤毛のガキが通らなかった?」

「ガキって、あんただってガキみたいな顔してるじゃない」

「うるっさいよ。いいから答えて」

「はいはい、何か虚ろな目して通ったわよ」

 

 ドロテアの言葉が汚い。

 

「ドロテア?」

「継承者はジネブラ・ウィーズリー。虚ろな目ってのは気になるけどね。ま、生きてるならそれでいいんじゃない。これ以上校長に文句言われたらあたしだってキレるよー」

「は?」

「行けば分かるってば」

 

 もう十分キレている気もするが、とにかく今すべき事はドロテアへの質問ではない。

 お兄様はケントに笛を吹かせ、お姉様が蛇を操った。先程と変わらず、柱は床に吸い込まれていった。

 

「あんたたちそんなことも出来るわけ? って、私のトイレに何してくれてんの」

「これこそ、貴公が50年間探し求めた秘密の部屋の入口だ。

 俺が先鋒だ。ヘルマンが続け。安全を確認した後に合図する。それが聞こえたら残りも飛び込め」

「了解です」

「お兄様、ヘルマン。気を付けて」

「ああ」

 

 2人は暗い穴に飛び込んでいった。程なくして柱がせり上がってきたが、すぐにお姉様が蛇に開かせた。

 暗い穴を覗いていると、幽かに指笛が聞こえた。

 

「先に行くぞ」

「じゃ、次あたしね」

「イングリット様、いかがなさいますか」

「ケントが先ね。蛇の制御が無くなったらケントが噛まれるかもしれないわ」

「かしこまりました」

 

 飛び込むと、当然ながら暗闇に包まれた。滑り降りながら携帯ランタンの照らす僅かな範囲を見る限り、通気管と思われる小さなものに接続はしているが、通路と言える分岐はない。防衛の為に迷宮になっていることも考えたが、そもそも入口を発見されることも想定していないのだろう。

 それにしても、長い。体感である為に正確ではないが、とうに蛇寮があるだろう高度よりも深く滑り降りている。築城の工程など知りはしないが、基礎部分とはこうも深くまで達するものなのだろうか。

 急に勾配は水平に近くなり、加速したまま空間に投げ込まれた。眼下ではお兄様とヘルマンが武器を構え、辺りを警戒していた。

 

「見事な着地だ」

「ありがとうございます」

 

 続くドロテアの為に場所を移すと、ドロテアも宙で身体を捻って着地した。

 

「採点は?」

「9点」

「7点」

「8点」

「優勝待ったなし」

「気が済んだらどきなよ。次が来る」

 

 ケントとお姉様もすぐ降り立ち、それぞれの武器を確認した。

 松明を掲げ、改めて辺りを見回すと、そこは石材で出来た大きなトンネルだった。鼠と思しき小動物の骨片や、墓所カビに似た何かの菌類の苗床が有る。幸いなことに、ここを下水が流れているわけではないらしい。となれば、やはりここは通路として設計されたのだろう。

 

「魔力の流れからするに……あちらか」

 

 お兄様の指し示す方へ5分ほど進むと、行き止まりとなっていた。聖杯の隠し道の様に、衝撃を与えれば道が現れるというものでもないだろう。壁には絡み合う2匹の蛇の彫刻が施され、その目には大粒の翠玉が嵌め込まれていた。

 

「何というか……随分と自己主張が激しいな」

「だよねー。秘密の部屋はここですよくお越しになりましたさあどうぞいらっしゃいませ、って一息に早口で言われてる気分」

 

 敢えて秘匿しておきながら、スリザリンを思わせる翠玉をあしらった蛇の意匠。ここまでされれば、むしろ設計者は秘匿などしていないと考えた方が納得できる。

 

「おそらくは蛇語で開くのでしょうが、上層の手洗台を突破されている以上、同じ防衛手法を取る事に何の利点も意味も無い。ここでは本当に継承者の為の符牒が必要というなら分からないでもないですが」

「そもそも成り立った背景が違うのかもしれないな。何者かが追われて作ったわけでもなく、何者かを追う為に作ったわけでもなく、元々ここは只の寮室、あるいは教室だった。いつしかそれは忘れられ、今の地下牢こそが俺達に与えられる寝床となった」

「明らかにこの通路と先程の配管は年代が違いますからね。ヤーナムがそうである様に、旧きものの上に新しきものを置く。そうして後の世の者は、自分が何の上に立っているのかを知らない。まぁ、トゥメル人達はそのまま祀った神と共に忘れられていた方が幸せだったでしょう」

 

 ヘルマンとお兄様が壁に近付き、罠の有無を調べている。壁に埋め込まれた火矢の彫像や棚から噴き付けられる劇薬に優る悪意などないだろうが、それでもここは秘密の部屋である。

 

「延々と僻墓でツルハシを振るい続けるのが幸せって言うならそれで良いんでしょうが、僕は御免ですね」

 

 ケントがランタンを掲げながらヘルマンに応えた。

 

「果物も砂糖も無いしな」

「あたしはあの音好きだけどね。焚火の傍に座ってツルハシのガンガンやってる音聞いてると眠くなってくるよ」

「秋の風も冬の夜空も無いのは嫌ね。イズは美しいところもあるけれど」

 

 イズの最奥には、確かに宇宙を思わせる程の聖堂が設けられていることがある。それが単に蜘蛛の巣とある種の菌類の胞子による見せかけの空としても、トゥメル人の心に幾らかの安らぎを与えたのだろうか。

 

「罠の類は無いな。イングリット、準備を」

「はい、お兄様」

 

 上層の入口同様に、蛇によって仕掛けは動いた。蛇の彫像は滑らかに動き、壁は隠し道の様に虚空へ消えた。

 

「本当に何事も無く開いたな。イングリット、何を言わせた?」

「かねて血を恐れたまえと」

「その通りだ。征こう」

 

 秘密の部屋の内部は、薄暗くはあるが清潔だった。蛇の彫刻が施された柱は灯りも届かぬ高さまで聳え、床は磨かれた蛇紋岩が敷かれている。青い秘薬を呑んでいるとはいえ、靴音は広間に響き渡る。継承者にも侵入は知られているだろう。

 擦過音がした。

 

「そこ」

 

 音の方向にドロテアがクロスボウを撃ち込み、暗闇に銀の煙が立ち昇った。

 血に由来する攻撃力に自信が無いのであれば、より多くの血を込めればよい。血に優れぬ狩人の安易な発想は、その単純さ故に、より多くの智慧を取り込む余地があった。

 矢という、銃弾より多くの血を内蔵出来る飛び道具に、工房は改めて熱意と血潮を流し込んだ。

 射程と連射性能こそ銃弾と較べるべくもないが、魔術儀式を含む特別な工程を経る事によって、矢は魔法生物にとって極めて高い破壊力を持つ様になった。元来の静粛性と習熟難易度の低さから、若人に銃よりもこれを薦める狩人も居る。

 ドロテア曰く、未だなお続く火薬庫の職人達はその風潮を嘆き悲しみ、発射音が一切無い銃の開発を計画した。だが、爆炎と轟音による葬送を矜持とする彼らにとって、それは自殺的であった。ある時彼らは試作品にして完成されたそれを仕舞い込んだ。倉庫の奥に、ただ誇りの強きが故に。

 

「まず一匹、と」

「さて、次はどう出ますかね」

「飽和攻撃だろうな。単純ながら効果は高い。

 ……一般的に言えばな」

 

 紫の淡い光の粒が、周囲から一斉に湧き上がる。ヘルマンは彼方へ呼びかけ、その光を塗り潰した。

 お兄様も月光波を飛ばし、蛇を煙に変えている。

 

「んっ……」

 

 背後でお姉様が艶めかしい声を上げたが、それは自らの掌に小刀を這わせたことに因る。僅かに身を屈めれば、その直ぐ上をお姉様が生み出した焔が走った。焔は幾つかの柱を燃え上がらせ、蛇を焼き払う。その劫火に照らし出された蛇の胴を、普通の対物ライフルで撃ち抜いた。本来立射すべきものではないが、大砲さえ片腕で扱う狩人の膂力には造作もないことである。ケントも同様にお姉様が照らした蛇に銃を撃ち込んでいる。

 

「作業感ありますねこれ」

「気を抜くなケント。天井が崩落して圧死は笑えん。マリア、武器を替えろ。イングリット、お前もだ。これだけ広ければ窒息は無いにしても、確実に建材を痛める」

「では、これならば」

 

