クタビレ爺イの二十世紀の記録集

二十世紀の2/3を生きたクタビレ爺イの
「二十世紀記録集」

カンボジャの悲劇(1)

2009年02月23日 | アジア関連
         カンボジャの悲劇[1]
                東洋のヒットラー、ポル・ポト

インドシナ半島の中央に位置する国カンボジャ、西北にタイ、北にラオス、東から東南にかけてベトナムに挟まれている。首都プノンペンの郊外には、のどかな田園風景が連なるが、しかしその地面を少し掘り下げると堅いものに突き当たる。そこには夥しい人間の骨が埋まっている。この一帯だけでも数万人の罪無き人々の亡骸が埋まっているのである。カンボジャの人々はこの辺りを『KILLING FIELDS 殺戮の荒野』と呼んでいる。
ベトナム戦争終結間際の1975年から僅か四年の間に、ここカンボジャでは、二百万人の命が失われている。これは国民総人口の四分の一であり、若し同じ事態が日本で起きていたら、実に三千万人に達すると言う想像を絶する大虐殺である。
虐殺から二十年、首都プノンペンは何事もなかったかのように、賑わっている。しかしこの国で暮らす殆どの人は、ポル・ポトに肉親を殺された経験をもつ。無差別地雷攻撃で手足を失った数万人の人々を始め、今なお、全てのカンボジャ人はポル・ポトが刻み付けた深い傷跡に苦しめられている。しかしそれほどの残虐行為をやってのけた彼本人の印象は意外に穏やかであったと言う。十年以上もポル・ポト派の兵士として彼の身辺護衛をして1997年に投降したプロム・ターの話では彼は凶暴ではなく穏やかで何時もほほ笑みを浮べて、子供を良く可愛がっていたそうである。
ほほ笑みと虐殺、この二つの全く異なった顔を持った謎の男の素顔とは?そして彼を二百万人虐殺の人生へと導いたものは、何だったのか?

