マートルのトイレ
ゴーストとなった女学生、マートルが主にねぐらとするトイレ
旧い時代の事であれ、それは若人が校内で命を落としたという惨劇の証左であるが
ホグワーツという狂乱を懐かしむ卒業生たちは、それが何を意味するものか、皆忘れてしまった
未だに消えない血文字を改めて眺めていると、マートルがその壁の向こうから現れた。
「機嫌がいいねマートル」
「あんたたちも消えればもっと良くなるけど」
ドロテアの挨拶に学徒のゴースト、マートルは暴言で返した。
生前は虐められ、霊体となってもなお在校生に辱められるという在り方から、マートルは大抵の生徒を恐れ、憎んでいる。彼女が自由になれるのは、こうして生徒達のいない休暇中というわけだった。
「そう邪険にするな。クリスマスプレゼントに故郷のチーズをくれてやる。ゴーストに大人気だぞ」
墓所カビと豚乳のチーズはとてもヒトの食べられるものではないが、遺跡の悪霊には血の酒以上に効果のある代物である。ゴーストとは味覚が弱いらしく、特にこうした風味付けを好む傾向にある。
過去のヤーナム人が物は試しにと血みどろ男爵に献じたところ、大層お気に召された様だった。
「何? ゴーストのゲロ吐くところ見て楽しみたいの?
吐きやがった! マートルがゲロ吐きやがった! 汚ぇ! 臭ぇ! って騒ぐの!?
拡声術かけられてゲロ音全校生放送された私の気持ち分かる!? 生前で27番目に嫌な想い出よ!?」
「そうか、悪かったな。汚物で思い出したんだが、この学校の下水処理はどうなっているんだ? 水場の亡霊なら知っているんじゃないのか」
「ゲロに飽き足らず今度はクソ扱い!?」
「クソ面倒臭いなこいつ」
「マリア、下品よ」
窘められはしたが、イングリットお姉様も口を覆っているので、おそらくは同じ様な事を考えているのだろう。
「第一ね、敬意を払いなさいよ! あんたたちの幾つ年上だと思ってるのよ。私はゴースト歴50年よ!」
「そうか。敬愛すべきマートル様、教えてくれ」
「お辞儀をすれば考えてあげないこともないわ」
「……クソが」
狩人は霊体でさえ破壊することが出来る。魔力を纏う武器であれば、特にその攻撃は鋭くなる。ゴーストに人権があるかは知らないが、人格がある以上痛みや恐怖もあるだろう。
「まぁいいわ。地下に訳分かんない魔術が掛かってる区域があるの。そこが多分下水処理場になってると思うわ。クソの行き着く先なんて見たくもないからはっきり見た事はないけど、そんなにクソが好きだなんてあんた変ね」
「そのクソが垂れ流された湖で育った魚が食卓に並んでいたのかと心配になってな。安心したよ」
下水処理についてハーマイオニーは教えてくれなかったが、次々と起きる事件に忘れてしまったのだろう。
「マートルさん、いいかしら」
「何?」
「ゴーストって壁や床を通り抜けられるでしょう。秘密の部屋を知っていたりしないかしら」
「別に何でもかんでも通り抜けられるわけじゃないわ。あんたらもマグルの知識あるでしょう? 地球はずっと飛び続けているんだから、身体をどこかに縛り付けてないとあっという間に地球においてかれるわ。多分宇宙には間抜けなゴーストが腐るほどいるんでしょ。腐りはしないけど。
ま、宇宙に行ってみたいならいっぺん死んでみれば?」
「あれ? マートルって非魔法族生まれ?」
「そうよ。当時の魔法族なんて天動説信者だっていた位よ。そんな生まれを鼻にかけて、理論も理解しないで杖を振りまわすばかりの馬鹿達を論破し続けたら虐められたってわけ。毎年いるでしょ、そういう子。それで独りになって泣いてるのを見て嗤って、後で自分が惨めになって泣くのが私の日常よ。憐れみなさい。
そういえば、何か聞き覚えがあると思ったらそこのチビ。あんたも去年トイレで誰かを泣かしてたでしょ。ほんと魔法族って陰湿ね。死ねば?」
「訂正するのも馬鹿らしいが、自分を哀れみ続けるとこうも見えてくるものが違うんだな。為になった。ありがとう大先輩様」
この卑屈な亡霊には何を言ったところで無駄だろう。それよりも気になるのは、ゴースト歴50年という言葉。それにはお姉様もドロテアも気付いた様だった。
「んじゃ……もしかして、50年前の犠牲者って」
「ようやく気付いた? あんたたちが毎晩ごそごそやってるのを見てるのは愉快だったわ。あんたらいつ寝てるの?」
「私達を知っているなら何故教えなかった」
「だって生者がどうなろうと知った事じゃないし、私だけが死ぬなんて不公平じゃない。
で、秘密の部屋を知っているか……答えはノーよ。私だって自分の死因は知りたいし、50年も生と死について考えたり、水道管を壊してフィルチをからかったりしてるだけじゃないわ。女子トイレはもちろん男子の更衣室だって覗きに行ったけど、秘密の部屋なんてものは無かったわ。
まぁ、継承者がどっちになるのか分からないのに、性別が関わる様な所には作らないでしょって思ったのは死んでから20年くらいだったけど」