 お姉様の掌からは焔の刃が伸び、その先に有った蛇の頭を刺し貫いた。

 マリアの名を頂きながら、自分にはあの狩人の業を扱う事は出来ない。狩人に成って日の浅かった頃は、憧れた狩人の焔を生み出せない事に癇癪を起こしもした。

 古強者の系譜である少女王の血は、狩人の基本である身体強化の技法に特に優れる。物理的な破壊力と内臓を引き裂く業については他の追随を許さぬ程と自負しているが、それでいて何故マリアとアイリーンの名を頂いたのかは疑問である。

 だが、賜った名には、必ず意味が有るはずである。お父様とお母様はそれに自ら気付く事をお望みなのか、あるいは未だ伝えるべきではないとお考えなのだろうか。

 

「と、今考える事でもないな」

「姫様?」

「いや、すまない。私にできる、私の強みを活かそうと思ってな」

 

 お兄様とヘルマンが続けざまに光を放っているため、蛇にとっては魔眼も何もあったものではない。ならば、近づき、反撃も赦さぬままに切り刻むまで。

 遺骨に魔力を注ぎ、地面を蹴る。直ちに眼前に迫る蛇の腹、そこに慈悲の刃を食い込ませた。素早い連撃に価値を置き、その反面ひと振り毎の攻撃力は心許ない武器であるが、踏み込んだ勢いを利用すれば他の武器にも劣らぬ威力となる。

 この力であれば、大蛇の鱗も魚の鱗も変わらない。そうして捲れた皮膚に、腕を差し込む。引きずり出すべき臓腑がどれだかは分からない。どうしたものかと一瞬思ったが、内臓攻撃に拘る理由も無い。穿った穴に脚を蹴りこみ、腕を喉に、脚を尾へ向かって進ませた。

 

「蛇の手開き……いえ、手足開きですか?」

「あの調理法は嫌いなんだがな。指に臭いは付くし、調理後の見た目も美しくない」

 

 ケントは大振りの太刀を閃かせ、輪切りにしていた。

 

「姫様って料理出来るんですね」

「困らない程度にはな。お母様が厳しいのさ」

 

 夜が明け、獣化を免れた住民達が目にしたものは、血と瓦礫、そして骸が転がる街並みであった。

 そんな有様で、唯一住人達の心の慰めとなったのは、父母を失いながらも気丈に振る舞う少女王の炊き出しだったという。

 いつまでこの戦闘が続くのか分からないが、早く片付けて食事にありつきたいものだ。

 

 

 殺害数が合計300を超えるか否かといったところで、貯蔵された魔力も尽きたのか、新たな蛇は出現しなくなった。ヘルマンとお兄様は目晦ましを行いながら、秘儀と月光波を撃ち続け、注射をし、また撃ち続けた。狩人は皆そのお蔭で、魔眼も毒も、巨躯の体当たりさえ、一切傷を負わなかった。

 お兄様達がお姉様とドロテアから輸血液を受け取っている間に、ケントと共に辺りを警戒したが、やはり蛇の姿は無かった。

 

「未知の場所に赴く時、道を知る者と共にしてはならないとは、やはりよく考えられた掟だな。推測とはいえ、幾分か気が抜けてしまった。怪物の正体を知らず、この場所だけを知っていたならば冷汗をかくこともあっただろう」

「慣れてしまえば狩りですらない駆除作業になってましたからね。アメンドーズ戦が出荷作業なんて言われるわけですよ」

 

 自分の実力ではなく、他人に任せた狩り。自身の技量や武具を磨くではなく、先達に頼り、攻撃範囲外で安穏とする。それを寄生や出荷と言う。

 旧くは医療教会の時代から定められた聖杯深度。より深く潜る権限を得る為にはその区画の長を倒す事が条件となるが、その難関として知られるものが深きトゥメルと称される区画のロマ、冒涜と称される区画のアメンドーズである。特に未熟な狩人のうち、魔術や秘儀を主体に闘う者にとって辛いものとなり、出荷を望む狩人は後を絶たない。だが、それは自らの首を絞める事だ。

 技量が劣るままに狩りに赴けば、当然に死に近付く事になる。何より、都合の良い救済など獣へ導く澪標である。そうした事から、今日のビルゲンワースは寄生を厳しく監視している。

 

「ああ。しかし、何故継承者は直接攻撃してこなかった。乱戦となれば必ず隙をついて、死の呪詛を投射してくるだろう。故に、敢えてイングリットの焔の幕を開けたが、武装解除術さえ無かった」

「それで場所が割れる事を想定したとしても、利益の方が大きいですしね」

「では、お兄様達は敢えて派手に攻撃をしていたと?」

「ああ。ヘルマンの隙は俺が月光波で呪詛を消す。俺の時はその逆。そういうつもりだった」

 

 言わずとも為されたその連携は、長年の付き合いに因るものだ。普段は殴り合いの喧嘩もしているが、2人の間には代えがたい信頼があるのだろう。いずれ自分とケントとの間にもそうした呼吸が生まれるのだろうか。

 

「まぁ、進めば分かる事か。ランタンを消せ。青い秘薬を飲みなおせ。柱の陰に注意しろ。先頭は俺が行く。ヘルマンが殿だ」

「了解」

 

 回廊を進むうちに闇に眼が慣れ、その奥が見え始めた。最奥では天井に届く程の石像が煌々と照らされている。それは石から作られた事を忘れる程に、豊かに波打つローブに包まれた、老齢の魔術師の像だった。美術に明るいわけでもないため、それがどの時代の様式に基づくものかは分からないが、学祖スリザリンへの崇敬の念を感じさせるものだった。

 

「遅かった……とは言わないよ。辿り着くとも思っていなかったからね。ようこそ、異端者たち」

 

 顔から伸びる顎髭は、そのローブの裾に至る。

 その先に、ジネブラ・ウィーズリーが椅子に深く腰掛け、その隣に見知らぬ学徒が立っていた。その輪郭は朧気で、黒い靄を纏っている。

 

「僕は5年かかった。複数人で公に行動できたとはいえ、たった2か月で秘密の部屋を見つけ、ましてや開くことが出来るなんて……正直、嫉妬さえするよ」

「貴公が継承者か」

「その問いへの答えは、君達に必要かな。君達も分かっているんだろう?」

 

 お兄様の質問に質問で返される。こうした手合いはヘルマンが得意とするところだ。

 ヘルマンは眼鏡の位置を直し、仕込み杖で床を軽く叩いてから、口を開いた。

 

「なら質問を変えよう。貴方は50年前も継承者だったのでしょう?」

「うん、その質問は適切だ。そしてその問いに僕はこう答える。僕は50年前から、ずっと継承者で在り続けた」

 

 継承者の制服は現代の男子生徒の物と微妙に意匠が異なっていた。

 ゆったりと、そして朗々と響く声。背景には威容を誇る石像、小道具として据えられたウィーズリーの末妹、何もかもが芝居掛かっている。その役者の相貌は、絵画的な美を感じる程に整っている。

 

「亡霊にしては随分と血色が良いな。ご機嫌な様で何よりだ」

「ああ、何かが癇に障ったのなら申し訳ない。なにしろ、こうして口を使ってまともに話をするのは生まれて初めてだからね」

「随分と口の回る赤子だ。さて、貴公の本体はその娘が抱える本という事か。さしずめ、所持者の精神に作用し、意のままに操る呪具といったところか?」

 

 小ウィーズリーの腕の中には、黒い表紙の本。それが人形ならばともかく、そのあどけない容姿と相反する古びた本は、その異質さを際立てた。

 

「半分正解だね。僕は確かにその本に残された記憶だ。だけど、触れた者の心を冒す能力なんてない。人の心を操るのは、いつだって人だよ。そして僕には、人の心について少しばかり長けたところがあってね。極めて優れた相談役というわけさ」

「そうか。なら、俺達の相談を聞いてくれ。頼むから死んでくれ」

「嫌だと言ってもそうするんだろう?