タイとの国境に近いカンボジャ北部、ひっそりと立つ粗末な小屋の中で、1998年 4月、 一人の老人が息を引取った。サロト・サル、別名ポル・ポト、『クメール・ルージュ』を率いてカンボジャの政権を手にした独裁者の余りにも寂しい最後である。しかも、それは疑惑に満ちた死でもあった。事件が起きたのは、米国が彼を国際法廷に引き出し、全てを明らかにしようとする直前の事である。地元の新聞にも『ポル・ポト死の謎』と見出しを付けて、ベッドで死んだのに何故服を着ていたのか?死んだ直後に既にホルマリン処理が施されていたのは何故か?と言う記事が出た。
『クメール・ルージュ』と言われるポル・ポト派の指導者は、ポル・ポトとその夫人の
キュー・ポナリー、イエン・サリとその夫人キュー・チリトと言う二組みの夫婦であったという。彼等は密かに『四人組』と言われていた。チリトはポナリーの妹である。   1973年にカンボジャ解放区に日本人として初めて入ったジャーナリストの山田 寛氏は、元ポル・ポト派で現カンボジャ第二首相のフン・センにもインタビューをしているが、 フン・センは1977年まで、ポル・ポト派の地方司令官をやっていた経験から、夫人たちが大きな影響力を持って居たと証言して居る。
一般にポル・ポトと言われているのは、彼の本名ではない。POL POTとは、フランス語で政治的専制君主を意味するPOLITIQUE POTENTATから取った名前であると言われる。
                                        タイとベトナムに挟まれ、日本の半分ほどの広さを持つカンボジャ、国土の四分の三を占めるジャングルとメコン川がもたらす豊かな水田地帯を持つこの国が、最も栄えたのは、今から 800年も前の事である。世界的な仏教遺跡アンコール・ワットが建てられた12世紀には、カンボジャはインドシナで最大の国家であった。しかし、15世紀には、力をつけたタイとベトナムが、カンボジャに侵入、19世紀にはアジアに進出したフランスによって、ベトナムと合わせて『仏領インドシナ』として植民地になってしまう。そして第二次世界大戦終結から九年後の1954年、カンボジャは漸く独立を果す。しかし1960年からのベトナム戦争の影響もあり、いくつもの勢力が対立、内紛の絶えることはなかった。そしてベトナム戦争終結直前の1975年 4月、カンボジャで、二度目の政権交代が起きる。革命勢力のクメール・ルージュが首都プノンペンを制圧し、アメリカの息きが掛った政権を打ち倒したのである。自分たちの国を取り戻した革命軍のリーダー、ポル・ポトを、プノンペン市民は熱狂的に迎えた。しかし次ぎの瞬間その声は悲鳴に変わる。ポル・ポトは 300万人のプノンペン市民全員に農村への強制疎開を命じたのである。農村に着くなり彼等は、一切プライバシーのない集団生活の中で苛酷な農作業に従事させられた。武器を手にして彼等を支配したのは、年端もいかない少年少女達であった。古い人間を消滅させ、新しい考え方と新しい人間を作ろうとしたのである。彼等は純粋な革命思想を持つ子供を崇拝するように強要されたのである。
ポル・ポトの命令で通貨は廃止され焼き捨てられた。家族は否定され子供たちは親から離されて、新しいエリートとして洗脳教育を受け、子供たちは国の共有財産となった。これは最も原始的な共産主義の姿である。ポル・ポトは『理想的共産社会の実現のためには、カンボジャの人口が八分の一になっても構わない』と広言した。どうして彼は、ここまで過激な共産主義者になってしまったのであろうか?