あっけらかんとしたマートルの感性は、やはり死者のそれなのだろう。獅子寮のゴーストも食事中に首の断面図を見せつけているが、あれは嫌がらせではなく余興のつもりらしい。付け加えれば、断頭によって死したゴーストにはそれなりの箔が付くらしく、文字通り首が皮一枚繋がっているとしても自分は首無しなのだという示威行為であるとハーマイオニーが言っていた。
カインハーストの悪霊たちは切り離された頭部を掲げ、悲嘆と恐怖の叫びを上げているが、地域性の違いだろうか。
「よく追い出されないもんだね」
「ダンブルドアの負い目でしょ。だってこの城で殺されて、この城に憑りついてるんだし。当時は校長じゃなかったけど、少しでも人間性が有ったら追い出してしまおうなんて思えるはずないじゃない。別に記念碑建てたり慰霊祭をしてほしいなんて思わないけど、それが無いならこうして自家鎮魂するだけよ」
彼女がけらけらと笑いながら指を鳴らすと、城のどこかで破裂音がして、続いて水音がした。
手間をかけさせるだけで危害を加えないという、赦される限界を見極めているのだから性質が悪い。お姉様もドロテアも呆れ、二の句が継げないでいる様だった。
「3階のマートルのトイレとは貴公が亡くなった場所か」
「そ。多分あんたの知りたいことは、どうやって死んだか、何がそうしたかって事だろうけど、それは分からない。
その日、私はオリーブ・ホーンビーに馬鹿にされて、トイレで泣いてた。しばらくしたら、英語じゃない言葉が男の声で聞こえて、追い出そうとしてドアを開けたら、大きくて黄色い目が2つ。それから体が動かなくなって、そのまま真っ暗になった。
ゴーストとして目が覚めたのは、私の死体が宙吊りになって医務室に運ばれる時だったわ。私が虐められてるのを知ってたのになぁーんにもしなかった教師達が、さぁ大変だって顔をしてたわ。あれで気づいたの。
ああ、私死んだんだって。
なりたての頃ってそこに在るだけって感じだから、私がゴーストになっていることは教師も生徒も気付かなかった。それから何日かして、ホーンビーがそこに謝りに来たの。死んでほしいわけじゃなかったって。赦してくれって。
じゃあ何のつもりなワケ? もうどうしようも無くなってから自己満足の為に謝るってどれだけ馬鹿にしてるの? って叫んだら、水道管が破裂してそいつはずぶ濡れ。それから私と目が合って、気絶してたわ。
知ってる? ゴーストって眠れないの。だから、それからまた幾日かして、すやすや寝てるホーンビーの顔に水滴を垂らしてやったの。それを40日間続けたり、2か月放置してから今度は錆を混ぜて赤くした水をかける様にしたり、食事の度に「私の代わりにご馳走を楽しんでね」って声をかけたりしてたら、頭がおかしくなって辞めたわ。
えへ。えへへへへへへへ」
ハーマイオニーと同じ、とマートルは言った。確かにトイレで殺されかけたか殺されたかの違いはあるが、元を辿れば学徒による中傷が端緒となる。死の遠因となったことに罪悪感を抱くだけホーンビーの方がまともであったか、赤毛たちは死ななかったからよしとしているだけか。
「可哀想にな。気になったんだが、今年の事件について校長は貴公に何か尋ねたりしなかったか?」
「全然そう聴こえないけど? あんたも馬鹿にしてるんでしょ。顔も性格もブスが虐められて死んだって」
「いや、本心から貴公と御両親を憐れんでいるさ。世界を二分した大戦の最中に全寮制の学校内で殺され、原因は分からず仕舞いなんてな。親の悲嘆はいかばかりか。こうしてゴーストになっている以上、冥福も何も無いだろうが、安らかならん事を祈るよ」
ハーマイオニーが救われたのは、ダフネが居たからだ。マートルが生者を僻み続けているのは、そうした心を預けられる者が居なかったせいだろう。
「ふぅん? まぁいいわ。ダンブルドアは来てない。今年というより、あれ以来私に声を掛けた事は無いわ。多分怖いんでしょ。私に恨まれているかもしれないって。もちろん、恨んでるわ。
毎年私と同じ様な子が居るって事は、あの頃から体制も気風も変わってないって事でしょ。あの頃から学校に居て、今は校長の椅子に座ってるってのに、私が寒くて暗くて湿ったトイレで死ぬ羽目になった理由はそのまんま。
私の両親はもう亡くなってるだろうけど、どんな最期だったのか、私に甥とか姪はいるのかとか、誰も教えてくれない。だって、私が死んだ理由なんて誰も覚えてないもの。それだけみんな楽しい学校生活を送れたんでしょうね。
改めて紹介するわ後輩たち。これが素晴らしい英国唯一の魔術学校、ホグワーツよ。
今年も誰か死ぬんじゃない?」
†
お兄様達にマートルの事を伝えると「ではマートルのトイレを探るか」という話になった。マートルの死は継承者に因るもので、その声から継承者は男だったとすれば、女子トイレである事に何かしらの必要性があるか、あるいは歪んだ性癖のいずれかだろう。
マートルによればここで用を足す生徒など50年はいないらしいが、それでも一応は男子禁制という事で、男性陣は入口前で型稽古をしていた。