 ……最後の望みを賭けた蛇が狩り尽くされて、この期に及んで無様に命乞いをするつもりもないし、この娘を人質にして交渉しようなんて気もないさ。けれど、50年の孤独と沈黙に、君達との会話は耐え難い甘露と言える。

 それに、君達は真相を知らずとも、ただ同胞の復讐だけで満足してしまう様な人達でもないだろう?」

 

 お兄様が剣に光を灯し、一歩、継承者に近付いた。

 

「生憎と、追い詰められてもあれこれと喋った後に逆転する、そんな映画の様な展開にはならない。

 言葉を聞かずとも、所詮は道具なのだから解析してしまえばいい。時間稼ぎをするならもう少しマシな口上を用意しておくべきだったな」

「落ち着いて考えてくれ。魔力の供給源は絶たれ、貯蔵も無い。霊体とも言えない、ただの魔力の塊でしかないのが今の僕だ。この娘の杖を操って魔術を使う事は出来るけれど、君達を傷付ける程の魔力を使えば、途端に消滅するだろう。

 僕の存在理由は僕の保持だ。僕に自殺は出来ない」

「そうか、それは可哀想なことだ。心置きなく死ね」

 

 お兄様が更に歩みを進めた。

 

「だから! 話を聞けよ!」

「それが本性か。イングリット、どう思う」

 

 継承者の激昂を見て、お兄様が嗤った。相手の出方を伺うという理由もあっただろうが、先程の質問返しにやり返したというところだろう。ペンは剣より強しとはいえ、剣で斬られて死なぬ者はそう多くない。

 

「話がしたいと言うのは嘘ではありませんわ。あれだけ余裕を持っていたのですから、余程自信があるのでしょう? それを崩してまで叫ぶなんて、私なら舌を噛み切って死にますわ」

「……そうか。

 では、継承者よ。50年前の社交はどういうものなんだ? ちなみに、現代では自己紹介から始めるものだが、まぁ好きにやってくれ」

 

 お兄様は床に月光剣を突き立てた。飛び散った床材が、その燐光を受けて煌めいた。

 

「そうだな……順を追って話したいところだけど……まずは謝罪か。すまなかったね。

 とはいえ、そもそも僕は君達を襲うつもりもなかったし、むしろこの娘にそれを思い留まらせていたんだ。もっとも、君達を狙わなかった理由は、後輩である君達を大事にしたかったわけでもないし、君達に義理があるわけでもない。単純に、君達が怖かったからさ。だからこの謝罪を受け取らなくてもいいし、受け取られるとも思っていないよ。事実、僕は止める事が出来なかったから、こうして破綻した。

 でも、理性ある人間なら、まずはこうした事から始めるべきだろうと思うんだけど、君達はどういう人間かな」

「俺の理性が枯渇する前に簡潔に話せ」

「良いとも。と言っても、僕が話せるこの2か月の事件の顛末は、飽くまでこの日記に書かれたこの娘を通したものでしかない。

 最初に書かれたのは……そうだね、「あのハリーにまとわりついてるブスは何なの」だった。それで僕はこう返した。「こんにちは。ハリーとは誰ですか? あなたは誰ですか?」と。

 興奮したよ。50年間、眠る事も無く、ただ僕の記憶の中に在り続けただけ。そこに、文字が浮かび上がってきたのは初めてだった。

 あぁ、自己紹介だったね。僕はトム・マールヴォロ・リドル。薄汚れたマグルの父から継いだ名だから、あまり口にしたくない僕の気持ちを分かってくれるだろうか」

「分からん。その様な理由でヴォルデモート卿などという大仰な名前を自らに着けるなどと」

「何だ、知っていたのかい」

「稀代の犯罪者だからな。本名程度は調べようと思えば調べられる。調べようと思わない程に魔法界を恐怖に陥れたというのは事実だが。他にも非魔法族の養護施設で育ったという事は知っているが、父親が非魔法族だったというのは知らなかったな。悪名高き純血主義過激派の原理は歪んだ劣等感でしかなかったと大いに喧伝してやろう」

 

 闇の帝王、その名をヴォルデモート卿。さりとて木の股から生まれ出た者でもない。敵対者を殺し尽くし、情報を全て灰燼に帰したたわけでも無ければ、それに迫る事は可能である。

 

「ふぅん。名前を呼んではいけないあの人、だろう? 未だに恐れているなんて、随分と程度が低いものだと思うよ。ゲラート・グリンデルバルドはその名で呼んでいるというのに……ああそうか、僕がダンブルドアに殺されたわけでも、僕の死体が見つかったわけでもないからか。

 それで、僕はどうやってあのハリー・ポッターに倒されたんだい? ああ、去年の事は知っているよ。この娘の兄と、この娘がブスと呼んだ穢れた血、ハリー・ポッター、そして……多分そこの君の大活躍というわけだ。「スリザリンらしいキレた目つきをしていて、ハリーに酷いことを言うトロール殺しの野蛮なチビ」だそうだ。なんだ、案外綺麗な顔をしているじゃないか。

 君らが未来の僕を出し抜いたらしいね。この娘がハリー・ポッターについて書いたことは、興奮していてよく分からなかったし、多分に妄想も含まれていたんだろうけど、正直……僕は失望した。僕を創り上げていながら、穢れた血にさえ劣るなんて、無様にも程がある。

 どうだったんだい、未来の僕は」

 

 まるで旧来からの友人かの様に、リドルは話しかけてきた。音も無く忍び寄り、絡め捕る蛇。安易な表現だが、この態度を形容する相応しい表現が思い当たらない。

 

「寄生虫だな。自身の信奉者の肉体に寄生し生き長らえる、醜悪な老人でしかなかった。そのくせ古語を用い、威厳を保とうとする辺りは滑稽そのものだった。哀れだな」

「神童もいつかは潰えるという事かな。あるいはその傲慢が身の破滅を招いたのかもしれないね」

「大層なご自身への信頼だが、こうして俺達の前で愚痴を語る貴公も無様というわけだ。

 1981年の10月末日。ヴォルデモート卿敗北の理由は、分からない。何せ生き残ったのはハリー・ポッターという赤子だけ。記録によれば、ポッター家を襲撃した後、ヴォルデモート卿はこの世から去ったとされている。そして夫妻の遺体の傍らに、稲妻の傷を刻まれた泣き声を上げる赤子が一人。これで何が起きたか分かるものは、貴公自身だろうな」

 

 リドルの幻影は、幾度か目を瞬かせた後、その顔に似合わぬ甲高い声で笑い始めた。

 

「きゃははははははは! なぁんだ。簡単なことじゃないか。親の命だよ。命を捧げて護りとする。それだけのことさ。

 なんだ……2か月も恋する馬鹿な乙女の愚痴を聞き続けなくたって、僕の目的は果たす事が出来たのか。本当に、君達と話せてよかったよ。

 この娘に未来の僕の事を聞けば怖がって何も書かなかったし、誘導して聞き出そうにも、そもそも知らされていなかったんだ。この娘は貧困家庭のよくある不満をつらつらと書き並べていたけどね、記された事から知る限り、他の兄弟よりもよっぽど大事に育てられていたよ。その貧困の中で望み得るものを、彼女は父母から与えられていた。

 だからだろうね、ハリー・ポッターというモノが手に入らないという絶望は、彼女の中でとても大きく、豚の様に肥え太っていたよ」

 

 救済を求める声が上位者を呼び、自身を獣に変態させる。クィレルもまた命を削り、帝王に仕え、その果てに力を求め、獣となった。ならば、自らの命を捧げてでも吾子の護りを欲したならば、そうもなるのだろうか。

 夏にお父様からポッターの父母についてお言葉を頂いたが、お父様はポッターの護りの仕組みが分かっていたのだろうか。

 

「この娘が初めて書き込んだのは8月の終わり頃だ。薔薇は赤く菫は青く……なぁんて、砂糖よりも甘ったるい幼気な恋心に、少しばかり年上の男として助言をし続けた。苦痛だったよ。だって、50年ぶりの他者との会話だ。その相手が野望も無い、探求欲も無い、恋する乙女だなんてね。けれど、その苦痛を甘んじて受け入れる程に、僕は彼の話を聞きたかった。この娘は彼に自分を見て欲しかった。一致する利害が、精神の交わりを生み出したのさ。

 そうして、この娘は秘密の部屋の開き方を知った。

 全ては彼に自分を見てもらうために。

 この娘は、この娘の望みの為に、秘密の部屋を開いた。僅かに僕から流れ込んだ蛇語の力を使ってね。この娘は蛇語をまだ十分に使えなかったけれど、蛇は召喚者を襲う様な馬鹿じゃない。

 それから、僕の言葉通り、雄鶏を殺して血を壁に塗り付けた。彼にヒントを与えるんだと言えば、この娘は特に何の疑問も無くその通りにしたよ。「穢れた血を殺し尽くす」とか、この娘にとって過激な言葉を使わなかったせいもあるだろうし、「ハロウィンの夜にご馳走も食べずに出歩く生徒は居ないよ。誰も君を疑う事は無い」なんて言っておいたからね。

 その後は笑ったよ。「学校が大変なの。猫が襲われて、秘密の部屋とかいうのが開かれたらしいの。それに、あたしもなんだか最近おかしいの。いつの間にか、私のローブに鳥の羽がついてて、手に赤いペンキが着いてたの。どういうことだと思う?」ってね。