ポル・ポトは1925年、フランス統治下にあったカンボジャ中部のコンポントム州プレクスバウ村の裕福な地主の家で、 9人兄弟の 8番目の子として生まれる。しかし彼が親元にいたのは僅かな年月しかない。彼の一家は王室に繋がりのあるエリート階級であったので、六歳に成ると、首都プノンペンにいた長男のところに預られた。兄の家から首都の名門小学校に通った彼は、やがて国内随一の中学に入学して寄宿舎生活をする。ここにはカンボジャ各地から選ばれた20人の少年たちが、そのエリートコースを突進んでいた。しかし第二次大戦末期の1944年、彼はカンボジャ一のシソワト高校の入学試験に落ちてしまうという壁に突き当たる。やむなく彼はエコール・テクニークと言う建築専門学校に進む。だが彼のつきは未だ落ちていなかった。その六年後、彼はカンボジャ政府の奨学金でパリへ留学する100 人の中に選ばれたのである。高校の元教員の証言では、彼は王宮の権限ある役人と親しく、その人物の子供に付いて留学をすると言う特別のケースをコネで掴んだのである。第二次大戦の終結から既に四年、フランス統治下のカンボジャでも独立機運が高まり、未来のカンボジャ指導者を夢見て若者たちはパリに旅立った。彼等は意気揚々とパリに乗り込んだが、そこで彼等を迎えたのは凍るような視線であった。当時フランスは、独立を目指すベトナムと激しい戦闘を戦っており( 1947~1952インドシナ戦争)、ベトナムと同じインドシナから来たと言うだけで彼等はフランス人の憎しみを浴びてしまったのである。路傍の石ころのように無視される屈辱の日々、そんな彼等に温かい手を差し延べる人達がいた。カンボジャ人だからと言って蔑むこともなく、対等の仲間として扱ってくれるフランス人たちは、フランス共産党のメンバーであった。こうして多くのカンボジャ留学生が共産党に入党していく。その中でもポル・ポトは、最も熱烈な共産主義者になり、一番確信を抱き、一番強硬であったと言う。全ての人々は平等であると言う共産党の言い分は、彼のエリートへのコンプレックスを癒してくれたのでもある。
共産主義への熱い思いを語る留学生の中で、中心となったのは四人の男女であった。ポル・ポト、イエン・サリ、キュー・ポナリー、キュー・チリトである。これこそ後に革命集団クメール・ルージュの四人組になる若者たちである。
パリ留学から四年目の1953年、 27 歳のポル・ポトはカンボジャに帰国する。学校の試験も全く受けずに共産党の活動ばかりにうつつを抜かしていたので、政府からの奨学金を打ち切られ、強制送還されたのである。やむなく彼はカンボジャで共産党活動を続けたのである。しかし、その翌1954年にはカンボジャはフランスから独立、国家元首になったシアヌーク殿下は王政を脅かす共産主義を徹底的に弾圧し始めたのである。命懸けで活動を続けるか?諦めるか?数か月の後、私立チャムラン・ビチア高校の教師となり、静かな日々を送るポル・ポトの姿が有った。
しかし暫くの後、彼は共産党活動を再開する。彼のとなりには一人の女性の姿があった。パリ留学時代、カンボジャ人の中で最も熱烈な共産党員であり、上流階級出身でカンボジャ女性で始めての留学生と言うエリート中のエリート、キュー・ポナリーである。
彼女の家族には問題の過去があった。裁判官であった彼女の父親が、母親と彼女を置き去りにして王女の一人と駆け落ちをしているのである。翌1956年、ポル・ポトは彼女と結婚をする。ポル・ポトは 30 歳、ポナリー 36 歳であった。二人は革命の同志と言うことで結婚式の日をフランス革命の7 月 14 日にしている。程無く二人の許にもう一組の夫婦が合流する。イエン・サリとキュー・チリトの夫婦である。パリ留学の四人組がここに再結成されたのである。
やがてシアヌークの共産主義弾圧が厳しくなる中、四人は首都プノンペンを脱出して、国境付近のジャングルに身を潜めて理想の実現に向けて、ゲリラ活動を始める。とはいえ、集まった同志は僅か数百名、革命を起こす武器も金も全く無く、政権奪取など夢物語でしかなかった。
所で1970年、カンボジャでクーデターが発生する。この年、泥沼化するベトナム戦争に手を焼いた米国が、カンボジャに侵攻したのである。これはカンボジャを味方に引き入れるために、米国よりの『ロン・ノル政権』を後押ししたのである。祖国を奪われたシアヌークは、黙っては居なかった。彼は共産主義国中国の仲介でジャングルに潜むポル・ポトに『共にロン・ノル政権を打倒しよう』と共闘を呼掛けた。              シアヌーク殿下の言う錦の御旗、中国から続々と届く大量の武器、これらによって名実共に充実したポル・ポト派は、祖国奪回に向けて進撃を開始する。1975年 4月、クメール・ルージュは首都プノンペンを制圧、歓呼の声に迎えられ、新政府の樹立を宣言する。しかし何故かそこにはシアヌークの姿は無かった。彼はその時、プノンペン市内に幽閉されていたのである。こうして四人組の独裁による恐怖の時代が幕を開けたのである。
