三頭犬
かつてメンシスの狂人達がそうであった様に、好奇の熱にうかされた実験成果の一つ
森番はこの憐れな獣に耽溺したが、狩人には何ら関わりのないこと
獣の首が増えようと、切り落とす手間が増えるに過ぎないのだから
まこと、生命を弄ぶことのなんと悍ましいことか
「遅かったじゃないか」
衣摺れと囁きが僅かに耳朶を打つ。ポッターは透明マントを持っているという事だったので、それで包まれているのだろう。青い秘薬は狩人の存在を曖昧にする。待っている間にやってきたゴースト達は、ゴーストでもなく人でもないと、勝手に憐れんでから過ぎていった。
「なんでお前がここに!?」
ウィーズリーか。
お互い見えてはいないが、声からは大体の位置が察せられる。
「貴公こそ。力も無く、知恵も無く、それでいて何が石を護る、だ。くだらない事で騒ぐな。怪物に気づかれるだろう。
……では、征こうか」
元よりそうなっていたのかは知らないが、木の扉は僅かに開かれており、獣の臭いが漂っている。服や髪に染み付いていないか、淑女としては気になるところだ。
禁忌を護るもの。
過去のヤーナムとは、禁忌を秘匿から暴く事こそ探索の目的であった。遺跡を暴き、上位者に見えたビルゲンワース。その罪業を覆い隠した時計塔のマリア。ビルゲンワースの失敗の後も頭蓋を暴き、瞳を求めたメンシス学派。その狂気を覆い隠した白痴のロマ。
ヤーナムの街区を区切る一般的な仕掛け扉ですら、魔術によって保護されている。極東の聖堂たる神社では、禁忌を護る為に、戸に紙を貼るという。物理的には頼るべくもないそれは呪いの一つであり、その禁忌を破ろうとするものの心に作用する。一方で、この扉は禁忌を護るにはあまりにも無防備である。
さらに、そもそも禁忌を秘匿しなければならない校長自らがここに禁忌がある事を表したのだ。まるで、禁忌に触れよと言わんばかりではないか。あるいは、事故として不出来な生徒を処理する為の誘蛾灯か。悪夢の辺境で人頭蜘蛛に突き落とされるのは狩人の通過儀礼だ。
いずれにせよ、進まぬ事には何にもならない。扉を押し開けた。
「さて、何だこれは」
そこに居たのは冥界の番犬ケルベロスではなく、ただの三つ首の犬であった。三対の目は焦点の定まりなく部屋を見渡している。ケルベロスは、蛇のたてがみを持ち、竜の尾を持つ多頭の怪物だ。眼前に構えるは、多頭を模しただけの醜悪で哀れな犬だった。死体の寄せ集め、再誕者を思わせる。女王ヤーナムを人質にとられ、ヤーナムから人を拐かす人攫い達。秘儀が破られれば、屍となりて醜悪な怪物の血肉となった。メンシスのおぞましき狂気は、源流たるホグワーツにて今もなお息づいているというのか。
「……竜といい、犬といい、生命を弄ぶ事に何ら躊躇いはないと。腐り果てているな、森番」
おそらく、悍ましい試みの果てに生み出されたのであろう、異形の怪物。犬として巨きすぎる体躯は、尋常な飼育方法によって生み出されるものではない。こんなものが普通であるならば、今頃赤毛の鼠は人ほどの大きさになっているだろう。
青銅の咆哮には程遠い、ただの獰猛な呻きをあげる犬に何の恐怖が湧くものか。只人であるならば叫び声をあげて逃げ出そうものだが、狩人にとっては憐れみを誘うだけのこと。
「どうする。驚くべき事に、本当に音楽が効くらしいぞ。番犬どころか赤子ではないか」
部屋の隅には、豪奢な竪琴が鎮座していた。先行者が用いたものだろうか。
「どうって……何を?」
ポッターは怯えながら言った。見えていないにせよ、三頭犬は嗅覚と聴覚を用いて、何かが室内に居る事は知覚している。間合いに入れば攻撃されるだろう。
「後顧の憂いを絶つならば、始末しておくべきだ。負傷して戻ってきた時に、腹を空かせた犬が居るのは頂けないな。そもそも都合良くあの扉を開けたままじっとしているとも思えないしな」
犬の足元を見れば、床に扉が備えられている。道はその先にあるのだろう。万事首尾良く終えたとして、犬が邪魔で戻れないとは笑うに笑えない。
「ダメだ! あれはハグリッドの飼い犬なんだ。ドラゴンを手放したのに犬まで居なくなってしまう」
「やかましい。その大切な駄犬の餌になりたいのか」
竜にしても犬にしても、森番の行動からは愛というよりも偏執しか感じられない。
「帰りの事はさて置くとして、殺さぬとならば音楽はどうする。ハープの心得は私にはない。いや、むしろ、だからか? あれは元からここに在ったとすれば、あのハープでなければ犬は警戒を解かない、そういう罠なのか」
「いいえ。前に入った時はあんなもの無かったわ。歌じゃいけないのかしら」
「歌ってもいいが、復讐の炎は地獄の様に我が心に燃えだとか、あまり難しいのは無理だ。そもそも何を以って犬が音楽と認識するのか分からないな。ヒトの歌と獲物の断末魔とを聴き分けられるのか疑問だな。アリアを演って食いつかれてはかなわん」
猟犬が犬笛を吹けば走り寄り、号令によって飛びかかるのは訓練されているからだ。獣の声は音としてしか分からぬ様に、音に意味を持たせるものは、それを聴いた者である。言葉など、呪文など、自己の想像を魔力によって具現化する為の道具に過ぎない。ラテン語でしか魔法が使えぬのであれば、アジアに魔法社会は存在しない事になる。音楽も同じ事。それがラテン語であれ、ドイツ語であれ、当時侮蔑されたヘンデルによる英語のオラトリオが今日では世界中で愛されている様に、宗教音楽の本質は神に対する崇敬の念である。