 この娘の言いたいことは分かる。「あたしは部屋を開いただけで、蛇をけしかけたりなんてしていないのにこんな大騒ぎになった。そんなつもりじゃなかったの」そんなところだろうね。じゃあどんなつもりだったと思う? ハリー・ポッターと同じくらい刺激的な経験をして、あわよくばそれを自分が解決した事にして、彼に自分を認めて欲しかった。それだけさ。

 校内を騒がせたこの2か月の事件。その全容は極めて単純だ。恋心をこじらせた、盛大な自作自演だったのさ。

 継承者の記憶を持つ本。それが偶々自分の手元にあって、それを大人に手渡した。そんな事じゃ、彼には見てもらえない。だから、彼と同じ冒険をする必要が有ったのさ。彼と同じ様に冒険を経て、栄光を掴まなければならない、そう思っていたんだ。

 でもそうはならなかった。

 この娘は、猫が死にかけ、ダンブルドアでさえも手に負えない事態が起きたという段になって初めて、自分が何をしたのかを理解した。その現実を受け止め切れず、自身がやったことを正当化するために、自分の記憶と認識を嘘で塗り固めたのさ。

 赤いペンキ? もちろん、血さ。ホグワーツ城のどこに赤いペンキなんかあるって言うんだ。無からペンキを生み出すなんてことは彼女には出来ない。あぁ、全くの無能という訳じゃない。才能はあったよ。血を塗る為の浮遊術も、証拠隠滅の為の消失術も、僕が入学前に教えていた事だった。薬学の陰険な課題も手伝ったし、理論だけ知っていればいい天文学なら尚更に楽だった。僕自身、教師としての才能はあったんだろう。何せ、子供の幼稚な表現だけで書き込まれた情報から、問題点と改善方法を伝えられたんだからね。そうしてこの娘は、優秀な一年生となった。

 でもそれは、彼女をより傲慢にしてしまった」

「つまり、貴公の目的とは継承者として純血以外を殺す事ではなく、ポッター少年と話をする事、か」

「成程。それで合点がいきました。あの血文字は自己顕示欲の発露かと仮定していましたが、まさにその通り。貴方はポッターに見つけてもらいたかった。ただの一年生で在りながら、学校全体に関わる事件に首を突っ込み、解決した英雄。ジネブラ・ウィーズリーの記述から貴方の中に結ばれたポッターの偶像は、そうした厄介事に多大な関心を寄せる少年という事ですか」

 

 実際には、校長の奸計によって英雄に仕立て上げられかけた、ただの魔法族のクソガキであるが。

 自身の思考に些末な横槍を入れる事で、思考の偏りを防ごうとする。

 継承者の言葉はそのまま聞けば成程と思うが、全て真実である確証はない。実は眼前の少女は本に触れる事で脳を冒され、継承者の人形にされていたのではないか。そう考える事で、思考を塗り潰そうとするジネブラ・ウィーズリーへの怒りを押し留めるが、また別の思考も頭蓋の内で響いている。

 今更少女に責任転嫁をしたところで、リドルの亡霊になんの利益があるのか。クィレルの身体に直接寄生していたヴォルデモートでさえ真に操っていたわけではなかったが、ただの呪具にそんな事が出来るのか。

 そう考えてしまうと、継承者の言葉はやはり道理が通っている様に思えてくる。

 

「その通り。確かに僕は僕が秘密の部屋を開く為、継承者で在り続けようとする意志から生まれた。けれど、まずは僕の生存を優先しなければならない。そのためには、未来の僕が何故ハリー・ポッターに敗れたのかを知らなくてはならなかった。分からないのは、彼を知ろうとする欲求は、それは僕がそう作られたからなのか、生来僕が持っていた未知への探求心によるものなのか。

 ……想像出来るかい? 自分が作られたものだと分かっていながら、それまでの自分の記憶は完全に保持している。いつか来るべき日に備え、いつか使い捨てられる人格で在りながら、僕は一向に僕のままだ。生み出され、自分の記憶に閉じ込められたと分かった時の、僕の混乱と嘆きは、君達には分からないだろうね。

 まぁ、今となってはどうでもいいことだ。

 僕は苛々したよ。ハリー・ポッターについて尋ねれば、「ハリーの周りで写真を撮っているマグル生まれがウザい。ハリーの凄さは魔法族にしか分からないのに、有名人の追っかけ気分で付きまとうなんて」とか、「今日もあのブスがハリーに纏わりついてるの。どうしたら引き離せるんだろう」だとか。僕の心中は、いつになったら僕は彼の手元に行けるだろうか、という事ばかりだったよ。ああ、「あのチビの取り巻きがあたしを睨んでる。ハリーと同じ黒髪でも、目は煤の様に真っ黒。不気味」だなんて言葉もあったね。君の事だろう?」

「そうでしょうね。心の底から死んでほしいと思います。そのガキも、貴方も」

 

 ケントは表情を変えなかったが、指の骨を鳴らした。

 

「ははっ、元気な一年生だ。大変よろしい。

 そういうわけで、僕も彼女も悶々とした日々を過ごした。状況が動いたのは、クィディッチの試合だった。誰だか分からないけれど、ブラッジャーを操って彼を襲ったんだろう? その後の彼女の怒りは凄まじかったよ。破れるはずの無い紙に、穴が空きそうな程の筆圧だった。「ハリーが襲われたの! どうやってかは分からないけれど、あんな卑怯な事はスリザリンの連中がやったに決まってる! トム教えて! あの蛇を操る言葉を」そう書き込まれた時、僕は驚いたよ。この娘の中には「自分はやっていない」と「自分がやった」が、同時に存在していて矛盾していないんだ。

イカレた精神は興味深かったけれど、面倒でもあった。継承者が蛇寮生を襲うなんて、物語が破綻する。致命的ではない様に、それでも少しずつハリー・ポッターに足跡を追わせる。それが肝心なのに、パン屑をあちらこちらにばら撒かれては困るからね」

 

 非魔法族を厭う割に、リドルが用いた比喩は『ヘンゼルとグレーテル』だった。この頃は未だ単なる純血主義被れだったという事か。只の優秀な少年に芽生えた悪意は誰も摘まなかった。あるいは、誰かが育んだのか。

 

「それで? 何故クリービーが襲われた?」

「僕は必死に宥めすかした。「そんな高等な事は生徒には出来ない。出来るとすれば教員の誰かだ。そんな事よりハリー・ポッターに近付く方が君の願いに適うだろう。何か彼に変わった事はあったかい?」とね。そうして幾つか下らない愚痴を書き込まれた後、「あの追っかけが苦しむハリーを撮ってたの。あいつならマグル生まれだし、継承者のせいに出来るでしょ? あの蛇であいつを同じだけ酷い目にあわせてよ」なんて書いてきたんだ。

 今度は、僕に言われたから、僕に操られたから、だから自分は悪くない。そう心の底から思う様にしたらしい。僕は確かに他人の心が分かるし、それに適う様な僕を演じてきた。だけど、こんな心の在り方は初めてだったよ。実に興味深いね。

 僕はこの50年間で、穢れた血を殺す事なんてどうでも良くなっていた。そもそも秘密の部屋を開いた理由は僕が僕である事を確信する為だった。僕が生まれた理由は僕が僕で在り続けるためだ。穢れた血を殺す事は手段の一つでしかなくて、僕の本能じゃあない。強いて言うなら趣味かな。未来の僕はどうだか知らないけれどね。

 だから、ダンブルドアの警戒心を煽る様な事はしたくなかったけれど、「しないって言うなら、あたしはあなたを先生に突き出すから」なんて書かれたら、せざるを得ないというものだろう? 