僅かな勢力であったポル・ポト派は、中国から支持された事もあってシアヌークと手を握り、利用し尽くして組織の肥大化を成し遂げた後、用済みで切り捨てたのである。幽閉中にシアヌーク本人が殺害され無かったのは中国の指示であるが、シアヌークの子供、孫はこの時 15 人も抹殺されている。
都市から農村への強制移住、インテリ階級の処罰、一切のプライバシーのない集団生活、そして大人を監視する少年兵たち、独裁政権を維持する為にポル・ポト派が行った政治には、全てに手本が存在する。それは、1966年から始まっていた中国の文化大革命である。細々とゲリラ活動を続けていたポル・ポトは、同じ共産主義者として、中国を訪問し、始まったばかりの文革を目の当たりにする。そして、この時見た中国の姿こそが理想の共産主義であると堅く信じ込んだのである。カンボジャの現実を顧みぬ儘に、文革のスローガンをそのまま取入れて、高らかに唱えるポル・ポト、それを陰で支えたのは妻のポナリーと声明文を書いたと言われる、その妹チリトであった。
毛沢東と言う夫の名に於いて文化大革命と言う暴挙をやってのけた中国四人組の首魁・妻の江青、方や夫ポル・ポトの背後で力を振るうカンボジャ四人組の実力者ポナリー夫人、この点でも中国の姿そのままである。
カンボジャから共産主義の敵を一掃するその一方で、ポル・ポトは味方の内部にいる敵の撲滅に乗出す。国内の至るところに『尋問センター』を設置して、裏切りの疑いのあるものを次々と拷問にかけて処刑した。『反抗するものは敵だ』『見える敵も見えない敵も打ち倒せ』と言うスローガンと共に、最高首脳部を含むクメール・ルージュの同志二万人が命を奪われた。ポル・ポトの共産主義とは知識人と裏切り者を殺す事であったのである。狂気の沙汰としか言い様のない内部粛清の嵐は、罪無き女性にも襲いかかった。ポル・ポトが政権を取って間もなく、宮廷に務めていた踊り子の九割が処刑されている。腐敗した旧体制に媚びを売ったと言うのがその罪状であった。これは、上流出身のポナリーの父親が宮廷の王女と駆け落ちをして彼女と母を捨て去ったことで、この実力者に宮廷関係者と派手な物への反感が有ったための悲劇と言われている。
『私達の革命は二千年以上の歴史で始めて底辺の人民が国家権力を手にしたものである。民主カンボジャは他の国が束になっても敵わない高潔のものである』と、誇らしげに語るポル・ポトは、二百万人もの人々の死をどう受け止めていたのであろうか?
独裁政権四年目の1979年、ポル・ポトは突然支配者の椅子から引きずり下ろされる。ベトナム軍の後押しを受けた元ポル・ポト派の同僚『ヘン・サムリン』が首都を制圧したのである。54歳のポル・ポトは、僅かの手勢と共に首都プノンペンを脱出する。踏みとどまろうにも指導者の大半は処刑されてしまっていて彼の側には居なかったのである。四人組の独裁政治は三年半で幕を閉じる。15年前と同じに国境地帯のジャングルに身を隠して捲土重来を狙うポル・ポトであったが、時が経つにつれて彼を取り巻く状況は激変する。
1989年に米ソ首脳会談で東西冷戦は終結、世界的な雪解けムードの中でカンボジャも、平和に向けて歩み出していた。1990年にはシアヌークとかっての仇敵元ポル・ポト派のフン・セン首相の会談が東京で実現し、『カンボジャ和平仮調印』をした。そして1991年10月パリでカンボジャ和平協定が調印され、革命と戦争の続行を叫ぶポル・ポト派を置き去りにして10年に亘るカンボジャ内戦は終りを告げた。
                                        一方、ポル・ポト自身の周囲でも事件が起きていた。妻のポナリーが北京の病院に長期入院した。彼女の病名は『神経衰弱』である。これ以来、彼女の消息は途絶えた儘である。それから間もなくポル・ポトは別の女性と結婚する。相手は革命とは何の関係もない農家の娘ミー・ソン28歳、ポル・ポト60歳である。二人の間には長女ミー・スィットも生まれる。彼の身近にいた兵士は、この頃からポル・ポトが変わって家族思いになり、娘を可愛がっていて、最早そこには理想に燃える革命家の姿はなかったと言う。