「僕が笛を持ってる。ハグリッドからもらったんだ」
「話を理解していないのは分かったが、まぁ好きにしろ。ダメなら即座に頭を刎ねるだけのことだ」
後方でガサガサと音がして、それから歪な笛の音色がした。A440でもA415でもなく、ろくに調律されていないそれは、ポッターの技法と相まって絶望的な調べとなった。それでいて、三頭犬は瞼を閉じ始めていた。まさに駄犬。
「耳が腐りそうだ」
「じゃあお前がやってみろよ」
「男子が口につけた笛を吹く趣味はない。だが、旋律らしきものがあれば何でも良いということは分かったな。もういい、ポッター。これが冥界下りの模倣だとするならば、曲は決まった」
ポッターが演奏をやめた途端、犬はまた首を擡げ、辺りを警戒し始めた。大きく息を吸い込む。獣臭い空気が肺に流れたが、ヤーナムの下水道や実験棟の死体溜まりに比べればまともである。
「Amazing grace how sweet the sound. That saved a wretch like me. I once was lost but now am found, Was blind but now I see.」
これまで音を立てているのだ。最早青の秘薬の効果も消え果てた。だと言うのに、犬は舌をだらしなく垂れ下げ、完全に眠りこけている。
「'Twas grace that taught my heart to fear, And grace my fears relieved, How precious did that grace appear, The hour I first believed.」
歌いながら犬に近寄り、扉を塞ぐ脚を退けた。用心として剣の柄に手をかけていたが、犬が意識を取り戻す事はなかった。後ろを見やれば、透明マントが外され、3人の姿が現れる。
「Through many dangers, toils and snares I have already come. 'Tis grace hath brought me safe thus far, And grace will lead me home.」
扉の奥には何も無く、ただ暗い穴になっているだけだった。輝く硬貨を振りまくが、反響音がしない。ハーマイオニーと顔を見合わせていると、ポッターが飛び込んだ。
「The Lord has promised good to me, His Word my hope secures; He will my shield and portion be As long as life endures.」
「大丈夫だ!何かクッションみたいなものがある!無事に降りられるよ!」
しばらくして、ポッターの声がした。それを聞き、ウィーズリーが飛び込んだ。問題は行けるかどうかよりも帰ってこれるかどうかなのだ。装備もなく垂直登攀するつもりか。
「Yes, when this heart and flesh shall fail, And mortal life shall cease, I shall possess within the vail, A life of joy and peace.」
どうしたものかと悩んでいると、ハーマイオニーが囁いた。
「マリア、大丈夫よ。先生達は護りを施して、それから帰ってきてるんだから。きっと横道か何かが校内のどこか隠し通路にあるのよ」
ハーマイオニーの言う事にも一理ある。崩落している場所はともかく、現実のヤーナムからメンシスの悪夢に至るまで、基本的にはどの地域も繋がっている。しかし、ビルゲンワースの湖はそうではない。湖であり、湖でないあの場所は、使者のランタンによって移動する他、抜け出る術がない。
「The earth shall soon dissolve like snow, The sun forbear to shine; But God, Who called me here below, Will be forever mine.」
ハーマイオニーは目を閉じ、3つ数えると穴に飛び込んでいった。悩めどもどうしようもない。それに、ハーマイオニーの言葉には怯えこそあれ、何か確信めいたものがあった。
「When we've been there ten thousand years, Bright shining as the sun, We've no less days to sing God's praise Than when we'd first begun.」
部屋の隅に匂い立つ血の酒を投げつける。獣も狩人も酩酊させる芳しき血。遺志を持たぬそれは、忌むべき性と知りながら、至高の甘露である。
神の酒ネクタル。それは奇しくも、賢者の石によってもたらされる生命の水の別名でもある。
流石に200年前の曲にジャスラックも何もないでしょう。
「やめて! マリアに頭モツ抜きされたら、胴体で繋がってる他の頭までショック死しちゃう!