 僕はそうしてこの娘と契約した。この娘が望む時、僕はこの娘の身体に宿り、この娘に代わって、この娘の言葉を蛇に伝えた。

 世界を震撼させたあのヴォルデモート卿が、こんな道理の分からないメスガキに屈服している……そんな事実を、誰が信じるっていうんだろうね。君達もそうだろう? 僕の話を聞きながら、僕の話を疑っている。僕の言葉が、君達を陥れるものじゃないかと。

 分かるんだ。僕はそういう、人の心を読み解くのが得意だった。一般的に言えば僕の容姿は優れているし、人を惹きつける話術、仕草……何より、信念が有った。教師にも学生にも僕は好かれていたし、君臨していた。そうした環境は、僕の才能をより優れたものにした。

 もちろん、だから君達を口先でどうにか出来るなんて思ってはいないし、どうにかしようとも思っていない。僕が話している理由は、50年の虚無の埋め合わせさ」

 

 トム・マールヴォロ・リドルは優秀な学徒だった。大抵の人間は、自身が帝王と関わった事を恥じ、その記録や記憶を改竄した。だが、ホグワーツでは、その痕跡を様々なところで見かけた。首席、監督生、特別功労賞といった栄誉には、どれもリドルの名が刻まれている。

 

「それでクリービーを襲ったというわけか」

「襲われた、だ。僕じゃない。幸いにして、あのカメラ小僧はファインダーを通してバジリスクの目を見たから石化した。僕だって、こんな段階で殺しをやるなんて計画に無かったからね。そしてその翌日、この娘は僕に何を書いたと思う?「同級生のコリンが襲われたの! やっぱり秘密の部屋の怪物はグリフィンドール生を狙ってるんだわ! でも、怖いことだけじゃなくて、いいことがあったの。あたし、ハリーを傷付けたアイツを石にしたの! ハリーも喜んでくれるかしら」だよ。

 ほんと頭おかしいね」

 

 リドルの乾いた笑いが部屋にこだまする。地下深く、風の吹くことも無いだろうに、炎が揺らめいて見えた。

 オドンの蠢きにも依らず、こうまでも狂う事が出来るのか。それも、紛争地帯で生きるわけでもなく、少なくとも人を殺めた事はないだろう環境で育ち、その上で自らの手を汚す事を選び、その汚れによって心を冒す。

 たとえ眼前の男の言葉が嘘であれ、その様な筋書きを描ける狂気が、怖い。

 

「それから何日かして書き込まれたのがこれだ。「あのトロール殺しが継承者を探してうろついてる。嫌な気分。ハリーに任せておけばいいのに。ハリーだったら直ぐに解決してくれるわ。いつになったら私に気づいてくれるのかな。あぁ、トム。あたし、ハリーに嫌われたらどうしよう」これを見て、僕は焦ったよ。君達はダンブルドアの尖兵で、あれが自分の手を血で汚したくないから使っている暴力装置だと思っていた。ピクシー惨殺の件は知っていたからね。

 ……おっと、ダンブルドアの手駒扱いに気を悪くしないでくれ。今は君達がダンブルドアとは全く関係ないと分かってるんだ。ここにあの忌々しい偽善者がいないからね。目を塞がれている僕からすれば、ダンブルドアが目立った動きをしていないのに生徒が好き勝手に動いているなんて、君達がそうだとしか考えられなかったんだ。

 嫌われたくないならしばらく身を潜める様にと伝えて、僕はこの娘に応えるのを止めた。かなり不安定だったからね。事実、双子の兄が怖がらせてくるから殺したいだとか、監督生の兄が気遣うフリをして探りを入れてくるのが腹立たしいので殺したいだとか、恐れと怒りが万華鏡の様に目まぐるしく変わっていたんだ。何かきっかけを与えれば、たちまちに壊れかねない。その嵐の中で、この娘を落ち着かせる灯台は、ハリー・ポッターに対する執着心だけだった」

「ああ、やっぱり」

 

 ドロテアが吐き捨てた。

 継承者の言葉を聞く前から、ドロテアとケントは怒りを露わにしていた。職員室でジネブラ・ウィーズリーの名を聞いたとき、その思惑を理解したのだろう。2人だけが気付いた理由は有るのだろうが、それは今気にする事ではない。

 

「君は見るからにそういった事に聡そうだからね。ミス……」

「あんたに名乗る名前なんてないよ」

「そうかい、ドロテア。残念だよ」

「くっそムカつく」

 

 先の戦闘では符牒を用いたわけでもなかったため、ドロテアの名も聞こえていたのだろう。

 ドロテアの感じた苛立ちは耐え難いものだったのか、鎮静剤を僅かに飲んでいる。

 

「その後も何度か書き込まれたけれど、僕は無視していた。もちろん、目を通さなかったわけじゃない。本当に窮地に陥っているのに放置すれば、精神は完全に崩壊するだろう。いや、この状態を未だ崩壊していないというのは語弊があるかもしれないね。とにかく、無視している間にこの娘は安定したのか、次第に書き込まれる内容も「ハリーがあたしに笑いかけたの。私が継承者に怯えているから」とか、「ハリーがまたスニッチを獲ったの。彼が贔屓されているなんて言われてるけど、あんな飛び方はチャーリーだって出来なかったわ」なんて、どうでもいいことばかりになっていった。

 ところが、だ。急に錯乱した様子で次々と書き込まれた日があった。理解するのに長い時間がかかったよ。要するに、決闘クラブでハリー・ポッターは蛇語を話したと。この娘が狂乱するのも道理だね。自分がバジリスクを操った時、その言葉が聞かれていたら、何もかもが台無しだからね。

 一方、僕は冷静だった。「それで継承者が分かっているのなら、君はきっともう投獄されているはずだよ。ジニー、落ち着くんだ」その言葉への返答は「あぁ、ハリーはきっと分かっているんだわ! ハリーはあたしを庇っているの! だからあたしもハリーに応えなきゃ! でも誰が継承者なんだろう。今はグリフィンドールの中でも、ハリーが継承者だって虐められてるの。トムには分かる?」だった。

 僕はこの子の様子を知って流石に暗澹となった。元々他人に期待する様な性格ではなかったけれど、あれ程他人に自分の命運を委ねる立場を恐れた事は無い。とにかく成り行きに任せる様にと伝えたけれど、安心は出来なかった。

 それで、次に僕の力が呼び出された時には、獅子寮のゴーストと、遠くて紋章が見えなかったけれど2人の生徒が廊下の奥に居るのが分かった。蛇を呼びだして、あれを襲えと命じて、それからまたすぐに本の中に戻って、この娘の書き込みを待った。「トム、ハリーの悪口を言った連中をやったわ。ハリーもこれで助かるはず」だってさ。そんなことをしたら、ハリー・ポッターの信用は地に堕ちるだろうにね。実際、どうだったんだい」

「襲われたのは穴熊寮の2人だ。ポッター少年が彼らにけしかけられた蛇を鎮めたが、彼らは逆に彼がけしかけたものだと思い、学内に自分はポッターに襲われたと叫んで回っていた。その結果は当然、貴公の想像通り、ポッター少年による報復と捉えられた。

 俺はその時気付かなかったが、継承者が狙う者は皆、彼にとって短期的には犠牲になった方がいい者だった。ケントが気付いたのはこの頃か?」

 

 お兄様に水を向けられたケントは、至極平静だった。否、恐ろしいまでに無感情な顔つきだった。

 

「ええ。彼の信奉者だろうとは。次に襲われるとすれば、グレンジャー先輩だろうとも思いましたし、実際に襲われれば僕の想像は確信に成るだろうと思いました。ですから、彼女がポッター先輩を気遣って獅子寮に籠っている事は不安でしたし、休暇直前に僕らのテーブルで食事をしたのは安心でした。こうした事件の最中も、僕らと彼女の関係は良好に続いていると見せつけられましたからね。

 蛇寮の全員か、あるいはポッター先輩かが継承者だと言われている学内で、敢えてその蛇寮の食卓で食事を摂る獅子寮生。学生全員にとって異常でしょう。そこのクソガキは知らなかった様ですが、僕らは反ダンブルドアとしても名が知れ渡っているから、僕らが継承者であると言う連中も居ました。

 先輩は身を挺し、僕らが継承者ではなく、継承者への抑止力である事を学内に知らしめたんです。その信頼に応えなくてはとも思いました」

 

 単に休暇前の挨拶とはありがたいとしか思えなかったが、後輩として一歩退いた場所から見えるものが有ったのだろうか。あるいは、自分がハーマイオニーにとっての防御であるとしたマルフォイの言葉に甘え、見えていなかっただけだろうか。

 

「へぇ? 穢れた血のくせに頭が回るものだね。自身の血の濃さだけで僕を友人だと思っていた愚物とは訳が違う。そうした純血が手元に多く居たなら、未来の僕は無様を晒すことも無かったんだろうね。

 次の標的は君の考えた通りだよ。望んだ相手を3人も手に掛け、未だにダンブルドアには何の動きもない。この娘の自信は確実になっていた。日に日に排除対象として書き込まれる名は増えていったし、その順番を考えるのが楽しみになっている様だった。いつも最初に書かれるのは、ハーマイオニー・グレンジャーという名だった」

「だから姫様はブチギレるって言ったんですよ。武器を下ろしてください。柄が割れるくらい握りしめてますよ」

 

 ケントの言葉に気づかされたのは、小刻みに痙攣する腕と破片の食い込んだ掌だった。口の中に血の味もすると思えば、怒りのあまり奥歯を割り砕いていた。歯の欠片を嚙み砕いて飲み干すと、銃に埋め込んだ脈動血晶の影響で、すぐさまに失われた歯の辺りがむず痒くなった。

 