1993年、国連PKO軍が監視する中で総選挙が行なわれ、カンボジャ史上初めての公正な選挙が実施された。ポル・ポト派による妨害活動で日本人を含む尊い犠牲を払いながらも選挙は成功し、シアヌークが新政カンボジャ王国の元首となる。そしてこれから三年の後ポル・ポトにとっての致命的な事件が起きる。四人組の残る二人イエン・サリと妻のチリトが率いる三千人が、1996年に投降したのである。イエン・サリは記者会見で『私はポル・ポト派から抜けた。国を守るために民主主義運動を行います』の声明文を読上げた。
遂に四人組はポル・ポト一人になってしまった。 70 歳を過ぎた男の手からこぼれ落ちて行く権力、彼は自分を取り巻く全ての物が信じられなくなっていく。
1997年、ポル・ポトは自分に次ぐナンバー2のソン・セン一派を殺害する。妻と子供9人の一家全員を惨殺し、遺体をトラクターで引き潰すと言う残虐振りであった。そして彼は残った僅かな支持者にも見捨てられる。
数日後、捕われの身と成ったポル・ポトは、残った幹部の手で人民裁判に掛けられ、終身刑の判決を受ける。全てを失った 72 歳の老人がそこにいた。
その半年後、一人のジャーナリストが、軟禁生活のポル・ポトとのインタビューに成功するが、その一週間後、1998年 4月16日の新聞に彼の心筋梗塞での死去が報ぜられた。米国が彼を国際法廷に引き出し全ての事実を明らかにしようとしていた矢先の出来ごとであった。この時、妻ミー・ソン 40 歳、娘ミー・スィット 14 歳である。それから二日後、彼の死んだ村の空き地で、検死もされぬまま彼の遺体は、役に立たなくなった古タイヤと共に焼かれた。彼は結局、憎しみだけを残してあとは何も残さなかった。
『ポル・ポト七つの大罪』
①並み外れた非現実性…彼は1980年代に入っても、カンボジャの革命はパリ・コンミューンを越えた等との自己賛美を繰り返している。本当の完璧な農業共産主義社会を作り上げつつあるという幻想、そして虚構と秘密主義に取付かれていた。虚構を土台とする権力はその虚構を無理やりに維持するために、あらゆる手段を尽くすことになる。
②毛沢東路線の猿真似…彼のやったことは毛沢東路線の無茶な経済計画『大躍進』のカンボジャ版であり、文革であった。農村への強制移住・重労働・穀物収量目標まで中国直輸入が多かった。文革開始の1966年に北京を訪問した彼は、毛沢東主義のエネルギーの沸騰を印象づけられた。北の中国と同じの激しい労働を、熱帯の国で実現しようとしたのである。
③革命戦争継続で終結を知らない…政権掌握のあとも、革命継続中と言う意識の儘であった。行政経験に乏しく、経済建設に当たっても、敵に囲まれ、戦い続けるつもりで戦争用語を使い、敵を殺し、味方も死なせても当然と思っていた。
④純粋培養主義…極端な少数精鋭主義と純粋培養主義に凝り固まっている。『国の人口が八分の一になっても良い』『腐ったリンゴは捨てるしかない』と言明し、大人は腐っている可能性が高いから、兵士にも尋問センターの拷問係りにも『純粋』な子供を使った。
子供には学校教育等殆ど施さず敵を倒す事だけを教えた。
⑤敵を粉砕せよのみ…敵の定義が曖昧な儘、唯ひたすらに『敵を粉砕せよ』と言い続けたために、中央政府は個々の虐殺を指示しなかったにしても、地方では適当な拡大解釈が横行し、政府はそれを放任した。
⑥民族的怨念と差別…歴史的にベトナム・タイ等の近隣の強力民族に、羽交い絞めのようにされてきたクメール民族の歴史的怨念のマグマが、火口を見つけて吹出した。『不倶戴天の敵ベトナム』は宣伝文句だけでは無く、強迫感念が根底にある。その怨念は国内的民族差別も生む。米国の調査によると、民族別で最大の被害者はイスラム少数民族・チャム族であった。
⑦チェック機能無し…一国の政治でチック機能がない所は、必ず独裁が芽生える。逆に言えば、チェック機能を抹殺するのが独裁と言えるかも知れない。