「ようこそ、寝室に。あんたたちが初めてのお客様よ。寝室って言ったって、永遠に眠ってるし眠れないんだけど」
「その寝室を荒らしてもいいのか?」
マートルなりの冗談なのだろうが、どの様な返答が正解か分からない為に流した。気を遣って笑ってやれば「私の事を嗤った!」等と喚き始める姿も想像できる。獣憑き同様、寝ているなら起こさない方が良いのだ。
「後で直せるならね。あんたたちがやったことまで私のせいになるのは嫌よ。でも、何にもないと思うけど。50年調べて何にも見つからないんだから」
「貴公には酷かもしれないが、生者にだけ反応する様な仕掛けがあるのかもしれない」
「そう。数世紀も前からここに居るゴーストだっているけど、あの連中だって見つけてないのはそういう理由かも」
「……こう言っては何だが、随分と頭が回るんだな。在校生に語り継がれているマートル像とは印象が違う」
「そうやってヒス持ちの根暗ブスって馬鹿する? 言ったでしょ。虐めの理由は相手を論破したからだって。野蛮な鉄の猪とジュラルミンの鯨に乗って戦争をしてるマグルが、自分達より魔術に詳しいなんて腹が立つ上に怖いでしょ。連中曰く、魔術師同士の戦争は高潔な戦争なんですって。あの時代はグリンデルバルドがマグル脅威論をブチ上げてたから尚更ね。
とんでもない力を持ってる連中が好き勝手するのはどっちも変わらないと思うけど。今じゃ……何だっけ? 核? とか言う爆弾が世界中に有るんでしょ? 杖一振りで人を殺せるのと爆弾一つで何万人も殺せるのとどっちが怖いかって言われても、死人には分からないわ。
ああ、そこの鏡に自分が映らないのは元から。私が自分の顔を憎んで鏡を呪ったって噂よ」
ドロテアが鏡を引き剥がそうとする手を止めた。確かにその鏡にドロテアは映っているが自分の姿は映らない。視る者だけを映さない鏡なのだろう。無意味な悪ふざけだが、この城にはそういったものが多数ある。
「お兄様、何か気になるところはありますか」
お姉様が外に声をかけた。
「いや? そもそも女子トイレの構造なんて俺は知らんからな。おそらく個室が並んでいるのだろうとは思うが……」
「女性用小便器なんてものもあるらしいですし、そうとも限らないのでは?」
「女性の神秘ですね」
男性陣も真面目に考えているのだろうが、着目点が最低過ぎる。聖母ダフネでさえ苦笑いではなく真顔になる程だろう。
「……覗いてみればよろしいのではなくて?」
「俺は紳士だ。そんなことが出来る訳ないだろう」
本当に真面目に考えているつもりらしい。
「じゃあ、ドロテア、マリア。聞こえているかい」
「ああ」
「うん」
ヘルマンに応える。
「そこに有る物を全て壊してみてくれないか。秘密の部屋とやらが本当にあるのなら、強固に防御されているはずだ。翻って言えば、壊れない物こそ入口かもしれない」
「成程道理だ。マートル、多分直せるから安心してくれ」
取り出した得物は教会の杭と石鎚。石鎚とされているが、現在は合金製である。魔術的な保護を掛けるにしても、石材より金属の方が靭性も耐摩耗性もあり、何より修理がしやすい。教会の杭も冶金技術の向上でより強靭な材質に置き換えられている。
杭を壁に宛がい、石鎚で叩き、穿つ。
「マリア、何してんの?」
「何って……発破準備だが」
「城を壊したいのかな」
「この前は教室の入口を壊すだけで斧が潰れた。部屋ごと破壊するなら爆薬が必要だろう。どの爆薬がどれ程必要なのかは分からないので計算して欲しいが、アンポなりマイトなり持っているだろう?」
「それは施錠されてたからでしょ。そうじゃなきゃ、トロールでも壊せるのにマリアが壊せないわけないじゃん。だから、壊れない物こそが入口じゃないかってヘルマンが言ってたんじゃん。そういうところが……マリアなんだけどさぁ」
「……あぁ?」
「いいからそのトンカチで叩いてみなって」
言われるがままに教会の石鎚を振り回すと、個室が砂山の様に崩れていった。
「ね?」
「……はい。ごめんなさいドロテア先輩、私が間違っていました」
ドロテアが咎めるでもなく生温かい目をしているのが、かえって羞恥心を煽った。お姉様はやり取りが聞こえていなかった様に、杖を振るだけで暴風を吹き荒らしていた。その心遣いがさらに心を苛んだ。
獣が暴れ回った後の様になって、それでも残り続けたのは中央の柱だった。いくつも備え付けられていた洗面台や鏡は割れ落ちていたが、たった1つだけが無傷のまま在り続けた。
「その洗面台の蛇口、水が出ないの。50年前からね」
マートルが懐かしそうに言った。その直後に顔を顰めたのは、おそらく何か嫌な想い出があるのだろう。
「マリア、念押しにここ爆発金槌で思いっきりブッ叩いて」
「分かった」
炉に火を入れ、両腕で握り、渾身の力を込めて柱に叩きつける。
「むぅ」
柄が捻じれ、肩が外れる程の反動があったが、爆炎の内から表れたのはほんの僅かにヒビの入った化粧石だった。
「ドロテア、輸血液を注射してくれ。腕が動かない」