「まぁ、この子の自信も長くは続かなかった。「パーシーとフレッドとジョージが言ってた。あいつらが女子トイレの前に居たって。あいつらを殺さなきゃ。トム、何とかして」これを見て、僕はこの娘にありったけの罵詈雑言を浴びせて静かな虚無に帰りたくなったよ。

 結局ハリー・ポッターには近づけず、聞く限り訳の分からない暴力的な魔術師が僕を殺しにやってくる。あぁ、この娘を憑り殺して逃げられたら、どんなに良かっただろう。この娘は僕が考えていたよりずっと自我が強く、互恵どころか僕が搾取されるばかりだった。

 とはいえ、未だ完全に終わったわけじゃない。秘密の部屋の入口が分かったところで、誰が継承者であるかは分からない。それに、君達を殺そうにも、クリスマス休暇中で人は少ない。動けばその方が自分の首を絞める。

 そう考えていたら、呼び出されてドロテアとそこの君が視界の端に居た。この娘が望むままに、蛇語を引き出された。その結果、君達は完全な死角から襲われた。振り向き様にバジリスクの目を直視した君達は石になることは無いだろう。確実に殺したと思っていれば、血を噴き出しただけ。その上、傷を負いながらバジリスクを殺したんだ。

 君達も驚いただろうけど、僕の驚きはそれ以上だ。そんな魔術師がどこに居る。ヒトであるはずがない。流石に2匹目で始末出来たと思ったけれど、安心は出来なかった。現場の近くでこの娘を見た者がいるかもしれない。教員か、生徒か、亡霊か。肖像画かもしれないし、あるいは醜い妖精共かもしれない。それを聞きつければ、残った者が血眼になって僕らを探しに来るだろう。そこで僕は、前にもそうした様に馬鹿な半巨人を使う事にした」

「前にも、か。他人を嵌めるのは大得意の様だな」

「いいや? 過大評価も困るな。あれが危険な生物を飼っていたのは事実だったからね。薬学教室にある小さな薬品庫で、藁の敷かれた木箱の中に何かを飼っていた。僕が陥れたわけじゃない。あれ自身がそうなのさ。声と図体ばかり大きな不良生徒が怪物を飼っていた。品行方正で成績優秀の監督生が告発すれば、どうなるかは分かっているだろう?」

「ハッ、成程。つまり、貴公は50年前も窮地に陥ったという訳だ。誰にも頼らず、自身の力でそうしていながら、そこに寝ているクソガキ同様、結局は誰か犠牲になる者を頼らざるを得ない程に、追い詰められた。品行方正で成績優秀の監督生が聞いて呆れるな」

 

 余裕綽々の継承者に切り込むが、継承者は長い溜息を吐いただけだった。森番が嵌められた事は殊更に思うものも無いが、他人を弄んだ事を誇らしげに語る顔を眺めているのは不快である。

 それ以上に、気になる事もあった。

 

「僕を挑発したところで得られるものはないよ。それは君にとって君の怒りを自己増幅させる儀式でしかない。先程の様子からするに、君はそこのお兄様に甘やかされて育ったのかな? 随分と短気だ。先輩としては、君は君の従者の言うクソガキと大して変わらない様に思うよ」

「それこそ、そうして私を挑発したところで貴公に得るものはない。自分の短気は自分で分かっているからな。私が激昂して貴公を殺めようとすれば、頼れる狩人達がそれを止めるだろうさ。畜生に堕ちるなと。図星を突かれ、答えに窮し、暴力を恃むなどおよそ人らしき振る舞いではない。

 ただ、随分滑らかに舌を動かすものだと思ってな。私達が貴公を殺した後、50年前の件は冤罪だったと官憲に伝えるかもしれない。貴公にそんな義理は無いだろう。故に、私達にそれを伝える事は貴公にとって何らかの利益がある。それが何かを知りたくてな。気に障ったなら謝罪するが? どうぞ続けてくれ」

 

 怒りこそあるが、疑念を抱くだけの冷静さも残している。こうして話を聞き続けている事こそ異常なのだ。即ち、この会話こそ何かの魔術である可能性もある。顛末を語っている様に見せかけ、実は韻を踏んで祈祷文を詠唱しているのかもしれない。お姉様やヘルマンが黙って聞いているのも、そうした兆候がないか調べているのだろう。

 

「ふぅん? まぁいいさ。こうして僕が君達に話す理由、それは君達に僕を詳らかに伝える事さ。語っていない事があれば、君達は僕を疑うだろう? 「僕の最期の言葉を信用してくれ」なんて言葉より、一から十まで全て伝えた方が余程有意義じゃないか。僕は記憶であって、生きている人格でもある。最期が無意味であるというのは耐え難い苦痛だ。

 とにかく、あれをどうにかして利用できないか。そう思っていたところで、また新しい書き込みがあった。「誰かがハグリッドを捕まえに来たみたい。これでみんな安心できるね」と。天祐とはこれを言うんだろうね。「様子を見にいった方が良い。君一人だと危ないから、なるべく多くの生徒達と一緒に行くんだ」そう応えて、僕は生徒達の前であいつが連れていかれるのを想像して待っていた。ダンブルドアは当時もあいつが継承者ではないと見抜いていた様だし、僕がそうだと確信していた。ディペット爺さん……つまり、当時の校長は僕を疑いもしなかった。

 夏の頃、この娘からあいつが学校に居るって聞いたときはダンブルドアの正気を疑ったよ。あいつはダンブルドアにとって優秀な手駒か、もしくは偽善を満足させるための道具なんだろうな。だから、ダンブルドアはあいつの無実を主張するだろう。あいつを継承者だと疑っている生徒達や来校者の前でね。それは生徒達を失望させるはずだ。こうして2か月の間に何も出来なかった老人が、明らかに不審な半巨人を庇う。もしかすると、ダンブルドアさえ追いやる事が出来るかもしれない。そうすれば、僕もハリー・ポッターに会えるかもしれない」

「そう思っていたら、殺したはずの奴がその生徒達の中に居た、という訳だ」

「そうだ。この娘はついに、完全に壊れた。僕も全てが終わったと思ったね。誰のせいだと思っているんだか、書き殴られる僕への恨みに何も返せなかった。余りにも虚無感が大きすぎた。次第に現実逃避の言葉が書き込まれるようになった。「今日のクリスマスパーティーは楽しみ。でも、トイレの工事があるから広間と寮以外は使っちゃいけないんだって。なにも今日やらなくてもいいのにね」その書き込みで、僕は秘密の部屋の全てが見透かされたと確信した。入口だけじゃなく、部屋の仕組みさえも完全に打ち破られると怯えた。だから、継承者としての僕の生存の為には、全てを賭けて君達を呼び込み、死闘を演じてもらった果てにこの娘を殺してもらう他無かった。小汚い日記がこの部屋のどこかに転がっていたとして、それに気付く人間はそういないだろうからね。

 この娘にはこう伝えた。「ハリーが助けてくれる。だから秘密の部屋で待っていよう。ハリーに来てもらうために、最初に文字を書いた壁に、文字を書き加えるんだ。それから、ハリー以外の人が来たらみんな殺そう。そんなところにハリーが助けに来てくれたら、どんなに素敵なことだろうね?」そんな言葉を受け容れてしまう程、この娘はもう何もかもが分からなくなっていた。

 そうして君達が来た。ダンブルドアも伴わずにね」

 

 リドルの賭けとは、蛇の多重召喚と飽和攻撃。だが、お姉様とドロテアによってもたらされた情報に基づいた対策は、それらを悉く打ち破った。

 

「激しい消耗だったよ。僕から蛇語を吸い出し過ぎて、この娘は魔力欠乏で瞬きも出来ない程に衰弱している。君達の何人かは死ぬだろうと思っていたけれど、まさかみんな無傷とはね」

 

 リドルは長い溜息を吐いた。肉体を持たないのであるから話し疲れる事も無いだろうが、精神は大いに疲弊したらしい。

 

「それは残念だったな。それで貴公の話は全てか?」

「思い残す事は無いよ」

「いや、俺には幾つか質問がある。まず、何故50年前マートル・ワレンだけを殺した?」

「何かと思えばそんな事か。事故だよ、事故。初回ならともかく、ダンブルドアに睨まれていて殺しなんてするわけもないだろう? 初めはバジリスクの魔眼を受けても死ななかった。確かに石化の力はあるとされているけれど、文献で多く語られるのは死の魔眼だ。その違いは何だろうか。ああ、何かを通して眼を見た者は、魔眼の効果も薄れるのか、そう気づいた。なら、どれだけ魔力を注げば、どれだけ目を合わせたら死ぬのだろうか。色々試しているうちに、ホグワーツ閉校の話が出てね。そうしたら僕は忌々しいマグルの世界に帰らなければならない。それは嫌だった。だから、部屋を閉じることにした。