以上『七つの大罪』はポル・ポトだけのものではない。残存幹部がどう弁明しようとも、ポル・ポト派大罪として裁かれるべきであろう。

カンボジャの政治力学は、複雑で奇妙なところがある。クメール・ルージュの主要幹部で虐殺を行った者たちが、プノンペン政権に帰順して、その重要ポストに付いている。米国がクメール・ルージュの犯罪を暴くと表明すれば、即座にポル・ポトが疑惑の死を迎えるし、1998年代には、タイ領内にいると思われるクメール・ルージュの幹部と、ラナリット派武装勢力は、フン・セン政権と携帯電話で頻繁に連絡を取り合っている。1997年には少・中学校の教科書からクメール・ルージュ時代の記述の削除が命令されている。犯罪博物館、政治犯集団処刑場跡も閉鎖の動きがある。                   歴史から『虐殺の時代』を消そうと言うのが、アジアの『曖昧さ』なのであろうか?  これでは国民的和解の先送りになりはしないか?と言う疑問が残る。
アジアの『曖昧さ』さが賞賛された事はある。北欧のバルト海に小島群と岩礁とで成る オーランド島がある。その戦略的重要性から欧州大国や対岸のスェーデン、フィンランドの思惑に翻弄される宿命にあった。この島の自治政府の議会議長室には、当時、国際連盟事務次長であった日本の『新渡戸稲造』が描かれた古い油絵が掛かっている。この頃は島民がスェーデンへの帰属を願う中で、フィンランドも領有権を主張し、背後で仏・露も蠢き、一触即発であった。新渡戸稲造は、錯綜する利害を粘り強く解きほぐし、島に自治を認め、非武装中立とする協定を成立させた。この協定は今も生きている。       彼は『二者択一』の不寛容な西洋社会に東洋的な賢明な寛容さをもたらしたとして感謝された。コソボの紛争も西洋の不寛容の現れかもしれない。カンボジャの『曖昧さ』が後にどう評価されるかは、政治の舵取りに掛かっているが、住民が戸惑い、再び悲劇が繰り返されないことを願うばかりである。

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2 コメント

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風化してはいけない (「」)
2012-12-03 23:16:07
今晩は、「」です。
山田寛氏の著書は読みました。ポル・ポト率いるクメール・ルージュが自国民であるカンボジア人に虐殺は知っていましたが、国際社会から批判と悲劇の内戦が長く続いた理由は、米中両国によるポル・ポト支持があった為だと始めて知りました。中共国とソ連はアメリカの子飼いの南ベトナムを潰し、北ベトナムによる共産化を統一助け、中華王朝のようにベトナムは自分達のなると思いきや、ソ連の子分になった事と自分達の子飼いのポル・ポト率いるクメール・ルージュ政権を潰された事の恨み持つ中共国と同じく自分達の子飼いの南ベトナムを潰され共産化統一をされ、恥をかかされたことを恨むアメリカの間の利害が一致し、ポル・ポト支持に繋がり、悲劇の内戦が長く続いた事を始めて知りました。ポル・ポトの死は米中両国による抹殺の疑念は棄てられません。「ポル・ポトは自分達の都合の悪い事を知りすぎているこれ以上奴生きてもらったら敵わない」それで米中両国はポル・ポトの抹殺に踏み切ったのでは思います。今、行われている国際法廷は米中両国の傲慢で思いどうりに進まず、カンボジアの少年少女の間にヒトラー、スターリンような独裁者を望む声が聞かれます。過去の過ち悲劇をけして風化してはいけないと改め思いました。
アジア人は寛容すぎるのでは? (トム)
2019-02-06 23:04:14
貴重な記録、ありがとうございます。

7つの罪=独裁政治の中身 が興味深いですね。

カンボジアにいったことがあります。しゃれこうべの塔も見ました。現地の人と話すと、その話題を嫌がるでもなく、かといって記録を残そうというような機運もなく。まさに、アジアの曖昧さを感じました。
西洋の中の新渡戸稲造は良かったと思いますが、アジアのなかのアジア人は頼りないというか、なんとも…。

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