「はい、お疲れ様」
僅かな酩酊感の後、筋肉と骨が在るべき位置に動いていった。失った臓器さえたちまちに治るのだ。それだけに飽き足らず、求めた神の叡智とは何であったのだろうか。聖杯の中の助言者ゲールマンは、黙して語らない。ただ決められた様に、曖昧な助言を繰り返すだけである。
「蛇の彫刻……大当たりね。ドロテア、寮監にお伝えしましょう。マリアはそこで休んでいて」
お姉様が蛇口の側面を撫ぜた。そこにはほんの僅か、ともすれば傷にしか見えない様な、しかし確かな蛇の文様が彫り込まれていた。
「はいお姉様」
「ちょっと? お目当ての物が見つかったなら直してよね」
マートルがお姉様に文句を付けた。部屋の至る所から水が迸っている。管理人が発狂する前に手早く直したいのはこちらも同じ事だ。
「お兄様達を入れてもいいかしら?」
「さっさと直せるならね。女子トイレに男子を連れ込んでるなんて騒がれたら、みんな嫌がらせに来るでしょ。地獄を生きて、死んでも笑い者。ブスだ根暗だと言われた上に今度は痴女扱い。冗談じゃないわ」
「……そうね。お兄様、入ってくださいな」
「状況は聞いていた。だが、原状を見ていない以上、どれだけ出来るかは分からないが」
お姉様はマートルを苦手としている様で、お兄様に任せている。お兄様からすれば、日頃そう言って憚らない通り妹に頼られるのは悪い気はしないだろうから、誰も損をしていない。流石お姉様である。
「ならとにかく綺麗にしてよ。前より綺麗になるんなら私も文句ないわ」
「ふむ……ならこれならどうだ」
お兄様が指を鳴らすと、床が滑らかに磨かれた大理石で覆われた。灰色と乳白色でモザイクを成し、原状の荒い敷石を置いただけの物より好ましい。
ヘルマンは元々個室の壁であった木片に手を翳し、1室だけ作りあげた。ごく暗い緑色であった元とは異なり、少し柔らかみを感じる淡い緑の仕上がりとなっている。複雑に蔦が絡み合う彫刻が施され、ノブは真鍮で出来ていた。春の日差しを受けて綻ぶ蕾を思わせ、そしてそれは女子トイレという場所においては好ましくない組み合わせだった。
「いいじゃない。この調子でやって」
「仰せのままに。ではイングリット、寮監を」
「はい」
マートルは単に住環境の改善として受け取った様で、ご機嫌であった。お姉様とドロテアはなんとも評し難い表情をしてから出ていった。
「マートルの聞いた外国語とは蛇語だろうな」
「蛇語? 何よそれ。蛇が喋るって言うの?」
「その通りだ。無声音……声帯を震わせない、擦過音の様なものではなかったか? サァーとかスゥーだとか」
「言われてみればそんなものだったかも。とにかく欧州でも聞いた事の無い言葉だったわ。そこのチビのお付きの国かもしれないけど」
「日本語の事ですか? Wakaranai. Shiranai. Komugiko ka nanikada」
「もういいわ。多分そういうのじゃなかった」
日本語は分からないが、ケントは雑にマートルをあしらっただけだろう。お兄様の質問への回答でおおよそ分かった。おそらく、入口を開く鍵は蛇語の符牒なのだろう。
語力は遺伝しない能力である。スリザリンが蛇語話者で真に蛇語話者であったならば、誰も彼もが蛇語を話せるはずだ。それを前提に「継承者」という言葉を改めて考えれば、継承されるのは蛇語を用いる知識だろうか。例えばローレンスの頭蓋に触れ記憶を眺める様に、入口の開き方や蛇の召喚方法といった秘密の部屋の知識を封じた道具が継承されていると考えれば筋は通る。
問題は、そうなるとこの入口は強引に開く他ないという事になる。RとLの発音の様な差異は許容されるかもしれないが、「開けゴマ」と「入れてくれ」では流石に話が違う。マスターキーはあるものの、更に部屋を荒らせばマートルが怒りで更に頭をおかしくするだろう。
お兄様とヘルマンは何度も繰り返した事のある様な手際で次々と部屋を直していたが、一方でこちらは水を噴き出し続ける配管を仕込み杖で小突き回していた。妹に甘いお兄様も「俺がやっておくからそこで休んでいろ」などと遊ばせてはくれない。協働に於いて出来る事が有り、邪魔にならないならばやれというのは狩人の鉄則である。
「どうしたケント。冷えるか?」
「いえ。あー、気を遣わせて申し訳ありません。ただ、ディルク様とヘルマンを見て少し……」
「何だ嫉妬か」
「あんな技量の差を見せつけられたら嫉妬さえ烏滸がましいですよ」
あちらは無言で掌をかざすだけで見事な細工まで施し、一方のこちらは杖を用いて元の配管と便器を修復するのが関の山である。
漸く最後の便器を取り付けた後、ずぶ濡れとなった身体にケントが温風をかけてくれた。
昨年の自分を顧みれば、別に血に塗れていようと誰かが取り払ってくれるからと、そういった魔術を習得していなかった。それだけで、ケントは幾分まともではないか。そう伝えれば、ケントは「慰めはありがたいのですが……」と尻すぼみな返答だった。