 そうしたら、あの陰気で惨めな女が現れてね。忘却術を使えばよかったけれど、咄嗟に僕は蛇を呼んでしまった。そのせいで、これから犠牲者が出なかったとしてもホグワーツは永久に閉ざされるかもしれない。亡霊になったと聞いた日、僕は禁書庫に監督生権限で入室して亡霊を殺し切る方法を探したよ。僕の顔を見られていたら……そう思うと、何を食べても味がしなかった。

 あんな卑しい穢れた血に、僕が追い込まれる。その屈辱は魂を引き裂かれる様なものだったよ。その怒りと、いつか再びここを開くという決意を基に、僕は作られた。僕がとこしえに、揺るぎなく継承者で在ろうとするためにね。

お次は?」

 

 砂糖と塩を間違えた、そんな気軽さで殺されたマートルの無念はいかばかりか。これを彼女や遺族に伝える事は、何の慰めにもならないだろう。

 

「ジネブラ・ウィーズリーはどうやって本を手に入れた? 誰かを唆し、彼女に渡る様にしたのか」

「知らないな。言っただろう。初めて僕に書き込んだのは彼女だと。それに、自分で分かっている事を質問するのは関心しないな。そんなことが出来るなら、貧困家庭の末子なんかに渡るよりよっぽどいい条件がある。学校関係者であれば教員でもいいし、理事でもいいし、名家の子供でもいい。ああ、魔法省職員でもいいな。何か理由を付けて来校できれば、公務として調査が出来るからね。もっとも、君達こそ、そうして寮監の後ろ盾を得て調査した様だけど。

 次はもっと楽しい質問を期待しているよ」

 

 お兄様を揶揄う継承者だったが、お兄様は思案顔だった。先程までの継承者の言葉が真実であり、継承者の傍らで眠る少女が理不尽を撒き散らしていたとして、より上位の存在があれば同様の事件は続発するだろう。継承者は自らを作られた存在と言い、50年間外界と隔絶されていたとした。即ちそれは、自らと同じ存在が幾つもあったとして、それを知り得ないということである。

 自分が自分であるという根拠を、自身の記憶にしか求める事が出来ないならば、自分の唯一性は自身には証明出来ない。50年前までの記憶だけを記録したのだと仮定すれば、発言に矛盾は無い。眼前に在る継承者が実は『年刊実録ヴォルデモート』の第1冊目である可能性は否定できない。では、その頒布者は何者であるのかをお兄様は知りたかったのだろう。

 

「何故貴公の姿が見える。貴公の話によれば、呼び出された時にしか外に出る事は出来ないのだろう?」

「良い質問だ。これは僕にも説明が難しい。祭壇と僕自身に残る最後の力を振り絞って……というところかな。あるいは、君達が殺した蛇を構成する魔力が漂っているお蔭かもしれない。検証はしてみたいけれど、とりあえずは僕の意思の力としておこう。魔力とは、究極的に言えば意思の力だ。明確な想像が変身術の出来を左右する様に、僕は最期を悟り、僕の意思を強固なものにした。僕は、僕を破滅に追いやる連中の顔を見ておくことくらいはしておきたかった。それがもたらしたのは、想像以上に有意義な時間だったよ。後は僕を闇祓いなりダンブルドアなりに引き渡すんだろう? そいつらには何一つ語ろうとは思わないよ」

「最後に、少年達はどこだ?」

 

 目的は飽くまで秘密の部屋の破壊である。しかし、救出出来るのであればするべきである。この部屋のどこかに寝そべっているのかもしれないし、骸となっているのかもしれない。寝所として寝心地がいいとは思えないが、霊廟とするのであれば見事なものだろう。

 

「何だい、それは」

 

 お兄様の問いに、リドルの幻影は片眉を吊り上げ、初めて困惑した表情を見せた。

 

「ハリー・ポッターとロナルド・ウィーズリー。そこのジネブラ・ウィーズリーと共に姿を消した学徒だ」

「知らないよ。むしろ僕が知りたい。部屋の入口を開いたのはハリー・ポッターの蛇語じゃないのかい」

「まあいい、とぼけたところで探せばいいだけだ。あの通路のどこかに居るとすれば面倒だが」

「いやいや待ってくれ。この娘もそうだけれど、僕に物理的に誰かを運ぶ力なんてない。この娘に書かせた文言は、この娘についての事だけだろう? 第一、ハリー・ポッターをどうこうできるなら、この数ヶ月の間、僕はわざわざ狂人に付き合って何をしていたって言うんだ。

 君達が何を信じるか知らないけれど、君達の神に誓って言う。僕は知らない」

 

 これには狩人一同が顔を見合わせた。随分と焦っているリドルの様子から、嘘であるとも思えない。お姉様も嘘ではないと頷き、ヘルマンとケントは首を傾げた。では何者が連れ去ったのだろうか。

 

「この娘が口を開ける様になった時、きっと言うだろう。自分は悪くない、自分は操られていただけだと。けれど、僕は操ってなんかいないし、そんな事が出来るなら、最初から僕をハリー・ポッターに渡している。僕がこの場で語ったことを信じられないとしても、君達がここに至るまでに知った事はそれを証明しているはずだ。だから、改めて言う。僕は知らない」

 

 先程の態度と異なり、薄らとした笑みを浮かべる様子もなかった。

 

「いずれ分かる事だ。聞きたいことは全て聞いた。後は部屋を閉ざし、その少女を連れ帰り、貴公を持ち帰るだけだ」

「それなら、その娘が祭壇の中心だ。君達程の術者であれば、術式は見て分かるだろう」

「潔いことだな」

「勝者へのせめてもの誠意さ」

 

 お兄様はヘルマンに頷いてみせた後、ジネブラ・ウィーズリーの腰掛ける椅子に近寄った。この構図に、狩人ならば誰しもが思うものがある。

 時計塔のマリアである。

 

「さぁ、僕を終わらせてくれ。もう50年の虚無にも飽きた。僕を生み出しておきながら、僕にも劣る僕に何も思うものはない」

 

 お兄様はそれに答えず、本に触れた。

 瞬間、本からは黒いインクが迸り、リドルの幻影は苦悶の叫びを上げながら靄となり、虚空に消えた。ゴースの遺骸から立ち昇るあの靄と同じ様に思え、そして昨夏にクィレルから飛び出したヴォルデモートの靄と同じだった。

 

「お兄様、何が……?」

 

 手に付着したインクを払うお兄様。腕を振る度に、床に散ったインクが水音を立て、それは銀の靄となった。

 

「ああ、案ずる事はない。予想した通り、本に触れた瞬間、あれは俺に侵入しようとした。だから、逆にあれの言うところの記憶の世界に侵入し、殺してきた。独自の攻撃魔術や空間改変、疑似生命など、中々新鮮な体験だった。今が18時だから……潜っていたのは2時間弱か。

 語っていた通り、優秀な魔術師だったのだろう。元々そうして作られた存在であったとはいえ、上位者ではない者が自らの内に夢幻世界を作り上げるとはな」

 

 懐中時計を見ながら、お兄様は事も無げに答えた。

 やはり、先程までの会話は心の隙間に忍び込むためのものだったのだろう。ポッターを知らないとした言葉の真偽は不明だが、狩人の信用を得ようとしたその必死さは、あれの言葉で言う精神の交わり、即ち交信の為だったのだ。

 となれば、その術を直に受けたお兄様には、心苦しいが疑念が湧く。

 

「本当にお兄様かしら? それとも、お兄様の皮を被った継承者かしら」

「……まぁ、それも必要か。俺はディルク。ボーンの血族のうち、アデーラ女王の下に生まれた7の兄弟の末弟。血を恃まず知を恃み、剣を振るう狩人だ。これでいいか?」

「ヘルマンは?」

「そうですね……継承者が全く気にしない様な、些細な記憶の確認を。今夏、ダイアゴン横丁に行った時、どこで食事をしましたか?」

「赤龍亭。最初はテラス席に案内されたが、イングリットに見惚れた連中に席を譲られ、屋内で食べた」

「では次に、今期貴方が初めに口説いた相手は?」

「……なぁ、確認と称して悪ふざけしているだけだろう」

「いえ。継承者はそういった記憶に触れないでしょう。読むとすれば、僕らにとって重大な意味を持つ、初めて武器を握った日や、仮初の死、そして夜明けを迎えた記憶の方がより表層に浮かんでくるはずです。そうではなく、こうした日常の方がこの場に於いては相応しい」

 

 ヘルマンの言葉はもっともらしく聞こえるが、口の端が歪んでいた。

 