お願い、死なないでフラッフィー! あんたが今ここで倒れたら、ハグリッドや校長の言い付けはどうなっちゃうの? ライフはまだ残ってる。ここを堪えれば、マリアに勝てるんだから!
次回、「三頭犬、死す」。死闘、スタンバイ!」
とかいう2年前のメモが残ってて、当時三頭犬死ぬルートでしたけど、冥府下りがモチーフなら寝かせるのが筋だよなと思って改稿してました。
三頭犬って賢者の石以外で出てきましたっけ。
記憶にないから多分殺処分か夏の間に死んだんだろうなと。
多分三頭犬を作った試みが尻尾爆発スクリュートを生み出すんだろうなと思っています。
頭が大きすぎて帝王切開でしか出産できない犬種とか、頭蓋骨に比べて脳が大きすぎて死ぬ犬種とか、別段ハグリッドに限ったことではなく、こういった品種改変というのは罪深いものだなと思います。とはいえ、それによって食卓に農薬耐性のある白米と歩行困難な程に成長するブロイラーの親子丼が並ぶわけですから、生きとし生ける者は光合成でもしない限り罪を負うわけですよね。それで人間の活動を賄える程の熱量を生み出すとか体表が真緑でも無理だとは思いますが。
殊更に菜食主義者を非難するつもりもないですが、肉の代わりに大豆を食べたところで、大豆だって死にたくて生まれて来た訳でもないでしょうから、なんというか、欺瞞というか、ほんとにそれでいいの? って思います。
小学5年生辺りから宮沢賢治が苦手でして、当時の担任が「賢治の世界は~~」「賢治の価値観は~~」とか言ってたんですけど、その担任が嫌いだったことと、そんなに尊敬してるならファーストネームで何親し気に呼んでんだよということと、現実離れした超人思想ってのが凄く気持ち悪く感じた覚えがあります。「イーハトーブというのは岩手から成っていて、イーワテとイーハトーブって似ているでしょう」という、謎解釈とかもより一層その作品の理解を難しくするものでした。
何よりその担任の宮沢世界の評価って、自己犠牲精神と他者を害さない超人性っていうところにあって、「じゃあそもそも生まれなければよかったんじゃ?仏教でしょ?人界に生まれた時点でもう前世の業持ちでしょ?」意訳するとそんなクッソ捻くれた書き込みが当時のノートに落書きされてました。
永訣の朝とかは好きなんですよね。情景描写と妹との死別への悲嘆が対比されていて、美しいのに凄絶な様がその愛の大きさを感じさせる作品だと思います。
そういうわけで、菜食主義者というものが何であるかというのを理解する前に、宮沢賢治を通して菜食主義者に対する偏見を持ってしまったのが哀しいなぁと。
ともかく、私がその担任から聞いた授業では、宮沢賢治の思想とは
「自分は善人ではない事を知っているけれど、善人になりたいから他者を害することは悪だし、自分が犠牲になる事で善人になりたい」
という事に立脚していた様です。所詮小学生の理解ですから、研究者からしてみれば違うと思いますけど。
まぁ個人がどう思おうとそれはそう思う人がいるんだよねっていうだけの話なんですが、それを至上の価値観だとか、それをしなければならないって思わせるのって邪悪ですよね。グスコーブドリの伝記とかを読み聞かせて泣いてる辺り怖気がしました。
反戦運動家でもないですが、特攻隊とどう違うのかと。
つまり、私がダンブルドアに感じている恐怖、それは悪を悪として断じながら、それを討つためにただ生き残っただけの少年に全てを負わせる様があまりにも狂気じみている様に感じるのと、私自身のその担任に対する恐怖がないまぜになっているものだと思います。