マートルは「もうここは壊さない様にするわ」とご満悦だった。管理人も手間が減って喜ぶだろうか。否、無能者を嘲笑ったと恨むだろう。
「さっきの話だがな」
廊下に出てお姉様達を待ちながら、火を着けた火炎瓶で指先を温めていると、お兄様がケントに声を掛けた。
「そんな簡単に追い抜かれては先輩面も出来ないだろう。生まれがたった5,6年違っているだけでも、聖杯の中で過ごした時間を比べればそれに何年も加えることになる。なのに、俺はイングリットに何度も魔術で負かされていたし、その何倍もヘルマンに負かされた。一応は1年生のお前にまで7年生の俺が追い付かれたら、俺は家に帰れん」
「聞こえていらっしゃったんですか。恥ずかしい限りです」
「ただ、気持ちは分かる。当時の俺以上に思うものはあるだろう。俺には言い訳があったからな。負けたのは才能の差があるせいだ、だからそれを覆す努力があればいい……とな。
こういう言い方は好きではないが、イングリットはアリアンナ女王の血だ。母上も天性のアリアンナ女王の血を如何ほど妬んだか分からない。ヘルマンもカインハーストの子、聖歌隊の末裔だしな」
「それでいて結局、今となっては在校生の中で貴方が最上の狩人なのだから自慢にしか聞こえませんよ。それを言うなら、僕の方こそより優れた血質のはずなのに何故貴方に負けたのか。それはアデーラ女王の血は特別に調整された聖女の血だからだ、と自分に言い訳したこともありましたよ。
我が祖ユリエを軽んじるつもりもありませんが、カインハーストの血といってもアンナリーゼ女王やアリアンナ女王に比肩する血であるのか分かりませんし。単に狂気に堕ちて瞳が蕩ける事は無かったという程度です」
お兄様にしてもヘルマンにしても、自分からすれば遥か高みにいるためにあまり意識しなかったが、当然彼らにも幼少期はあった。自分と同じ様な事をケントも思い、彼らもまた同じ様に思った。ならば、いつの日か後に続く者を導くことが出来る様になるだろうか。
深く考えず、ケントに向かって先輩風を吹かせていた夏の日が酷く恥ずかしい。
「マリアが何を考えているか大体分かるよ。ドロテアだって同じ事を去年やってたからね。トロールの件で校長に言い負かされて落ち込む君を見て、何も言えなかった事に悩んでいたよ。「あたし先輩としてどうなの?」って。夏に君を誘ったのも、君に何かを伝えたかったんだろう。単に先輩として威厳を保とうと思ったわけじゃないと良いんだけれど」
自由研究の成果発表で、というわけではないだろう。そもそも自由研究を始めた原因がヴ卿云々という話だった。あれも含めて、ドロテアにとっては応援のつもりなのだろう。
「いや。ドロテアからは先輩として思い遣り溢れる言葉を貰ったよ。気恥ずかしくて気の利いた事は言えなかったが」
「そうかい。彼女の先輩として安心したよ。少なくとも僕の様に共感でも納得でもなく理解だけを求める様な話し方はしていないらしい」
「それが分かっているなら改めたらどうです?」
ケントが呆れながら言った。
「君も含めて僕を分かってくれる人達が多いからね。それで特に苦労はしていないし、苦労する事が有ればそれを避けるだけさ。
……ディルク、ドロテアで思い出しましたが、あまりにも遅くありませんか」
「そのまま職員会議になったのかもな」
「あり得ない話ではないですが……それならば僕らのところに伝令が来るのでは? トイレの修理よりもよほど重要な事柄でしょう」
「じゃあ何だ? あの2人が揃って怪物にやられた、とでも?」
「それもまた、あり得ない話ではない、という事です」
あり得ない話ではない、そう言いつつもヘルマンの語気は荒い。
「マートル、頼みがある!」
「何? 今忙しいんだけど」
お兄様がトイレに向かって怒鳴ると、マートルは廊下の壁から顔を出した。揶揄っているつもりらしい。
「俺達はここを離れる。だが、継承者が来るかもしれないから見張っていてくれないか」
「なんだ、そんな事。あんたの妹を探して来いなんて言うのかと思った。いいわよ。というかさっさと行ってくれない? 気が散って仕方ないんだけど」
「頼んだぞ」
言うや否や、お兄様とヘルマンが遺骨を取り出し、魔力を流す。瞬間、廊下の端まで跳んでいった。お兄様は既に聖剣に光を灯しており、燐光の帯が宙に流れた。
お兄様達に遅れて、同じく遺骨から速力を得て駆ける。旧市街の様に、手摺から手摺に飛び移りながら階下へ進む。アサシンやシノビに比べれば、狩人のそれは洗練されたものとは言えないが、階段を駆け下りるよりは断然に早い。
「お待ちなさい!」
急に制止が掛かり、咄嗟に壁石の縁を掴む。声の方を向けば若い貴人の肖像画があった。大声で呼び止めたとは思えない沈鬱な面持ちである。
「何か」
「……医務室に行きなさい。貴女の姉君もそこに。兄君には既に伝えました」
「お姉様達は!?」
「亡くなってはいない、とだけ伝え聞いております」
死んではいない。
血と意志さえあれば狩人は闘える。
なら、どうして医務室に?