「真面目な質問をしているつもりなら、そのにやけ面を隠せ」

「いいから、答えろよ」

「ダフネ・グリーングラス」

「大正解です……ふふっ」

 

 言い終わるや否や、お兄様はヘルマンに走り寄り、笑いをこらえきれなかったその顔に拳をめり込ませた。語った内容の整合性や、ヘルマンに対する態度は間違いなくお兄様だろう。

 

「ダフネ様、お綺麗ですよね」

「だよねー。あたしもイングリットもお気に入り。何食べたらああなるんだろ」

「それでいて可愛らしいところもありますからね。茶を点てて差し上げたら、茶碗転がして慌ててましたよ。初めての事で緊張してらしたんでしょうね」

 

 ケントとドロテアがしみじみと呟き、頷いた。友人が褒められているはずだが、なんとなく疎外感を覚えた。

 

「さ、お兄様もヘルマンも気が済んだかしら。それとお兄様? 継承者の言葉はどこまでが真実だったのですか? お兄様にそうしようとした様に、心を冒す事が出来るなら、何故あの娘にはしなかったのでしょう」

「奴は夢の中で「あの娘がもう少しまともなら、こうはならなかった」と。50年分の記憶を見たわけでもないが、ここ数か月の記憶の断片では、やはりそうした心を弄ぶ能力は無い。出来るのは寄生だ」

 

 お兄様は輸血をしながら鷹揚に答えた。夢の中での戦闘であったとはいえ、精神と魔力は疲弊する。萎れた草木に水を注ぐ様に、飢えた虫達に栄養を注いでいる。あるいは茶や煙草の一服といった具合かもしれないが。

 

「昨夏のクィレルに対するヴォルデモートがそうであった様にですか?」

「ああ。蛇語という知識を与える代わりに、魔力……あるいは生命を吸い上げていたのだろう。ああして姿が現れていたのは、この場に満ちる魔力か、あるいはこの少女から十分に力を吸い上げたか。先程俺達に蛇をけしかけたのが、結局どちらの意思に因るものかは分からんな。少女が発狂した時点で、継承者の意思と少女の意思は最早分かつ事が出来なかったのではないかとも思う。そして、完全に衰弱したところで、あれは遂にその枷を解かれたという訳だ。

 そうして力を得て、遂には成り代わる事が出来る様になった。が、継承者の少女に成り代わったところで、牢獄にぶち込まれるか杖を奪われ非魔法界へ放逐されるか。ならばと俺の心を本の中で殺し、俺の死体に自分を浸み込ませようとした様だ」

「あら……上位者に成り代わろうなんて。お寒いこと」

「魔力や智慧を吸えたところで、脳が理解できるんでしょうかね。未だ人であった時のアリアンナ様から受ける血の施しでさえ、特別な血の力を得る。ただの魔術師が今のボーン家の血を啜ってまともでいられるとも思えませんが」

「気になるなら、お気に召すままに」

 

 お姉様がヘルマンに向き直り、自身の首筋をそっと撫でた。同じ女でさえ喉が鳴る様な仕草だったが、ヘルマンは顔を顰めただけだった。

 

「遠慮する。それよりドロテア。さっきから地べたに座ってるけど、部屋の術式は分かったのかい」

「んー……あたしの在学中じゃ無理って事は分かった。細かなところまで完全に解析するのは時間かかりそう。ビルゲンワースの専門職集めても、4,5年どころじゃないと思う。記述式も文言も古すぎるし、スパゲッティみたいに複雑に絡み合ってる。

 んで、なんとなくそう思うってくらいの話なんだけど……これ、本当は蛇を召喚するための術じゃないんじゃないの? どっちも旧い時代のものだけど、蛇の方はなんか後付けくさいっていうか、紙の余白があったから無理矢理書き込んだって言うか、銃に付属品付けましたみたいな? 古文詳しくないけど、使われてる文体もチョーサーとシェイクスピアくらい違う気がする。

 ……そもそもさ、そこの入口開く前に、これって本当に防衛施設? って話したじゃん。やっぱり違うと思う。ここに来るまでの回廊とかもさ、敵は絶対ぶっ殺す! って感じじゃなかったじゃんね。防衛施設って考えるなら、あの入口も合言葉とか罠とかが無いなんておかしーしね」

「ふぅん……確かに。蛇語なら何でもいいなんて、余りにもふざけている。むしろ逆なのかな。蛇語が不得手であっても、開く様にした。蛇語が使えない継承者の為に……いや、それも飛躍し過ぎか。

 ディルク、イングリット。分かりますか?」

「俺もざっと見たところではドロテアに同じだ。そもそも、継承者とは俺達が考え……いや、伝えられている者ではないのではないか?」

「私も術式は分かりませんわ。けれど、ここが何のための場所なのかは、おおよそ」

「と言うと?」

 

 お姉様は彫像の持つ杖、そこに絡みつく蛇を見上げた。

 

「多くの神話がそうである様に、蛇は死と再生、そして永遠の象徴……ここは死者を悼み、祀り、そして継承する場。亡くなった同胞から魔力を継ぎ、生命を継ぐ。私達と同じですわ。

 学祖スリザリンは、ある種の医療者だったのでしょう。この部屋……いえ、聖堂は、継承によって死を克服しようとした、その試み。そして、その意志と教えを継ぐ者を、継承者と。

 ……迫害か、戦禍か、悪疫か、いつしかその教えはどこかで歪み、忘れ去られ、敵対者に向ける剣をにらぐ、秘密の部屋となった。

 この涼やかで可愛らしい蛇の像。今日に伝わる部屋の伝承の様に、魔力を持たない者への憎悪と怨嗟では、これを作れるとは思えませんわ。死者がとこしえに生き続ける事を願い、遺志を後に続く者への餞とする、死者への敬意と感謝の表れでしょう」

 

 先達は皆、新しい狩人に告げる。死者に感謝と敬意のあらんことを。

 

「成程。証拠はないけれど、僕もそうであったらいいなとは思う。今の獅子寮の連中なら「死体から魔力を得るなんてうえー、だぜ」なんて言いそうだけど……いや? あるいは、当時からそうだったのかもしれないね。だから、こんな地下深くに作られ、忘れ去られた」

「ビルゲンワースは正しかったんですね。秘密の部屋は後の世に作られた概念であり、継承者とは血脈ではなく思想を継ぐ者、怪物とは魔術儀式。細かな部分に差異はあれ、報告書の通りじゃないですか。案外、調査員が来たら解析もさっさと終わるかもしれませんね」

「評価はどうあれ、英国魔法界に於ける大発見だ。誰が暴くかは分からんが、いつかこの場所に陽が射す日が来るだろう。学祖の教えが、優しく、温かいものであることを願おう」

 

 お兄様が石像に向き直るのを見て、皆横に並び、狩人の一礼を捧げた。

 

「ドロテアも気が済んだか?」

「はい。トイレで億万長者の夢は遠のきました」

「それは残念だったな。いつの日かそれが成ったら、今度は貴公が赤龍亭で奢ってくれ。

 さて、戻ろう。少年たちの捜索が終わっていれば、宴には十分間に合うだろう。で、念のため俺が本を持つとしてだ……気は進まないのは分かるが、誰がこの少女を運ぶ」

 

 空気が一気に陰鬱なものになった。むしろ、この話題が出るのを先延ばしにするために、敢えてヘルマンがお兄様を揶揄った様にも思える。

 

「誰かが先に戻り、教員を呼んではいかが?」

「また入口を開くのが面倒だ。ポッター達の捜索が途中としても完了しているとしても、教員にそんな余力はないだろうね。呪って歩かせますか? 制御は面倒ですが出来なくもないでしょう」

「ここで蛇を召喚して、咥えて持ってってもらおうよ。腿に穴が空いたくらいなら治癒魔術で直ぐに治るし。継承者の言葉が本当で、ディルク様の感触が確かなら、正直誰も触りたくないでしょ、こんなの。禁域の森の恐ろしい獣と大差ないっていうか、それ以下じゃん」

「ドロテアに同じく。浮遊術でもよければ私が。勢い余って高い所へ逝ってしまうかもしれませんが」

 

 巨体を浮かばせる星の娘を素に作られた杖である。子供一人を弾丸の様に射出するなど造作もない。

 

「……どうしてもというなら僕が抱えますよ。後輩ですし。イングリット様は最後に入口を開く役割ですし、ドロテア先輩はこれの被害者ですし、ヘルマンはディルク様の次に疲れてますし、姫様はブチギレてますし。あ、その代わり笛は姫様がお願いします」

「私が怒り狂っていると言うなら貴公もだろう」

「僕は武器を壊す程じゃありません」

「なら任せる」

 


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