「姫様。とにかく急ぎましょう」
ケントに肩を叩かれ、漸く正気を取り戻した。
その通りだ。ここで蜘蛛の様に壁にへばりつき、お姉様達を想った所で何も変わりはしない。
「ああ」
再び、脚に力を込める。漠とした不安が確かな不安になっただけの事。死んではいないと言うならば、どの様にして回復するかを考えれば良い。昨夏、獣と化したクィレルに一撃食らった事を思い出す。その痛みに惑うだけであれば死と同じである。生きていればそれだけで勝ちの目がある。
「大丈夫みたいですね」
「悪かった。先輩面も出来ないな」
「身内の事ともなれば当然でしょう。狩人だからと平然と受け止められる方がおかしいと思います。狩人だって人です。人であるからこそ、家族の痛みと死を恐れるわけですから」
†
息を切らせながら医務室に入り、まず感じたのは花の香りだった。
スズラン。
ドロテアが僅かに香らせていた、おそらくはヘルマンから贈られたものだろう香水の匂いが、濃密に部屋中に漂っていた。
「お兄様?」
「……死んではいない。ああ、そうだ。死んではいない。安心しろ、と言うのもおかしな話だが」
「校医は?」
「校医は校長室だ。こんな症状、ヤーナム人以外で見る事はないだろうから校医の出来る事はない」
お兄様は呟く様に言った。ヘルマンはカーテンで囲まれた病床の傍に居るのか、脚だけが見える。
「ヘルマン、開けるぞ」
「……ああ」
果たして、そこに有った姿は。
幾つもの槍に貫かれた、ドロテアの姿だった。
「これは……ケント、見るな。ドロテアの為だ」
この姿に劣情を催す事はないだろうが、服は引き裂かれ、肌が覗いている。着替えさせようにも、槍が邪魔でそのままなのだろう。幾つか肌に突き刺さっている乳白色の硝子の破片は香水瓶のものだろう。ピカデリーに在る店で販売しているものだ。
「姫様。先輩の容体は?」
「瀉血だ。血の槍が全身から生えている。メルゴーの高楼、あそこに封じられていた邪眼。あれを拝む骸を、より酷くした様なものさ」
ドロテアの瞼は閉じられていない。涙腺から噴き出した槍によって、開けたまま縫い留められていた。ドロテアもヘルマンにだけはこの様な表情とも言えぬ何かを見られたくはなかっただろうが、ヘルマンはその痛ましい目と視線を結んでいた。
「それで、イングリット様は?」
「ドロテアの隣だが、見るなというのはドロテアと同じだ。まぁ、ドロテアよりは軽傷だった。とはいえ、同様に血塗れでおまけに毒も受けている。いや、むしろ毒の方が大きくあいつを傷付けた様だ」
「毒? 白い丸薬はお持ちでなかったのでしょうか」
ケントの問いに、お兄様が応える。
「身体の内側から血の槍が伸び、閾値を超えれば大量出血。さらに毒を受けた。その状況下で、鎮静剤か丸薬か、あるいは一時しのぎに輸血するか。その最善の順位は俺にも分からん。
イングリットの取った順序は、状況から察するにまず鎮静剤、次に解毒、最後に輸血だった」
「けれど、毒の治療は血中の虫を賦活させることで無毒化させる仕組みになっている。血を失っている時に丸薬を飲んでも、効き目は僅かだったという事さ。丸薬は灰血病を治せても、獣の病は治せない。それは結局、虫こそが奇跡を齎し、惨劇を呼ぶ悍ましい淀みだからさ。
けれど、では輸血してから解毒していれば今頃僕らに話が出来ていたかというと……毒が回るのが早いか、血が回復させるのが早いか。
死んでいないのだからイングリットは賭けに勝った。少なくとも、ドロテアに輸血して、死を食い止めることまではしてくれている」
ヘルマンは身じろぎもせず、ドロテアを見つめたまま囁く様に言葉を紡いだ。
「容体は分かりました。それで、何故輸血しないんですか?」
「自分の血を失い過ぎている。他の生徒の様に、マンドレイクを与えたところで意味はない。ここで輸血すれば、自分を見失い、狩人から血の常習者に成り下がる」
「だからこうして脈動血晶を持たせて、肉体の治癒力を高めるしかないのさ」
輸血液に因る回復は、生きる感覚を狩人に齎し、その生への渇望が血中の虫を刺激し、治癒の効果をもたらす。石となり、意思のないままでは何ら意味がない。むしろ栄養を得た虫は暴走し、宿主の肉と理性を食い破るだろう。
「死んではいない。そこに希望を持って、俺達は待っているだけではない。イングリットはドロテアの救命の後、言葉を遺している。自らの肌を焼いてな。猛々しく、誇るべき妹だ。
バジリスク。
湖。
蜘蛛。
何だと思う」
バジリスク。怪物の正体、その可能性の1つとしては挙がっていたが、現実的にはあり得ないだろうとしていた魔法生物。その名をお姉様は遺し、毒も受けているのだから、やはりバジリスクなのだ。
湖。バジリスクの特徴はその魔眼である。マートルの言葉にもあった「黄色い目」とは、その魔眼だろう。故に、その指すところは。
「湖の盾。それであれば、視線を遮りながら攻撃出来るでしょう。所詮は蛇です。タネさえ分かれば竜より狩るのは容易いことでしょう。そのタネをお姉様は遺したのではないでしょうか。
ハロウィンの夜、あの廊下は水で溢れていた。おそらく、猫はその水面に写る目を通じて呪詛を受け、石化はしても死には至らなかった。クリービーがどうかは分かりませんが、マクミランとフレッチリーはゴーストの身体を透かして見た。ゴーストは死者であるから、これ以上死なない。
翻って私達狩人であれば、狩装束と湖の盾によって耐えつつ、鎮静剤を適宜摂取すれば戦えるはずです。事実、お姉様もドロテアも直視してなお生きていらっしゃるのですから」
「だろうな。昨夏の騒動以来、皆が制服の狩装束を誂えていたのは僥倖だった。後はその香水か。過去のヤーナムに於いて、鴉羽の狩装束、その嘴の仮面には薬草が詰められていた。香りは血の匂いを覆い隠し、ヒトを人に留める。ドロテアの香水はその効果をもたらしたのだろう。
だが、蜘蛛が分からない。確かに蜘蛛はバジリスクを避けるとされている。だが、イングリットは何故それを強調する必要があったのか。バジリスクという情報さえあればそれ以上に蜘蛛と記す意味がない」
「つまり、蜘蛛は別の側面から考えるべきと」
狩人達はそれぞれに想いを巡らせる。ヘルマンは独り言ち、ケントはザ・ゼンだったか、妙な形に脚を組み、冷たい床に尻を下ろしていた。
蜘蛛。その形から一般に嫌われる虫であるが、狩人にとっては意味が異なる。
上位者の研究に連なる人頭蜘蛛はその悍ましさから特に嫌われている。上位者の叡智を得る為に、上位者の首を切り落とし、自らの首と挿げ替える事で上位者の血を馴染ませようとした試みの1つ。結果、それはメンシスの連中にとっては成功したと言えるのだろう。あの蜘蛛男は悪夢と現実とを渡り歩く力を得たのだから。
他に蜘蛛と言えば、メルゴーの高楼である。巨大な蜘蛛が巣を張り、その鋏は容易く狩人の身体を両断し、魔術まで用いる。銀獣に追われ、邪眼に苛まれ、無頭の巨人に岩を投げられ、漸く辿り着いた場所には夥しい数の蜘蛛が犇めいていた。初めて訪れた時のあの絶望感はどの狩人も味わうものだ。それに、高楼には眼球から足が生えたと表すべき、奇怪な何かが居る。邪眼の封じられた塔、人頭蜘蛛の蔓延る一角には特にそれが多く在り、やはりあれも蜘蛛に関わる何かなのだろう。
そして何より、鐘を鳴らす女が呼ぶ赤蜘蛛である。聖杯中を駆け回り、術者が延々と召喚し続ける夢幻の蜘蛛。銃で怯みはすれど、その数、その速度は術者に近寄る事を赦さない。狂気者を呼ぶ魔女と並び、真っ先に始末すべき対象として認知されている。狂女、アイコレクター、魔女といい、旧きヤーナムには物騒な女が多い。
「そういえば、森に大きな蜘蛛が居たらしいですが」
ケントが呟く。
「アクロマンチュラだな。アウレリアお姉様の話だろう?」
「直接お話を伺ったわけではありませんが」
「毒はあるが石化の力はないな。秘密の部屋と関わる逸話も思い当たらないし、故にビルゲンワースからも報告は無かったのだろう。
確かにあれは防衛の為に作られた魔法生物で、本来の生息地は熱帯気候だ。何者かがわざわざここの森に持ち込んだ理由はそれなりにあるのだろうが、バジリスクと相容れないものを継承者が使役するとも思えん」
お兄様の仰る通り、それは秘密の部屋とは関わりが無いだろう。
最上の防衛とは、秘匿である。敵対者よりも強い防御力を備えるよりも、敵対者に攻撃対象であると分からせない事の方がより重要である。卑近なところで言えば、封印のレバーの前に醜悪な裸の大男を置くよりも、入口を壁に偽装した方がよほど強大な守護となる。
秘密の部屋の入口は確かに堅固な防御が施されていたが、少なくとも50年間は余人の目を欺いてきたのだ。対してアクロマンチュラという分かりやすい脅威を防衛に置く事は、設計思想が異なる様に思える。
「森……禁域……湖。湖……蜘蛛。
あぁ……ロマだ」
「どういう事だヘルマン?」
「湖と蜘蛛は組み合わせだ。そして、それだけで非常に多くの意味を包含する。その情報量の多さから、単語しか残せなかったんだ。
秘密の部屋のバジリスクは実体を持ちながら夢幻の存在で、かといって赤蜘蛛の様に走り回るわけでもない。ロマの様に任意の場所に転移する能力が有るんだ。そして、おそらくそれは継承者が居る限り、赤蜘蛛の様に際限なく分身が現れる。
いつぞやのナメクジ吐きと同じ、魔力による疑似生命だ。そうでなければ、只の危険な魔法生物如きに狩人がやられるはずもない。
ロマが表すものはそれだけじゃない。それだけなら、赤蜘蛛とでも書けばいい。本質は儀式の秘匿だ。あの湖にも、ヤハグルにも、メンシスの悪夢の祭壇なんてものは無い。旧市街の様に入口を塞いだところで、悪夢は現実を侵食していた。これも同じ事だ。部屋の入口を閉じても、儀式は終わらない。怪物を殺しても、儀式が続く限り秘密の部屋は終わらない」
「……お姉様とドロテアは1体のバジリスクを倒した後に、次のバジリスクにやられた?」
「おそらくドロテアは1体目で既に血の槍で串刺しだ。イングリットの血の濃さであれば、ある程度は魔眼にも耐えられるだろう。だから、イングリットがバジリスクを殺した後に、ドロテアの救助を行っていたところで噛まれ、毒を浴びたんだろう」
血。
純血、非魔法族、無能者、継承者、今年の事件はどれも血に関わりがある。ビルゲンワースもカインハーストも、血の求道者であると言っていい。
ヤーナムに夜明けをもたらしたのはお父様だが、血と知の探究はそれより遥か旧く、学祖ウィレームは至るべきところまで行きついていたという。旧いビルゲンワースにも、ホグワーツで学んだ者は居るだろう。その中に、秘密の部屋の本質に迫った者が在ったのではないだろうか。
ビルゲンワースは、場所も時間も現実から隔絶された神の墓から力を得る術、聖杯を見出した。さらに墓暴き達はそこに呪物を組み込む事により、聖杯に望んだ悪夢を演じさせる技法を確立させた。
その技法、その思想は後のメンシス学派に繋がる。望みを叶える上位者の棲まう悪夢の招来と、赤い月によるそれへの接続である。
上位者に見え、その血肉を我が物とする事で上位者の智慧と力を得ようとするメンシスの儀式は、ヤハグル、あるいはヤーナムである事に特段の意味はない。上位者を孕む胎、あるいは上位者を孕ませる胤、それと神なるものへの救済を求める祈りさえあればよい。医療教会が行ってきた数々の凶行、眼球を抉り出す事にも、生きたまま頭を開く事にも、肥大した頭部を斬り落とす事にも、究極的に言えば意味は無かった。
メンシスがゴースに祈りを捧げた理由は不明のままだが、メンシスの儀式の本質は何の事はない、ただの聖餐と拝領である。パンを裂き、葡萄酒を呑む。それはつまり、神を食する行為である。それを神から分け与えられるわけでもなく、神殺しによって為そうとしたその行いは、正しく冒涜であり、呪いを受ける。
「あぁ、お姉様。ロマとは、そういう事だったのですね。お姉様の導きを感じます」
「秘密の部屋は開かれた。それは、僕らにとっての蒼褪めた血の空の事だったんだ。母さんの言ったことは正しかった。秘密の部屋とは、本当に怪物を召喚するための儀式魔術だった」
「しかし、手が無い。継承者は秘密の部屋の最奥で笛を吹いているわけでもないだろう」
「極普通に、騒動を恐れる学徒の一人として校内にいるのでしょう。こうして襲われたという事は、クリスマスでも帰らなかったということになりますが」
「今日まで成果を挙げられなかったとはいえ、俺達の捜査は確かに他寮に対して抑止力となっていた。疑心暗鬼に駆られた連中を何人も狩ったからな。だが、それをすり抜けて穴熊寮生を2人。そして今度は狩人を2人だ。候補者はクリスマス休暇で残っている者として露見する事を恐れるはずが、それでも手を出した。継承者は明らかに、狩りに慣れ始めている。
とはいえ、ヘルマン。よく読み解いてくれた」
お兄様がヘルマンを労う。お姉様とドロテアは倒れた事で、継承者は増長するだろう。だが、お姉様の残した情報によって、それは反撃の機会となる。狩りとは、命を刈り取るまでが狩りである。慢心し、胡乱な攻撃は隙を生み、内臓を引き摺り出されるに至るのだ。
だが、ヘルマンは首を横に振った。
「イングリットのおかげですよ。僕は何もしていない。イングリットが残した単語で状況を把握できたという事は、元々僕の中にはそれを読み解くだけの欠片が揃っていた。けれど、今に至るまで僕は何も出来なかった。
あのハロウィンの夜、随分な馬鹿がいるものだと思いましたが、その馬鹿に良い様に転がされ、身内に手をかけられた僕は一体何なのか。
正直、こんな痛ましい姿を見て、狩人を辞めて欲しいと思ったくらいですよ。偶々生きていた、偶々貴方の妹が救ってくれただけ。僕は何も守れていない。僕の知らないところで死んでしまったらと思うと、僕は僕でいられなくなる。
君が居なくなったら、僕はどうやって歩けばいい。どうやって笑えばいい。どうやって息をすればいい……生きている事は分かってる。死んでいない事も分かってる。けど、こんなにも心が軋む。御伽噺の様に、キスなんかじゃ目覚めない。僕は待っていることしか出来ない」
「ヘルマン。ドロテアは生きている。まずはそれを喜び、そして継承者に怒りを燃やせ。俺も愛しい妹と後輩をやられて、自分の無様さにはうんざりしている。だが、仲間の傷に怯み、己の無力を責めたところで、獣は倒れない。意志を見失うなとは、お前がマリアに掛けた言葉だ。
狩るぞ。それまでキスはとっておけ」
ヘルマンは息を深く吐き出すと、背筋を伸ばし、立ち上がった。怜悧に輝く仕込み杖を握る手は、雪の様に白くなっていた。
グズグズと幾日も不貞腐れていた昨年の自分と比べ、やはりヘルマンは先達として仰ぎ見るべき人物なのだろう。
「まずは寮監に伝えましょう。怪物の正体と部屋の入口が分かったと。それと、あまり意味はない様に思えますが、入口の開き方は思いつきました」
「ほう?」
「マダラスの蛇を召喚して、蛇語を話す様に命令してみましょう」